ゴッドファーザーPART II
亡き父のあとを継ぎドンとなったマイケルの苦悩と復讐を、父ビトーの少年時代からやがて一大ファミリーを築くまでのエピソードを交えて描いた、名作「ゴッドファーザー」の第2作。幼いビトーが青年となり、やがてファミリーを築くまでの物語と、父のあとを継ぎドンとなったマイケルの、父がそうであった頃と全く変わってしまった時代の中でのドンとしての苦悩と復讐の物語を、巧みに交差しながら展開していく。
この映画「ゴッドファーザーPARTⅡ」は、マフィア社会に生きる人間の現代的な自意識とその苦悩を描いた大河ドラマの第2作目で、映画史に残る名作だと思います。 この映画「ゴッドファーザーPARTⅡ」の冒頭のシーンは、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが、苦悩を滲ませた沈痛な面持ちで、じっと静かに物思いにふけっている表情のクローズ・アップから始まります。 そして、ラストシーンも同様に、この若きゴッドファーザー二代目の、目の縁に小じわを刻んだ苦悶の表情のクローズ・アップで終わります。 監督のフランシス・フォード・コッポラはこの映画について、「完成した映画を見て私を含めた観客が、PARTⅡが前作の単なる続編でないと感じられれば、成功といえよう。正直なところ、私としては前作だけでは半人前だと思っている」と語っていましたが、興業的にも批評的にも成功した第一作に続けて、その物語の展開としての第二作を、第一作とは違う観点からそれ以上のものとして撮るという事は、心理的にも技術的にも難しい挑戦であったに違いありません。 PARTⅡは、この困難を乗り越えるだけの充実したコッポラ監督の野心と若さとを秘めており、前作のような華やかな魅力というものは、あまりありませんが、慎重かつ大胆な映画的な構成は、このPARTⅡを前作と連続させながらも、これから独立し、更にそれを凌駕する程の優れた知的水準の作品として完成させていると思います。 初代のゴッドファーザーであった、第一作目でマーロン・ブランドが演じたヴィトー・コルレオーネが、両親が殺されたイタリアのシシリー島から1901年、孤児のままニューヨークに移民し、そこのイタリア人街で、次第に頭角を現わし、売り出して行く過程と、故郷のシシリー島に戻って両親の復讐を果たすまでの回想を、若き日のヴィトー・コルレオーネを演じるロバート・デ・ニーロが、寡黙な中にも静かで憤怒の感情を秘めた役どころを、抑制された演技で好演していて見事です。 一方、前作の後、この映画の主人公でもあるヴィトー・コルレオーネの三男で秀才のマイケルが二代目として縄張りを継ぎ、それを拡張して、ニューヨークのアクターズ・スタジオの創設者のひとりで、俳優自身の内面にある喜びや悲しみや怒りやコンプレックスを重要視し、日頃、忘れているその微妙な感情を思い出させ、心の内側から溢れて来る感情を、体の動きや表情で具体的に表現しようとする、いわゆる、"メソッド理論"の提唱者でその演技指導も行った、リー・ストラスバーグが演じる、宿敵ハイマン・ロスとの闘いを"策略と血の粛清"で勝ち残ったものの、ダイアン・キートン演じる妻ケイに去られ、母は死に、そして組織を裏切ったジョン・カザール演じる、次男の兄フレドを殺して、組織としてのファミリーのためには、肉親としてのファミリーの愛は求めず、ただひとり、権力の頂点でじっと孤独を噛みしめる----という新しい時代のゴッドファーザーの苦悩を、アル・パチーノがその肉体的なハンディキャップを逆手にとって、厳しく張りつめた精神力で見事に演じ切っていたと思います。 この映画の中で、マフィアのドンであるマイケルは、マフィアに対する社会全般の非難が高まってくる状況の中、彼を糾弾するために召喚して、査問委員会が開かれ、彼の行動が徹底的に追及されます。 そして、段々と彼の非合法な悪事の数々が露見してくると、彼はその証人を消していきます。 厳重に護衛をされて、そばに近づくのも不可能な男を殺す手口の、冷静で計算された計画性とその実行力は、マイケルの恐ろしい程の知的な才能を物語っています。 しかし、これだけ冷酷かつ緻密な行動で、マフィアの組織を守りながら、常に苦渋に満ちた彼の表情のアップからも感じられるように、その心の中では、いつも"現代人的な自意識"というものに苛まれているのです。 そういう自意識は、先代のゴッドファーザーである彼の父親ヴィトーにはなかったのではないかと思います。 第一作ではマーロン・ブランドが演じたヴィトーが、含み声でぼそぼそとしゃべりながら、自らの権力をフルに活用していました。 しかし、そこには自らの行動に対する"懐疑"のようなものはなかったと思います。 ヴィトーは貧窮の中から身を起こして、マフィアのトップにのし上がった事への満足感に浸っている事が出来ました。 これは自分の代で出世栄達した男の、世の常であり、出世だけが生きる目的でしたから、自らの行動をいちいち疑っていたりしていたのでは、その野望が果たせません。 だが、父親が自らの腕一本で地位を築き上げた、その二代目の息子になると、当然の事ながら、タイプがガラリと変わってくると思います。 例えば父親は、貧窮からのしあがって来たので、学校もまともに出ていないが、その息子は大学まで出ています。 そして、親の稼いだ金で知性を身に付ける訳ですが、今度はその知性で父親のような生き方というものを冷静に、そして客観的にじっと観察するのです。 そこに、当然の事として、矛盾や醜悪さといったものを見出し、それについて深く考えるようになります。 マイケルも最初は父親の生き方に批判的で、マフィアに対して嫌悪感を抱いていたと思います。 しかし、マイケルはインテリであるだけに、その内面に持つ冷酷さもひときわ凄いものがあります。 そして、その内面の陰の部分には、自らのやっている事の空しさ、愚かさをじっと噛みしめるだけの"現代的な自意識"というものが横たわっているような気がします。 こうして映画は、第一作の前と後の二つの物語が並列し、それがフラッシュ・バックでジグザグに交錯するという複雑な構成をとっていて、我々、観る者に分かりづらくなる危険性を、その寸前のところで食い止める緻密な計算による演出で素晴らしい効果を上げていたと思います。 そして、この映画の中で最も印象的だったのは、マイケルを裏切ってハイマン・ロスに内通していたファミリーの中の裏切り者の兄フレドが、暗い湖上で殺害されるシーンで、窓越しに見える弟マイケルと、ボートで釣り糸を垂れる気弱な兄フレドの姿を、交互にロングの切り返しで捉えて、サスペンスを高めていき、暮れゆく静かな湖上に響くピストルの音だけで締めくくっているところは、ただ殺伐なだけのマフィア物から一線を画した、優れた人間ドラマになっていて、この兄弟それぞれが抱える悲しみや思いのつらさ、淋しさを映像だけで表現する、このコッポラ監督の演出の見事さには、本当に映画的表現の素晴らしさを感じました。
「ゴッドファーザー」は第一作目が名作の誉れ高いが、私はこの「パート2」が好きで、あらゆる映画の中でも最も素晴らしいと感じる一作でもある。 何がこの映画の魅力なのかとよく考える。隆盛であったマフィアのファミリーも時代の変わり目でだんだんと勢いを失っていく。そんな中で組織を率いていく主人公マイケルの苦悩が上手に描かれている。 演じるアル・パチーノはこの映画の撮影中、持病があり体調が思わしくなかったという。なんとなく元気がない感じが、物語中の苦悩し勢いを失っていく主人公とマッチしている。 また、この映画は、父ドン・コルレオーネがシチリア島からアメリカに渡り、ドンになるまでのストーリーとシーンが交互に現れるカタチで進行する。そのシークエンスも素晴らしく、父親と息子、運命に従い同じような道を歩んでいくが、アメリカにおける時代の違いから境遇も変わってくる、そんな様子が比較してよく理解できるように構成されている。 何年かおきに再度、鑑賞しなおすが、見ている自分の年代も変わるせいか、毎回、違った味わいを感じられる名作である。
このレビューにはネタバレが含まれています
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