挫折と絶望の中で、ひたすら愛し合おうとする男と女を鮮烈に描いた作品
2024年2月19日 09時05分
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総合評価:
4.0
"挫折と絶望の中で、ひたすら愛し合おうとする男と女を鮮烈に描いた「哀しみの街かど」"
この映画「哀しみの街かど」が公開された1971年は、「ある愛の詩」が大ヒットし、"愛とは決して後悔しないこと"という、キャッチ・コピーと共に高らかに多くの「愛の物語」か登場していた時代でした。
それらの作品群の中で、「ある愛の詩」がアメリカの山の手の「愛の物語」だとすれば、この「哀しみの街かど」はアメリカの下町、それもニューヨークの場末のウエストサイドの「愛の物語」だ。
この映画には、男と女のロマンティックな出会いも、悲しみに彩られた別れもありません。
麻薬におかされた男と、その男を愛するがゆえに、同じように麻薬におかされていく女の話なのです。
モグリの医者に中絶手術を受けたばかりのヘレン(キテイ・ウィン)は、ふとしたことで麻薬の売人であるボビー(アル・パチーノ)と知り合うことに-------。
憔悴していたヘレンは、何かと親切にしてくれるボビーに親しみを感じるようになる。
けれどもボビーは、麻薬常用者で、いつしかヘレンもその仲間になり、ボビーに隠れて麻薬を打つようになる。
しかし、そういう二人でも必死に愛し合おうと結婚の約束をする。
そして、その費用欲しさにボビーは強盗をしているところを警察に捕まってしまう。
今や麻薬常用者となったヘレンは、ボビーのいない間、麻薬を買うために身を売り、ボビーの兄とさえ寝てしまう。
その後、釈放されたボビーは、そんな彼女を、黙って許すのだった。
もう一度やり直そうとする二人だったが、それも麻薬のために、もろくも崩れていってしまう。
遂に、ヘレンは、麻薬取締官にボビーを売ることになる。
半年後、出所したボビーを待っていたのは、寂しげに彼を待ち、立ちすくんだヘレンの姿だった。
そして、二人は何も言わずにニューヨークの街を歩いていく-------。
アル・パチールとキーナン・ウィンの名演技なくしては、この映画はこれほど魅力のある作品にはならなかったと思う。
絶望の中で、一筋の光明を見い出そうとする二人の姿に、心を揺り動かされずにはいられない。
原題の「THE PANIC IN NEEDLE PARK(針公園のパニック)」というのは、ウエストサイドに実際にある「注射針公園」。
つまり麻薬常用者たちが集まる、麻薬売買の場所で、ヨーロッパからの麻薬の輸送事故などのために、麻薬の流れが止まってしまった時のパニック状態のことを言っているのだ。
心優しい一組の男と女が、アメリカの繁栄の影となった部分で、そこから何とか必死に脱出し、愛と自由をつかもうとするが、その夢も麻薬によってこなごなに破れ、転落して行く姿は、実に痛ましい。
男の歩くウエストサイドの通りを一歩後ろから、ジーンズのポケットに手をつっこみ、下を向き、ついて歩いていく女。
二人のジーンズ姿は、洗いざらしのブルージーンズという言葉が持つ、カッコイイ若者のイメージとは程遠く、薄汚れ、アカにまみれ、その後ろ姿には、荒んだ寂しさが色濃く漂っている。
この二人には、大声をあげて笑うことなどないのかも知れない。
そこには、渇いた微笑みを交わし合う、さみしい眼差しがあるだけだ。
同じ愛し合う者同士でも「ニューヨーク・ニューヨーク」のライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロのように、自分の生き方を守るために別れる二人もいるが、この二人は、寒い時には互いに肌を寄せ合い、食べるものがなければ、一つのものを二つに分けて食べ合ったりするのだ。
それぞれの生活を守って別れるのと、一緒に奈落の底へ落ちていくのと、愛には色々な形があるけれど、私はどうも心情的には、すがりついても男から離れない、"破滅型の女"に魅かれてしまうようだ。
この映画の二人には、哀しくてやりきれないけれど、明らかにそこには、一つの愛の形があるのだと思う。
挫折と絶望の中で、ひたすら愛し合おうとする、哀しいまでの青春の姿がそこにあるのだ。
なお、この映画での演技で、主演のキーナン・ウィンが、1971年度の第24回カンヌ国際映画祭で、最優秀主演女優賞の栄誉に輝いています。