松本清張物の中では、「砂の器」と並んで最高傑作の映画
2025年4月21日 23時30分
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総合評価:
5.0
野村芳太郎監督、橋本忍脚本、川又昂撮影、芥川也寸志音楽という、松本清張の映画化の常連のベテランたちが結集して作った「影の車」(原作のタイトルは「潜在光景」)は、清張物の中では、「砂の器」と並んで最高傑作の映画だと思います。
開巻早々、サラリーマンたちがそわそわと退勤し、新興住宅地を走るバスで家路を急ぐシークエンスだけで、映画は昭和45年のムードを見事に描き出します。
昭和45年と言えば、大阪万博の年、戦後の高度経済成長期を虚心に駆け上がって来た人々が、慎ましくも衣食満ち足りて、郊外に新しい家を構え、精神的な踊り場にさしかかったような頃だったと言えると思います。
そして、そんな大多数の中の、普通の市民のひとりであったはずの、旅行案内所でこつこつ働く浜島(加藤剛)が、再会した幼馴染みの泰子(岩下志麻)とほんの出来心で関係を結んでしまうところから、彼の平穏な日常にひびが入ります。
松本清張の小説にしばしば登場する、小心なくせに利己的で、女や賭博に溺れてしまう小市民の男を、加藤剛が絶妙に演じているんですね。
俳優座所属の演技派の加藤剛は、日本のロバート・レッドフォードと言われるように、その端正な容貌から、「砂の器」の劇画チックで悲劇的な二枚目や、TVの「大岡越前」のような生硬なヒーローといった役柄を配されることが多いのですが、実はこういう精神的な脆弱さが表に出たような、"小物の悪人"といった役柄が凄く似合っていると思います。
恐らく、本人もいつにない役柄を面白がって熱演したのだと思いますが、この「影の車」の勤続12年の係長役は、本人があまり気にいらなかったという「砂の器」の天才作曲家役よりも、ずっと加藤剛という俳優の潜在的な才能を引き出していたと思います。
単調な会社勤めや社交好きのかまびすしい妻・啓子(小川真由美)との毎日にも、ややうんざり気味の浜島は、夫と死別して6歳の男児・健一を抱えながら、女の色香を持て余している泰子に、ずるずるとのめり込んでいきます。
この真面目に遊ばずにやってきた無趣味な男が、色欲にのめって、羽目を外したらどうなるか?
その歯止めの効かぬ危うさを加藤剛は、繊細な演技で表現しますが、一方の岩下志麻のこの頃の妖艶さもただならないものがありましたね。
この二人が、子供そっちのけになっていく薄情さも、それを埋め合わせようと、とってつけたようなサービスをする姑息さも、そのひとつひとつが、実にきめ細かく描かれており、健一が殺意を帯びる前提が周到に築かれるんですね。
そして、健一が浜島に仕掛ける毒饅頭やガス漏れといった、ちょっとした子供の殺意がリアリティを帯び、それが自らのトラウマと符号した浜島は、ノイローゼ気味に健一に恐怖を覚えるのですが、ここで開陳される浜島の幼児期の回想=「潜在光景」の描写は、実験的でありつつ、物語の求めるイメージと見事に合致していると思います。
撮影監督の川又昂は、カラーのマスターポジとモノクロのネガをずらして重ねるという着想をもって、まさに虚実の皮膜を映像として具現化して、我々に見せてくれるんですね。
この映像効果によって、幼い浜島が健一とまるで同じ理由で伯父(滝田裕介)を断崖から落として絶命させた記憶が、まがまがしさと美しさのないまぜになったイメージで、鮮烈に描かれて、この映画のピークをなしていると思います。
そして、この映像に加うるに、芥川也寸志のフランシス・レイ風のメランコリーを志向したようなメロディが全篇にさざめき、観終えた後も、いつまでも耳に残って離れません。
こうした一流のスタッフとキャスト、それぞれの意欲的な試みを、例によって鷹揚に、寛大にまとめあげた野村芳太郎監督の手腕も、実に見事だったと思います。