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引用:IMDb.com

ジュディ 虹の彼方にのライムスター宇多丸さんの解説レビュー

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2020年05月28日更新
いろんな気持ちが去来する、でも恐ろしい、すさまじい1本でございました。私は本当にもう全編、落涙が止まりませんでした。「ジュディ 虹の彼方に」。ぜひ劇場で、意外と空いてるから!ご覧ください。(TBSラジオ「アフター6ジャンクション」より)

RHYMESTER宇多丸さんが「TBSラジオアフター6ジャンクション」(https://www.tbsradio.jp/a6j/)
で、ルパート・ゴールド監督最新作、大ヒット上映中の「ジュディ 虹の彼方に」のネタバレなし解説レビューを紹介されていましたので書き起こしします。
映画視聴前の前情報として、また、映画を見た後の解説や考察レビューとして是非ご参考ください。

宇多丸さん「ジュディ 虹の彼方に」解説レビューの概要

①「あちら側」と「こちら側」の分断とジュディ・ガーランドの壮絶な子役時代
②エンターテイナーとしてステージに立つ者の苦悩や葛藤
③主演のレネー・ゼルウィガーだけではない、脇を固める名俳優たち
④苦しい中で、それでもなお、ジュディ・ガーランドがパフォーマンスをやめなかったのはなぜか?
⑤「Over the Rainbow」は「○○」の象徴でもあり、「○○」の象徴でもある

※○○の中に入る文章は、この記事の1番最後で公開しています。
「TBSラジオアフター6ジャンクション」でラジオ音源を聞いて頂くか、書き起こし全文をご覧頂くか、この記事の1番最後を見て頂く事で判明します。

映画「ジュディ 虹の彼方に」宇多丸さんの評価とは

(宇多丸)
さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。今夜扱うのは、この作品「ジュディ 虹の彼方に」!

「オズの魔法使い」で知られるミュージカル女優ジュディ・ガーランドの晩年を映画化した伝記ドラマ。ジュディが47歳の若さでこの世を去る半年前に行なったロンドン公演の舞台裏を通して、彼女の苦悩や葛藤を描く。ジュディ・ガーランドを演じたレネー・ゼルウィガーは、「第92回アカデミー賞」や「ゴールデングローブ賞」などで「主演女優賞」を受賞。共演はテレビドラマ「チェルノブイリ」のジェシー・バックリーや「ダークシティ」のルーファス・シーウェルなど。監督は「トゥルー・ストーリー」などの、元々、舞台畑というか演劇畑の方なんですけども、ルパート・グールドさんということでございます。

ということで、この「ジュディ 虹の彼方に」を観たよ、というリスナーの皆さま、ムービーウォッチメンの皆さんからの監視報告をメールでいただいております、感想ね。メールの量は、まあこれ新型コロナウィルスの影響も確実にあるんでしょう、残念ながら「少なめ」でございます。ただ、賛否の比率は、「褒め」が8割以上。

褒めてる人の主な意見は、

・痛々しい私生活と少女時代、そしてステージでの華やかなパフォーマンスから目が離せなかった。
・ラストのステージではただただ涙。
・レネー・ゼルウィガーの演技が圧巻だった。

などなどがございました。一方、主な否定的な意見は、

・ジュディ本人の背景がよく分からず、あまり感情移入できなかった。
・少女時代と現在とがあまりうまくつながっていない。ただ歌の力で盛り上がってるだけ。

などのご意見がございました。

代表的なところをご紹介しましょう。

引用:IMDb.com

映画「ジュディ 虹の彼方に」を鑑賞した一般の方の感想

*でももだってもデルモンテさん
上映中、「誰かあふれんばかりの愛情をジュディ・ガーランドに注いでくれ!」と願わずにはいられませんでした。薬物をはじめ、様々な形で搾取され、支配された幼少期。晩年は身体がボロボロ。痩せ細り、結婚指輪もブカブカ。首が前に出てしまうほど実年齢よりも老いたジュディの姿が痛々しかった。それでもスターと呼ぶべきステージでの彼女の圧倒的なパフォーマンスに嗚咽しそうになるほど涙が出ました。あやうさとまばゆさのどちらもレネー・ゼルウィガーは素晴らしいパワーで演じています。人の心を満たすのはやはり愛。最後に彼女が観客たちの間に感じたものが愛で、少し救われました。

(宇多丸)
という意見。一方でダメだったという方。

「ジュディ 虹の彼方に」批判的な意見

*マエダナオキさん
レネー・ゼルウィガーの名演を生かし切れない駄作。50点。どちらかというと否定。肝心の話の内容が面白くもなく、非常に残念な作品だなと思いました。少女時代と現在だけでなぜ、今の彼女がいるかがわかりづらいし、歌の盛り上がりがなく、同様の伝記映画の「ボヘミアン・ラプソディ」と雲泥の差があると思います。

(宇多丸)
というようなことをいろいろ書いていただいております。ありがとうございます。

引用:IMDb.com

「ジュディ 虹の彼方に」鑑賞した宇多丸さんの解説

といったあたりで「ジュディ 虹の彼方に」、私もTOHOシネマズ六本木で2回観てまいりました。やはり新型コロナウィルスの影響で、六本木の映画館そのものは、明らかにいつもよりはガラガラぎみだったんですけど、ただ「ジュディ」の上映回、上映するスクリーンに入ってみると、まあ平日の昼だったらこんぐらいかな?っていう程度には、いつも通りぐらいには入っていた、という印象でございます。

ジュディ・ガーランド

ということで、ジュディ・ガーランド。もちろん、言うまでもなく、少女時代は「オズの魔法使い」、1939年ですよ、ドロシー役から始まって、例えば「若草の頃」であるとか、「イースター・パレード」であるとか。あるいは後年、復活をかけた一作「スタア誕生」、1954年。これ実はリメイクなんですけど、1954年の「スタア誕生」。レディ・ガガ主演の「スター誕生」、あれが4度目の映画化版で、僕は2019年1月4日にこれは評しました。あれも素晴らしかったですけど。あと「ニュールンベルグ裁判」とか、1961年の作品。などで知られる大スタージュディ・ガーランドですけども。これたぶんキャリアが戦争を挟んでることもあって、日本では、主に子役時代というか少女期の全盛期の未公開作っていうのが結構多いという。それに対して、特に英米では、やはり本当に史上最高のエンターテイナーとして、絶大な人気・評価を誇ってる、スター中のスター。歌手活動とかも、すごく評価されたりというのもあって。

引用:IMDb.com

同性愛に対する差別

あと、まだまだ同性愛に対する差別が非常に強くあった。イギリスなんかでは、違法で捕まっちゃったりなんかしていた、これ劇中でも出てきましたけど。その60年代から、例えば自分にゲイのファンが多かった、当時から。で、そのゲイのファンに対して非常に理解ある発言をしていたことなどから、LGBTQのアイコン的存在として愛され続けている、というのでも非常に有名な方です。

で、その背景には、お父さんがゲイだったと。で、そのお父さんに寄り添いたかったというようなことがある、というような話があります。一方で、お母さんは非常に苛烈なステージママで。今回の劇中でも描かれていましたけど。映画会社の、数々のミュージカルの名作を生み出したMGM、それのプロデューサー、ルイス・B・メイヤー。これ、今回のを観るとちょっともう、ハリウッド全盛期のミュージカル、ちょっと観るのが複雑な気持ちになってきちゃいますけど。彼らの言うがままに、痩せ薬として当時与えられていたアンフェタミン、要するに覚醒剤です。で、覚醒剤を与えてるんで、食事はしない代わりに寝れなくなっちゃった。そうすると寝れなくなるっていうんで、「じゃあ、これ飲みなさい」っつって睡眠薬。これをドバドバドバドバ飲ませていた。娘である、本名はフランシスなんですが、ジュディ・ガーランドに与え続けていたという親。劇中に出てくるあの人を、皆さん、マネージャーとかと勘違いされるかもしれませんが、あれ、お母さんですから!っていう。

人権的な配慮というのが、全くない

そんな感じで、演者、しかも未成年に対する人権的な配慮というのが、全くない。どころか、これも劇中でも描かれていました、ハラスメントとマインドコントロールがセットになったような環境というのが、当たり前のようにあった。そして、それが彼女の心身を蝕んでいき、後年、彼女のキャリア・人生を破壊していくという。そのあたりの、あまりにもひどすぎる事情というのが実際あって。

これに関しては、僕も今回初めて知ることが多かったんですけど。雑誌の「ELLE」の、これはウェブ版で読めるやつですかね。タイトルが「わがまま薬物降板女優ジュディ・ガーランドをクスリと仕事漬けにした毒母」という記事で。要するに、彼女はなぜそういう「わがまま薬物降板女優」なんて言い方をされるようになってしまったのか、彼女は被害者なんだ、っていうことを書いた記事が、ウェブで「ELLE」で読めますので。ぜひ今回の「ジュディ」鑑賞の補助線として、ぜひ見ていただきたいなという。今回の「ジュディ」はそのへんを、かなりほのめかす程度にとどめているところもあったりするので。補助線にしていただきたいなと思ったりするんですけれど。

引用:IMDb.com

根っからのエンターテイナー

その一方で、同時に、彼女は間違いなく稀代の、そして根っからのエンターテイナーでもあって。どれだけボロボロになろうとも、オーバードーズによって死んでしまうその直前まで、ステージで観客を楽しませようとしていた人でもあると。つまり、エンターテインメントの闇の部分、もう非人間的ですらある側面と、それでもやっぱり人というのが生きる限り、これは演者側もそうですし、それを受け取る側っていうのも切実に必要としている「恵み」としてのエンターテインメント。その両面が、不可分に、表裏一体のものとしてある存在という、まさにザッツ・エンターテインメント、良くも悪くもザッツ・エンターテインメントな存在として、晩年のジュディ・ガーランドというのを切り取ってみせる。まずはそういう作品と言っていいと思います、今回の「ジュディ」というのは。

元々は「End of the Rainbow」っていう舞台劇。これ、「キネマ旬報」の生井英考さんという方の文によれば、今回の映画版でも中盤に出てくる、「『ゲイのアイコン』という異名を持つガーランドが、ロンドンの片隅でひっそり暮らすゲイカップルと過ごした心温まる一夜を主軸に描いている」という、この生井さんの文章で、元の舞台はこういうことらしいんです。というのが舞台で。だから他の部分は割と実話ベースに膨らましていったというのが今回の「ジュディ」という映画なんですけど。

ルパート・グールド監督

で、監督してるルパート・グールドさん。映画監督としては、ジェームズ・フランコとジョナ・ヒル主演の、あれも実話ベースの「トゥルー・ストーリー」という2015年の作品とか撮ってる人ですけど。もともとは演劇界でめちゃめちゃ活躍されてきた方なので、こういうステージ、もしくはバックステージものというか、まさに自分のフィールドって感じでしょうし。映画としても、奇をてらった、なんかすごく変わった新しいことをしているとかじゃないんだけど、非常に的確に、ツボを押さえた演出をしっかりしている、というふうに思います。

引用:IMDb.com

オープニングから秀逸

まずこの映画、オープニングからして非常に秀逸だなというふうに思いました。まず、ダーシー・ショーさんという方が演じる少女時代のジュディです。最初、顔正面のアップで、こちら側、つまり観客側を見据えてるわけです。これ、ちなみにラストショットも、今度はレネー・ゼルウィガー演じる晩年のジュディが、観客側、こっちを見ているというとこで終わりますけど。対になってるわけなんですけど。こっちを見ているわけです。で、その顔のアップ。で、外側から聞こえる男の声が、とにかくあちら側、あちら側っていうのはつまり我々側なんですけども、スクリーンを挟んで彼女たちを眺めている我々観客側、一般社会側と言ってもいいでしょう、とにかく映画を観に来るような普通の人々の側と、その映画をつくる・幻想を提供するこちら側、つまりお前やワシとは、あっちは違う世界の住人なんだぞと。そして、こちら側の人間でいたければ、つまり多くの人に愛されたければ、人並みの幸せなど忘れて俺の言うことを聞けと。それが嫌なら、どうぞあっち側の普通の世界で人々に埋もれて暮らすがいいよというふうに、この少女に対する、例えば容姿に対するコンプレックスなども絶妙に刺激しつつ、問答無用な圧をもって、実のところ、要は服従を誓わせようとしているわけです。

非常に卑劣な服従を誓わせようとしている

その後の部分でも、「ありがとうは?ありがとうって言いなさい」みたいなことを言って。「自分で選んだよね?」なんてことを言って。非常に卑劣な服従を誓わせようとしている。これ、リチャード・コーデリーさんという方が演じている、ルイス・B・メイヤーという実在の人物。もちろん皆さんご存知、MGMのメイヤーです。黄金期を築いた大プロデューサー。なんですが、同時に、劇中の描写としてはあくまでもほのめかす程度にとどめていますが、でも明らかにこの少女に対して、一線を越えた距離感で支配しようとしている。つまり、古き悪しきというか、ワインスタインから今に至るまで、やっぱり残念ながら連綿と続いてしまっているかもしれない、エンターテインメント界の悪しき本質。

例えば、非常にセクシャルハラスメントっていうか、もはやもう性暴力体質であるとか、男権的な体質であるとかっていうのを体現するような存在として、本作では描かれている。本作ではほのめかす程度です。でも明らかに変でしょこれ!っていう。あと、言っていることの醜悪さっていうことが、非常に浮かび上がるようにはっきり描かれてます。というのは、先ほどの「ELLE」の記事にもあったような、本当にもう許しがたいひどい事実というのが過去にあったからっていうことです。

引用:IMDb.com

「オズの魔法使い」のドロシー役を手にすることになるというこの冒頭

で、しかも最初、スクリーンのこちら側を見つめていた少女時代のジュディが、彼に導かれるように歩いていくその場所は、他ならぬ「オズの魔法使い」のセット、「イエロー・ブリック・ロード」の上なんですよ!夢をかなえるために歩いていく「黄色いレンガ」の上を彼女は歩いて行く。しかもそれは作り物のセットなんだけど。かくして、我々から見れば「あちら側の世界」に踏み込むことになっていく彼女っていうのが、それ本当に史実通り、当時の人気子役であるシャーリー・テンプルを押しのけて「オズの魔法使い」のドロシー役を手にすることになるというこの冒頭、アバンタイトルだけで、彼女を生涯抑圧し苦しめてきたものの本質、あるいは、分断された「あちら側」と「こちら側」、つまり「演じ手」と「受け手側」、これがつまりラストに至って、その分断が解消されるというところに至る話、というふうな言い方もできるかもしれない。少なくとも、というような構造とか。しかも彼女のキャリアの説明にもなってるわけです。

ということで、端的にそれが全部、このアバンタイトルに集約されてるっていうことで。非常にルパート・グールド監督、たしかな腕を持ってるな、というオープニングタイトルでございました。

1960年代現在のジュディ・ガーランド

そこから一気に時代飛んで、1960年代現在のジュディ・ガーランドの話になって。ここからレネー・ゼルウィガーが演じるわけです。2人の子供を抱えつつ、金なし・家なしで困っているという。で、彼女のまた生い立ちを知ってると、まだ幼い子供たちを舞台に上げて日銭を稼ぐというのは、さっき言った非常に苛烈なステージママとなっていったお母さんの代から、脈々と繰り返していることをまた繰り返してるということでもあって。ここは史実を知っているとさらに「ああ、痛々しい」というところでもあったりするんですけど。

ともあれ、背に腹は代えられないってことで、ルーファス・シーウェルさん演じる元夫シド・ラフトさんという方、「スタア誕生」のプロデューサーでもあって。あるいはジュディの音楽活動の後押しもしたりなんかして、彼女の5人いる夫の中では、一番いい人だったんじゃないかというような、シド・ラフトさんなんですけど。に、子供を預けて、差し当たってその子供たちと住める家を確保するために、つまり子供たちと一緒にいるためにこそ、子供たちと離れてお金を稼ぎにロンドン公演へ行き。ゆえに、子供たちと離れているからこそ、どんどん精神が不安定になっていってしまうという。で、ここ、滞在中、彼女のマネージャー的な諸々を仕切るロザリン・ワイルダーさんという実在の女性、これを演じるジェシー・バックリーさんとか。あと、バンドマスターのバートというのを演じるロイス・ピアソンさんとか。要は、ジュディ・ガーランドという大スターはもちろんリスペクトしつつ、その情緒不安定な振る舞いにはもうひたすら戸惑い、振り回され。それでもできるだけはサポートしようとすることは諦めない、その周囲の、言ってみれば善意の常識人たち。その距離感、それを表わす受けの芝居の彼らの上手さ。それが示す距離感みたいなのが、映画としての緊張感とか人間味、つまり彼らに見捨てられたら終わりだぞとか、あるいはその彼らが見捨てないことによる人間味とかを、きっちり高めてて。実はこの2人とかが、何げにめちゃめちゃいい仕事してるな、というふうに思ったりしました。

引用:IMDb.com

ジュディ・ガーランドの言動が不安定な理由

もちろん、さっき言ったように、ジュディ・ガーランドの言動が不安定なのは理由があるわけです。周囲の大人たちに、先ほどのメールもあった通り、一方的に抑圧され、搾取され、利用され尽くし、心身ともにボロボロになってしまった人生という、そういう理由があって、ということです。つまり彼女の現状、要するに傍から見れば「お騒がせ・困った女優」。いますよね、今でもそういう扱い。例えば我々ワイドショーとかで、「お騒がせ困った女優」みたいなことを表面的にレッテル貼って済ましたりしますけど、それと、やっぱり育ち・過去というのは不可分なものであるということが、随所でフラッシュバックされるということです。

例えば、40代のジュディが、ちょっと、後に結婚するチャーリーといい仲になると、かつて奪われた少女時代には少女らしい恋心さえ奪われていた、予め奪われていた、というところにフラッシュバックする。ちゃんと紐付いてフラッシュバックするわけです。で、徐々に「ああ、彼女はやっぱり理由があってこうなってるんだ」っていう。しかもそれは、エンターテインメントというものがずっと彼女に押し付けてきたものなんだ、ってことが明らかになっていく。で、ここも非常に上手いところなんですが、全体がロンドン公演の日々でできてるわけですけど、そのロンドン公演の初日、最初の第一声を彼女が発するところまで、観客にはジュディ・ガーランド、つまりそれを演じるレネー・ゼルウィガーが歌うところを、あえて一切聞かせないようにしている。歌ってる場面でも歌声はオフにしたりとか、歌いそうで歌い出さなかったりとか、っていうことで、あえて見せないようにしている。なので、目線としては観客は、さっき言ったロザリンとかバートと、完全に一致するわけです。歌ってるところをまだ見てないから。「かつて大スターだったのは分かるけど、今のお前は本当に大丈夫か?」っていうふうに、当然これがサスペンス的なハラハラというのを、非常に盛り上げる効果になっている。

非常に盛り上げる効果

と同時に、個人的には、もちろんジュディ・ガーランドと並べて語るようなものでは全くない。ジュディ・ガーランドと比べれば、便所虫がしたフンぐらいの感じなんですけども、私なんかは。一応、ステージに上がってパフォーマンスする、そういうもので生業を立てている者の端くれとして、あのステージが近付くにつれてやってくる、迫りくる不安や孤独という。いくら練習を重ねても、いくら過去にはできていても、もう歳も取ったし、今日の俺はできないかもしれないっていう、あの不安。そしてそれを、ステージに立ってしまえば誰も助けることもできない、というこの孤独。

なんだけど、一旦ステージに上がってしまえば、「ああ、できる!これだ、これなんだ!」っていうこの感覚。そして、そのステージが終わった後の、ステージで「ワーッ!」って盛り上がって、パッとカットが変わった後の、あの虚脱と、やっぱり襲ってくる孤独のようなもの。少なくとも僕はステージを生業にして31年、その一端はやっぱりちょっと人よりは切実に感じたかな、というところで。もうその1個1個にちょっと「ううう」ってなりました、僕は。あと「今日こそはダメかも」みたいな感じとか。あと「よかったですよ」って言われても、「うん、明日は分からない」みたいな。

引用:IMDb.com

レネー・ゼルウィガーの完コピ演技

ともあれ、このレネー・ゼルウィガー。ジュディ・ガーランド特有の、グニャッとした、こう後ろ方向に背中が曲がったような姿勢とか、あと神経質そうな目線の動かし方とか、ちょっと首を振るようなしゃべり方とか、貧乏ゆすりとかも含めて、完コピしてて。で、その背中が曲がったような姿勢が、普段はいかにもヨタったような、40代後半という歳の割には老いてしまったな、という感じがするような印象を与える姿勢なんだけども、それが、さっき言ったロザリンというロンドンでのマネージャー的な女性にグッと押し出されるようにステージに出た瞬間に、カメラがステージ側にパッと移ると、そのヨタった姿勢が、スターならではの貫禄のポーズに変わるんです。余裕のポーズに。

で、ここから満を持して、レネー・ゼルウィガー演じるジュディ・ガーランドが、歌い始めるわけですけど。ここは、レネー・ゼルウィガー、1年間のトレーニングを積んだという歌唱とパフォーマンス、そのリアルな高まりのカーブを観る者に体感させるべく、これはさすが、ルパート・グールド監督は分かってらっしゃる。最後、歌いきってバッと身体を伏せるあの決めポーズに入るまで、カメラはグーッといろいろダイナミックに動くんですけど、カットを割らずにちゃんと見せているわけです。

歌唱シーン

しかも、これはもう全歌唱シーンに言えることですけど、歌詞の内容が、その時その時のジュディの心情や状況をそのまま代弁するような、シンクロするようにもなっていて、さらにこの場面のエモーションが倍増するという。なので毎回「彼女はこの歌詞をどんな気持ちで歌ってるんだ?」って思うだけで、もう、泣けて泣けてしようがない、っていう感じになってくる。

特に、個人的にグッときてしまうのは、やはり、さっきからしつこいようですけど、すいません、同じくと言うのはおこがましいですが、長年ステージ上で客前に立つというのを生業にしてきた身として、客席が味方に思えない、敵対的な人たちばかりに囲まれてるように感じてしまう、という恐怖。それで投げやりになってしまう気持ちとか、すごいもう泣きたくなるほどわかる!っていう感じで。まあダメなんだけど、めっちゃダメなんだけど。もっと言えば、僕らは、ちゃんとやりますけどもちろん。リハーサルしないで臨むとか論外なんですけど。だからそういう意味では、ジュディ・ガーランドに感情移入しつつ、大先輩なんだけど、「マジダメだから!」みたいな。「甘ったれてんじゃねえよ!」みたいに思うところも両方あるんですけど。

ただ、それでもなお、パフォーマンス・表現を彼女がやめないのはなぜか。だって最後、もう全てを失ってなお、もう1回、ノーギャラです、なんにもないのにやるっていう。それはなぜかといえば、それはやっぱり、元の舞台版ではメインだったという、劇中でゲイのカップルに象徴されているわけです。あれはひとつの象徴なわけです。つまり、こんな自分でも、見知らぬ誰かの人生に寄り添ったり、時には救いにもなったりもしたことも、そういうこともあり得るんだなっていう。その微かな可能性、微かな希望、そこに賭けてるだけです。

引用:IMDb.com

Come Rain Or Come Shine

なので、最後の例えば舞台上で、心情とのシンクロという意味では、まず「Come Rain Or Come Shine」という「晴れてる日も雨の日もあなたのことを愛すわ」、つまりこの「あなた」というのは、あの場面では観客への無償、とにかくあなた方に無償で寄り添いたいんだ、という宣言であり。そして、そこから歌われるラスト。まさにまさにこれぞ満を持して、という感じで歌い出される、「Over the Rainbow(虹の彼方に)」です。劇中2回「Over the Rainbow」がほのめかされるところがあるんだけど、「ついに来た!」という感じで来る。そしてその劇場での顛末。これはぜひ劇場で観ていただきたいですけど。あれ実際にあったこと、ああいうことがあったらしいです。ロンドンのあれではないんだけど、他のところでああいうことがあったらしいんですけど。ひとえにその、エンターテインメントの存在意義、その可能性に、それでも賭けたいじゃないかっていう、微かな希望の歌として響く。ただし、先ほど言った通り、冒頭でも示された通り、でも同時にこの「Over the Rainbow」および「オズの魔法使い」っていうのは、彼女の人生を呪ってきたものの「象徴」でもあるわけじゃないですか。オープニングと対で考えるならば。つまり、単なるきれいごとではないわけです。やっぱり、きれいなことを歌ってるきれいな歌だけど、呪われた歌でもある、彼女にとっては。この、物事の重層性、世界というものの複雑さというのを含む、というところも本当に素晴らしいバランスだというふうに思います。

本当に胸に、魂に響く歌唱だったと思います。もちろんそれを成り立たせているのが、レネー・ゼルウィガーという、才能と人気に恵まれながら、アカデミー賞なんかも取りながらガンガン、一時はキャリアの危機にも陥ったというその俳優が、全身全霊で、自分が生まれた年に死んだ大スターの生涯を受け止めシンクロしようという、本当に鬼気迫るような気合いの演技そのものともシンクロする。だから、レネー・ゼルウィガーのそのシンクロというのも、こちらと重なるわけです。

アカデミー主演女優賞

なおかつ、それでアカデミー主演女優賞を取ったわけでしょう。ジュディ・ガーランドは、「スタア誕生」でアカデミー主演女優賞をなぜか、概ねの下馬評から外れてグレイス・ケリーに持ってかれて、それでまた人生どんどんおかしなことになってちゃうんだけど。それをついに、ジュディ・ガーランドのこの役で獲ったということで、これはもちろん、レネー・ゼルウィガーが「あなたの賞よ」って言った、ジュディ・ガーランドが獲ったということでもあるし、ハリウッド側の「贖罪」でもあるというようなふうにも取れる、というような感じだと思います。

ということで、非常に、ロンドン公演という最後の晩年のそこがメインとなっているので、実は意外と地味な1本ではあるんです。だし、奇をてらったような、変わったようなことをやっているような映画じゃないんですけど、ただ、伝えようとしていることは非常に複雑。ハリウッド、エンターテインメントの暗黒面と、エンターテインメントの尊さ、意義みたいなものが、非常に重層的に語られたバランスだったと思います。あるいは皆さんこれを観た後は、やっぱり人前に立つ人、いろんなこと言われる人いますけど、ちょっとだけ優しい気持ちで見るっていうのもね。とかいろいろ、いろんな面あります。でも恐ろしい面もあるし。

というこんな感じで、いろんな気持ちが去来する、でも恐ろしい、すさまじい1本でございました。私は本当にもう全編、落涙が止まりませんでした。「ジュディ 虹の彼方に」。ぜひ劇場で、意外と空いてるから!ご覧ください。

書き起こし終わり。

○○に入る言葉の答え

「⑤『Over the Rainbow』は『微かな希望』の象徴でもあり、『彼女の人生の呪い』の象徴でもある」でした!

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