「確かに」と納得できる最終弁論
このレビューにはネタバレが含まれています
2021年5月18日 13時21分
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総合評価:
4.0
フランスの裁判やそもそも日本の裁判でさえ制度について分かっていないが、映画「十二人の怒れる男」が好きだったため映画を見る前から期待していた。
この映画では実際に事件の犯人を確信するものではなく、一審で無罪となったのに検察に控訴され二審で再び殺人罪を問われた被告人が無罪なのか否かが争点。
しかし、この映画を見ていると、主人公であるノラのようにどうして感情移入してしまい、きっと犯人はあの人なのではないかという先入観から見方を変えようとしてしまう。
ノラが250時間分の電話を調べるうちにおそらく真犯人だろうと思うこと、その疑惑に気付いたとしても、この裁判は真犯人を探すことでも、当時の警察の杜撰な捜査、あやふやな証言だけをもとにしていることを正すことでもない。法廷の内外で様々な人間模様が展開されているが、裁判とは最もそれらしい仮定に証拠を持って証明することであり、それが実際に行方のわからないスザンヌ・ヴィギエに起こったことを証明する場所ではないということが改めて弁護士の熱弁で思い知らされた。
推定無罪の原則があるにもかかわらず、確たる証拠がなくとも人の発言によって原則が覆るのかもしれないということに驚いた。特に最終弁論の内容は、誰もが認識しておいた方がよい内容だと思った。「十二人の怒れる男」と同様にもう一度見たいと思える映画だった。