仁義の墓場
戦後の混乱期、暴力と抗争に明け暮れる新宿周辺を舞台に、強烈に生き、散った一人のやくざの生き様、死に様を描く。
"自由で破滅的な生き方をした、ひとりの男のきれいごとではない青春の純粋さの悲劇を描いた、深作欣二監督の「仁義の墓場」" 私が最も敬愛する深作欣二監督の「仁義なき戦い」などの実録ものの映画には、戦後の闇市という風俗への愛惜の情が繰り返し現われます。 あの戦後の未曽有の混乱の中から、垣間見られた自由への憧れを、我々はその後、創造的に伸ばし得たであろうか? 平和の回復で我々は、再び転向したのではないか? と問いかけるように-------。 深作欣二監督の「仁義の墓場」を観ていて、私がしきりに思い出すのは、黒澤明監督の「酔いどれ天使」という映画です。 この「酔いどれ天使」は、戦後の闇市を肩で風を切って歩いていたやくざを主人公にしたものでした。 三船敏郎の出世作となったそのやくざは、破滅型の男で、肺病で血を吐きながら、山本礼三郎の演じる兄貴分にドスを向けていって、逆に殺されてしまいます。 あの映画くらい、この捨てばちな生き方こそが、今のこの時代の精神だと、戦中派の人々は感じたのではないかと思います。 そして、恐らく同世代の深作欣二監督も、あの映画に熱狂したのではないかと想像できます。 この「仁義の墓場」を観ると、まるで深作欣二が、あの「酔いどれ天使」の破滅的な主人公の実在を信じ、そのモデルを探し当て、黒澤明が省略してしまった細部を、とことん実証的に再現してみた作品であるような錯覚を抱いてしまうのです。 深作欣二にとっては、たぶん「酔いどれ天使」の主人公に結晶していた、自由で破滅的な生のありようこそが、戦後思想そのものであり、彼が青春の日々に発見した、最も魅惑的なものだったのだと思う。 「仁義の墓場」で渡哲也に演じさせている石川力夫という男は、深作欣二と同郷の水戸の出身の実在の人物で、戦争中からすでにやくざであり、戦後、徹底的に無茶苦茶な生き方をして、1954年に刑務所で自殺して果てたといいます。 私もこれまで、映画の主人公として、無茶苦茶な暴力的な人物はずいぶん観てきましたが、この人物くらい、徹底して無茶な人間はちょっと他に思い出すのが難しいくらいです。 強いて言えば、深作欣二監督自身の以前の作品である「現代やくざ・人斬り与太」や「人斬り与太・狂犬三兄弟」であるが、実はこれらの作品も、石川力夫の生き方にヒントを得たものなのだそうだ。 この主人公の破滅的で無茶苦茶な生き様は、単に社会の良識に背を向けて、やくざの世界に入っているだけではなく、やくざの社会の中の秩序をすら徹底的に無視していたところにあるのです。 それも、彼が、自分がやくざとしてのし上がっていくために、親分や兄貴分に反抗したというのなら、少なくとも彼自身の内部には秩序だった思考があるわけだが、彼の場合は、そういうわけでもなく、ただもう支離滅裂に自分の目の前にある者につっかかっていくだけなのだ。 敗戦後の東京の闇市で、二十歳そこそこのチンピラやくざだった彼は、見境もなく対立する組や外国人の暴力団と渡り合うだけでなく、身内とも争うし、それを親分に叱られると親分を刺してしまうのだ。 そして、追放されて大阪へ行って麻薬中毒になって戻ってくる。 みんな薄気味悪がって警戒している中を、たったひとりの兄弟分がかばってくれるが、この兄弟分が迷惑そうにすると、これも殺してしまうのだ。 そして、麻薬中毒の仲間と一緒に、警官隊とピストルで渡り合ったりするのだ。 この男の不思議なところは、利害打算の計算がほとんどないところだろう。 親分を刺していながら、親分のところへ、また何もなかったかのように出入りする。 兄弟分を殺しながら、殺した相手を自分と一心同体の存在のように感じている。 喧嘩で逃げて芸者屋に飛び込み、そこにいた女にかくまってもらって、ついでに彼女を強姦し、あとで彼女を女房にし、彼女が彼の入獄中に自殺すると、出獄後、彼女の骨壺を抱いて泣きながらボリボリと遺骨を食べてしまう。 そして、自分で自分の墓を作り、自分と女房と、自分の殺した兄弟分の名を刻み、その墓に「仁義」の文字を刻ませるのだ。 やくざ社会の秩序も、徹底的に無視したこの男が、「仁義」という観念を後生大事に抱いていたというのは、あまりにも切なくて哀しい。 人間とはそれほどまで、自分というものの存在のありように筋を通したいものなのであろうか。 そして、彼は彼なりに、筋を通したつもりなのかもしれない。 彼にとっては、気に入らない相手には、ただちに暴力をふるうことが、やくざらしいことなのであり、それがやくざらしいということである以上、個人的には悪気はなかった、というつもりであり、自分がそういうつもりである以上、相手も自分を個人的に憎んでいるはずはない、という論理になっているのではないかと思う。 彼にとっては、親分を刺すことも、いちばんの理解者であった兄貴分を殺すことも、それと同じ論理になっていたのかもしれない。 世間の常識からすれば、この男は確かに異常であり、やくざの社会の中ですら狂人扱いされていたという。 やくざにすら理解されない男を主人公にして映画を作るというのは、至難のことであるが、深作欣二監督は、「仁義なき戦い」シリーズなどの実録路線で当てに当てた実績の上に、この映画を作り出したのだ。 世の中には、こういう、どうにも理解しにくい青春を生きた奴もいた、ということの迫力に満ちた作品でもあると思う。 そして、こういう全く衝動的な暴力こそ、深作欣二監督の最も得意とするところなのだ。 「酔いどれ天使」で黒澤明監督は、自分は主人公のやくざを否定的に描いたつもりなのに、観客がこの男に魅力を感じてしまったのは、計算違いだったと、かつて語っています。 しかし、あのやくざが、魅力的だったのは当然で、そこには、やくざである以上やくざらしく生きるという、自分流の生き方の原則をほぼ完全に一貫させた人間が、鮮烈に描かれていたからだ。 この「仁義の墓場」は、同じ時代の同じようなやくざを、実在の人物にモデルを得て、ぐっと精密に検討し直して見せていると思うのです。 そこで新たに浮かび上がってくることは、そういう人間はある意味では、徹底的に純粋な人間であり、生き方の論理が病的に一貫している、ということであったと思う。 いきあたりばったりに暴力をふるっているように見えるが、別な見方をすれば、頭にきたことに対して我慢するということは、一切を敗北主義だと思い込んでいる点で、その生き方は全く一貫しているのだ。 この映画は、石川力夫が不良になった動機にまでは遡っていないが、ある種の潔癖な少年は、自分が正当だと思うことを、大人からつまらぬ誤解や早呑み込みで否定されたりすると、自分の全人格を否定されたようなショックを受け、その名誉回復のために、全人格をあげて抗議する。 ただ、その抗議の仕方が、あまりにも稚拙なため、それは情緒不安定という扱いしか受けず、つまり適当にあしらわれるだけなのだ。 そうなると、苛立ち続けることが、彼には正義の証となり、小さなことに常に頭にくるということが、自分の生き甲斐になってくる。 そして、遂には頭にこなくなった状態とは、自分を頭から否定してかかってくる社会全体に、全面屈服した状態に他ならないという感覚が固定し、頭にくるという状態の無窮運動に入ってしまうことになるのだ。 「仁義の墓場」が、ほとんど同情の余地のない若者を主人公にしているようでありながら、深いところで心を強く揺さぶられるような感銘があるのは、これがやはり、きれいごとではなしに、青春の純粋さというものの一つの悲劇を現わしているからだろうと思う。 青年の純粋さというものは、突き詰めて言えば、実はこんなふうな現われかたをする場合もあるのであって、恐ろしいものなのだ。 そして、その恐ろしさが、この映画にはあったと思う。 石川力夫が、29歳で刑務所で自殺した時、「大笑い、三十年の、馬鹿騒ぎ」という辞世の句を残していたという。 この句と、墓に刻ませた「仁義」の文字は、彼がやはり、苦悩する人間であり、自分の病的な純粋さに意味を見出すことができなくて、あせり続けていた人間であったことを暗示していると思う。
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