ファンタジー映画の最高峰
2024年7月7日 15時23分
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総合評価:
5.0
「ロード・オブ・ザ・リング」も、この第三部で遂に完結の時を迎えましたね。
フロドは滅びの山に指輪を捨てることが出来るのか? アラゴルンらは冥王サウロンの軍勢からゴンドール王国を守ることが出来るのか? という、この「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」は、ファンタジー映画の最高峰だと言えると思います。
このシリーズで私が最も好きな「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」について、その思いを下記に書いてみたいと思います。
全てのドラマは結末に向かって、疾走していく。
七層建築の白亜の城塞都市ミナス・ティリス、巨獣オリファントの群れと二十万余の兵が、ペレンノールの野で激突する"中つ国"最大の戦闘など、最初から最後までがまさにクライマックスという、壮大な巨編のフィナーレに立ち会えた興奮と感動は、一生忘れることがないほどのインパクトを、私に与えてくれました。
この映画を観終わった時に覚えた、本当に長い旅を終えたかのような疲労感と安堵感、そして、もう旅に出ることはないという寂寥感は、何とも言葉に出来ないものがありました。
あらためて、このシリーズを観続けた私も、彼ら、旅の仲間と共に果てしない旅を続け、そして、終えたんだ、という実感がこみ上げてきます。
この映画の作劇面に関して言うと、まずは冒頭に、ゴラムがまだスメアゴル(アンディ・サーキス)であった頃、指輪を手に入れて、身も心も変貌するほどの過程を挿入した点が良かったと思います。
下手なダイジェストを流すよりも、よほどこの苛酷な旅の意義が鮮明になります。
もちろん、第二部同様、この第三部でも主人公たちのグループを三つに分け、各々の空間を巧みに交錯させていくストーリー・テリングこそが、3時間23分もの長さの上映時間を全く感じさせない最大の要因であることは、言うまでもありません。
この三つのグループとは、セオデン王を中心にアラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)とレゴラス(オーランド・ブルーム)、ギムリ(ジョン・リス・デイヴィス)にメリー(ドミニク・モナハン)が加わったローハン国の軍勢、モルドールとの決戦に備えるべく、ゴンドール国へ説得に向かったガンダルフ(イアン・マッケラン)とピピン(ビリー・ボイド)、そして、ゴラムを道先案内人として、敵国モルドールへと潜入したフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)です。
このように離れた場所を舞台にしながら、この作品が一本筋の通ったドラマとしてブレを感じさせないのは、彼らの決死行は全て、フロドという小さなキャラクターが指輪を捨てるという使命を達成するためのものであり、その使命のためには何ら自己犠牲をいとわないという固い結束が、徹底して描き込まれているからだと思います。
この物語は、弱気が強気をくじくことの"カタルシス"と、あらゆる誠心の中で、「自己犠牲」の精神こそが、最も感動的であることをよく知っていて、とことんそこにこだわってみせるのです。
そして、この第三部を牽引するのは、極めてシンプルなエモーションなのだと思います。
サムが自分を見失いかけたフロドを励ますために、故郷のホビット庄を語り、遂にはフロドを背負って歩き出す場面は、"永遠の名場面"として長く語り継がれることになると思います。
ビジュアル面について言えば、戦争シーンが前作にも増して素晴らしく、様々なアイディアに溢れています。
クリーチャーの怪物たちのリアルな動きからは、一時も目が離せず、自然と身を乗り出してしまいます。
この映画の視覚スペクタクルの偉大な点は、登場人物たちがとてつもない危機に立たされているという状況を、ロングショット一発で知らしめるところだと思います。
モンドールの黒門の前で、四面楚歌に追いやられた様を、俯瞰で捉えたショットが、その典型です。
そして、私が最も感動したのは、王の戴冠式で、小さき者、ホビットが王から最敬礼をもって迎えられる場面です。
更には、彼らが帰り着いたホビット庄の変らぬ美しさだ。
やはり、この物語はホビットたちの物語だったのだ、と。
彼らこそが真の英雄なのだとあらためて思います。
因みに、「指輪物語」の原作には、フロドたちがホビット庄に帰ると、村はサルマンに支配されていて、フロドたちの活躍で村を荒廃から救うというエピソードがあります。
しかし、個人的には、映画版ではホビット庄に帰ってからのサルマンとの闘いは必要なかったと思います。
長い長い三部作の道程を経て、フロドが指輪を捨て、アラゴルンが王位について、遂に大団円と思った矢先に、まだ何らかのエピソードがあると、普通の感覚の人間ならげんなりすると思うからです。
小説ならば、ちょっとずつ読み進めていったりする手があるが、映画のように長時間観ている分にはそうもいきません。
それだけに、ピーター・ジャクソン監督の大英断には心から拍手を送りたいと思います。
映画を観終えて、あらためて思うことは、ホビットたちこそが真の英雄であると思うのですが、しかし、この映画は単純な英雄譚ではないとも思います。
このドラマは、勝利の果てにある"喪失"を描いていて、どこか"深遠な哀しみ"をたたえていると思います。
指輪戦争の終結と共に、世界から魔法は消え去りますが、同時に"中つ国"の一つの時代は終わりを告げるのです。
フロドたちの顔には会心の笑顔などなく、戸惑いの表情が浮かんでいる--------。
何一つ変わっていないはずのホビット庄の景色も、彼らにはどこか違って映っているような気がします。
それはつまり、彼らが大きなものを得た代わりに、大きなものを背負ったことを物語っているのだと思います。
そして、それは少年が大人に成長していく時の感覚に似ているのかも知れません。
だからこそ、ドラマの悲劇性とは裏腹に不思議と暗さはないのだ。
一人前の男になるための通過儀礼を経たフロドたちに、どこか共感を覚えるためなのかも知れません。
こうして訪れる新たな旅立ち。灰色港の別れの場面でフロドが浮かべる万感の笑顔を見て、やっと私も幸福な涙を流すことが出来たのです。
1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を越えるSF映画が、それから55年たった現在でも現われていないように、この「ロード・オブ・ザ・リング」三部作も、ファンタジー映画の金字塔として、恐らく今後、数十年は君臨するのではないかと思います。
全くタイプの異なる「2001年宇宙の旅」と「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズですが、共通する部分があるとすれば、スタンリー・キューブリックとピーター・ジャクソンという二人の監督が、映像、音楽、とりわけ美術に対して、微塵の妥協も許さぬ"完璧主義"を貫いた点、原作が普遍的な輝きを放っている点ではないかと思います。
この二点が、映画が時代を超越するための必要十分条件なのかも知れません。
あらためて、映画というものが、"総合芸術"であるということを、この映画を観て、強く実感しましたね。
そもそも、考えてみれば、J・J・R・トールキンの壮大な長編を、15カ月かけて一気に撮影し、1年おきにリリースしていくなんて、こんなクレイジーな企画がよくも実現したものだと感心してしまいます。
しかも、3億ドルの総製作費を任せるのは、ニュージーランドの辺境にいた一介のホラー映画監督なのだ。
紛れもなく、伝説の序章は、製作スタジオのニューライン・シネマの勇気ある決断にあったと思います。
そして、この映画は第76回アカデミー賞にて、作品賞、監督賞を含むノミネート11部門の全てでオスカーを獲得するという、映画史に燦然と輝く快挙を成し遂げました。
そして、ピーター・ジャクソン監督は真の王者になったのだと思います。