STAND BY ME ドラえもんのライムスター宇多丸さんの解説レビュー
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RHYMESTER宇多丸さんがTBSラジオ「アフター6ジャンクション」(https://www.tbsradio.jp/a6j/) で、山崎貴監督と八木竜一監督の第38回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞受賞作受賞作品「STAND BY ME ドラえもん」のネタバレなし解説レビューを紹介されていましたので書き起こしします。
映画視聴前の前情報として、また、映画を見た後の解説や考察レビューとして是非ご参考ください。
宇多丸さん『STAND BY ME ドラえもん』解説レビューの概要
①この監督、すでに同じような映画をやっている。
②そもそも『ドラえもん』とはどういう物語か?
③ただの終わらない日常を描いた物語ではない。
④監督なりのドラえもん愛は出ている。
⑤名作感動中編2つを1作品にまとめることによって軽くなる!
⑥好きなこと結婚することがゴールではない!
⑦エンドロールがお粗末・・"○の皮が厚い"
⑧皆が知っている原作だからこそ、各々の意見を取り交わせる楽しみがある。
※○○の中に入る文章は、この記事の1番最後で公開しています。 TBSラジオ「アフター6ジャンクション」でラジオ音源を聞いて頂くか、書き起こし全文をご覧頂くか、この記事の1番最後を見て頂 く事で判明します。
映画『STAND BY ME ドラえもん』宇多丸さんの評価とは
宇多丸:
ということで、スペシャルウィークの今夜扱うのは、先週ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画『STAND BY ME ドラえもん』(モノマネ声)。
思ったより(声真似)そんな事故にならなかったですね。
藤子・F・不二雄原作の国民的アニメ『ドラえもん』を、初の3DCGアニメで映画化。
『friends もののけ島のナキ』の八木竜一監督と、『永遠の0』『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズなどの山崎貴監督が共同でメガホンをとり、原作の中でも泣けると評判のエピソードを基に、映画オリジナルとして再構成したということでございます。
先週のゴジラに引き続きね、ある種ビッグタイトルでございますけどね。なおかつ、今ぶっちぎりの大ヒット中ということでございます。
この映画もう観たというリスナーの皆様、またの名を"ウォッチメン"からの監視報告、メールなどでいただいております。
メールの量・・先週の史上最多級のゴジラほどではないですけど、非常に多いです。ありがとうございます。
ただし、賛否は分かれていて、"ダメ"5割・"褒め"4割・"どちらでもない"が1割。
褒めてる人は、「あまり期待しないで観に行ったが・・」という人が多かった。
映画「STAND BY ME ドラえもん」を鑑賞した一般の方の感想
ダメな人の理由は、
「短編をただ並べただけ」
「ドラえもんへのリスペクトがない」
などの理由が目立ったというところでございます。代表的なところご紹介いたしましょう。
(メール紹介)スチューデントキラー:
『STAND BY ME ドラえもん』、3Dで観てきました。
結果として、泣いてしまいました。最高です。
が、山崎貴が"ドラえもん"という金山を全て掘り尽くした結果であり、最強打者を揃えて打順を決めてから言える、監督の「ホームランを打て」のサインを出したに過ぎないように思います。
どちらかといえば、大長編と同時上映の結婚前夜のような物語の詰め合わせセットに近いと思います。
あの系統のシリーズは絶対に感動できる"ホームランが打てるバッター"なわけです。それを惜しげもなく使いまくる山崎貴の大胆さには驚きます。(宇多丸:褒めてるのか?これ(笑)。)
「え!?これ、結婚前夜やって、さよならドラえもんをやって、最後に帰ってきたドラえもんまでやるのか?」と、ドラえもんの満漢全席を味わった気分でした。
宇多丸:
ということでございます。
すごい良かった、泣いちゃった、というね。
次、ダメだったという方。
映画『STAND BY ME ドラえもん』批判的な意見
(メール紹介)タマコ怒りの鉄拳:
『STAND BY ME ドラえもん』、観てきました。
「いっしょに、ドラ泣きしません?」といういかにも広告代理店が考えそうな品のないキャッチコピーが全てを象徴(宇多丸:言われちゃったなこれ(笑)。)。とにかく下品・大味・節操なし。山崎監督は、原作からポイントを抜き出して最短距離で泣かせにかかっているようですが、全てが的外れで見当違い。
脚本に関して、この人本当にセンスのかけらもない。
(その他指摘、番組内で省略)
何やら興収50億を超えて今年の邦画No1ヒットとのことですが、どんなにヒットしようと、誰が褒めようと、私はこの作品が大嫌いです。
宇多丸:
という、23歳、タマコ怒りの鉄拳さんでございました。
同じような年代の方だったんですけどね、先程のメールの方と。
年代によってというよりは、人によって結構違うんじゃないでしょうかね。
はい、ということで早速いかせていただきましょう。結構なボリュームなので。
皆さんメールありがとうございます。
『STAND BY ME ドラえもん』宇多丸さんが鑑賞した解説
『STAND BY ME ドラえもん』、2D、3Dで観てまいりました。
どちらも結構遅めの回を観たんですけど、そこそこ(客が)入ってたし、そこかしこから"ドラ泣き"してるお客様の鼻のすすり声が聞こえてきたり、まあウケてるのはわかりました。
でね、本題にいく前に、皆さん、ドラえもん耳より最新情報をこちらでお伝えしましょう。
昨日、六本木でドラえもんを観て、帰りにいつも行く飲み屋に行ったらですね、そこの常連でもあるBIGZAMくん(現在LA在住)が日本に帰ってきていて、「おお、きてたんだ」って。
(『オリーブの首飾り』が流れる)
はい失礼いたしました。これBIGZAMくんとは何の関係もないですけど。
で、BIGZAMくんにたまたま会って聞いた話なんですけど、この夏から、アメリカで初めてアニメの『ドラえもん』が放映されたっていう話、皆さんニュースでお聞きになった方も多いと思うんですけど、BIGZAMくん曰く、これがアメリカの子供の間で超絶大ヒットしてるんだって。僕から見たら結構意外にもって感じ。
アメリカの子供の間でドラえもんが超絶大ヒット!
BIGZAMくん曰く「どら焼きアメリカで流行っちゃうかもっていうぐらいの勢い」って。
いろんな面で、「アメリカではウケないんじゃないかな、こういう話は。」っていう風に僕は思ってたし、実際そういう懸念があったからこそ、これまでの長い間ドラえもんはアメリカには輸出されてなかったんですけど、バカウケ中だと。
当然、ジャパニーズカートゥーンだっていうのは分かった上で子供たちは喜んでるっていうんですけど・・面白いのが、特に人気のあるキャラクターが、ジャイアンとスネ夫だっていうんですよ。名前は変わってて、"ビッグG"と"スニーチ"って変わってるんだけど、要するにギャングと金持ちっていう、アメリカ人が大好きな2大要素っていう。
なおかつ、スネ夫がママに泣きつくところが超ウケてるんだって。ギャグ的に。
BIGZAMくんのお子さんはジャイアンがお好き
BIGZAMも、お子さんにどのキャラが好きなのか聞いたら「ジャイアン」って言うから、「お前、それはちょっと・・って思った。」って言ってるBIGZAMが僕の知る限りの人間の中ではかなりジャイアン的な存在感なゆだけど(笑)。
はい、そんなBIGZAM情報でございました。『ドラえもん』、今アメリカでバカウケ中。
一方、日本ではこちら(本作)がブッチギリの大ヒット中ということで。
本筋の、一連の長編の・・要するに、劇場版『ドラえもん』ーー数年前、シネマハスラー時代に鉄人兵団のリメイクのやつもやりましたけど--とは別のラインで作られた3DCG版『ドラえもん』。
3DCG版『ドラえもん』
脚本・監督は・・改めて説明しておくなら、今や『ALWAYS 三丁目の夕日』『永遠の0』などで、押しも押されぬヒットメーカーの座を確立した、そしてなおかつ、この番組では--あくまでこの番組が命名したものでございますが--"山崎メソッド"。
すなわち、ムード優先。言ってみれば、田舎の喫茶店名とかのネーミングセンスの感じの英語タイトルを付けて大ヒットを飛ばすという"山崎メソッド"でお馴染み(失礼いたしました。)の山崎貴さんでございます。
当番組的には『BALLAD 名もなき恋のうた』、これも『クレヨンしんちゃん』の実写化というものでございました。
あと、有名な作品の実写化で『スポーツマン山田』っていうのもやりましたね。どっちにしろ、基本的に褒めたことは全くないということだと思いますね。
共同で監督されてる八木竜一さん
一方、今回共同で監督されてる八木竜一さんという方、2011年の『friends もののけ島のナキ』、これを一緒に作られたと。
僕、このタイミングで初めて観たんですけど、予告で見た通りの、泣いた赤鬼をベースにしてるんだけど・・要は、モンスターズインクですよね。化物たちの国側に小さい子供が入ってきて、最初は嫌がってるんだけど、強面の主人公が段々ほだされてきちゃって、というね。
あと、もののけ島の他のもののけたちのデザインも、すげえモンスターズインクっぽかったりして、全般にそういう感じの志の置き所な作品が多いと思います。"俺の考えた○○"みたいなのが多い感じですよね。今回のもまさにそうだと思うんですけど。
山崎貴さん
ていうか、山崎貴さん、今回の『STAND BY ME ドラえもん』・・いやいや、あなた、前に文字通り「STAND BY ME ドラえもん」っていう感じの映画、撮ってるじゃないですか、っていう。
監督デビュー作『ジュブナイル』という2000年の映画がありまして、これほんとみもふたもないほどに、『スタンド・バイ・ミー』と『ドラえもん』を足したような話でございまして。
『スタンド・バイ・ミー』は勿論スティーブン・キング原作の・・ひと夏の、少年たちの思い出みたいな感じかな。それと、プラスドラえもん・・こちらの場合は、これもご存知の方多いと思いますけど、あるファンが考えた最終回案(ファンの方のホームページに載っていた)が、のちにチェーンメールなどで出回って知られるようになった・・要するに、実は『ドラえもん』は、のび太が成長して、「ドラえもんが電池切れで止まっちゃったから自分がなんとかするんだ」と自ら開発者となったという、タイムループというかね。そういう、ファンが考えた最終回。公式じゃないですよ。で、それにインスパイアされているという。
『ジュブナイル』は完全に『STAND BY ME ドラえも』
実際、『ジュブナイル』という作品にはエンドロールでその(最終回を)考えたファンの方がサンクスのクレジットで入ってたりとか、藤子先生のクレジットが入ってたりとかするっていう・・『STAND BY ME ドラえもん』なわけですよ、完全に。
ということで、山崎貴さんが『ドラえもん』に思い入れがある、その思い入れが本物だっていうのは確かだと思うんですよね。2度もやってるわけですから、『STAND BY ME ドラえもん』をね。思い入れは確かだし、考え抜いて愛情込めて作られたんだと思います。
とはいえ、原作漫画自体が超長期に渡って描かれ続けてきたが故に、非常に多面的な要素を内包してる作品ですよね。
ドラえもんという作品の魅力は世代で変わる
なので、前回のゴジラもそうですけど、人によって『ドラえもん』という作品のどこに惹かれているのか、作品をどう考えているのか。世代とか人によって大きく変わってくるということだと思います。
ちなみに、1969年生まれの僕自身は、小学館(学年誌)からコロコロコミック創刊と、そして2度目のテレビアニメ化・・最初のテレビアニメの記憶もうっすらあるぐらい。
そして、のび太の恐竜で長編映画化っていう、そのすべてを小学生で成長につれて見てるっていう、これこそ最初の直撃世代って感じですよね。
なので、いろんなエピソードとかが、一種、教典みたいに身につきすぎちゃってるという、そういう世代だと思います・・山崎さんの5つ下ですね、僕が。
色々と考え方があるから語り合えて楽しい作品
ということで、色々と考え方が違うんだけど、その上で、先週のゴジラと実は同じだと思うんですよね。いろんな考え方の違いがあるからこそ、意見や見方が違う者同士含めて、あーでもないこーでもないと自分なりの作品論を語り合うことを含めて楽しい作品っていうかね。「こんなのゴジラじゃない」とか「こんなのドラえもんじゃない」みたいな意見も、「じゃあお前のゴジラ(あるいは)ドラえもんは○○だ」とかそういう意見の言い合いも含めて楽しむ、そのシーン全体含めて楽しいという。
さっきも、せっかく早くTBS入りしたのに、会議室で小一時間ほど、皆で"ドラ話"しちゃって盛り上がっちゃって、っていう。
ちなみにタマフルクルーの中だと、番組ADオオサワさんは普通に"ドラ泣き"した派という。
正直ここからは文句ばかり言います
とにかく、さっきの小一時間のやりとりも含めて・・これから僕、正直文句ばかり言いますが、それも含めてこの作品をトータルで楽しんだっていうことは間違いない。だから相当費用対効果は良かったと言えると思います。
特にドラえもんファンほど色々言いたいこともあると思う・・「いや、ここはアリなんじゃないか」とかさ。すごくディテールまで気を遣って作ってるのも僕は認めますし。
あと、山崎貴さん、先ほども言いましたけど、ドラえもんに思い入れがある・・当然"F作品"(藤子・F・不二雄作品)ファンなんでしょうから、当然『エスパー魔美』--ある意味藤子さんの最高傑作なんじゃないかと思っておりますが--もお好きだと思うので・・ということはつまり、僕が何を言っても、"あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい"精神をお持ちだと思いますので、大丈夫なんじゃないかと思います。
あと、言っておかなきゃいけないのは、『STAND BY ME ドラえもん』から結構日にちも経っておりますし、原作も超有名な話ばかりなので、ぶっちゃけ、ネタバレもクソもないと思いますので、今回はネタバレ全開で
いかせていただきます。
本質に立ち返ろうというコンセプト
今回の作品、大きく言えば、『ドラえもん』とはそもそもどういう物語だったのかという本質に立ち返ろうというコンセプトがまず最初にあったと思うんですよ。
つまり、ドラえもんというキャラクター(存在)は、そもそも何のために、未来から現在の少年のび太の家に送り込まれたのか。
その出発地点から、使命・役目が終わって、物語的にはひとまずの最終回を迎える地点までを・・『ドラえもん』っていうのは1話完結の短編なわけですけど、そのそれぞれは本来は別個にあった、元々は点と点だったエピソード同士を繋いで1本の線にしたという作りですね。
『ドラえもんズ』『のび太の結婚前夜』
個別で言えば、例えば感動シリーズ・・先ほども言いましたけど、渡辺歩さんという作画監督のシリーズ、感動中編っていうか、30分くらいの『ドラえもんズ』とかと同時上映されたやつとかで、例えば『のび太の結婚前夜』であったりとか、『雪山のロマンス』であったりとか、今回の『帰ってきたドラえもん』とかあるわけですけど、こういった有名エピソードが繋がっている、と。あれ、『雪山のロマンス』じゃなくて、『おばあちゃんの思い出』でした、ごめんなさい。
とにかく、渡辺歩さんのシリーズがあるわけですよね。そんなこんなで、個別のエピソードを、僕がさっき言ったコンセプトに従って、出発点の時点に立ち返って、「だったらこれがゴールだろう」というところに向かって点と点を繋いでいって1本の作品としてみせるような。
発想自体は、僕は最初「なるほどな、アリかも」
で、この作りのそもそもの発想自体は、僕は最初「なるほどな、アリかも」って思ったんですよ。
というのは、『ドラえもん』というのは、少年たちの日常を描いていて、ずっと連載してるけど歳をとらない人たちですけど、実はそういう単なる(サザエさん的な)終わらない日常を描いた話ではないということです。
広い意味でのび太を成長させるっていう、実は明確な物語的ベクトルを常に内包しながら話が進んでいく。
つまり、成長が成立したら、物語的にはひとまず最終回を迎えるという構造を常に含みながら進んでいると。
実際のところ・・いちいち言うことでもないでしょうけど、初期に3回も、公式の最終回が描かれている。段々ブラッシュアップされてるんですけど。
僕は2回目の終わり方・・ドラえもんがいなくなっちゃうっていう終わり方、結構好きですけどね。のび太が自転車頑張ってるところを未来の世界からドラえもんとセワシが応援している、あれは結構本質に近いとこにきてるなと思うけど。
『ドラえもん』の漫画史上でも"ドラ泣き"って意味では史上最強
とはいえ、決定的なのは・・多分『ドラえもん』の漫画史上でも"ドラ泣き"って意味では史上最強でしょうね、僕はもう何度となく落涙してますよ。今回の作品でも当然のごとく最重要エピソードとして入っている『さようなら、ドラえもん』。74年(元々は『未来の世界に帰る』というタイトル)。
これ、何度となく読み返してて、例えば、単行本版の描き直しの時のトレースの線がちょっとある回だけ雑であるとか、1番最後のオチのところの肝心の感動ゴマで、引き出しが開いてたり閉じたりしてるところのディテールにまで目がいっちゃうぐらい繰り返し読んでるというね。
とにかく、僕もこの終わり方--一応、仮の最終回--は、完璧だと思います、『ドラえもん』という話の。仮に、他の最終回--さっき言った、ファンの方が考えた最終回も含めて--を作るとしても、多かれ少なかれ、本質はこれのバリエーションにならざるを得ないという風に思います。
『ドラえもん』という物語の、本質的かつ絶対的な終わり方
つまり、のび太という究極のダメ人間が、ちゃんとドラえもん(=彼にとっての"子供期")を、自分の意志と力で卒業するということですね。これが、『ドラえもん』という物語の、本質的かつ絶対的な終わり方。これしかないということだと思います。
だからこそ、ドラえもんファンほど・・決定的なのは、しかものび太にとって最も望ましい結末が"ドラえもんとの別れ"であるというところで、1番胸をえぐられるような話になるということだと思います。
で、これっていつかは卒業しなければいけない子供期の象徴としてこういうキャラクターがいるっていうのは、例えばくまのプーさんとか、そういうキャラクターなわけですよ。元々はね。
"ドラえもん殺し"の話
あるいは、全然トーン違いますけど、"ドラえもん的なるもの"からの卒業・・つまり、「お前と友達でいるうちは、僕は大人になれないんだ。」っていう、子供が自覚して、残酷なまでに正面から(向き合って)それからの卒業するというのを描いてみせたのが、楳図かずお先生の名作中の名作『ねがい』という作品だと思いますけどね。あれは、"ドラえもん殺し"の話だと思うんですけどね。「お前がいると俺は大人になれないんだ、ごめん!」って壊すっていう。
とにかく、今回の『STAND BY ME ドラえもん』の中でも、『さようなら、ドラえもん』の描き方に関しては・・僕はうるさい人間ですけど、ちょっとドラが泣くのが早すぎるから、そうすると最後の滝みたいな涙が活きないから、こんな時点で泣かしたらダメとか、色々言いたいことはあるんだけど・・例えば去り際の演出。さっき言った渡辺歩監督版の『帰ってきたドラえもん』でも出てくる場面だけど、あそこだとドラえもんがちょっと名残惜しそうに入っていくところが描かれてるんだけど、今回のはどっちかっていうと、むしろ原作版漫画のコマ運びに近いものになっている。
強烈な喪失感
のび太が寝てる→ドラえもんが泣きながら見てる→(漫画だと)コマが変わると居ないっていう感じが、強烈な喪失感を出すという。「これをちゃんと入れてきた、わかってんじゃん!」って僕は思いました。
『さようなら、ドラえもん』、ひとまずの最終回だと言いましたけど、ご存知の方には言うまでもないでしょうけど・・当時学年誌で連載されていたわけで、連載はそのまま続いたわけですね。最初の初筆のときは横の柱に「小学4年生に続くよ!」みたいな、「ドラえもんとのび太の話はまだ続くよ!」みたいなことが書いてあるぐらいで、結局、翌月の学年繰り上がっての小学4年では、ウソ800、『帰ってきたドラえもん』というので、再びドラえもんとのエピソードが始まるというのがつくわけですね。
僕、これは子供ながらに・・てんとう虫コミックスで読んでたんですけど、さようならで涙を搾り取られた後なほど、しれっとくるコレ(ウソ800・さようなら、ドラえもんの話)がくるのが結構嫌で。だって、あんな思いして卒業したっていうテーマが一気に台無しになる。つまり「なんだよ、返せよ涙!ドラ泣き返せ!」みたいになってたんですけど。
ある意味完璧すぎる最終回
とはいえ、『ドラえもん』というシリーズ、作品全体にとっては・・『さようなら、ドラえもん』という、ある意味完璧すぎる最終回っていうのを先取りしてやっておいたことで、「この話は、のび太の決定的な成長が来た時点で、いつか終わり得るんだ」という予感をはらんだまま続くという。
なおかつ、さっき言ったのび太の成長要素みたいなのは、むしろ、大長編ドラえもんのほうに集約型でそっちいってっていう。しかも、そっちも日常顔は進捗はしないという、成長はしきらないという微妙なルールのもとで進むという・・よく考えるとかなり変わった、すごく微妙なバランスなんだけど、長寿作品化にはプラスになったシフト。
最終回を先に終わらせているという、なかなか珍しいシリーズなわけですね。
シリーズとしてはよかった。ただし、僕が今言った微妙な、おかしな構造を、1本の映画のコンパクトなストーリーに一本道に纏めちゃうと、今回のように、改めてこの構造のいびつさとか危うさみたいなものが浮き上がってきちゃってるっていうのは、否定できない部分だと思いました。
オチを安易に捉えてよいのか
まずは、オチを、安易に帰ってきたドラえもんにしてしまっていいのかっていう問題ですよね。
勿論、『さようなら、ドラえもん』と『帰ってきたドラえもん』は、感動中編でもそう扱われてるんだからワンセットという考え方もあるとは思いますよ。
ただ--ちなみに僕、今回『さようなら、ドラえもん』のところで話が終わっていれば"ドラ泣き"してたかも(笑)。「ほんとにここで終わらせるんだ。」って。--シリーズ長寿化の始まりとしての機能としてはいいんですよ。『帰ってきたドラえもん』は。
だけど、1つの物語の終わりにこの『帰ってきたドラえもん』という話を置くとどういう風に機能しちゃうかというと、さっきいった『さようなら、ドラえもん』が伝えていたメッセージの反対ですよ。「卒業しなくていいんだ」っていうメッセージになっちゃうんですよ。「子供時代のノリのままいけばいいんだ」っていう、しようもない願望の成就に見えちゃうんですよ。
エピソードが圧縮されている弊害
エピソードが圧縮されている弊害もあって、これだとのび太が1から10まで甘やかされてOKの話に見えてきちゃうわけですよ、ここで話を終わらせると。
そうすると、遡って『さようなら、ドラえもん』として描かれるエピソードの方が、単に「友達との別れが寂しいから悲しい、だから泣く」ってだけの話に見えてきちゃうわけですよ。どんどん話が軽くなっていく。
そうじゃなくて、元々の『さようなら、ドラえもん』は、"成長"っていう不可逆なものが別れとイコールだから素晴らしく"ドラ泣き"する話なのであって・・そうなんだけど、これは山崎貴さんの考え方でもある気がします。先程言った『ジュブナイル』も、要は、子供時代と大人時代を円環構造で輪にして閉じるっていう、そしてその"閉じた"っていう部分を良い話として描いているんで、山崎貴さん自身はこれを良いという風に思っているわけだから、"何を以て良い話とするか"っていうのの、根本的な考え方の違いが、僕と山崎さんの間には結構あると思います。
(『オリーブの首飾り』が流れる)
はい、いいねボタンが100を超えましたんでね・・話のトーンと全く合ってない、『オリーブの首飾り』(笑)。
永遠の子供時代を肯定して終わるのは・・
要するに僕は、永遠の子供時代を肯定して終わるのは、ストーリーやテーマ、メッセージとして、逆に閉じてしまっているから嫌な気がするんだ、と言ってるわけです。
それは、どの時点で"ドラえもんの使命・役目が果たされたとするのか"っていう、『ドラえもん』という物語の根幹を成すストーリーの解釈の問題にも繋がってくると。
さっき僕が、「そもそもドラえもんは何しに来たのかに立ち返って、その時点からひとまずの終わりに向かって点と点を線で繋いでいく作りで、その作り自体はなるほどと思った。」って言いました。
のび太の未来を変えるという話
それはつまり、最初の、"未来の国からはるばるとドラえもんがやってきた"話で設定された目的は、のび太の未来を変えるという話ですね。具体的には、ジャイアンの妹のジャイ子との結婚を回避して、源しずかと結婚するという目的と設定されている。
だから、シリーズ中何度か出てくる「しずかちゃんと結局は結婚するんだ」という結婚確定エピソードがいくつか出てきた時点で、実はドラ(ドラえもん)の・・カッコつけていうと、当初の目的は終わってるわけで、"しずかちゃんと結婚が確定したから未来に帰る"っていうのは、一応論理として筋が通っているんですよ。「まあ、わかるわかる。」とは思ってます。
『さようなら、ドラえもん』が完璧なのは・・
でもね、例えばさっき言った・・『さようなら、ドラえもん』が完璧なのは、始まりの時点で、"好きな子と結婚"っていうゴールを設定して、未来を閉じてしまってない、当初は目的だと思っていたものが実は本質じゃなかった。未来は自分の努力で切り開いていく、そっちの方が価値がある、といったところまで・・つまり、「好きな子と結婚したい」っていうのは、テメエの欲望の話じゃないですか。そこよりも先に成長してる話だから、僕は感動的だと思うんで、これで、しずかちゃんとの、文字通り"ゴールイン"をことさらに美化してしまうと、この話が元々持っている一種の危うさや、下手すると不快な部分なものがクローズアップされてしまう。
なので、僕は「そこをあんまり強調しない方がいいのにな」と思いながら観てたらどんどんそっちにいくという。
"ジャイ子問題"
例えば、"ジャイ子問題"ってのがありますよ、「ジャイアンの妹だから、ブスだから嫌だ、がさつだから嫌だ」って言うけど・・まず皆さん考えてみてください。歴史改変されてしずかちゃんと結婚しますよね。はっきりしてるのは、ジャイ子とのび太の(改変前の)未来の写真--子沢山の家族だったね・・。--あの子たち全員消されたね。綺麗さっぱり消されちゃった。
"セワシ問題"
消されたって言えば、今回うやむやにされている"セワシ問題"。配偶者が変わっても、子孫は同じのが生まれるって、原作の漫画でもビタイチ納得できない理屈のところなんだけど、今回その説明すら省いちゃってるから、「あれ?おかしくない?」っていうのがずっと続くと思うんですよね。
セワシが今回、ドラに酷いことするじゃん。だから、ドラの復讐なのかとちょっと思っちゃったぐらいですよ。
"ジャイ子を暗い未来のシンボルとして扱っていいのか問題"
で、"ジャイ子問題"で言うと、ジャイ子って結局、その後はフォロー的な設定が付くじゃないですか。漫画の才能があって、実は繊細なとこもあって、別にがさつじゃないわけですよ。逆だよね。
ということは、"ジャイ子を暗い未来のシンボルとして扱っていいのか問題"っていうのがあるわけですよ。ていうか、彼女こそのび太が目指すべき存在なんですよね。
見た目とか他の能力はともかく、一芸に秀でていて、それを伸ばしてプロになって成功するっていうことですよ。
先程"橋P"--この番組の名誉プロデューサ--ーと話してて出てきたんですけど、ジャイ子は、『ふぞろいの林檎たち』の中島唱子的な存在であるべきだと。
(『ふぞろいの林檎たち』の再現)
「お前、いい女だな。」・・実が気付くわけですよ。
で、「私のそういうところ、気づいてくれる優しい人だと思ってた。」
・・この方がよっぽどいい話だよ!!っていうね。
"彼女こそゴールだ"
その一方では、ジャイ子っていうのは、実は魅力的な人であるのに、ジャイ子との結婚が嫌だというところは続いてると。一方では、シリーズが進むごと、あるいはF先生がどんどん修正を入れる度に、しずかちゃん本人はどんどん人間離れした完璧な聖女になってくわけですよ。本作でも、圧縮されてる分そこがすごく顕著になってると。
そもそも、最初にスネ夫とジャイアン登場のときに、しずかちゃんもそこにいるのに、なぜかしずかちゃんだけ顔を見せず、翌日の登場シーンでいきなり顔を見せるっていう、あの演出はなんなの?しずかちゃんだけは特別っていう風にしたいわけ?とにかく"彼女こそゴールだ"という風に、絶対的存在だという風に甚だ置いてるわけです。
話の流れとしてすごく平坦
なので、とにかく話の流れとしてすごく平坦。唯一『たまごの中のしずかちゃん』っていうのが出木杉も出てきますから、のび太のダメ人間ぶりっていうのは正面から見据えてて、ここはエピソードとして入れたのは(チョイスしたのは)さすが!「出木杉立派!」っていう。そこ以外はすごく平坦。
そもそもコミカルなね・・元々は、例えば『しずかちゃんさようなら』で「しずかちゃんと付き合ったら不幸になるから嫌われよう。」っていうのは、のび太の独り相撲、独り合点なわけじゃないですか。「馬鹿かお前は!」っていう。その独り相撲が可笑しくもちょっと哀しいっていう話なのに、これを最初からシリアスな話として、感動的なBGM流して美談として描いてるので、しずかちゃんの英雄的行動とかも逆にあまり際立たないものになっちゃってるし。
皆さん大好き『のび太の結婚前夜』
で、おそらくその全ては、皆さんご存知、皆さん大好き『のび太の結婚前夜』・・僕ちょっと言いたいこともあるエピソードなんだけど--しずかのお父さんが「のび太くんを選んだ君の選択(判断)は正しかったと思うよ。」という"のび太褒め"、僕はこの"のび太褒め"にもすごい言いたいことがあるけどね。「お父さん!のび太ってそんなヤツじゃないっすよ!のび太の良さってそういうことじゃないっすよ!」っていう(笑)。色々言いたいことがあるんだけど、そこに短時間で落とし込んでいくための感じだと思うんですよね。『のび太の結婚前夜』は、渡辺歩さんの感動シリーズでも、ここだけ急にのび太がいい人になっちゃって、ちょっと不自然な感じのエピソードだと思うんだけど。
本来はのび太のダメさをコミカルに描いているような方向だった話
とにかく、本来はのび太のダメさをコミカルに描いているような方向だった話。つまり、のび太の成長の余地に向けて開けた未来っていうのを感じさせてたエピソードを、ことごとくシリアス・感動そしてしずかとの結婚という1点に向けておしすすめるので、何かこう、息苦しい方向に話が向かってく。例えば、今回最大に改変している『雪山のロマンス』という話、まずタイムパラドックスとかに理屈もちょっと納得しづらいし、結局反則技でしずかちゃんにええカッコしいして終わってるって・・「てめえ、そんなこと許されんのか!?」みたいな話になっちゃってる。つまり、どんどんしずかとの結婚っていうゴールに向かって未来が"閉じていく"話になってる。つまり、ドラえもんの出発点に立ち返って、そこから逆算して論理的にゴールを設定すれば、なるほどこういう話にはなるんだけど、ドラえもんの話の本当の魅力は、そこを越えてのび太が成長するというところにあると僕は思うので、だからこそ出木杉くんというキャラの意味もあるわけです。つまり未来は不確定であり、のび太の成長を嫌でも促す存在ってのに意味があるってことなわけですよ。
"成し遂げプログラム"
論理的に話を繋げるために、今回"成し遂げプログラム"っていう、なんとも酷い新設定を付け加えてて・・これも活かし様があったと思います。例えば、ドラえもんが、「しずかちゃんと結婚するのはどうやらのび太くんの幸せらしいから」って最初に決めつけますよね。でも、その決めつけが正しいわけじゃないかもしれないじゃないですか。実はしずかちゃんとのゴールが幸せじゃなくて、自分の足で立って、未来を切り開けるようになって幸せだ、とかさ。つまり、最近のディズニーにも多い"最初に目的だと思ったものは違った"っていう物語構造の方が起伏もあるし。
「そこにしずかちゃんとの結婚は含まれるかもしれないしそうじゃないかもしれないけど、とにかく自分の足で人生を歩む方が幸せなんだ」という閉じた設定じゃなく、開けた結末にすることはいくらでもできたはずなのに・・と。
でも、さっき言ったように、そこは山崎さんと僕の"何がいい話か"ということの見解の根本的な相違、世界に対する考え方の相違がある気がします。
"バックトゥザ・フューチャーごっこ"
そんなことよりも、写真によって歴史が改変した結果がわかるっていう、"バックトゥザ・フューチャーごっこ"がしたかっただけかも。
ごっこといえば、今回、エンドロールで"ピクサーごっこ"、NG集の物凄い雑なコピーみたいなのをやってたりとか、一言言わせてもらうと「面の皮が厚い」という。
お話以外の部分を言いますと、未来描写・・「明るい未来像を子供たちに見せたかった」と山崎監督仰ってますけど、未来の世界、トヨタとパナソニックだらけで、逆にウォーリー的なディストピアにしか見えないっていうね。
そこも含めてですけど、3D表現・・例えばさっき橋Pが言ってた、「タケコプター、実は本当につけたら怖いんじゃないか感」みたいな、そういうのの表現は3DCG化した意味もあるし良かったんじゃないかと思います。
気になるキャラ造形云々
あと気になるのは、キャラ造形云々とかそんなのはいいんだけど、「3DCGです!」を強調したいのか、もしくは適切な表現力がまだ無い為なのか、とにかくやたらとリアル風に陰影をつけすぎて、キャラデザインとか物語のリアリティの世界観との食い合わせが悪い、気持ち悪いってのが、俺すごい全編に渡って気になった。
お芝居とか段取りがくどい、説明的・記号的な描写が多い・・これいつものことですけど、デフォルメされたキャラな分これはいつもより気にならなかった方かもしれない。
ただ、本当にしつこくて垢抜けない説明をフラッシュバック・・特に『さようなら、ドラえもん』の中での、2度繰り返してる「ちゃんとできる?ジャイアンとか出てきてもなんとかできる?」のとこ、あの繰り返しのところとか「ほんとやめろ」って思いながら観てましたけどね。
「皆さん、これお約束だからわかってね」
全体にね、「皆さん、これお約束だからわかってね」みたいな、ちょっと甘えた作りみたいにも感じました。
あと、オムニバス感がすごく強いので、毎回何かがリセットされる感というか、話が前に進まないな感もあったり。
間違いなく1つ言えるのは、基の漫画を読めば、絶対にそっちの方がやっぱりよくできてるし、"ドラ泣き"もよりできるのは確実なんだけど、こういう風に異論・反論をぶつけ合うというのが楽しいタイプの映画だとは思います。僕はこんな風に、費用対効果的には結構、かなり楽しんだ方だと思います。
ただ、先ほどのメールにもあった通り、"ドラ泣き"っていうよりは"心底下品"だとは思います。
ということで、ぜひ劇場でウォッチメンしてください。
<書き起こし終わり>
○○に入る言葉のこたえ
⑦エンドロールがお粗末・・"面の皮が厚い"