さがすの最新映画感想レビュー - 茶一郎さんの解説レビュー
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最新映画感想レビュー - 茶一郎さんがyoutube(https://www.youtube.com/watch?v=L8CAAztQLkU)で、『さがす』のネタバレあり解説を紹介されていましたので書き起こしします。
映画視聴前の前情報として、また、映画を見た後の解説や考察レビューとして是非ご参考ください。
茶一郎さん映画『さがす』解説レビューの概要
①映画『さがす』片山慎三監督にインタビュー
②ポンジュノ監督の助監督をされていた経験が自身の作品作りに与えた具体的な影響は○○
③フード描写のこだわりは○○
④なぜ佐藤二朗さんを起用したのか
⑤怪演とも言えるシーンにあの音楽を合わせた意図
⑥観客を作品に引きずり込む上で意識していること
⑦卓球のボールが消えていくシーンについて
※○○の中に入る文章は、この記事の1番最後で公開しています。
youtubeで動画を観ていただくか、書き起こし全文をご覧頂くか、この記事の1番最後を見て頂く事で判明します。
茶一郎さん映画『さがす』ネタバレあり解説
お疲れさまです、茶一郎でございます。
皆様、映画『さがす』ご覧になりましたでしょうか?新年早々衝撃作登場という事で、前回の動画では作品と片山慎三監督のご紹介、また視聴者の皆様から片山監督へのご質問も募集させて頂きました。
この動画ではそのご質問への監督からのご回答と合わせまして本作『さがす』完全ネタバレありで作品の魅力を語っていきたいと思っております。
従ってこの動画は必ず『さがす』本編ご覧になってからご視聴下さい。前の動画でも申し上げましたが、なるべくこの映画、前情報を入れずにご覧いただいて、映画にぶん殴られて頂ければと思っております。
それでは今回は映画『さがす』監督のご回答とネタバレあり感想動画という事でお願いします。
映画『さがす』あらすじ
あらすじは前回の動画で丁寧にまとめましたので、今回は簡単に。ある日父が懸賞金がかけられた連続殺人犯を電車の中で見たと娘に
言い出しました。捕まえたら300万やでと。その次の日の朝、父親の姿がない。連絡も取れない。娘が父親の日雇いの現場に行くとそこには父親の名前を語る謎の男がいた、その男はまさしく父親が前の日に入っていたあの懸賞金がかけられていた殺人犯でした。
父はどこに行ったのか娘の父を探す物語が始まる訳です。
日雇いの現場で清水尋也さん演じる殺人犯名無しが、モワーッと砂埃を隔てて登場する瞬間、素晴らしかったですね。はい。この『さがす』の衝撃構造というか、構成が見事なのは、映画自体、時系列が異なる3部構成になっていて、それぞれ3人の何かを探している人物の視点で語られていくタイトルの探すの主語がパートごとに変化するという事ですよね。
父親を父親とのつながり、絆を探す娘。
自らの性的欲求のため獲物を探す殺人犯。
その殺人犯と亡き妻との真の愛を探す父親。
この3人のさがす物語だったという映画『さがす』のお見事な構成。加えてテッキリ本作、父親を探す娘の話だと思って観客は、娘に視点を代入して観ていると、中盤で娘が倒れていて今まさに救急車で運ばれようとしている父親を見つけると。
物語が終わって,そこから娘楓が物語的には退場となるんですよね。なぜ父親は家から離れた島で倒れているのか、映画は創作劇からある種のミステリーへと変わりまして、楓の視点は退場というより映画の外に飛び越えて、観客の視点とシンクロして娘と一緒にそのミステリーの行方を見ていくと言うね。これもまたスマートな映画的視点の飛躍、そしてエピローグでその映画の外に飛び越えた娘楓の視点は、観客と同じくミステリーの真相、父親失踪の真相を全て知った状態で映画の中にまた戻ってくると。
そこから本作『さがす』が単なる衝撃作、ミステリー以上のすべてを知ったすべてを探し出した娘と、その父親の物語として幕を閉じるという、衝撃的で巧みな構造とスマートな娘の視点の飛躍がありまして、最後には父親と娘の物語として美しくまとまっていくという1本でした。
まぁお見事な作品だったと思います。見ている間驚きながら最後にこの気持ちはなんだろうと。感動とも困惑とも言える気持ちでしばらく感情の処理に時間がかかりました。
以上が雑感という感じでこの『さがす』をご覧になった視聴者の皆様のご質問と片山監督のご回答をまとめていきます。
改めてですがご質問、ご投稿頂いた視聴者の皆様、ありがとうございました。また今回片山慎三監督、本当にご丁寧にご回答いただきました。この場でご厚意頂いた配給会社の皆様、片山監督に感謝申し上げます。
まず皆様からご質問で作品全体に関するご質問ですね。
ポンジュノ監督の助監督をされていた経験が自身の作品作りに与えた具体的な影響は何ですか?
ナチョスさん。
ポンジュノ監督の助監督をされていた経験が自身の作品作りに与えた具体的な影響は何ですか?
監督。
ジャンルに縛られないというのが一番大きいかなと思います。
ポンジュノ監督らしいと言われないように意識的に演出したつもりなんですが、気づかないうちに出ている部分はあると思います。
自分の作家性とはなんなのか、『さがす』を監督してみて改めて気づかされたことはたくさんあります。
という事で、まさしくね、このジャンルレスという雰囲気はポンジュノ的と言うと失礼かもしれませんが、まぁどうしてもね、ポンジュノが頭をよぎります。色々感情を揺さぶられますし、とてもシリアスな題材を扱いながらアクションのようなチェイスシーンもあったり、登場するキャラクターがいちいち過剰に個性的でコミカルだったり、とっても不思議なバランスの映画『さがす』ですよね。
次に非常に多かったご質問として、清水尋也さんが演じられた殺人犯、名無しの描写ですね。僕も気になった所だったので、大変興味深くご回答を拝見いたしました。
フード描写のこだわりについて
まずぬぬさんのご質問。
岬の兄弟でマックを食べるシーンや、本作の清水尋也さんの食事のシーンなど片山慎三監督の作品には印象的なフード描写が多いように思います。どのようなこだわりがあるのかお聞きしたいです。
というご質問ですね。監督前作の『岬の兄弟』でも初めて売春でお金を儲けてマックのバーガーとかね、ムシャムシャ食べるシーンがありました。監督『岬の兄弟』のBlu-rayのコメンタリーで
「なるべく野性的に食べてる描写にしたかったので、手掴みできるハンバーガーのようなものを食材として選んだ」というふうに確かおっしゃっておりました。
ご質問へのご回答です。
食べるシーンが好きなのは食べる事はごまかせない、実際にそれを食べるという行為はドキュメントに近い生々しさがあるので好きです。
という事です。似たようなご質問いただきました。
名無し山内はなぜご飯を美味しそうに食べるのでしょうか?
杉本涼斗さんのご質問。
名無し山内はなぜご飯を美味しそうに食べるのでしょうか?
フード理論はご存知だと思います。美味しそう食べる姿が唯一見せる善性なのか、キャラクターとマッチしていないその姿が違和感というか気持ち悪かったのです。ぜひ監督に聞いてみたいです。よろしくお願いします。
フード理論とは
これ少しご説明必要ですね、このフード理論というのは一般的な物ではなくて、福田里香さんの「ゴロツキはいつも食卓を襲う」という書籍で、映画等における食べ物の描写をまとめたものがあります。
特に今回の名無しに該当する部分はフード三原則の正体が何者かわからない人物は、食べ物を食べないと・・監督の先ほどのご回答の通り食べるというアクションはどうしても役者さんの人間性が誤魔化せずに現れるドキュメンタリー性、人間的な物がスクリーンに刻まれてしまいますから、今回の異常な猟奇的な殺人犯である名無しが果物を美味しそうに食べる描写は適さないのではと。逆にそれが不気味だったというご質問かなとぼくは理解しました。間違っていたら杉本さんすいません。
片山慎三監督からのご回答
上記の質問(先ほどのご質問)の続きになってしまいますが、おっしゃる通り山内からは生命力を感じさせたかったというのはありますね。食べるという行為自体、生きるのに必須な行為ですよね。つまり自死という物とは対極にある行動ですよね。
山内がモリモリ食べることによって生命力や不気味さを感じてもらえると思いに対応をしました。と。
非常に名無し、山内は獣ような動物的な生命力と性欲を持っておりまして、それを隠さない人物にどんどんとなっていきますよね。一般的に食事というのはセックスに近いものとして描かれることが多いです。その山内の動物性がみかんをまさに動物のようにかじりつくという描写に表れていたんじゃないかなと思います。
そして本作の倫理的な矛盾というのは自死をポジティブな物として本気で考えている智の奥様、お父さんの奥様と特にムクドリというキャラクターですよね。このムクドリを山内が殺すという描写は山内の中にモリモリとある生命力をこのムクドリに分けているような、矛盾しても見えてくると言うですね。
本当に死にたいと思っている人に初めて会ったという山内のセリフ、この自死が一番生命力のあるものに近づいていくという倫理的な矛盾というのがこのムクドリと山内との運命的な関係にあったようにも思います。
本作『さがす』の名無しこと山内の視点が軸になる2パート目は、人を殺したい山内と殺してほしいムクドリとの運命的な出会いと別れ。再び山内の獲物をさがす物語でした。
そして3パート目は父・智の視点になります。
ここでとても深刻な問題がテーマとして投げかけられますね。重病で苦しまれている患者さんの安楽死、おそらくこれは実際の痛ましい2019年に起きた嘱託殺人事件にインスパイアされたのではと予測します。
自死を望む妻とその妻の思いに気付けなかった智の葛藤。前回の動画とも重なりますが、この「さがす」という映画は、ドアとか襖とか、非常に人と人との境界線、もしくは善悪・倫理の境界線をとても強調する絵づくりをされています。
これが特に顕著になる3パート目ですね、智から見てドアを隔てて自死を試みる妻とか、スマートフォン越し、SNSでの投稿で妻の真の思いを知る智、またついに智が山内と出会ってしまった妻のショッキングな安楽死、殺人シーンではすりガラスと折りたたまれた卓球台というのが智と妻の境界線としてスクリーン上で強調されます。これもうまいですよね。
映画冒頭の娘と父のやり取りからもわかりますが、どうやらこの原田家では卓球を通してより家族の絆が深くなっていた、卓球は原田家の智と妻、智と娘の楓、彼らをつなぐ絆の可視化みたいな物なんですよね。ただその絆はこの殺人シーンにおいて折りたたまれた卓球台というイメージで断ち切られてしまうと、ダメ押しで妻が智に最後に渡そうとした卓球のボール、ピンポン球を山内が踏みつぶす、ベシャッと踏み潰すと。2人の絆を断ち切ったと。とても残酷ですがまぁ映画的には素晴らしいと言わざるを得ない。
皆様のご質問、特に智を演じられた佐藤二朗さんと、その演出についても多かったです。
なぜ佐藤二朗さんを起用したのか
シロタアキラさんのご質問
何から何まで引き込まれた本作の中でも、佐藤二朗さんの演技には吸い込まれました。偉そうな言い方かもしれませんが、僕の大好きなロビン・ウィリアムズの繊細さを感じました。そこで本作を作り上げていく上で、なぜ佐藤二朗さんを起用したのかをお聞きしたいです。
脚本があてがきだったのか監督と佐藤さんであの役に迫っていく形だったのかこんなにも素晴らしい作品を作り上げていく上で、お
二人がなにか相談されたのか知りたいです。
監督からのご回答です。
脚本は佐藤さんをあてがきしました。2人で相談しながら脚本を作ったというよりかは勝手に演じてもらいたい佐藤さんを勝手にイメージして書いた感じです。
佐藤さんを起用した理由はコメディのイメージの強い佐藤さんが純粋にこの役をやると誰も見た事のないものになると思ったからです。ある意味佐藤二朗としてではなく、原田智として役で観てくれると思ったからです。
という事です。
怪演とも言えるシーンにあの音楽を合わせた意図
まつかわじゅんさんのご質問です。
中盤の父親が妻の首を絞めてしまうシーンがとても印象的でした。あのシーンでは二郎さんがこの映画で一番激しく演じられていたように思います。その怪演とも言えるシーンにあの音楽を合わせた意図をお聞きできたら嬉しいです。
音楽もね今回印象的ですよね。監督からのご回答です。
ありがとうござます。とても重要なシークエンスを気に入って頂き嬉しいです。
確かに一番感情が溢れているシーンですよね。あの音楽は当初、少しメロー過ぎるかなと思ったのですが、智の叫び声をなくす事でバランスがとれ良い効果が出たので採用しました。
との事でした。本当に本作は佐藤二朗さんのシリアスな演技、表情に心動かされ泣かされる映画だと思います。ただ決して佐藤二朗さんのコミカルなパブリックイメージをいたずらに逆張りしてるのではなくて、佐藤二朗さん的なコミカルな雰囲気も今回の智の人柄と作品全体のコメディ的なバランスに良い影響を与えているんじゃないかなというふうに僕は思いました。
あてがきも納得の起用ですね。
あと音楽についてもこういったご質問ありました。
観客を作品に引きずり込む上で意識していることなどありますか?
グッドウォッチメンズさんのご質問。
『岬の兄弟』『さがす』両作から感じた事ですが片山監督の作品はオープニングの掴みや音楽の使い方など映画的なリズム感覚にとても優れているかと思います。音楽も決して感情を扇動する物ではなく複雑な空気感を纏った多面的な旋律が効果的に使われているように感じます。お話作りはもちろんですが私見ではこの2つのポイントがあるからこそ観客がの作品に対する没入感が上がる気がするのですが、観客を作品に引きずり込む上で意識していることなどありますか?
というご質問です。
監督からのご回答です。
おっしゃる通りです。映画のリズム、音のリズムやバランスの気持ちよさを強く意識しています。あとストーリーも説明が冗長になりすぎないようになるべく台詞で表現せずに映像で見せる事を意識しています。
という事です。特に説明ゼリフを極力なくすという意味で本作では先ほど挙げた卓球を筆頭にかなり小道具が良い機能してましたよね。
あとオープニングの掴みという話もありました。智が『オールド・ボーイ』ばりに金槌を振っている中、美しい音楽が流れると。これはラストの殺人シーンで回収されますが、異化効果というやつですよね。音楽の使い方も印象的でした。
いう事で佐藤二朗さん演じる智、妻の最後を見られなかった智が皮肉にもと言っていいのか山内を騙す過程で、奇しくもムクドリと妻とを重ねてしまってムクドリを殺す瞬間に妻と精神的に再会する事が出来たと。
このラストの殺人及び妻との再会を持って智はある種、山内とシンクロしてしまって妻ともう一度会うためか嘱託殺人をするようになる。倫理的な境界を越えたあちら側、彼岸に行ってしまうという風なラストでしたね。
監督前作、『岬の兄弟』でも主人公の兄が妹が売春行為をする最中ずっと家の外とかですね、トラックの外とかある境界線上の外側で何もできずに待っているという風な描写が何度もありましたが、その『岬の兄弟』の境界線の内側と外側の関係性が今作で2回反復繰り返されるんですね。実行犯として境界線のあちら側で殺人を繰り返す山内と、ただ境界線のこちら側、外側で獲物を送るだけ。山内に送るだけ、それ以外は何もできない智と、それは3パート目のラストから智は境界線のあちら側、あっちに行ってしまって、実行犯として殺人
をする側に行くと。観客と楓はこちら側でまた何もできずにいるという。この倫理的な境界線、こちら側とあちら側の2つの世界というのも『岬の兄弟』、また片山監督がシリーズ監督を務めたWOWOWのドラマ、『さまよう刃』とも繋がってきます。
そして何より何より3部構成を終えた先のラスト。エピローグ。最近見た映画でもピカイチのをラストでしたね。最後には父と娘の物語として美しくまとまる1本と申し上げました。あと先ほども言った卓球というモチーフですよね。この腹だけでは卓球というのが家族の絆、そのものな訳です。ラストでは父と母、智と奥さんを分断したあの折りたたまれていた卓球台が広がって、そこで父と娘が卓球のラリーという、ある種の心のキャッチボールをしていると。
2パート目3パート目と観客と一緒にミステリーの真相、父の本当の姿を探し出した娘は、ようやく父と魂のラリーをする事が出来たが、ここで娘はどうやらその真実をおそらく警察に通報したと。
卓球のボールが消えていくシーンについて
これ卓球のボールが消えていくというのがまぁ不思議ですし、心に突っかかりますよね。この最後に消える卓球の球についてご質問された方もいらっしゃいますが、これは解釈人それぞれじゃないかなと思います。
これもね言葉にするのちょっと野暮ですが、僕は2つ思いましたね。一つは父と娘、お互い真相と真の姿、心の底からお互いの思いを知って、もう卓球のボールがなくても心と心のラリーができる関係性になったと。
一方で観客と一緒に父の見つけない方が良かった真の姿を探し出してしまった娘、おそらくお母さんの死の真相も知ってしまったんでしょう。2人の絆は確かな物になったけれども、そこに心、卓球のボールはないと。二人の絆において卓球のボールという心がなくなってしまった。
まぁどちらかといえば折衷という風な感じでしょうかね。これは観客一人一人が答えを見つけ出せればいいかなというふうに思っ
ております。父と娘の物語を1カット長回しのただ卓球のラリーというこれ以上なくシンプルなとんでもなく映画的な見せ方で見せてしまったと。見せられたという感動と、同時に困惑というような感じでした。
片山慎三監督、初商業監督作にしてこの恐ろしい完成度、映画的な豊かさ。これからもぜひ間違いなく追っていかなければいけない監督だなというふうな感じでございました。改めましてすべてのご質問にご回答できずに申し訳ありませんでしたが、皆様ご質問ご投稿頂きまして誠に有難うございました。
今回は映画『さがす』ネタバレありの感想の動画でございました。最後までご視聴誠にありがとうございました。
さようなら。
※書き起こし終わり
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○○に入る言葉のこたえ
②ポンジュノ監督の助監督をされていた経験が自身の作品作りに与えた具体的な影響はジャンルに縛られない事
③フード描写のこだわりは、食べるという行為はドキュメントに近い生々しさがある