トイ・ストーリー4のライムスター宇多丸さんの解説レビュー
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RHYMESTER宇多丸さんがTBSラジオ「アフター6ジャンクション」(https://www.tbsradio.jp/a6j/)
で、ジョシュ・クーリー監督の大ヒットシリーズ続編「トイ・ストーリー4」のネタバレなし解説レビューを紹介されていましたので書き起こしします。
映画視聴前の前情報として、また、映画を見た後の解説や考察レビューとして是非ご参考ください。
宇多丸さん『トイ・ストーリー4』解説レビューの概要
①メールの量はとても多い!
②賛否両論あるのは日本観客の傾向。
③おもちゃにとっての恐怖や問いを突き詰めてきたシリーズと見事に幕を閉じた前作「3」。
④技術の進化によるリアルな質感表現がなければ「4」は語れなかった。
⑤おもちゃと○○は紙一重・・対称的な存在のウッディとフォーキー。
⑥最高に魅力的な新生ボーを始めとした、セカンドハウスのおもちゃたち。
⑦おもちゃの自由意思の問題を臨界点まで突き詰めた「4」は、ピクサーらしい価値ある一作!
※○○の中に入る文章は、この記事の1番最後で公開しています。
TBSラジオ「アフター6ジャンクション」でラジオ音源を聞いて頂くか、書き起こし全文をご覧頂くか、この記事の1番最後を見て頂く事で判明します。
映画「トイ・ストーリー4」宇多丸さんの評価とは
(宇多丸)
さあ、ここからは私宇多丸がランダムに決めた最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのはこちらの作品「トイ・ストーリー4」。
はい。おなじみのテーマ曲ですね。おもちゃの世界を描いたピクサー・アニメーションの大ヒットシリーズ「トイ・ストーリー」9年ぶりの続編。
親友アンディと別れを告げ、新たな持ち主ボニーのもとで暮らしていたウッディたちの前にボニーが作ったおもちゃフォーキーが現れる。
自分をゴミだと思い込むフォーキーが・・思い込むっていうか本質的にゴミではあるんだけど・・旅先で姿を消してしまったことからウッディたちの新たな冒険が始まる。
トム・ハンクス、ティム・アレンなどがおもちゃたちの声を演じる。
監督は数々のピクサー作品に参加し、今回が長編監督デビューとなるジョシュ・クーリーさん。
ということでございます。
ということで、リスナーの皆さんからの感想を多数いただいております。
代表的なところを紹介・・えっとですね、多数いただいておりまして、ウォッチメンの監視報告をね。
メールの量、とても多い!
ということでありますが、バッサリ、ドスンと来てますね。分厚い。
多くの方が完璧なパート3、ね「トイ・ストーリー3」の後の続編ということで、期待半分不安半分で臨んだ様子。
そして賛否の比率は、賛が半分、褒めてる人が半分。両論併記、良いとこも悪いとこもあるが3割。良くなかったという方が2割。評価がかなり分かれています。
コレちなみにね、日本だとすごい賛否両論なんだけど、アメリカ本国だと評論も観客も割と絶賛一辺倒で・・この賛否両論っていうのは割と日本観客のとちょっとこう、傾向だったりするんですけどね。
はい。で、ですね、まず擁護派のご意見。
・「3」のラストの更にその先を描いたところにピクサーのすごみを感じた。
・まさかウッディのストーリーだったとは。
・ラストの彼の決断に感動した。
・ギャグのキレもいいし、映像表現の進化にも驚いた。
といったところ。
否定的な意見としては、
・これまでのシリーズを全否定された気分で悲しい。
・バズの扱いに不満。
「1」のバズに戻ってしまったような・・ね、これありますね。
・ラストのウッディの決断を見て、これからおもちゃをどう扱っていいのか戸惑ってしまった。
まぁ、これは今までもそうなんだけどね(笑)、というね。
また「トイ・ストーリー」の感想は、他の同作品より「トイ・ストーリー」と共に育ってきたので、個人的な思い入れが強いという意見が多い、ということでございます。
ということで、代表的なところをご紹介いたしましょう。
映画「トイ・ストーリー4」を鑑賞した一般の方の感想
「モンゴリアンチョップ」さん。
「トイ・ストーリー4」については、完璧にシリーズを締めた「3」の続編を作る必要があるのか否か問題があると思いますが、作ると決めた以上は今回のような展開がベストだと思います。
例えばアンティークショップの倉庫に閉じ込められているボーですね、ウッディたちが助けに行くというようなこれまでの「トイ・ストーリー」で何度も何度も見てきたような展開なら、「4」を作る必要なんてなかったです。
短編集でやればいい話です。
物語中盤、ウッディがフォーキーを助けるために他のおもちゃを危険に巻き込んだ行動を非難された際に、「俺にはこれしかないんだよ」と言い放ったセリフが、胸に突き刺さって涙が止まりませんでした。
これまでのウッディであれば、「仲間のためだろ」とか「俺達が助けないと」とか、そういったおもちゃたちのリーダーで頼れる保安官のような優等生的なセリフを言ったのではないでしょうか。
ウッディが仲間のことを助けるために行動していることが、実は自分の存在意義を証明するための行動であったということ、それをウッディも自覚していることに胸が締め付けられる思いでした。
シリーズのどの作品よりもウッディが悩み、そして成長し、自分のアイデンティティーについて考えた作品だと思います。
これまでで最も魅力的なウッディが描かれた、まさにウッディの「トイ・ストーリー」だという本当に最高の映画でした。
という「モンゴリアンチョップ」さん。
一方ですね、ダメだったという方。
映画「トイ・ストーリー4」批判的な意見
「リキ」さん。
私は子供の頃からトイ・ストーリーを見て育ち、おもちゃを大事にすることを学んで育ちました・・という方ですね。
「トイ・ストーリー3」が完璧な完結だと思っていただけに、今回の「トイ・ストーリー4」は見たいような見たくないような複雑な気持ちで臨みました。
結論から言うと、これなら要らなかったかなという感じです。
今回はおもちゃを一つの意思を持った生命と見るか、ただおもちゃに意思があるだけと見るかで、大分感じ方が変わるような気がしました・・なるほど。
自分は完全に後者の感覚で今までの作品を見てきたので、今回出てきた野良おもちゃのような概念が理解できなく、「そもそもおもちゃって誰かに遊んでもらって存在を定義できるんじゃないの」と思うのです。
だから、ウッディが最後に取った選択も、今まで子どもの幸せを何よりに考えてきた彼の行動からちょっとずれてるかな、と思いました。
映画的にも見せ場のための場面設定が多く、それぞれのシチュエーションの位置関係もわかりにくかったです。
古参キャラや前作で加わったボギーのおもちゃの扱いも軽く、薄っぺらい描写でした。
まぁ、どれも俺が考える「トイ・ストーリー」と違うレベルのことですが、個人的にはしっくりきていないです。
ということでございました。
まぁ、ね。思い入れが強いシリーズほど・・っていうのは当然ね、生じる問題ではあると思うんですけどね。
「トイ・ストーリー4」宇多丸さんが鑑賞した解説
はい。ということで、皆さんありがとうございます。
「トイ・ストーリー4」。私もバルト9でですね、字幕2Dと吹き替え2Dを連続9階から6階に下りて続けて見る、というのと、あとTOHOシネマズ六本木で字幕2D、計3回見てまいりました。
これ面白かったのがバルト9。どっちも深夜回で見たんだけど、より深い時間帯の回であるはずの吹き替え回の方が入ってたんですよね。
これまぁ深夜のね、新宿っていう土地柄もあるのかもしんないですけどね、これは面白いなぁというふうに思いました。
トイ・ストーリー3について
ということで、まぁ「トイ・ストーリー3」。
僕はですね、前の番組の時代2010年7月17日ちょうど9年前に評しましたが、多くの方もおっしゃる通り、その「トイ・ストーリー3」がですね、そのシリーズのひとまずの締めくくりとして、これ以上考えられないほどキレイに見事に終わっていた、幕を引き切っていた、そういうふうに私も評して、絶賛しました。
で、あまりにその幕引きが鮮やかだったので、僕などは「トイ・ストーリー3」以降のスピンオフ短編も、「ちょっと許せない」っていうふうにいつも思ってたぐらいで、要はあの「3」の後の中途半端の面白話とか見たくないからぐらいに思ってるから、やっぱ「3」は見事だと思います。
当時はちょっとまだね、書き起こしとかが残ってないんでね、どっかに残ってるアレをアレしていただいても全然結構ですけどね、参照してください。
「トイ・ストーリー」シリーズの歴史、位置づけとかもやってます。
今回のトイ・ストーリー4
ただ今回の「トイ・ストーリー4」はですね、長編で正式ナンバリング作品ということで、そんな軽い感じで作られた作品でないのは、もちろんないわけです。
そもそもこの「トイ・ストーリー」シリーズ、一貫して描かれていたのは、えぇまぁこういうことですね、実は生命・感情を持っているおもちゃたちにとっての、いつ持ち主に飽きられ捨てられるかわからないという恐怖と、そんな本質的に寄る辺ない存在にとっても、「じゃあ幸せってなんなのか?」という問い・・これを一作ごとにその恐怖と問いっていうのをより徹底して突き詰めていくという、こういう作りになっている。
これ、もちろん現実の人間社会をおける諸々の問題に置き換えて考えてみることができる、象徴的に解釈することができるっていうね、ことにも多分になっていて。。
子離れの話
例えば、特に実質上の主人公であるウッディーの視点から見ると、まぁこれ、子離れの話ですよね。
親がどうやってこう子離れするか、という話としても見れるし、1作目のバズであれば、要は自分の身の程を知った上で、それでもその中でささやかな自己実現ができるよって、まぁ非常に大人なメッセージというか、その意味でこう・・被雇用者、仕事全般論みたいな感じでも捉えることもできるし。
もちろん、ぶっちゃけコレ、「トイ・ストーリー」における持ち主とおもちゃの関係は、主人と奴隷っていうかね、奴隷制みたいなのはやっぱりどうしても思い起こさせるような関係、そういうメタファーにもどうしても見えてしまうところも多々あったりすると。
まぁとにかく、それが全部まとめてこういうことだと思うんですよ。
自分が帰属する場所と誰かから必要とされることがなくなったらどうしようっていう、やはり割と普遍的な、誰でもコミットできる共感し得る恐怖とか不安、そしてそれに対する問い、じゃあどうするのが幸せなのかっていう問いをテーマにしてきていることは間違いない、と。
トイ・ストーリー3で見せたもの
で、特にその「トイ・ストーリー3」はですね、その帰属する場所も誰からも必要とされることもなくなったものたちがいずれ最終的に必ず行き着くであろう場所としてのゴミ焼却場という、つまりそのいずれ誰もに訪れる死の光景というところまで見せたわけですね。
本当に恐ろしい場面でしたけど、その上で少なくとも主人公たちには再び帰属する場所と誰かから求められるっていうことを世代を越えて、アレが継承されるんだよって示す。
僕は、ディズニーで言うと「小さな家」っていう話、知ってますかね、「小さな家」に近い感じだな、と思ったんですけどね。
とにかく、そういうふうにひとまず全て丸く収まってめでたしめでたし、なところに着地して見せたわけですよね。
さっき言ったように、本当に完璧な、1作目とちょうど円環構造も成して、「あぁ見事」って感じで幕を閉じたわけです。
トイ・ストーリー3が完結編というつもりはなかった
ただまぁ、実はその「3」を作ってる最中からですね、1作目から原案脚本を手がけているアンドリュー・スタントンさん・・ピクサーの中のトップ中のトップですね・・アンドリュー・スタントンさんの中では「3」が完結編っていうつもりは作っている最中から別になかった、と。
確かにアンディ・・アンディっていうのはウッディの持ち主だった少年・・とウッディとの物語は「3」で終わりなんだけど、ウッディの話はまだ続けられると、そのアイデアがあるっていうふうには考えていた、ということなんですね。
今回その監督に抜擢されたジョシュ・クーリーさんも、あちこちのインタビューで語っているのは、だから「3」の後どうするんだっていうふうに思ったんだけど、そのアンドリュー・スタントンさんのアイデア聞いて、「あーなるほど」と思った。
で、とはいえですね、最初は、当初はこれもあの監督ジョシュ・クーリーの、例えば日本語で読める記事だとロケットニュースのインタビューでこんなこと言ってるんですけど、要は、当初はウッディと、まぁ今回非常に重要な役割を果たすボー・ピープとね、2作目まで出ていた女性のランプの飾り人形ですね、彼と彼女のロマンティックコメディっていうところまでは決まってたけど、どういう結末にするかはしばらく決まってなかった、なんてことを言うらしいんですね。
これ、結構僕意外だったんですけど。
トイ・ストーリー3で踏み込まなかったある究極の問い
なんだけど、おそらくはそのボーというキャラクターを現代にふさわしい自立した女性キャラクターとして再創造していくうちに・・再造形していくうちに・・実際技術の向上込みですね、ぶっちゃけ彼女の見た目自体「1」「2」とはかなり、ちょっとかけ離れたぐらい変わってるんですけど。
その彼女を、要するに、今にふさわしいキャラクターに造形していくうちに、必然的に作り手たちはこのシリーズが実は「3」でさえもあえて踏み込まなかったある究極の問いについに向き合わざるを得なくなった、っていうことだと思うんですね。
その究極の問いとは何かと言えば・・自由意志の問題ですね。
はい。えぇ、ちょっとこれ後ほど言いますけど、実はこの作品、いつも自由意志の問題と・・本当に最後の最後に更に、「それを言っちゃあおしまいよ」というような問いまで行ってしまう。
ゆえに多分この後はもうない・・はずだけどなぁ、と思わせるようなところで行ってしまうんですが、これちょっと置いときましょう。
順を追って説明
ちょっと順を追って話してきますけど。。
まず「9年前」とふうにテロップが出て、その豪雨の夜・・豪雨の中ですね。
泥水の濁流に流されかけるRC・・というのはもうラジコンの車・・RCをみんなで救出するというくだりがある、と。
95年の1作目、99年の2作目はもちろん、2010年の3作目アレを見た時「うわ、技術進化した」ビックリしましたけど、あん時と比べても更に驚異的に向上した。
自然現象とか、あと物の素材感、質感含む、そのリアルな世界表現、世界の表現ですね。
今回もまた、この技術向上が、えっと物語とかテーマに密接にこう、密接に繋がっている、「3」でもそうですね。
要するに、質感表現が進んだから、おもちゃの・・古ぼけたおもちゃっていう表現が物語とすごく一致してたわけですね。
世界の表現がリアル
今回もすごく世界の表現がリアルだってことが「4」のこの話と非常に密接に、要するにこの技術がなければこの「4」の話を語れなかったって感じなんですけど。
とにかくその中で、「3」ではセリフでのみ語られていたボーとの別れってのが描かれている、その女性の人形とね、まぁウッディとはいい恋仲にあったわけですけど。
で、まぁ今生の別れみたいな感じでね、あるわけですけど・・ここでの彼女とのやりとり、およびオープニングタイトル後・・本編が始まってからしばらくのくだり、くだりが示すものってのはですね、はっきり言えば「3」がすごい好きだ、「3」に感動したって人がショック受けても当然なんですけど。
とはいえ、やっぱり子供は気まぐれだし変化していくものなので、結局のところおもちゃにとって永遠の安住の地なんてものはない!・・という非常に「3」の終わりからすれば「ええっ!それ言う!?」っていうことでもあり、でも本当のことではある、という真実ですよね。
トイ・ストーリー3まではあって、今作からない物
考えてみれば、「3」まではですね、とはいえアンディというですね、ややっていうか、かなり理想化された持ち主とウッディとの、物語上決して壊れない絆っていう安全ネットが最終的には全てを回収してくれていたからこそ、我々は安心して見終えられたわけですよ。
でも、もう本作ではそれはないわけですよね。
なので、それがなくなった後のウッディはどうかと言うと、本作では・・すいません、今日それなりに・・ちょっと本編の本質に触れるんで、毎度言いますけど、絶対何も入れない人はちょっと・・はい、20分近くよろしくお願いまーす。ミュートなりなんなりしてください。
本作でまぁもうウッディとの、アンディとの関係は終わっている、そのウッディはですね、実際のところ劇中でついに1回も、心から彼のことを思う持ち主に愛されるっていう場面は1回もない・・ってことになっちゃってるわけです。
これ非常にショッキングですよね。
現実にも全然置き換えられる話
それでも彼は、要するに直接誰かに求められることがなくても裏方的サポートに、勝手にですけども、勝手に回ることで、なんとか己の存在意義を自分の中で保とうとしている、と。
これ、現実にも全然置き換えられる話ですよね。
非常に身につまされる話というか、現実にも置き換えられる立場であり心情だと。
で、そこでいかにもそのボニーという・・女の子らしい非常に想像力豊かな子なので・・いかにもボニーらしい想像力で自ら作り出してしまう、本シリーズ初の手製おもちゃ、フォーキーってのがまぁ出てくるわけですけど。。
彼は自分をゴミ、トラッシュと認識しているので、「きみはおもちゃだ。トイなんだ」って言われて、これは要するに日本語、あの吹き替え版だとちょっとそこ難しくなってましたけど、要するに「トイ」「トイでしょ」ト、ト、ト・・「トラッシュ」っていう。
でなって、ゴミ箱にちょっと突進するという。。まああのウッディがいちいち止める・・ボニーのためにそれを止めるという、情緒不安定ギャグと言いましょうか。
それがまぁ序盤のメインとなるわけなんですけど。
フォーキーの登場
要はこのフォーキーの登場によってですね、この世界のおもちゃにおける、「生きているおもちゃとそうでない物質の差ってなんだ?」っていう結構根源的疑問が改めて浮上してきて、まあさっき言ったラストのラストの「それを言っちゃあおしまいよ」な、ある意味それに対するセルフツッコミでもあるわけですけど。
で「えっ。これって何?」っていう人も、「そこが気になって」っていう人もそれなりにいておかしくないなっていうフォーキーって存在なんですが。
ただ一つ言えるのは、「3」でですね、さっき言ったようにすべてのおもちゃがいずれゴミになり得るってのを示した後に、その反転として、だとしたらゴミもおもちゃになり得るのか?っていうこのキャラクター、フォーキーというキャラクターによって、おもちゃとゴミは紙一重というか、そんなのは見る人の価値観によって変わるという。。
これはですね、「トイ・ストーリー」という物語世界にとって大変居心地の悪い問題提起をしてくるわけですね。
で、ウッディは「2」で語られていた通り、アンティーク観点から見れば、実は非常に価値ある存在でありながら、今はおもちゃとしては価値が落ち込んでいる状態。
一方フォーキーはボニーのおもちゃとしての価値以外はなんにもない。
でも、ウッディにしてみれば、それこそが一番欲しいものであると。
要するに完全に対称の存在なわけですよね。
非常に面白い設定
ただまぁ、非常に面白いんです、この設定は。
なんですが、ぶっちゃけフォーキーに関するストーリーは、彼がボニーに対する思い入れを得た時点でまぁ終わってしまうっていうのもあります。
感もあるんだけど。
ただ彼の存在が、彼が出てくると常にこの世界で・・この世界の根源的な寄る辺なさっていうね、「えっ。なんだ、こいつらはなんだ」っていう非常に居心地悪さってのを醸し出すキャラクターなのは間違いない。
子どもたちはすごい大好きらしいんですけどね、子ども観客はね。
アンティークショップ、セカンドチャンス
でまぁ、そのフォーキーの話がひと区切りするのと入れ替わりに登場するのが、まずアンティークショップ、その名もセカンドチャンス。
まずこのセカンドチャンスの中にこう引き込まれていくところの照明演出、今回もまた「3」に続いて明かりの演出が素晴らしいですね。
ぜひ皆さん、これ堪能していただきたいですけど。
まぁ、そのセカンドチャンスの中の面々、特にやっぱりね「2」のプロスペクターとジェシー、あと「3」のロッツォ、この三者の苦悩・・と、なんか闇を全て集約したような50年代の女の子人形ギャビー・キャビーというね。
で、それと、それを取り込む腹話術人形軍団、まぁこれ非常にね、あのこれ実際腹話術人形が登場する時、ガラス越しにぶって出るあれ、あれをアートブックによると、やっぱ実際鏡を、ガラスを通してこう撮った、写真とかを撮ってね、やってたりとかやってますけど。
要はホラー的演出ね、「シャイニング」プラス「エクソシスト」と言ってもいいような、そういうホラー演出。
ちょっとあと「赤んぼ少女」の切なさも入ってるねっていうあたりね。
うっとりするくらいの美しさ
とにかくこのアンティークショップ内の美術の美しさ、見るだけで本当にうっとりするくらいですけど。。
まぁそいつの、セカンドチャンスの中の連中、そして通りを挟んだ向かいの移動遊園地この空間、大きな通りを挟んでこっちはすごく静的な古いものがずっとちんまり収まっているけれど、反対側はものすごくイキイキとなんか若い者がワーッと動いているような空間・・この静と動の対比も、これさすがだなという感じですけど。
そこでウッディやバズが出会う連中、わけてもやはりそこで、そもそもこの「4」企画の中心にあったという再登場のボー・ピープさんですね。
で、「1」や「2」ではその不可能だったボーのですね。ボディの陶磁器表現、そしてやや近年のディズニー女性キャラのね傾向・・目が大きいんですね、最近のディズニーキャラ、まぁ日本アニメの影響もあるのかな。
要するにまぁ非常に表情豊かになったという、まあ前のボーとは全然違うじゃないかって言われたら、そうなんだけど、というボー。
本来動かない人形が関節を動かす
ちなみにコンバットRECの指摘で、関節が動かない、本来動かない人形が関節を動かすのは、あのバービーとケンの例から言ってもおかしいんじゃないのか、ルールが変わっている。。
確かにそれもそうかもしれない。
ただ、ちょっとそこは置いといて。。
本来は割れやすい壊れやすい陶磁器でできている
彼女を、要するに本来は割れやすい壊れやすい陶磁器でできているっていうのが、視覚的に常に示されているというのが非常に大事で、割れやすい壊れやすいにも関わらず、彼女がこの過酷なまさに世界ですね、さっきから言ってる土、泥から、あと骨董品店のもうホコリとかもアレですね、その技術向上によりリアルに描かれた世界の質感、これも非常に効いてる。
つまり、この生々しい寄る辺ない荒々しい世界を、どこにも帰属することなく、また誰にも頼ることなくまさに独力で生き抜き、生きがいを自分で見出して、その強さっていうのがその素材としての脆さ感と相まって、より鮮烈に内面的な強さとして切実なものとして、つまりそうじゃないと生き残ってこれなかったものとしても際立っているわけですよ。
見事だと思うんです。
それから僕はこの新生ボーが最高に魅力的で、これはウッディならずとも憧れるっていうか・・感じだと思います。
ギグルという小さいコンパクト型の道路ハウスおもちゃ
あとね、あのギグルってああいう、そのね超小さいコンパクト型の道路ハウスおもちゃ、確かにあった、あったっていう、あのギグルとの女同士バディー感とか、あとキアヌ・リーブスがボンクラ性全開で演じるイーブルクニ―ブルふうのね、あのスタントマンのおもちゃ、あれ実際僕ああいうおもちゃ、仮面ライダーに置き換えたやつ持ってましたけど、はい。
とか、あのG.I.ジョーふうのねコンバットカー、特に白い服着たアイツの、彼の切なさ、これアートブック、イメージボードの段階から彼のアレがスカるってこう書いてるんです。ただ、彼に関してはエンドロール、最後までぜひ見てあげてくださいね。はい。
やばい、時間がない。
ダッキー&バニーの口悪い漫才コンビ
もちろんダッキー&バニーの口悪い漫才コンビっぷりとか、新作サブキャラクターたち、小ネタ含めて非常に楽しいわけですが。
確かにその分、元々のおなじみのメンバー、後景化してしまった感はあって、確かに不安があるお客さんがいるのわかる。
特にバズは、いちいち心の声に従うというのは、1作目最初の方的なキャラに戻っちゃってるじゃないか、この不安はよくわかります。
ただもちろん、その心の声っていうのはですね、ギャグとしてだけではなく、その問題のラストここも照明演出がすごく良くできてるんですけど、問題のラスト含め実はやっぱりこの本作のメインテーマと深く関わってくるワードでもある。
「本当にはどうしたいんだ?あんたらは」
つまり、心の声ってのは言い換えればやっぱり意思なんですよね。
さっきも言ったおもちゃたちの意思の問題、「本当にはどうしたいんだ?あんたらは」って話に関わっていく。
「3」までは、とはいえおもちゃにとっての真の幸せとはやはり子どもと遊ぶ、じゃなくて子どもに遊んでもらうことだってのは、絶対不変の真理としてあったわけです。
で、そこが疑われてもいないからこそ、「2」ではそれを・・僕は大嫌いな結末でしたが、博物館でずっと大切にされたいという、それはそれで切実なプロスぺクターという、あの悪役の意思を間違ったものと決めつけて、ウッディたちはその正しいことをガッと押し付けますよね。
プロスペクター問題
おそらく作り手たちもこのプロスペクター問題っていうのは気になっていたはずで、ともあれ良い持ち主に会えないとおもちゃにとって毎日が地獄ということもあり得るというのは、「3」で示して見せた。
で今回の「4」はそこから更に進んで、いやそもそも子どもに遊んでもらうことだけが幸せなのか、どこかに帰属しなくても誰かに求められなくても自分で自分の生きがいを見つけ出し作り出す、という選択肢が生き方としてあっていいんじゃないかって、ここまで問いを突き詰めてみせる。
で、自分で自分の幸せを作り出せばいいじゃないかと、これはまさにフォーキーに関してボニーがやったことでもあるわけですよね。
もちろん、これは我々の実人生にフィードバックし得る、本当にあの、本当のセカンドライフ論になってるわけですよ。
「トイ・ストーリー」という物語の臨界点
しかし、それは同時に、この「トイ・ストーリー」という物語の臨界点でもあって、おもちゃが意思を持って本当に自由に生き始めたら、それはもうおもちゃではなく、人間社会の裏側で密かにうごめくもう一つの人的なるもの、妖怪人間ベム的なものですよ。
だから、これまでのシリーズと違って月夜で終わるってのは、そういうニュアンス、非常に不穏な余韻がある。
実際エンドクレジットで行われているのは、闇の奴隷解放人みたいな、そういうことですよね。
ということで、更にそのミッドエンディングでシリーズの更に根源的な「それを言っちゃあおしまいよ」的な問いをして、くっと終わるっていうことになっている。
ちょっと怖くなるような、僕は余韻があるな、と思ってるんですけど。
なので、「3」のような丸く収まった感がなく、台無しにされてイヤだっていう人がいるのもわかる。
たた考えようによっては「3」というのは、おもちゃの生き方が、この煉獄はまだ続くっていう終わり方でもあるわけです。
トイ・ストーリー4を作らずにはいられなかったピクサーらしさ
その煉獄を更に断ち切る生き方もあるんじゃないか、というところまで問いを限界まで突き詰めた一作を作ってからでないと、シリーズが終われない。
だって「3」で終わってればどっからも文句出なかったんだもん。
なのに、そこを作らずにはいられなかったというところに、僕はむしろ本来のピクサーらしさ、骨があるなってところを感じます。
非常に居心地が悪いからこそ、この「4」は価値があるというふうに思っていますし、僕個人はとってもやっぱりこれこそが「トイ・ストーリー」であり、これこそがピクサーだというふうに思う、一作でもありました。
もちろんね、その不満点がある部分はわかりつつ、というところでございます。
えぇ、まぁ、あの好き嫌いも含めてですね、ぜひぜひジャッジは皆さん、ご自分の目で劇場でウォッチしてください。
○○に入る言葉のこたえ
⑤おもちゃとゴミは紙一重・・対称的な存在のウッディとフォーキー。 でした!