ダンバース夫人は原作の方が怖い
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2021年1月19日 23時05分
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総合評価:
5.0
原作はダフネ・デュ・モーリア。映画製作にあたり、
どれだけ改変されているのかな、と思い、原作を読んでみると、
大筋のプロットはほとんど相違がなかった。
プロデューサーのセルズニックによれば、この映画の前に製作した
「風とともに去りぬ」の成功からも、ベストセラー小説の映画化は、
原作ファンからの非難を避けるためになるべく内容を変えない方が良い、
という思いがあったらしい。
「レベッカ方式」という言葉があるかどうかは分からないが、
重要なキャラクターでありながら実像は登場させないというこの手法は
とても面白く、もちろん原作内でもレベッカ本人は登場しないものの、
やりようによってはレベッカを登場させるという選択肢はあると思った。
ここはプロデューサーの判断となるのだろう。この物語をどう描くのか、
どの部分を面白いと思ったのかによるところだが、「前妻の影におびえる若妻」、
言い換えれば「元カノが気になってしょうがない今カノ」を描くとしたら、
まあ、元カノは登場させない方が8:2くらいの確率で妥当なのだろう。
この辺の描き方は実は原作の方がしっかりとしていて、
もともと主人公である女はかなりの妄想癖であり、
読んでいても現実のシーンなのか妄想なのか、時々ごっちゃになるくらいであった。
よって人一倍、レベッカの見えない影におびえる様子も納得できるような
構成となっていた。
また周囲の人々がレベッカについて語ることによって、女が虚像を膨らませていく
過程も徹底しており、映画では描かれなかったがボケたばあさんでさえも
レベッカの名前を口にする、というシーンからも、非常に緻密に計算されている
印象を受けた。
プロットで見ると、映画と原作に大きな違いはなかったものの、
細かく見ていくと相違点はいくつか存在しており、分かりやすいところで言えば
ラスト・シーンがそうだ。
最終的に問題が解決後、夜遅く夫婦二人でマンダレーに戻る途中、
屋敷が燃えているのを目撃する原作に対し、映画では妻である女は屋敷内にいて
椅子の上で眠っている、そこへメイドであるダンバース夫人が
ロウソク片手に近づいていく、というサスペンス・シーンから始まり、
最後燃え盛る炎の中、ダンバース夫人はレベッカの想い出とともに心中するような
描かれ方をしているのだ。
またこの物語の肝である、メイドのダンバース夫人についてだが、
異常なほどレベッカを崇拝している、という基本設定は同じであるものの、
細かな描き方が映画と原作で異なっている。ヒッチコックによれば、
彼女を描く時、主人公の女がハッと気が付くとすでにそこに立っている、
というイメージにするため移動シーンを極力避けたということであり、
その静的な要素を中心としてキャラクターを作り上げていったせいか、
表情も鉄面皮で感情がなく、それはそれで効果的であったと思える。
原作ではもう少し印象が異なる。
威圧的な態度の裏には激しい感情が見え隠れし、時に号泣、時に嘲笑、
時に大きな叫び声をあげるなど、静から突然動へと転じる瞬間があり、
ここに主人公の女も恐怖を感じるのである。
個人的にはこの原作のキャラの方が怖いと感じた。
要するにこの人はまるで気〇いか、と思える瞬間があるのだ。
ところでそもそもこの人にとってレベッカとはどういう存在であったのか。
映画では細かく語られてはいないが、原作では子供のころから面倒を見ており、
楽しかった、という思い出話をとうとうと語るシーンがある。
そしてマンダレーの屋敷にダンバース夫人がやってきたのは
レベッカがマキシムと結婚した時だ。つまり、この屋敷に来る前から
ダンバース夫人はレベッカをずっと見てきて、
結婚と同時に自分もこの屋敷のメイドになった、という事の様なのだ。
大人になり悪い女へと成長したレベッカのことも知っており、
男たちをあざ笑うかのような彼女の裏の顔まで把握している。
要するに、ダンバース夫人にとって、レベッカとは、かわいい娘であり、
美しい自慢の親友であり、あこがれの同性という、唯一無二の存在であったのだ。
そうであるというのに、死んだからと言ってどこかの田舎臭い小娘を
彼女と同じ椅子に座らせてしまうということは、筆舌に尽くし難いほどの
苦痛であろうことは想像に難くない。
他にも、レベッカの死に方など、原作との違いはある。
けれども大筋は変わらないのでそれをここで述べても
あまり意味はないかもそれない。
そういう部分で言えば、ヒッチコックもあまり自分の好きなようには
作れなかった(物語に踏み込めなかった)
という訳で、好きな作品ではないようだ。