アイ・アム・レジェンドの町山智浩さんの解説レビュー
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映画評論家の町山智浩さんがTBSラジオ『たまむすび』(https://www.tbsradio.jp/tama954/) で、
フランシス・ローレンス監督のSF作品「アイアムレジェント」のネタバレなし解説レビューを紹介されていましたので書き起こしします。
映画視聴前の前情報として、また、映画を見た後の解説や考察レビューとして是非ご参考ください。
町山さんアイ・アム・レジェント解説レビューの概要
①2014年公開のSF作品『アイアムレジェンド』
②アクト1、アクト2は傑作!アクト3は崩壊?
③素晴らしい原作者
④隠れテーマは「〇〇」
※○○の中に入る文章は、この記事の1番最後で公開しています。 TBSラジオたまむすびでラジオ音源を聞いて頂くか、書き起こし全文をご覧頂くか、この記事の1番最後を見て頂く事で判明します。
『アイ・アム・レジェンド』町山さんの評価とは
(町山智浩)
本題に入るんですが、ウィル・スミスの「アイアムレジェンド」、これアメリカで大ヒットしてるんですけども、これ観たんですけども、前半最高ですね!
映画っていうのはね、3つのパートに分けて考えるんですね、特にハリウッド映画。
3つのパートに分けて作られるんで、映画の最初の三分の一をアクト1っていうんですけど、映画の最初の三分の一とその次の三分の二のアクト2まではすごい良かったですね。
これは傑作なんじゃないかと僕は思ったんですけれど、アクト3から映画がいきなり崩壊し始めるんですね。
アイ・アム・レジェンド、3パートに分けると・・
アクト3っていうのはウィル・スミス以外に何か、生き残ってた母親とその子供がでてくるんですけれども。そこから映画がいきなり崩壊し始めるんですね。
で、ヘロヘロで映画が終わってしまってですね。今までの緊張感は一体何だったんだってね。「ちょっと待てよ、おい!」みたいな。すごいガッカリしたんですよね。
それでまぁこの映画、一応ヒットはしてるんですけれども、「どういうこっちゃいな!」と思ってたら、この「アイアムレジェンド」の監督のフランシス・ローレンスっていう人がですね、インタビューに答えて、「結末の部分は映画が公開されるギリギリ前に撮り直したんだ!」って言ってですね。
最初に作った映画のエンディング、まぁ結末では映画会社が満足しなくて、映画会社はワーナー・ブラザースなんですけども。「撮り直しを命じられて、撮り直したんだ!」って言ってるんですよ。これがどうも問題だったみたいなんですね。
アイ・アム・レジェンドの結末について
で、まぁこの映画、結末が全然意外ではないので、言っちゃっても全然問題ないと思うんですよね。
どうして意外じゃないかって言うと、ウィル・スミスはその、吸血鬼が未来にどんどん増えてって、ウイルスのせいでですね。その吸血鬼を治療するための、このウイルスを撃退するための血清を開発しようとしている男がウィル・スミスなんですね。
で、もう地球がほとんどですね、そのウイルスに感染して、ほとんどの人が死んで、生き残った人たちは吸血鬼になって、夜になると人の血を求めてですね、彷徨う、人間コウモリのようなですね、変な白い化け物になっているんですけども。
その化け物を捕まえてですね、血清を開発しようとしたわけですね。何とか治せるんじゃないかと思ってですね。要するに、自分には免疫があって自分にはかからなかったんで。吸血鬼病に。
で、何らかの免疫っていうものを作れるはずだと。と言うことで血清を作っているのがウィル・スミスなんですけど。結末ってのは、この「血清が完成しました!何とかなりそうですね、地球も!終わり!」っていうですね、何の捻りもなくて、一本道って言うんですけど、こういうのは。
要するに、前半で提示された主人公の目的が、後半でただいきなり達成されてしまって、終わってしまうというのは、全くそこにツイスト、捻りがなくて、一本道のシナリオなんですね。で、「これはいくら何でもあり得ないだろう、この映画の結末は!」と思ったら、やっぱりまぁ本当は違ってて。映画会社の意向で撮り直したということなんですね。
映画会社の意向で取り直しに
まぁ元の映画の終わりがどういうものだったかは分からないんですけども。
推測するにですね、伏線が張ってあったんですが、伏線を回収していないんですね、この「アイアムレジェンド」の最後のパートっていうのは。伏線っていうのは、ご覧になった方は分かると思うんですけども、
この吸血鬼っていうのは最初は「ウガーウガー」って言葉も喋らないで獣みたいになってるように見えるんですけども、途中からウィル・スミスを捕まえるために罠を仕掛けるんですよ、この吸血鬼たちが。
で、どうもその吸血鬼たちはちゃんとした知能があるらしいってことがチラッと・・こう、なんていうか、観せられるわけですね。その後、吸血鬼たちの中にリーダーがいて、統率がとれてて、社会みたいなものが出来上がってるらしいという所もチラッと見せるんですよ。
リーダーが指示をして、突撃していくシーンがあるんですね。ところが、その伏線が全く回収されないまま映画が終わってしまうんですね。この伏線を回収したらどうなるかっていうと、吸血鬼たちが自分たちの言葉を喋るっていう展開が絶対にあっただろうと思うわけなんですよ。
アイ・アム・レジェンドの原作について
で、ここからですね、「アイアムレジェンド」っていう物語の原作の話をしたいんですが、原作はリチャード・マシスンっていう作家でですね、この人はですね、スピルバーグのデビュー作だった「激突!」の原作者で。
あとは「ヘルハウス」っていう非常に優れたオカルト映画の原作者であり、作家なんですけれども。
このリチャード・マシスンが1954年に書いた小説で「アイアムレジェンド、俺は伝説だ」というタイトルの小説が原作なんですけれども。
これ、前半は同じなんですね。ウイルスが蔓延して、みんな吸血鬼になってしまう、と。で、主人公だけがですね、たった一人人間のまま生き残って、昼間に誰もいない街でですね吸血鬼を殺してはですね、夜襲いかかってくる吸血鬼と戦うと、前半は同じなんですが、途中分かるんですが、その吸血鬼たちがただ「ウガー」って言っているだけじゃなくてですね、吸血鬼独自の文化とか社会を持ち始めていてですね、最終的に主人公は捕まってしまうんですけれども、主人公は裁判にかけられるんですね。
で、どうしてかっていうと、普段主人公は吸血鬼を殺してきたからですよ。だって「吸血鬼だからやっつけなきゃ!」と思ったんですね、人類のために。
ところがそれが殺人罪になちゃうんですよ、吸血鬼の裁判で。で、この主人公は吸血鬼たちの間では、
「昔、人間ってのがいたけども、ほとんど滅んだんだけれども、夜な夜な、我々吸血鬼を襲う怪物として今も生き残っているらしい。」と。
それがこの主人公なんだと。
アイ・アム・レジェンドの原作の衝撃的な結末
つまり、いつの間にか、その、主人公が人間だと思っていたけれども、自分以外の人間はいつの間にか吸血鬼として新しい人類になっていて、自分だけが旧世代の怪物としてですね、生き残っていたんだということに気付くわけですよ。
だから原題が「アイアムレジェンド」、俺は伝説上の怪物なんだという意味なんですね。それにハッと気付いてびっくりするわけですね。要するにまぁ、キリスト教の異端審問みたいなものにかけられてですね、火炙りで殺されるんですけれども。
火炙りで殺すっていうことはですね、要するに、昔は吸血鬼っていうか怪物や魔女は火炙りで殺されたんですね、魔女裁判みたいに。
要するにまぁ、悪い人になってたんですね、いつのまにか主人公は。悪魔になってた。気付かなかったうちに。でも主人公もしょうがないなって。たくさん吸血鬼殺してきたから。俺の方が悪い奴なんだっていう。で、ビックリしましたっていうね。
少数派と多数派が入れ替わる恐怖
これはまぁどういうことなのかっていうと、少数派と多数派は全く入れ替わるっていう恐怖ですね。で、こういうのいっぱい色々な国で体験してますよね。例えば魔女裁判なんかがそうですよね。
要するにキリスト教のカトリックとかがですね、異端審問で「キリスト教の敵をみんな殺すんだ!」って言って殺してたんですね。片っ端から綺麗な女の子を「魔女だ!」と言って殺してたんですけども。
その頃は、その魔女裁判する側は正義だったわけですから。でも今考えると、とんでもない悪いことをしていたんですよね。普通の人間を片っ端から悪魔扱いして殺してたんですから。で、これが逆転したわけなんですよね。
もうこの多数派と少数派の逆転って歴史上何度もあるわけですよ。例えばソ連がそうですよね。
要するに共産主義の世界では、ソ連だけじゃなくて共産主義の世界では、資本主義の奴がみんな悪党なんだって信じてたわけですからね。それで「資本主義の犬だ!」なんて言って殺したりしてたわけですから。ころっと変わっちゃうわけですから。まぁ、ナチなんかもそうですよね。それまでドイツではずっと、ドイツ通ったことないですけど、ワイマール共和国という、物凄い民主的な国ができて、もう本当に民主的な国になろうとしてたら急にナチになっちゃってですね。
民主主義はよくないって話になって、独裁になっちゃうわけですから。「みんな殺せ!」ってなっちゃったんですけども。こういう大逆転はたくさんあるんでね、歴史上で。
普遍的な恐怖を描いたのがリチャード・マシスンのアイ・アム・レジェンド
で、そういうことを、普遍的な恐怖なんですけども、描いてるのが原作、リチャード・マシスンの「アイアムレジェンド、俺は伝説だ」っていうものなんですね。
これは日本ではですね、「地球最後の男」っていうタイトルで翻訳が出てますけども。
で、これすぐにですね、すぐにってことじゃないですけども、10年くらい経って映画になったんですね。1964年に。
「地球最後の男」ってタイトルでですね、ヴィンセント・プライスという俳優が演じているんですけども。
ストーリー基本的に全部同じなんですけれども。ただこれ1964年に映画化したんで、ちょっと違う意味を持ってるんですね。
地球最後の男
これね、ヴィンセント・プライスは、この人はいつも怪奇映画に出ていてですね。「ヴィンセント」っていう映画でティムバートンがオマージュを捧げているんですが、いつも貴族の役をやってる人でですね、非常にかっこいい髭を生やしていてですね。
この人自身、美術評論家だったり、音楽に詳しかったりですね、非常に貴族的な人なんですね。ヴィンセント・プライスという人は。
で、なんていうか、今のアメリカにはいないタイプですね。昔のイギリス紳士みたいなタイプの人なんですよ。常に貴族なんですけど、映画の中では。この中では科学者の役なんですけれども。
で、どんどんどんどん吸血鬼が増えていってですね、最後にヴィンセント・プライスがたった一人で吸血鬼を殺していることが判明する訳ですけど、そこでですね、襲いかかってくる吸血鬼の軍団がですね、「007」に出てくるスペクターそっくりなんですね。
つまり、黒いタートルネックを着てですね、髪の毛をちょっとまぁ短く綺麗に刈っててですね、マシンガンを持ってヴィンセント・プライスを襲ってくるんですよ。
吸血鬼に見えないんですよ。何に見えるかというと「007」の敵役の軍団、スペクターなんですね。
スペクターとは
スペクターとは何だというと、これ、共産主義のゲリラなんですよ。
黒いタートルネックを着たマシンガンの軍団ていうのは、この世の中を全体主義社会にしようとする共産主義とか社会主義の恐怖みたいなものとその当時1964年位、結びついているんですね。
で「007」のゴールドフィンガーとか見ると分かると思うんですけど、大抵、黒いタートルネックを着た、マシンガンを持った敵が「007」を襲う訳ですけど。
「007」はイギリス紳士なんですね。つまりイギリスの文化みたいなもの、伝統みたいなものを継承している訳ですけども。
これ「地球最後の男」っていう1964年の映画はですね、つまりその当時起こりつつあった社会の変革で、新しい世の中に変わっていくと。そういう時にタートルネックを着た男たちが世の中を変えていくんじゃないかっていうのを匂わせているんですね。このタートルネックていうのは実は1950年代の終わりにですね、フランスとかアメリカでですね、非常に流行った文化なんですね。
つまり、「サルトル」を読んだり共産主義を語ったりですね、ジャズを聴いたりする「ビート・ジェネレーション」。例えばフランスだと「ヌーヴェルヴァーグ」の監督たちもそうなんですけど、みんなタートルネック着てますよ。
アメリカの「ビート族」もそうなんですけど、ビンズバーグとかケルアックとか。このタートルネックっていうのはですね、当時のネクタイ文化みたいなものに対する反発であって、ネクタイってものが象徴する伝統とか社会的な階級とか、そういったものを敵視すると。
タートルネックの意味
ちょっと社会主義的な革命、若者革命みたいなものを目指す人たちがファッションとして着ていたのが、このタートルネックなんですね。で、そういう形で、新しい時代、貴族的な白人のキリスト教に基づいた伝統的社会ってものは崩壊している、
ロックとかジャズみたいな社会がやってくるんだよっていう、その若者革命みたいなものを匂わせるんですね、この「地球最後の男」っていうのは。
1964年っていったらビートルズの大ブームが起こってた頃なんですよ。
ビートルズっていうのもネクタイはしていましたけども、非常にタートルネックがビートルズのトレードマークだった訳ですね。一つね。「ミート・ザ・ビートルズ」のジャケット写真なんかそうですけども。
そういったことを想像させるんですね、この映画は。
つまり若者文化が革命を起こして、ヴィンセント・プライスみたいな古いジェントルマンはもう時代遅れになっちゃうんだよっていうことを、ちょっと、「地球最後の男」は何となく匂わせてるんですね。
リチャード・マシスンが書いた小説
つまり、最初にリチャード・マシスンが書いた小説っていうのは、世の中の価値観が完全に崩壊してひっくり返っちゃって、
多数派と少数派が入れ替わる時があるっていう恐怖で、歴史上何度も起こってたことなんですけども。
この1964年の「地球最後の男」では、時代遅れになってしまう恐怖なんですね、ここで描かれているのは。
で、この辺がね、物凄く何ていうか、その当時の怖さですね、こう・・長髪でロックンロールを歌う人たちの世の中になっちゃうんじゃないかって、
本当に怖がっていたんですよ、その当時のおじさんたちは。
オメガマンというタイトルでまた映画化
で、1971年にですね、「オメガマン」っていうタイトルで、「オメガ」っていうのはギリシャ文字の最後の文字ですから、最後の男で「地球最後の男」って意味なんですけど。
「オメガマン」っていうタイトルでまた映画になっているんですね。
で、今回チャールトン・ヘストンが地球最後の男、オメガマンを演じているんですけども、この時もですね、吸血鬼たちがですね、当時のヒッピーとかブラックパワーを象徴しているんですね。
で、吸血鬼の親分ってのは明らかにヒッピーでですね、長髪で、元テレビのキャスターかなんかだったんですけれども。その、文明ってものがこういう世の中を生んでしまったんだと。
だから文明とか機械ってものを打ち捨てようじゃないかっていう運動をしているカルト集団みたいにして描かれてて、その相棒が黒人のブラックパワーの生き残りなんですけれども。
チャールトン・ヘストンが優雅な貴族みたいな暮らしをしているのを見てですね、「ホンキーパラダイスだな!」っていうんですよ、その黒人の吸血鬼が。
ホンキーパラダイスっていうのは、「白人天国だね!」って言うんですよ。で、完全にその当時、アメリカで1960年代の終わりから起こってたですね、ヒッピーとかですね、黒人の人たちの物凄い革命闘争、今までのそのアメリカのエスタブレシメントをひっくり返して、若者とヒッピーと黒人の世界を作るんだって革命が起きていて爆弾闘争とか暗殺とか次々に起こっていたんですが当時は。
それを吸血鬼に準えてるんですね、この「オメガマン」っていう映画は。物凄くストレートで、途中でですね、チャールトン・ヘストンがアフロヘアの・・凄いアフロヘアの黒人の女の子とできちゃうってシーンがあるんですけど。
その黒人の女の子の態度や言葉遣いは、本当にブラックパワーの闘志として出てくるんですね。で、まぁそういう世の中が本当に大変な革命になってると。黒人革命が起こる、ヒッピー革命が起こるっていうのを、
そのままストレートに撮ったのが「オメガマン」なんですね。
オメガマン、当時はリアリティーがある映画だった
「オメガマン」っていうのは非常にちゃちい映画なんですけど、その当時としては結構リアリティーがあった訳ですね。
チャールトン・ヘストンっていうのは、アメリカの保守的な価値観の象徴な訳ですね。
この人は「十戒」でモーゼを演じてますけれども。
「ベンハー」とか、聖書物語を演じてきた人ですね。いわゆるキリスト教文化が生まれた頃の物語を演じてきた人で。
すごく白人文化そのものを象徴しながらも、また、筋肉モリモリで、男性優位社会みたいなものも象徴している訳ですよ。
で、この人はその前1968年に、「猿の惑星」に出てまして、「猿の惑星」では要するに、人間が猿の奴隷になってまして、なんていうか、文明を支配する世界に来てしまって、奴隷にされるのがチャールトン・ヘストンなんですけども。
これはもう観ればストレートに分かるのが、「猿の惑星」っていうのは、猿っていうのは、もう、なんていうか、有色人種のことを・・はっきり言うと意味してますんで。
猿の惑星は、アフリカから連れてこられた奴隷
「猿の惑星」っていうのは最初、アフリカから連れてこられた奴隷だったっていうのが描かれているんですね。猿はみんな。
黒人ていうのは本当にアフリカから連れてこられた奴隷な訳でね。それが革命を起こすっていうのが「猿の惑星」で描かれている訳ですけども。
それで革命を起こされちゃう側の白人を演じていたのがチャールトン・ヘストンなんで、この「オメガマン」でも革命を起こされちゃう白人の役を演じているんですね。この人は常にそういう人なんですよ。
で、その後はですね、「アイアムレジェンド」はですね、三度目の映画化のチャンスが来るんですよ。これは、アーノルド・シュワルツネッガーが主演でやることになっていたんですよ。
シュワルツネッガーも、僕がインタビューした時に「やりたいです!」って言ってたんですけど流れちゃったんですね。州知事になっちゃったんでね。
要するにチャールトン・ヘストンっていうのは、筋肉モリモリの白人の代表だったんですけども、その後継者がね、シュワルツネッガーって言われてたんですよ。仲良いしね。共和党支持者だし。
「トゥルーライズ」ではね、チャールトン・ヘストンがオマージュの意味で出てましたけども。で、「オメガマン」を再映画化すると。
シュワルツネッガー版「オメガマン」
多分ね、シュワルツネッガー版の「オメガマン」はですね、非常に象徴的な話になったと思うんですよ。
っていうのは、シュワルツネッガーってのは筋肉モリモリの男らしい白人な訳ですけども、それがたった一人の人間なんですね。あとは要するに色が白いですね、ヒョロヒョロした吸血鬼が襲ってくると。
これはまぁ、わかりやすいですよね。健康的な男らしい男、筋肉モリモリの男ってのが時代遅れになってしまうってこと。たった一人の孤独な人間になってしまうってこと。周りが非常に不健康な吸血鬼のように、夜クラブで遊んでる奴ばかりになってしまうんでは、ってね。まぁ非常に、わかりやすい、時代が変わるっていうことを意味した映画になっていたんじゃないかって思いますね、シュワルツネッガー版は。
ウィルスミス版に
まぁそれが流れたのでウィルスミス版になった訳ですけども。で、このウィルスミス版は何を象徴してるのかっていう話になるんですけども。
ここでちょっと僕ね、mixiっていうのをやってるんですけどね、mixiでですね、マイミクになっているマクライナさんて人がいましてね、その人が非常に素晴らしいことをですね、「アイアムレジェンド」について書いてたので僕が喋るより彼のブログを引用したいんですけども。
マイミクのマクライナさんのブログ引用
『実を言うと「アイアムレジェンド」を観ている途中までは傑作じゃないかと思っていた。』
僕もそうなんですよ。
『もしかすると、この映画は9.11以後のアメリカの立場を表現しているんじゃないかと思ったのだ。つまりテロリズムという見えない相手に向かい戦争を始めてしまい、どんどん世界の嫌われ者になっていき、遂には一人ぼっちに孤立してしまうアメリカを、ウィルスミス演じる主人公が一人きりで街の中を彷徨くことで表現していると思ったのだ。
感染が初めて起こったマンハッタン島をグラウンド・ゼロと呼んだりしているし。』
で、グラウンド・ゼロっていうのは元々9.11テロで世界貿易センターが崩壊したところをグラウンド・ゼロと呼んでるんですけども。
なぜかウィルスミスが何度も「ニューヨークはグラウンド・ゼロだ!」って何度も言うんですね。意味はあんまりないんですけども、実はそう言う意味があるんじゃないかと。
『もちろんその場合、主人公に知能や本能も残ってはいないと言われた感染者たちが、明らかに仲間を助け出そうとしていたり、同族を統率していたり、罠を仕掛けたりするのも、戦争中のアメリカ人は敵国をバカだと思っていることのメタファーだ。
主人公だけが重火器を持っていたり、車両を運転できたりするのも同様。』
っていうようなことをマクライナさんは書いているんですけども。これね、みんなそう思ったんですよ。
僕はアメリカ人と一緒に観にいったんですけども、ジェイソンっていうオタクとパトリックっていう映画批評家たちと観たんですけども。これはどう観てもイラク戦争なんですよね。
どう見てもイラク戦争
っていうのは、車に乗って街の中をパトロールしてですね、家を一軒一軒しらみ潰しに探していくっていうシーンがあるんですね。マシンガンを持って。
これイラクでバグダッドがやってることですよ。これニュースで見たこともあると思うんですけども。こう、バクダッドでハンビーっていう装甲車に乗って、民家を一軒一軒しらみ潰しに探していく訳ですね。
どうしてしらみ潰しにやるかっていうと、どこに反武装勢力が普通の人のフリをして潜んでいるか分からないっていう家探しをしているんですね、アメリカは。バグダッドで。それがそっくりなんですね、ウィルスミスが吸血鬼狩りをしているところが。
で、吸血鬼を捕まえようとすると、突然逆襲して捕まえられそうになったりする所とかもね、非常に今のテロリスト狩りをしているバグダッドに状況に似ていて。
しかもブービートラップで殺されそうになるんですけども、本当にアメリカ軍はブービートラップでですね、バンバン爆弾で殺されている訳でね。
ほとんど同じという。しかも、犬を連れているんですが、軍用犬みたいなシェパードかなんかを連れているんですね。僕、犬詳しくないから分からないんですけども、ウィルスミスが。
で、犬を使って吸血鬼を探すんですが、これも全く同じで、バグダッドでアメリカ兵が軍用犬を使って、爆弾の匂いとかを探してるんですけども、全く同じなんですよ。
これどうみてもね、マクライナさんが言ってる通り、どんどん孤立していって一人ぼっちになってしまったアメリカなんですね、ウィルスミスっていうのは。
だから後半でですね、マクライナさんも書いているんですが、最初は獣だと思っていた吸血鬼が、だんだん彼らにも彼らの文化や家族がいて、彼ら自身も人間として生きているんだと知る所が最後に出てきて、
それがショックを与えるという展開になるべきなんですね。そうじゃなければ前半に張っていた伏線が分からなくなっちゃうんですよ。
罠を仕掛けたりしてるっていうね、そういう回収をしていないんでね、尻切れとんぼで終わっちゃうんですね、この「アイアムレジェンド」っていう映画は。で、ガックリきたんですけども。
こうすればアイ・アム・レジェンドは傑作になったんだろう
まさしくイスラム教徒ってのは獣であって、血に飢えたテロリストばっかりで、みんなぶっ殺しとけばいいんだって思っていたアメリカが、実は彼らも人間であるということを知らなかってということと、非常によく似てるんですね。
だから物凄く何か、ニューヨークにした意味とかもあって。
その辺をちゃんと伏線回収していれば、「アイアムレジェンド」は傑作になったんだろうなと思いすけども、しなかったですね、はい。
もう大体「アイアムレジェンド」っていうタイトルの意味がなくなっちゃってますね。「俺こそが伝説の怪物だったんだ」っていうのが「アイアムレジェンド」なんですけども。
この最後はですね、「彼は人類を救おうとした伝説なのよ」とか言って終わるんですけど。なんなんだそりゃって。ウィルスミスはどうしてこういう映画ばかりなんだ、お前はって思うんですけどね。ふざけんなお前って思うんですけども。
ただウィルスミスっていうのは共演者のことを全く考えないで自分が出しゃ張る演技ばかりするんで、今回ばかりは一人きりになっちゃう映画ってのはですね、ウィルスミスの置かれている人間的な立場を表現しているといえば言えないこともない気がしますね。
威張ってばかりいるんで誰も友達居なくなっちゃったって感じが非常によく出てていいなぁって思ったんですけどもね、はい。という感じでですね、「アイアムレジェンド」ってのは本当に良い作品になり損なっちゃったっていう感じなんですが。
藤子不二雄の「流血鬼」
ちなみにですね、藤子不二雄の話をしたかったんですね。藤子不二雄Fさんがですね1978年にですね、「流血鬼」っていう漫画を書いてるんですね。短編なんですけども。これはリチャード・マシスンの吸血鬼・・「地球最後の男」と全く同じ話でですね。
ウイルスの名前がマシスンウイルスっていう、そのまんまオマージュを捧げてるんですけども、はい。これは主人公の男の子が吸血鬼をガンガン殺していくと、「あんたこそ怪物なのよ!」って言われるんですけども。
これがちょっと違うのはですね、最後に吸血鬼になっちゃうんですね、主人公の男の子。で、その時にハッと気付くんですね。
「俺は今まで闇を恐れていたけども、吸血鬼になってみて初めて闇の素晴らしさがわかった!」って言ってですね、生まれ変わって始まるというですね。これがちょっと違ってて。
今までのマシスンの話の流れはですね、主人公はどんどん時代遅れになっていって、たった一人になって死んでしまうという話だったんですけども。
時代遅れにならなくて、彼らの仲間に入ったら楽しかったよっていうオチになってて。非常に藤子不二雄さんらしい展開だなぁと思うんですけども、はい。
マシスンという作家の素晴らしさ
ということでですね、いかにマシスンっていう作家は素晴らしいかっていうことがよく分かりますよね。つまり、いつの時代にも共通することですよ。時代遅れになってしまう恐怖、一人ぼっちになってしまう恐怖ってのは。
だからやっぱり俺は絶対言っちゃいけないと思うのはね、「今の若いもんは」とかね、言っちゃうんですけど。
それを言うと吸血鬼の・・「地球最後の男」になってしまうので。
とりあえず分からなくても、何かそっちの方にも正しい価値があるのかもしれないと。あとやっぱり、こう、みんなも思ってほしいのはですね、分からないことがある人たちがいた時にですね、やっぱりそれも、あっちの方にも何かの価値がある、あっちも人間なんだってことを常に考えないと、「地球最後の男」になってしまうってことを思ってた方がいいなっていう風に思う訳なんですけども。
このリチャード・マシスンって人は明らかにそういうことを言いたかった人なんですけども。
もう一本この人の小説で変なのがありましてですね、「縮みゆく男」っていう。
これ主人公が放射能の影響で、体がどんどんどんどん小さくなっていく、蜘蛛よりも小さくなって、最後は物凄く小さくなっちゃって、最後は分子レベルにちっこくなっちゃっていくっていう話なんですけども。そんなことある訳ないだろバカとか思う訳ですね。
リチャード・マシスン「縮みゆく男」
つまり、どんどんちっちゃくなるってことは、それだけの体重を減らしてる分の肉はどこに消えてんだ、それだけいっぱいウンコすんのかとかね。
謎なんですけど。それが科学的におかしくても良いんですよ。
「縮みゆく男」でリチャード・マシスンが言いたかったのは、その頃、どんどん女性の価値が上がっていくんじゃないかと、アメリカ人たちは抱いてたんですよ。特に1950年代には「キンゼイ・レポート」といいまして、性科学者のキンゼイ博士という人が「女性にも性欲があるんだ、女性も性的に満足したがってるんだ」ということを、アンケートによって数値で初めて示したんですよ。
その時アメリカ人はビックリしたんですね。当たり前じゃねーかと俺たちは思う訳なんですけども、アメリカ人はビックリしたんですね。
っていうのもキリスト教的価値観の中で、セックスは快楽のためにはなくて、快楽のためにセックスするっていうのは後から人間がそうなってしまったのだと。本来は快楽はないんだって考えなんですよ、キリスト教ってのは。
で、特に女の人は快楽なんてセックスで感じないんだと。セックスは子供を産むためのものなんだという風に教会とかで教え込まれていたので、みんな男は楽勝だったんですよ、その頃のキリスト教社会でのアメリカの男たちは。
つまり女のことを感じさせようなんてしてなくて、前戯なんてほとんど行われなかったんですね、その当時。
奥さんが感じているかなんて全く気にしていなかったんですよ。ただ自分が入れて出すだけだったんですよ。ところがそれで女の人も実はオナニーをするし、性欲を感じるんだってことが分かった時に男たちはビックリするんですね。
「彼女たちを感じさせることが俺たちにできるのだろうか、できないんじゃないんだろうか」と思い始める訳ですよ。そこから女性に対する劣等感というか恐怖感というものが出てくるんですね。
女性は奴隷ではない
それがどんどんどんどん拡大していく中でピルっていうものができて。要するに妊娠をしなくても女の人がセックスできる、セックスすることに対して受け身じゃなくて良いという世の中に1970年代になっていく訳ですけど。
その後、中絶とかも合法化されたりして。日本より20年遅れて中絶合法化されたんですけれども。
そういうことがどんどん起こっていって女性の地位が上がっていく、女性は奴隷ではないんだってことが出てくるっていう恐怖感が、「縮みゆく男」っていう小説を書かせてるんですね。
これがどういう話かっていうと、奥さんがいるんですよ。で、奥さんは男がどんどん縮んでいくとですね、優しくなっていくんですね。
その方が好きだって言うんです。「可愛くて良いわ、あなた」って言うんですよ。これは怖いですよね。
男はそれまで男性的で強くて、女を引っ張れば良いっていう風に思ってたんですけどそうじゃなくて。
弱い男、小さい男を女の人は求めてるんじゃないかって。
またもう一つは、俺はどんどん女の人に対して小さい存在に感じるよ、と。それは男根、セックスのことを意味しているんですけども。
「俺はちっちゃいんじゃないかな、ちっちゃいんじゃないかな」っていう恐怖はそれまでなかったんですよ、アメリカには。
要するに巨根がいいとかチンコが大きい方がいいとかそんなこと誰も考えなかったんですよ。つまり女の人をを感じさせなくて良かった訳だから。女の人を感じさせなきゃいけないとなるとやっぱりチンコは大きい方がいいって思うんですね。そういう恐怖とかもあって。それが色々複雑に絡み合って、「縮みゆく男」っていうのを書かせたんですね。
「縮みゆく男」のタイトルの意味
「縮みゆく男」ってタイトルですけども、「縮みゆく男根」なんですね。
縮みゆく男根主義ってものを象徴したのがリチャード・マシスンの「縮みゆく男」なんですけども。そういう小説を書く人なんですよ。この人は。
だから吸血鬼・・「地球最後の男」、「俺は伝説だ」、「アイアムレジェンド」っていうのも、そういう不変的な恐怖感を描いているんで、その辺をちゃんと、時代遅れになる恐怖、いつの間にか多数派だと思っていたら自分がたった一人の少数派になってしまう恐怖っていうものを「アイアムレジェンド」は回収しませんでしたね、全く。
ということで結構大ヒットしてるみたいなんですけども、映画館を出てしまえばあっさり忘れちゃうんですね。つまり元々の形であったら「俺も、もしかしたら時代遅れになっちゃってるかもな」みたいな、映画館を出た後も色々引っ張るようなテーマを持っていたのに、この映画はですね、映画館を出たらもう全部忘れ、もう綺麗さっぱり頭の中から消えてしまう。
まぁウィル・スミスらしいかったんじゃないかと思います、はい。
もう映画会社はですね、映画見終わった後に頭に残るような映画を作ろうなんて思ってないんですよ、そんなことしてもお金にならないから。
そういう世の中になっちまいましたなんて言ってる俺も時代遅れになっちまったかなって感じで。
<書き起こしおわり>
〇〇に入る言葉のこたえ
④原作のテーマは『不変的な恐怖感』でした!