ジョーカーのライムスター宇多丸さんの解説レビュー
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RHYMESTER宇多丸さんがTBSラジオ「アフター6ジャンクション」(https://www.tbsradio.jp/a6j/)
で、トッド・フィリップス監督のアメリカンコミックを代表するヴィランの誕生秘話を描いた映画「ジョーカー」のネタバレなし解説レビューを紹介されていましたので書き起こしします。
映画視聴前の前情報として、また、映画を見た後の解説や考察レビューとして是非ご参考ください。
宇多丸さん 「ジョーカー」 解説レビューの概要
①メールの量は今年最多
②賛否の比率は褒めが○割
②色々な事を感じさせられる、見る人によって感想が変わる素晴らしい1本
③ヒース・レジャーのイメージが強烈!
④悲劇的、そして喜劇的でもある
※○○の中に入る文章は、この記事の1番最後で公開しています。
TBSラジオ「アフター6ジャンクション」でラジオ音源を聞いて頂くか、書き起こし全文をご覧頂くか、この記事の1番最後を見て頂 く事で判明します。
(宇多丸)
さぁここからは、私、宇多丸がランダムに決めた最新映画を自腹で鑑賞し評論する週間映画時評「ムービーウォッチメン。」
今夜扱うのはこの作品!「ジョーカー」
アメリカンコミックを代表するヴィラン。まぁつまり悪役ですね。
ジョーカーの誕生秘話をオリジナルストーリーで描く。
後にジョーカーとなる主人公のアーサーをホアキン・フェニックスが熱演!
監督は「ハングオーバー!」シリーズ等のトッド・フィリップス。
第79回ベネチア国際映画祭で、DCコミックスの映画化作品として史上初めて最高賞の金獅子賞を受賞・・・というか、アメコミ原作としては間違いなく初めてじゃないですか?
ですよね。だと思います。
ということで、もうこの「ジョーカー」をもう見たよというリスナーの皆様からの、ウォッチメンからの監視報告を、メールで頂いております、ありがとうございます。
メールの量は、とても多い。
ダントツで今年最多ということでございます。なんて言うんですかね?もちろんアメコミ映画として観に行く人あり。そしてもうやっぱり映画として、単体の映画としての評価も高いですから、普通に映画ファンも行く。など諸々みたいな感じで、全方位的に見に行くタイプの映画っていう事はあるかも知れませんよね。
JOKER(ジョーカー)を見た一般の方の感想
賛否の比率は褒めが9割。絶賛評多しということでございます。褒めている人の主な意見は、
・すごい映画を見た。
・今もずっと余韻を引きずっている。
・どこまでが本当でどこまでが嘘かわからない。あるいは全部がジョークなのか。曖昧な描き方がとても上手い。
・ジョーカーのような存在を望む我々の願望もきちんと捉えている。とても現代的な映画。
・ホアキン・フェニックスが凄すぎる!
などの意見がございました。
否定的な意見としては、
・理解不能なところがジョーカーの良さだったのに、この映画ではジョーカーに感情移入出来てしまう、こんなのジョーカーじゃない!
などがありました。
ということで代表的なところをご紹介しましょう。
ラジオネーム、深夜高速さん。
*深夜高速さん。
「スーサイド・スクワッド」や「ヴェノム」といったフィクションがもう一歩の出来であったのと対照的に、リアルでは世界一の権力者がトランプ氏という完成度の高いディストピアであり、現実が創作を追い越してしまっている2.5次元ワールドにおいて、どんな物語が提供出来るのか楽しみにしていましたが、今作は予想以上でした。
主役であるジョーカーはトランプ政権を誕生させた、ラストベルトの白人を表しているようで、資本主義に意義を唱えるウォール街の選挙運動の象徴にも見え、また非モテをこじらせたインセル。
これはあのー、involuntary celibate、不本意の禁欲者というね、直訳するとあれなんですけど、インセル、まぁだから非モテをこじらせてこうなんかなっていうインセルの側面もあり、それらの怒りが銃によって発散されるというのも、もはや日常化してしまったアメリカにおける銃乱射事件を思い起こさせるものです。
さらに現在進行中の香港での抗議活動に行政側が、マスク禁止という手段を取った事などは、映画製作者の意図を超えて劇中おいてピエロのお面をしてる大衆達とも重なりました。
ジョーカーという悪が、バットマンという善と同根であると示唆しておきながら、それは妄想の産物に過ぎないと否定し、見る者によっていくつにも解釈できてしまう多層的な意味を盛り込んでおきながら、決して破綻はしておらず一貫性のある熱演と物語はまさしくこのディストピアな今現在だからこそ作られるべき作品だと思わされました。
というね。ありがとうございました。
一方イマイチだった方、オカヤドカリさん。
*オカヤドカリさん。
「ジョーカー」をウォッチして参りました。
感想としては求めていたものと違うという感じです。
私はバットマンシリーズは素人で、作品もノーランの3部作しか見ておりません。
その素人としては、やはり「ダークナイト」のジョーカーが見たいという期待を込めて映画館に行ったのです。
ですので、この「ジョーカー」という映画は物足りなく感じてしまいました。
これは作り手の意図した所でもあるでしょうが、ジョーカーが悪人に見えないという箇所が私にはやはり引っかかりました。
えぇ、一人の男がジョーカーというダークヒーローに変貌するまでを描きますが、ジョーカーになる前となった後でそれほど大きく変化したように見えないのです。
私としては、『ジョーカーに落ちた』という姿を見たかったのですが、ジョーカーとなってからもそれほど悪い事をしてないように見えてしまう。
まぁあの、殺人とかもしてるけども、理由がちゃんとあるように見える。
カタルシスを感じさせてくれるような場面が展開がもっと欲しかったです。
正直『ジョーカーもっと悪いこと、美しいことをやってくれよ!全然物足りないよ。』と思ってしまいました。
はい、やはりジョーカーという超越的な存在を人間的に描く事の食い合わせが目立ってしまう作品だったと思います。
まぁこれは要するにヒース・レジャーのジョーカー像が強烈過ぎたというところがあるかもしません。
宇多丸さんがJOKERを見に行った結果
はい、というところで、「ジョーカー」は私もバルト9とTOHOシネマズ日比谷で見て参りました。
特にバルト9の方が連休最終日だったって事もありますけど、深夜回だったにも関わらずですね、とにかくお客が後から後から、要するに普段あんまり映画館に行き付けてないのかなっていう感じの、始まってからもずーっと15分くらいは入場が絶えないという感じで後から後から、とにかくもうすごく入ってましたね。
えぇ、アメコミのね、しかもそれもそのヴィラン、悪役の単独映画が一般層まで巻き込んで大ヒットという、これは、10年以上前だったらちょっと考えづらかった状況だと思うんですけども、それを成り立たせている背景の一つとして、これやっぱりね、そのまず「ジョーカー」というブランド。で、その「ジョーカー」というブランドが何であるかといえば、それは先ほど言いました、間違いなくご存知2008年「ダークナイト」でのヒース・レジャーの本当に歴史的な名演よって強烈に印象づけられたジョーカー像っていうのを、まず前提としちゃうと思うんです。
ダークナイトのジョーカー像
やっぱり「ダークナイト」のジョーカーが凄かったから、じゃあ「ジョーカー」単体も見に行きたいという気持ちが、皆さん普通の一般層にも浸透しているというのはあると思います。
えぇ、でまぁ、それだけにですね、まぁ誰もが認める圧倒的なそのヒースレジャー版「ジョーカー」というのがある訳だから、あまりにもその高いハードルがあるわけですね。
その前にですね、改めてこのスーパーヴィランの誕生譚、バックストーリーも先ほどメールにもね、あった通り、あの確かにヒース・レジャー版の「ジョーカー」は、そのなんていうか、その向こう側が全く見えないっていうね、感じが理由無き存在である感じというかね、そこが本当に面白かったし、怖かったしと言ったところなので、そのバックストーリーを語り直すって中々ちょっとリスキーな試みでもあるように今、僕個人も、えぇ、見る前はやっぱり思ってましたと。
やっぱりヒース・レジャーの後のジョーカー役は難しいというのは「スーサイド・スクワッド」のジャレッド・レトがもうね、無かった事にされつつある、というあたりからも分かるという感じだと思いますが。
えぇ、ですが今回のまぁその「ジョーカー」、コミックの原点としてはですね、アラン・ムーア、そしてね、絵はブライアン・ボランドさんが書いてます、1988年の名作「キングジョーク」。もうこれを明らかにベースにしている。
でもしつつもですね、あくまで単独の映画作品として、つまりMCU、マーベルシネマティックユニバースの成功以降のいわゆるユニバース的な、リンクがしてますよ、とか、ドラマシリーズ的なリンク、「これは次に繋がっていく全体像の中の一つでもありますよ。」みたいなリンクとかあるいは、まぁやっぱりファンムービー的な方向ですよね。
「エンドゲーム」は本当にその色が強い作品でしたけど、えぇ、まぁファンが喜ぶ、ファンへの目配せ。あるいはね、その、「原作のこの部分とこの部分とこの部分を上手くアレンジしてこうやってやった方がオタクも納得!」みたいな、そういうファンムービー的な方向性とは異なる。
むしろそういう意味で言えばですね、はっきりそこには背を向けている。
まぁ、一種の反時代的なと言いましょうか、言ってみれば、かつてあったような映画らしい映画として作り上げられている。今回のジョーカーは。
宇多丸さんのジョーカーの支持は・・
でまぁ、いろんな意見、えぇ、まぁ出ているようですけど、先にちょっと結論から言うならば、個人の僕は全面支持ですね。
今回ね、はい、一つはちょっと個人的なの趣味嗜好の件も絡んでくるんで、そのあたりもちゃんと切り分けながら話しますけど、個人的にはですね開幕数分間までデカイ黄色い字でタイトル、「ジョーカー」って、どーん!って出るまでの時点でですね、数分で完全にもう抵抗不能状態です。こんなの抵抗できるわけがないって感じに落ちました。
というのもですね、これ完全にこれ僕個人の好みの問題でもある話でもあるんですけども、僕以前からですね、えぇ、70年代、まぁだいたい半ばぐらい70年代いっぱいぐらいから80年代初頭にかけての超治安が悪かった頃のニューヨークが映っている映画が大好物という風に公言している訳です。
これこの時代感というのは、要はアメリカニューシネマ後期から末期にかけてであると同時に、完全にヒップホップ黎明期のニューヨークなんですね。
はい、まぁこれ後付けでもありますけど、やっぱその時代のニューヨークの風景とか文化みたいなすごい好きだってのもあるんですけど
はい、えぇ・・・でもその70年代から80年代初頭の超治安が悪かった頃のニューヨークが映ってる映画が大好物というふうに公言してる私にとってはですね、今回の「ジョーカー」、まさしくその時代そのものを描こうとしている。
1981年のニューヨークを思わせるゴッサムシティ、およびその時代の映画たちを再現しようとしている作品
映画館でかかってる作品、まぁそのブライアン・デ・パルマの「ミッドナイトクロス」とか、後はジョージ・ハミルトン主演の「ゾロ」とかがかかってたんで、具体的にな1981年です。
1981年のニューヨークという設定、ニューヨークと言えば、ゴッサムなんだけども、明らかニューヨークですよ。
えぇ、とにかく僕が言っているような、まさしくその時代の1981年のニューヨークを思わせるゴッサムシティ、およびその時代の映画たちを再現しようとしている作品である、ということがもう、開幕早々わかるわけですね。
はい、えぇ、まぁ要は同じ「俺と同じような映画が好きな奴が作った映画だー!」ってのが開幕数分でわかっちゃうと。
もうビンビンに来る!っていう感じですよね。
はい、えぇ・・・という感じだと思います。
で、あ、ね、最初のもういきなりのワーナーのマークからしてね、あの70年代のね、ワーナーのマークが出ますし。
えぇ、特にやはりね、えぇ、マーティン・スコセッシの「タクシードライバー」、1976年さらにはスコセッシ同じスコセッシで、「キング・オブ・コメディ」1982年「キング・オブ・コメディ」は非常に色が濃いと思います。
あのラストに向かうにつれて、だんだんその虚実と言いましょうか、何が現実で妄想かがだんだん境目がわからなくなってくる感じも、「キング・オブ・コメディ」っぽいです凄く。
はい、えぇ、ロバート・デ・ニーロのキャスティングからしても、これは露骨な程ね、スコセッシオマージュ、というのはありますし。
えぇ、あと例えば地下鉄内でね、後にジョーカーとなる今回の主人公、アーサー・フレックさんが最初の一線を越えてしまうあたり。
これはもう完全に「狼よさらば」ですね。
「Death Wish」、1974年、えぇ、ですし、続く地下鉄のホームのところ。
階段で逃げる男を背中から打つ。これはもうフリードキンの、えぇ「フレンチ・コネクション」ね、1971年。
これを連想してしまいますし。
ジョーカーに登場する、あの階段
あるいはアーサーの家路の途中にある、あのー、印象的な長ーい階段ね、ずっと彼がそこを登ってくるショットっていうのが毎回あるんだけど、最後はこのジョーカーになりきったところで、今度はその階段を下りてくる、とね、印象的な階段ありますね、長い階段。
あれ、ブロンクスでロケしてるらしいですけども、えぇ・・・あれは階段はやっぱり同じくフリードキンの「エクソシスト」を想起させるなぁ、とかですね。
他にも、まぁ「カッコーの巣の上」オマージュ、えぇ、あるいは「ネットワーク」オマージュであるとかですね。
個人的には「ジャグラーニューヨーク25時」的だなと思うところもあったりとかですね、「ジャグラー」まで見てるか分かりませんけど、トッド・フィリップスが。
えー、という感じでとにかく70年代80年代初頭、まぁ言ってみればですね、70年80年代初頭ので見れば、社会不適合者、社会からどうしてもはみ出してしまうもの、を抱えた人々の逆ギレ的爆発を描いた映画たち。
と、えぇ、その存在のあり方や精神というのを今回の「ジョーカー」はアメコミ映画という、まぁ最も広く、大衆の耳目を集められるフォーマットを使って、これはちょうど劇中のそのアーサーが世間の注目をようやく集めて、ようやく席に自分の存在を認めさせた、と言うのとちょっと構造的に重なると思うんですけども。
アメコミというフォーマットを使って耳目を集めながら、あえて今にその70年代80年代初頭の社会不適合者の客入れ爆発を描いた映画のイズムを、えぇ、再現してみせた一作という事と思いますね。
共同脚本と監督制作は、ハングオーバー等コメディで成功されてきたドットフィリップさん
えぇ、これね、共同脚本と監督製作のトッド・フィリップさん。
えぇ、もちろんご存知「ハングオーバー!」シリーズはじめ、コメディで成功されてきた方ですけれども。
ただこの方そもそもですね、以前僕「ハングオーバー!」評の中でも言いましたけど、そもそも監督デビューとなるドキュメンタリー「全身ハードコア GG アリン」、ハードコアパンクなアーティスト、GGアリンさん、亡くなってしまいましたけども。
GGアリンさん、GGアリンとその1993年の「全身ハードコア GGアリン」からある種一貫してですね、まさに「社会からどうしてもはみ出してしまうものを抱えた人々の逆ギレ的爆発」をずっと描いてきた。
「ハングオーバー!」だってそうですし、えぇ、「アダルト♂スクール」だってそうですし、そんな感じなんですね、全部一貫していると。
なので今回はトーンとしてシリアスなドラマものですけども、えぇ、要は、いわゆる「笑うしかない程ひどい現実」、えぇ、に溢れたこの世界の中で痛み、悲しみそして怒りに対してこそ笑ってしまう、という体質のつまり、最も正気だからこそ狂気に陥ってしまう、もしくは狂気に陥ったように見えてしまう、えぇ、とも言える人物が主人公の今回の「ジョーカー」というのはトッド・フィリップスさんこれまで作ってきたコメディ作品の視点を、客観から主観に移し替えただけだという風にも、えぇ、ね、要するに「寄りで見ると悲劇、離れて見ると喜劇」と良く言いますよね。
えぇ、そういう事だと思う。
笑うに笑えない、でも、面白い場面
故にですね、今回非常にまぁシリアスなトーンの作品なんだけど、要所要所でですね、あの、例えば後半ある惨劇が起こるんですけど、その惨劇の現場から逃げ出そうとしたこのピエロ業の、主人公のピエロ業の同僚の小人症の男性がいる訳です。その小人症の男性が陥るある困った事態、とかですね、要所要所でこの凍りつくような笑いというんですかね?もう笑うに笑えない。
えぇ・・・でもなんかこう面白い場面が出てくると。
あるいは前半ね、あの難病の子どもたちの前でこう、ピエロ営業中にガターン!ってね、うん、ガターン!て銃が落っこちて、「しーっ!これはねっこれはね、違うんですよね。」なんてね、そんな風にですねいわば「笑うに笑えない喜劇的シーン」とか、えぇ、と同時に笑ってしまうほど悲惨な悲劇ね、「笑うに笑えない喜劇」であると同時に笑ってしまうほど悲惨な悲劇でもあるような、えぇ、故にそのなんか例えば主人公はえぇ・・・と、笑って、大声で笑っているのに、同時に苦しんでいる様に、あるいは泣いている様にも怒っている様にも見える、というような感じで常にその複雑な感情が入り混じったグレーゾーンをずーっとこう、揺れ動くような感じの非常にですね、要するに、あのー・・・綱渡り的な緊張感がずっと続くと言いましょうか。
そんな感じの役が、今回のアーサー・フレック、まぁ後にジョーカーとなるこの主人公の役柄。
ホアキン・フェニックスによる体を張ったジョーク
そもそもこれホアキン・フェニックスに当て書きされた脚本なんですね。
はい、ていうことはやっぱりこのー、これ、町山智浩さんも指摘されていましたけど、そもそもね、あの、「容疑者ホアキン・フェニックス」というですね、まぁ、ホアキン・フェニックスがいきなりね、「俳優業辞めてラッパーになる」って言い出すという作品、で「ドッキリだよ~ん」見たいな事言うんだけどね。(笑)
「いやドッキリじゃねえだろお前!2年間棒に振ってんだから全然ドッキリじゃねえだろう!」っていうあの体を張ったね、体を張って笑いを取りにいった結果、笑えないっていう、あのー、まさにアーサー・フレック=ジョーカーそのものの様に。
ホアキン・フェニックスの実像に重なる所もあるし、と、「ちょっと、ちょっとヤベェんじゃねぇかガチでこいつ」って感じがするっていう。
えぇ、なので、そのホアキン・フェニックスの当て書きも納得。
実際それを受けてですね、ホアキン・フェニックスね、今回映画を見るとですね、異様にもう、肩から骨が突き出す突き出すまでにやせ細って、で、まぁ、基本的にずーっと体を強張らせている。
なんだけど、時にコンテンポラリーダンサーの様に奇妙にしなやかに、こう、ステップを踏んでんですよね。
こう、体をこう、忍ばせたり、まさにですね、さっきの「全身ハードコア」ならぬ「全身アーサー・フレック」状態のホアキン・フェニックス。
えぇ、例えばですね、最初の殺陣シーンの後、こう、トイレの中に逃げ込んだ所で、あのー、彼が踊り始めるというくだりがありますけど、あそこ、あの音楽ヒドゥル・グドナドッティルさんという方。この方あの、「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」の音楽とかやってる、あのー、要はあのー、亡くなった、ヨハン・ヨハンソンの弟子のチェロ演奏者の方なんですけど、この方のチェロ演奏を流しながら即興でホアキン・フェニックスが踊りだした所を、「あ、それ良い!」って事で、慌ててカメラを回した、という風に、これもうパンフの解説に書いてあることですけど。
まぁ、そんな感じでまぁ、ホアキン・フェニックスの完全にド迫力なりきり演技。
まぁ、これにですね、まぁ、引き込まれていくうちにですね、これもまたその、映像がすっごく美しくてね、ALEXA 65って言うカメラで撮った映像が本当に、社会振動がこう、まぁ非常に深い、まぁね、非常に美しいんですが、こう引き込まれていく内に、例えばやっぱりこの、さっき、スコセッシのね、言いました、オマージュを捧げられている「タクシードライバー」のトラヴィス・ビックルであるとか、あるいは「キング・オブ・コメディ」主人公のルパート・パプキンとかと同様、同情・共感と嫌悪と軽蔑の間を、観客も揺れ動くことになるわけですね。
広がる社会の格差に不満・怒りをため込む社会
「あぁ、かわいそうだなぁ、コイツ「なーんてことしてんのお前。えぇ?」っていうことをしたりするというね、その間を揺れ動くことに非常に、だからその、グレイゾーンをずっと演技も揺れ動くし、こっちの感情もずーっと揺さぶられ続ける。
えぇ・・・もちろんですね、えっと、描かれた事、メールにも多かったんですけどね、やっぱり広がる社会の格差に不満・怒りをため込む社会。
で、まぁそれが、民衆の怒りとなって爆発、非常に現代的テーマを扱っている作品でもあるわけだけど、ただ僕ね、本作が非常に巧みにちゃんと面白いとかですね、良く出来てるな、という風に思うのは、えぇ・・・っと、主人公、単にですね、その社会的弱者、同情すべき存在に、単に可哀想な人、とだけ置かずにですね、つまり単純な善悪二元論に落とし込まないように、語り口にもある仕掛けを盛り込んでいるというところですね、えぇ・・・まぁ、いわゆる信用できない語り手というテクニックですよね。
はい、えぇ、映画を見終わると特に、まぁ、割とはっきりするんですけど、実は全編に渡って、どこからどこまでが現実で、妄想なのかの境が意図的に曖昧にされた作りになってる、っていうことが遡って強く感じられる作りになっていると。
終わってみると、「あれ!?ていうことは?」みたいな、例えばですね、終わってみるとラストシーンですけど、冒頭と中盤にある、ね、カウンセラーとの対話、これが最後に出てくるカウンセラーの対話と明らかに対になるように見せてるわけですね。
「え?ってことは・・・?」ていう読みもできるようになっているし、あるいは途中、ブルース・ウェインの親父、ブルース・ウェインってのは、もちろん後のバットマンですね。
ブルース・ウェインの親父とトイレで会話するところ、ここちょっと「シャイニング」風。
妙に白く明るい照明&これもちょっと白く明るい照明も怪しいし、そのシーンの最後でね、彼がとっている主人公がとっているポーズと次の自室で裸・・・上半身裸で立っているポーズが完全に同じ、こうパって変わるんですよね。
「あれ!?てことは・・・?」ってあたりとかですね。
もちろん、あるいはですね、お母さんの言い分、最初お母さんが言ってること、あ、そんな事あったんだ、酷い。
でも実はそれは、いやいや、彼らの妄想だからってなるのか、いつまでお母さんの言い分が正しいのか、あるいはブルース・ウェイン親父の言い分が正しいのか、どっちが本当なのか、ちょっと揺さぶってきますが、「あの写真もあるしな」とかね、揺さぶってくる。
最後の最後まで絶妙なバランスで作られている、ジョーカー
こんな感じで、とにかくほぼ全編が振り返ってみれば、どこまでが現実で妄想か、どっちが本当の事を言って、どっちが違うのか、どちらともとれる絶妙なバランスで作られてる、最後の最後まで揺さぶりをかけてくるという感じなんですね。
こうだと思ってたのに、「あれ?違うのかな?」っていうディテールも入れてくると。
でこれによってですね、まぁ、さっきから言ってる、単なる善悪とか単なる強者弱者の二元論に陥ることも、えぇ、逃れているし、何より、言うまでも無く、これこそジョーカー的なわけですよ、つまり。
特にやはり、先ほどから言っている、アラン・ムーア「キリングジョーク」で描かれた「ジョーカー」イズムに、実はこれ非常に忠実に継承したジョーカーの描かれ方です。
なので、あのー、「ヒース・レジャー版と違う!」って文句言うのは良いんだけど、ちょっと「キリングジョーク」を読んでみて下さい。
非常に、そこには忠実に、実は継承している作品だと言う風にも思います。
えぇ、もちろんですね、先程あの、「『狼よさらば』だ。」って言いました、地下鉄のシーン、「狼よさらば」と言いましたが、そもそもジョーカーがそうやって、地下鉄内で一線を越えるシーン、要はビジランテ的な行動を取っては、自警団的な行動を取ってるわけですね。
その自警団的な行動を取った人が街のヒーローとして、大衆に支持される。
これもちろんバットマンとやってる事、何が違うんですか?つまりも完全に鏡像関係というかですね、変わんないじゃないか、という感じが言えると。
で、まぁ、もちろん後のバットマンの誕生をそのジョーカーが予感して、「いやー最高に笑えるジョークだ」なんてことを言うんですけども、ただ彼はですね、そのね、ブルース・ウェイン少年が遭った、あの事件の現場には居ないはずですし、とかね、あと先ほどそのブルース・ウェイン親父との会話自体がそもそも怪しいぞっていう、要所も含めると、ここもやはり現実・妄想あいまいなあたりになってくるということですね。
えぇ、ということはバットマンとそのジョーカーってのも鏡像関係というあたりはまさしく「キリングジョーク」的な視点で、アメコミヒーロー物自体を批評する視点っていうのがあるとそれも面白いですし。
あるいはね、勝手に人々が自分の願望とか幻想を勝手に投影して騒ぐ、なんなら殉教者扱いキリスト扱いしてもう祭り上げる、つまりヒーローものをありがたがる。
我々観客というかね、我々の心理・願望・欲望みたいなものっていうのは批評にもあっているということですよね。
しかも僕はこの辺が見事!と思ったのが、そう今僕らが言ってきたようなその諸々、他のいろんな読みできると思います、いろんな社会批評的な読みもできると思います。
あるいは、まぁ、構造分析したりとか、あれは共感・感情移入したりするってこともあると思います。
でも、でね、そのジョーカーの同情すべき人物として描かれてるっていう風に、「だからやだ」っていうね、風に仰ってましたけど、最後のセリフ、皆さん覚えてます?それらすべてを全部バッサリ切って捨てるわけですよ。
「は?お前らとは関係ない。」バサ!決まったぁー!って感じですね。
完璧、あの最後の一言によって完全にジョーカーとして完成した。
そして、コメディとして幕を引く
で、その後に続くエンディングシーンとか全エンディングショット、しっかり括弧付きですけど、コメディとして幕を引く。
スマートだなぁ・・・という感じがいたしますね。
はい、ということで、まぁ、もちろん好き嫌いの問題あるにしても、やろうとしたことの中では最上の、えぇ・・・結果を出している、一作だというふうに思います。
私個人的にはですね、さっきの、以前この番組で紹介しました、このMCU、アメコミ映画全盛期映画のあり方そのものが変質しつつ
ある今、マーティン・スコセッシがですねMCUに対して「映画じゃない」なんて発言をして非常に物議を醸しだした、この今ですね、まさにその、スコセッシ的な映画のあり方、っていうのを、えぇ、じゃあ本来映画って、じゃあ映画って何?映画のやれることって何?って言うのを、まさにスコセッシ的な映画のあり方っていうのを使って、今に撮り直してみせる。
だからやっぱり、今でしか作られない、今、今映画のあり方を問う、みたいな映画にもなってるっていうところで、あらゆる角度で僕は「見事だなぁ」と思いました。
はい、えぇ、ということで、お見事、まぁ、賞を取ったりするのを、これは当然だなと思いますし、まぁ、さらに賞レースに、えぇ・・・残ってくる作品なのは間違いないでしょ。
もちろん好き嫌いがあるのはわかりますけどね。
えぇ、あとは個人的にはいろんなゲストを迎える番組の司会者としてやはりあのゲストに舐めた対応もしくは舐めた態度でゲストを呼ぶ、これは本当に絶対に慎まなければいけないな、と思った次第でございます。
逆恨みは本当にやめてください。
以上、ぜひぜひ劇場でご視聴ください。(笑)
<書き起こし終わり>
○○に入る言葉のこたえ
②賛否の比率は褒めが9割
でした!