初恋のきた道
この映画「初恋のきた道」は、世界的名匠チャン・イーモウ監督が描いた、清冽で瑞々しく繊細なタッチの映画史に残る永遠の名作だと思います。 この映画「初恋のきた道」は、中国を代表する世界的な名匠のチャン・イーモウ監督による"しあわせ三部作"の1作目の「あの子を探して」に続く2作目の作品(3作目は「至福のとき」)で、一本の道を通して生まれた"清冽で瑞々しく繊細なタッチ"の映画史に残る初恋の物語です。 物語は父親の葬儀のために故郷の村に帰郷した息子が、その村で長く語り草になっている両親のなれそめを回想するというノスタルジックな展開で描かれていきます。 この映画の中国語の原題は「我的父親母親」で、"私のお父さん、お母さん"という事で主人公の息子の視点からの題名で、日本語題名の「初恋のきた道」は、ヒロインの少女チャオディの視点からの題名になっていて、英語の題名が「The Road Home」という事で、それぞれに味わい深い題名になっていますが、個人的にはやはり「初恋のきた道」が一番好きな題名ですね。 山あいの小さな村へ町からやって来た新任の若い小学校の教師チャンユーと、彼に恋する思いを伝えようとする少女チャオディ。 新校舎の建設現場に、手作りの弁当を運ぶ事で、彼女はその思いを伝えようとします。 そして、次第に彼等は言葉を交わし、心を通わせていきますが、"文化大革命"という大きな時代のうねりの中、彼は政治的な理由で町へ強制連行されます。 この突然の予期せぬ別離によって少女チャオディは、悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れながらも、ただひたすら町へと続く一本道で来る日も来る日も恋する人を待ち続けます。 この若き日の母親役としてチャン・イーモウ監督に抜擢されたのが、この映画がデビュー作となる新星、チャン・ツィイーで純粋無垢で可憐な少女チャオディを鮮烈に演じていて、この映画の魅力の大半は彼女の存在抜きには考えられません。 チャン・ツィイーは、この映画の翌年の「グリーン・デスティニー」(アン・リー監督)で世界的にブレークし、2003年のチャン・イーモウ監督の「HERO(英雄)」でも華麗で鮮やかな演技を披露しています。 チャン・イーモウ監督にとっては、"第二のコン・リー"とでも言うべき存在の女優になっていきます。 チャン・イーモウ監督も、彼女をいかに可憐で魅力的に描こうかと強く意識していて、映画の大部分は彼女のクローズアップで構成され、その瑞々しくもチャーミングな存在感は、映画全体を爽やかに明るく躍動させていると思います。 我々、映画を観る者は彼女が微笑むと、一緒になって微笑み、彼女が涙を流すと、一緒になって涙を流すという、久しく忘れかけていた感情を呼び覚ましてくれます。 彼女はそんな我々映画ファンの心の琴線を震わせるヒロイン像なんですね。 そして、現在のシーンをモノクロで撮影し、過去をカラーで撮影するという映像の手法が、初恋の思い出をより美しくきらめかせ、ロマンティックな効果を与えているように思います。 過ぎ去りし日を描く、カラー撮影の言葉では到底言い表わせないような美しさは、初恋の瞬間のときめき、きらめきを鮮やかに表現していて、ため息がもれる程の映画的な陶酔の世界を味わえます。 誰にとっても思い出とは、いつまでも永遠に美しいままで記憶されるもの、そんなチャン・イーモウ監督の優しい思いが伝わるようで、麗しき映像は郷愁さえも呼び覚ましてくれます。 そして、更には中国の何千年と続く悠久の大地、黄金色の麦畑、純白の雪原を鮮やかにとらえた映像が叙情性を高めてくれます。 正しく、息をのむようなシーンの連続です。 父母への追慕の気持ちは、息子である主人公の人生にも深みをもたらし、父の棺を担いで帰りたいと強情を張る老いた母と、父が去った学校を健気に守り続けた若き日の母が二重に重なった時、"過去と現在が一本の道で繋がり"、感動が一気に頂点に達します。 初恋の延長の上にある、母であるヒロインの長い人生を目のあたりにして、主人公の息子も我々映画を観る者も、一途に人を思う気持ちというものが、信じられないような"力"を生む事を知り、つらく厳しい事も多かっただろうが、それはそれで幸せな人生だったのだろうと心の底から強く感じます。 映画を観終えて思うのは、この映画のようにシンプルな物語からは、純粋な愛の力強さがくっきりと鮮やかに浮き上がってきます。 心が荒みかけているこの時代に、忘れかけていた素直な感動を与えてくれる"愛の賛歌"とも言えるこの「初恋のきた道」をこれからも、心の宝石とすべく、何度も繰り返し観たいと思っています。
龍の忍者
この「龍の忍者」は、東映が協力した香港カンフー・アクション映画で、まず東映スタイルの忍者群の活躍場面が紹介されてから、舞台は中国へ。 隠棲する元伊賀流の忍者・田中浩を慕う、若者コナン・リーが、ユーモラスにカンフーの腕前を発揮するが、田中を父の仇と思い、日本から探しに来た真田広之が現われ、若い二人の対決となり、これに真田の恋人・津島要がちらりと絡む。 監督はユアン・ケイという人物だが、展開のテンポの速さや、場面処理の歯切れの良さは、従来の香港映画とはだいぶ違う。 東映側が相当、手伝っているのがうかがわれる。 真田が田中を襲う場面など、とても香港映画とは思えないタッチだ。 だが、お話そのものは散漫で、なんだかはっきりしないところもあるが、やがて、田中は自分が父の仇ではないことを真田にわからせ、リーと仲良くするように言い残して自殺する。 その光景を見て、真田が田中を殺したものと勘違いしたリーは、真田に決闘を挑み、五重塔のてっぺんで丁々発止と渡り合う。 ここは香港映画らしい、延々と続く、いつもの長丁場だが、さんざん闘ったあげく、二人が和解したところへ、邪教を操る男の一味が現われ、インスタントの祭壇を組み立て、二人に挑戦する。 ブルース・リー(李小龍)の凄味のあるアクションから、ジャッキー・チェン(成龍)のユーモラスなアクションへと、この映画の製作当時、カンフー映画の流れは移っていて、この映画もユーモラスな趣向が主体で、中国の妖術が、日本の刀には通じない、というお笑いもある。 この敵の親玉がやたらと強く、さすがの二人もたじたじになるが、いくら強くても、久米の仙人みたいにお色気には弱いと知り、津島要のお色気攻撃で、骨抜きになったところを、KOするというのがオチになっている。 それにしても、若き日の真田広之の、JACで鍛えた、キレキレのカンフー・アクションは、今観ても凄いの一言に尽きる程、素晴らしい。
ザ・ヤクザ
外国の監督が、日本を舞台にした映画を撮ってもめったに成功しないものだ。 必ず風俗的にチグハグで、ヘンテコなところが出てくるからだ。 だが、この映画「ザ・ヤクザ」は、稀に見る成功作だと言ってもいいと思う。 何しろ監督が「ひとりぼっちの青春」や「追憶」などのシドニー・ポラックだということと、ヤクザ映画(任侠映画)の本家・東映の全面的な協力のおかげで、おかしな失敗をしないですんだと思う。 アメリカで私立探偵をしていたハリー(ロバート・ミッチャム)が、友人のタナー(ブライアン・キース)から、ヤクザの東野(岡田英次)に誘拐された娘を取り戻してくれと頼まれて来日し、終戦の頃に愛し合った英子(岸恵子)と再会する。 彼女の兄だという健(高倉健)は、ヤクザの足を洗い、京都で剣道の師範をしているが、昔、英子がハリーに救われた"義理"を返すために協力を約束する。 ハリーと健は、タナーがつけてよこした若い用心棒のダスティ(リチャード・ジョーダン)も加えて行動を起こし、タナーの娘の奪還に成功する。 その結果、健もハリーも東野一味から狙われることになり、健の兄で全国ヤクザの長老格の五郎(ジェームズ繁田)を苦しい立場に立たせることになる。 シドニー・ポラック監督は、古めかしいフジヤマ・ゲイシャ的なイメージにこだわらず、1970年代当時の日本の自然な風俗の中で、物語を進めていて、安直なアクション映画のタッチではなく、腰を据えたドラマの味を出していると思う。 京都の大学の講師だった五年間に、ヤクザ映画の熱狂的なファンになったというポール・シュレーダーの原作もなかなかうまく出来ており、タナーが東野に密売する銃器の前払金を使い込んで、銃器を渡せなくなったため、娘を誘拐されたことがわかってから、場面は急テンポで緊迫の度を増していく。 そして、東野に脅かされたタナーが、ハリーの暗殺を企てたりしたあげく、ハリーが健と二人で、東野の邸へなぐり込みをかけるクライマックスへと至る。 健さんは日本刀、ミッチャムはショットガンと拳銃で暴れるこの修羅場は、カメラ・アングルにも工夫を凝らした、見応えのある一幕で、岡崎宏三の撮影が光っている。 健はこの乱戦で、東野の子分だった五郎の息子を殺す羽目になったため、指を詰める。 そして、健が実は英子の兄ではなく夫なのに、恩義のために自分たちの関係を隠していたという事情を知ったハリーも、侘びのしるしに指を詰めて健に送る。 "義理"というものが、本家の東映の映画より、合理的によくわかるのが面白い。 健さんも、ミッチャムも好演で、真の友情が生まれる経過がよく出ており、英語と日本語のまぜかたも上手くいっている。 そして、岸恵子もこの二人のバランスに相応しい配役だったと思う。
グロリア
女ハードボイルドの決定版「グロリア」は、タフで泣かせるラブストーリーの傑作ですね。 監督は、"アメリカン・インディーズの父"と呼ばれ、性格俳優としても知られる映画作家のジョン・カサヴェテス。 ハリウッドのシステムを嫌い、独自のゲリラ的な手法での映画作りの姿勢を貫いてきたカサヴェテス監督は、従来の映画には見られなかった、即興的なカメラワークと演技指導で映画に革命を起こした人ですね。 元ヤクザの情婦グロリア(ジーナ・ローランズ)とスペイン人の少年フィル(ジョン・アダムス)の関係は、母子愛的なものだが、二人が心を通わせていく様子は、大人の恋愛以上に絆の強さを感じさせてくれます。 グロリアは元々、子供とは縁のない世界で生きてきた女だ。 それが、同じアパートに住むギャング組織の会計士一家が惨殺された現場に居合わせたお陰で、その家族の少年を預かる羽目になる。 少年の母親の必死の頼みに、グロリアは最初こう言って断る。 「子どもは嫌いなのよ。特にあんたの子はね。」 実に、ハッキリした物言いの女だ。 孤独を引き受けてタフに生きる女は、優しさの安売りなど決してしない。 だが逆に、孤独を知っているからこそ、本当の優しさを心に隠し持っているんですね。 少年の生死を分ける切羽詰まった状況で、グロリアは少年を見捨てられず、彼をかくまってやることになる。 追って来る組織のチンピラどもに立ち向かうグロリアの凄み、これが非常にシビレるほどカッコいい。 「撃ってごらんよ、このパンク!」、ピストルを構えるその足元はハイヒール。スーツはエマニュエル・ウンガロ。 疲れた顔の中年女が、かつてこれほどクールだった事はなかったと思います。 全く、ジーナ・ローランズには痺れてしまいます----------。 安ホテルを泊まり歩く逃避行の中、グロリアと少年の信頼の度は、しだいに深まっていくのだが、グロリアの態度がこれまたクールなのだ。 少年に対して、可哀想な子供扱いは一切なし。 夜、寝る前に、自分のスーツをバスルームに下げてシワを取るようにと少年に言いつけたりする。 一方、少年の方は母親に言いつけられて、それをやるという感じではなく、何か同志のサポートをしているふうに見えてしまう。 一度、グロリアが少年に朝食を作ってやろうとする場面は、私がこの映画の中で最も好きなシーンだ。 フライパンで卵を焼いてはみたが、コゲついてしまい、グチャグチャになってしまう。 すると、いきなりフライパンごとゴミ箱に投げ捨てるグロリア。 結局、朝食はミルクのみ----------。 コワモテの女の優しさが乱暴な形で出るところが、いかにもグロリアらしくて、実にグッとくるのだ。 この映画は、ハードボイルドの衣をまとった「家族の物語」だと言えると思います。 グロリアと少年フィルの関係を通じて、カサヴェテス監督が描こうとしたのは、人種や血縁の壁を超えた、新しい人間関係の可能性と、その温もりだと思います。 彼らの背後には、大都市の"残酷と孤独"が、身も心も引き裂かんと牙をむいて待ち構えている。 そして、その厳しさを描き切ったからこそ、"幻想的なラスト"が、私の心に深い余韻を残したのです。 尚、この作品は、1980年度の第37回ヴェネチア映画祭で、作品賞にあたる金獅子賞を受賞していますね。
ミュージック・オブ・ハート
"ひとりの女性が自立していく姿を音楽を愛する気持ちを通して感動的に描いた「ミュージック・オブ・ハート」" この映画「ミュージック・オブ・ハート」は、「エルム街の悪夢」や「スクリーム」などの大ヒット・ホラー映画を生んだウェス・クレイヴン監督による感動の実話の映画化作品で、ニューヨークのイースト・ハーレムで、恵まれない環境の子供たちにバイオリンを通して生きる希望を与えた、実在の女性教師ロベルタ・ガスパーリの奇跡の物語を描いています。 離婚し二人の子供を女手ひとつで育てるロベルタは、唯一の才能を活かして小学校のバイオリンの教師になります。 犯罪多発地区のイースト・ハーレムで、人種差別や暴力と闘いながら、彼女は音楽の素晴らしさを熱心に指導し、子供たちも失いかけていた希望を取り戻していきます。 だが、教育委員会によってクラスが閉鎖される事になり--------。 この予算削減の影響を受け、閉鎖が決定した音楽教室を存続させるため、ロベルタはチャリティ・コンサートの実現に向けて奔走するのです。 生徒に音楽で夢を与え、自らも人間的に成長していくヒロインを、現代ハリウッド映画界の最高の演技派女優メリル・ストリープが熱演しています。 全体を通して、感動の予感はあるものの、大きな盛り上がりを迎える前に、次へと進んでしまう演出が惜しまれますが、それでもアイザック・スターンやイツァーク・パールマンら天才バイオリニストが多数出演する、音楽の殿堂カーネギーホールでの演奏シーンには思わず目頭が熱くなる程の感動を覚えてしまいます。 そして、子供たちの音楽を誇らしく思う表情と、いつも先生を見やる信頼に満ちた瞳が、爽快な印象を残してくれます。 それにしても、このメリル・ストリープの熱血教師ぶりにはあらためて、びっくりします。 彼女のいつものキャラクターからは想像も出来ないような乱暴な言葉も飛び出しますが、しかし、難しい年頃の子供、しかも、ハーレムの悪ガキを引っ張っていかなければならないのだから、それは必然的な厳しさと言えるのかも知れません。 事実、アメリカ全土に報道されたロベルタ・ガスパーリの授業風景は、思わず目を見張る程の厳しさだったそうです。 私生活でも離婚の痛手を引きずりながら、想像を絶する大変な教育現場をまとめていくロベルタの心の内面は、決して穏かなものではなかったろうと思います。 こうした試練を乗り越えていく彼女の心の支えになったのは、単なる教育理念や使命感ではなく、"無垢に音楽を愛する気持ち"そのものだったのだろうと思います。 この映画を観る前、私はハーレムに住むたくさんの子供たちを中心に据えた物語を予想していたのですが、実際に観てみると、ロベルタ・ガスパーリという一人の女性の成長を見つめる内容の映画でした。 その事により、彼女の人間性ばかりを追いかけた結果、メリル・ストリープの活躍だけがやけに目立ってしまったような気がします。 それでも、女性らしい不安な感情を隠そうともせず、一歩一歩自立していく姿はたまらなく魅力的に描き出されていたと思います。 つまり、この「ミュージック・オブ・ハート」は、まさに、メリル・ストリープによるメリル・ストリープのための映画なのだと思います。
王女メディア
この映画は、女の"怨念"のドラマだ。 もっと遡って、女というもの、母というものの原型を描いていると言ってもいいと思う。 原型だから、いっさいの夾雑物や、現代的な見せかけや、複雑さをはぎとって、女そのものがむき出しになる。 女の恐ろしさと悲しさと、女の愛の業の深さとが、異様な美しさと緊張で、観ている私の胸に迫ってくる。 それほど、息苦しいまでの凄みで、目がくらみ、打ちのめされるような映画だ。 この映画は、「奇跡の丘」や「アポロンの地獄」や「テオレマ」等の問題作を撮ってきた、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の作品だ。 例によって、荒涼たる砂塵に、パゾリーニ的な古代世界が現出する。 ギリシャ悲劇や神話で知られる王女メディアを演じるのは、イタリアの世界的なオペラ歌手のマリア・カラス。 マリア・カラスと言えば、億万長者のオナシスの愛人でもあった、欧州きっての"誇り高き女性"として有名だった人だ。 そのマリア・カラスが、狂おしい愛と、裏切られた女の遺恨と怨念とを、炎と燃やし噴出させるのだ。これは実に見ものだ。 そうしたメディアが、最初に登場するのは、バラバラ殺人の場だ。 兵士たちが旅の若者を捕えて磔にし、締め上げた首をバサリと斬り落とすと、あとは屠殺場みたいに、胴体を八つ裂きにする。 待ち構えていた村人たちは、その血と肉片を手に畑に走り、大地や作物になすりつける。 こうして、神にいけにえを捧げ、豊作を祈るのだ。 この残酷極まりない野蛮な儀式を、眉ひとつ動かさずに司る王女メディアは、だがイアソンと出会ったとたんに、バッタと倒れる。 彼のあまりの美しさに失神したのだ。 この瞬間から彼女は、狂おしい恋の虜になってしまうのだ。 このイアソンを演じるのは、メキシコ・オリンピックの三段跳びで銅メダルを獲得した、イタリア陸上競技界のスター、ジュゼッペ・ジェンティーレだ。 はるばる苦難の旅を続けてやってきたイアソンは、この国の宝物"金毛羊皮"を手に入れたい。 それを知った王女メディアは、神殿から"金毛羊皮"を盗み出し、彼と手をたずさえて逃げるのだ。 そして、逃げる途中の馬車で、彼女は同乗していた実の弟の頭上にナタをふり下ろして殺害し、首、足、手をバラバラに切って、路上に放り捨てる-------。 追っ手がそれをかき集めているうちに、逃げ切ろうというわけだ。 なんとも凄惨で、鬼気迫るショック場面だ。 そして、十年後、コリントス国に移り住み、今はイアソンとの間に二人の子供までできて、平和に暮らすメディアは、思いもかけぬ夫の心変わりにあってしまう。 彼は国王に見こまれて、その娘の婿に迎えられることになってしまうのだ。 嫉妬の鬼と化したメディアは、復讐のために魔力を使う。 彼女は、相手の王女に呪いをかけた結婚衣装を贈り、それを着た王女は、発狂して城壁から飛び降り、父王もまた後を追い、無惨な死をとげるのだった。 それにもまして、底知れぬ恐ろしさに観ている私を引きずりこむのは、メディアが愛する二児を殺す場面だ。 彼女は、子供たちを、静かに優しく、母の愛をこめて、最後の湯浴みをさせる。 自ら手を下す場面は描かれない。けれど、血塗られた短刀と、幼い兄弟の唇の端ににじむ血と、そして青白い半月の静寂と、やがて射しこむ朝日の輝きとが、この凄絶な"子供殺し"の無言の恐怖を、芸術的なイメージに昇華するのだ。 さらに彼女は、わが子の亡骸さえ夫に渡そうとせず、しっかり両わきにかき抱いたまま、館もろとも炎に包まれて、その炎の中から最後の憎悪を夫に投げつけるのだ。 女の執念とは、かくもおぞましい。 そして、何千年たっても変わらず、誰の内にも潜んでいることは、なお悲しい。
クリスマス・キャロル
"人間不滅のテーマであるヒューマニズムと善意の勝利を、ほのぼのと高らかに歌い上げた、ミュージカル映画の傑作「クリスマス・キャロル」" 「オリバー!」に続いて、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの原作「クリスマス・キャロル」が、再び慈愛に満ちたミュージカル映画として作られました。 監督は「ミス・ブロディの青春」「ポセイドン・アドベンチャー」のロナルド・ニーム。 このロナルド・ニーム監督は、「ミス・ブロディの青春」で見せた人間理解の深い、神経の細やかな演出を、今度は19世紀のロンドンを舞台に展開する、大人の童話とでもいったディケンズのミュージカル化に発揮して、古典調に統一された、渋くて格調のある、しかも、大変楽しい作品に仕上げていると思います。 しかし、この作品では、「ドリトル先生不思議な旅」をはじめ映画音楽では優れた仕事の多いレスリー・ブリッカスが、脚本と共に作詞・作曲を一手に引き受けているということを見逃すことができません。 ディケンズの原作を、巧みにミュージカルの見せ場を作って膨らませた脚色が、実に良く出来ているし、その中へはめ込まれている歌曲が、みんな優しさと慈愛に満ちていて、実にいいんですね。 この映画の主人公は、ドケチ根性に徹した街でも悪名高い、高利貸しのスクルージ老人。 クリスマス・イブで、街は陽気に賑わっているのに、彼の事務所では火の気もなく、平常の勤務時間の七時まで、一人の書記クラチットは、働かされているというのが、お話の出だしです。 見るからに因業な老人スクルージに扮するのが、かのサー・ローレンス・オリヴィエに認められ、彼の後継者とまで謳われた名優のアルバート・フィニーで、舞台役者らしく扮装がうまくて、ちょっとわかりません。 アルバート・フィニーは、私の大好きな俳優の内の一人で、特に「ドレッサー」「オリエント急行殺人事件」「火山のもとで」「トム・ジョーンズの華麗な冒険」での名演が忘れられません。 やっと古時計が七時を打って、クラチットは、僅か十五シリングの給料と一日の休暇を貰って解放されます。 街へ出ると、彼の五人の子供の幼い方の二人、脚の悪いティムと妹のキャセイが、高価な人形をいっぱい飾った玩具屋の明るいウィンドーをうらやましそうに覗いている姿が目に付きます。 それから父とその子たちは、クラチットが貰ってきたばかりのお金で、貧しく、つつましいながらも、彼らには年に一度の楽しいクリスマスの買い物をして歩きます。 店で一番安い品を買っても、最も高価なものを買う人よりも楽しく、嬉しそうな彼らの姿が、その歌と共にほのぼのと美しく感動的です。 クラチットを演じるデビッド・コリングスという俳優は、恐らくイギリス劇壇の人なのでしょう、とてもうまい。 とにかく、イギリス出身の役者はサー・ローレンス・オリヴィエを筆頭に、アレック・ギネス、レックス・ハリスン、リチャード・バートン、アルバート・フィニー、ピーター・オトゥール、アラン・ベイツ、トム・コートネイ、アンソニー・ホプキンスなどと、いづれも芸達者な演技派揃いだ。 そして、このティムとキャセイを演じる二人の子役が、また例によって可憐なのだ。 殊に、松葉杖をつく男の子ティム役を演じるリッキー・ボーモン坊やは、後で独唱など聞かせて泣かせます。 このクリスマスの買い物の歌をはじめ、それに続く一つ一つの歌曲が、それの歌われるどの場面でも、ドラマの流れにうまく溶け込み、"ドラマの精神"を分かりやすく表現して、画面を楽しく盛り上げていく点は、確かに脚本・作詞・歌曲の三位一体の妙味だと思います。 スクルージの昔の雇い主フェジウィッグ氏のクリスマス・パーティの歌と踊り「12月25日」、昔の恋人イサベルとの歌「幸福」、クラチットの家でティムがかぼそい声で歌う「すばらしい日」の歌。 そして、スクルージの幻想の中の彼の葬式の時と、フィナーレとの二回、全く別な意味を持って歌い、大勢の人たちが歌って踊って乱舞する「サンキュー・ベリイ・マッチ」など、レスリー・ブリッカスの力量が十分に発揮された素晴らしい見どころ、聞きどころになっています。 そして、この映画のもう一つの見どころは、特殊撮影のうまさ。 映画の大半は、スクルージがクリスマス・イブの夜半に観る幻想的な場面になっています。 まず、七年前に死んだ彼の共同経営者のマーレイの幽霊が現われて、過去・現在・未来のクリスマスの精霊たちが、代わる代わるやって来て、スクルージに"いいもの"を見せてくれるぞといった予告をするのです。 それを見て、お前も今のうちに改心しないと、俺のようになるぞよという、そのマーレイのいでたちがとても面白いのです。 このマーレイに「戦場にかける橋」の名優アレック・ギネスが扮していますが、この幽霊は怖いというより、何となくユーモラスな愛嬌があります。 その登場・退場など、特撮のうまさで実に自然なのです。 下手だったらこう面白くは見られない場面です。 マーレイと一緒に、浮かばれない死霊がいっぱいに駆け回っている天上へ行ったり、未来のクリスマスの地獄の底で、マーレイに出会ったりするところの特撮は、なかなかのものです。 そして、現在のクリスマスの精霊は、ケネス・モアが扮した陽気な快楽主義者。 ここでも、特撮が使われていますが、精霊はスクルージに、人生は一度しかないのだから、それをエンジョイしなければ、後で後悔しても追っつかないという、彼一流の"人生哲学"を教えてくれるのです。 しかし、それよりも、クラチットや、スクルージのたった一人の甥が、いくらスクルージがひどい取り扱いをしても、なお彼らはスクルージに対して温かい愛情や感謝の心を持って、彼のために乾杯をしてくれるということが、老人の頑なな心を感動させ和らげるのです。 未来のクリスマスでは、街の人々が、スクルージの死んだことを知って、これこそ天のお恵みと「サンキュー・ベリイ・マッチ」を乱舞するのですが、当のスクルージは、人々の感謝を素直に自分への感謝と受け取って、一緒になって踊るのが、実に切なく、滑稽です。 この場面では、スクルージから借金をしていて、その取り立てや利子に、利子の重なる厳しさに日頃泣かされている人たちが、たくさん登場しますが、群衆の音頭をとる屋台店のスープ屋のアントン・ロジャースが、これまた芸達者なところを見せてくれます。 こうして、スクルージは、一夜のうちに、過去・現在・未来のクリスマスの自分の姿を見せられている間に、彼の心をコチコチに固めて、誰からも嫌われていた、その守銭奴的な根性が、次第に人間的なものに解きほぐされ、温められていくのです。 彼が幻想の中に見たものは、たぶん彼の一夜の夢であり、また日頃は彼の心の底に閉じ込められていた、もう一つ別な彼であり、また、彼の"呵責の念"の現われであったのかも知れません。 けれど、彼の過去、青春の日を再び目のあたりに見た感慨、恋人イサベルに愛想つかしされた日の心の痛み、現在の隣人たちに人間嫌いの自分のしていること、それに対する彼らの反応。 やがて、その自分が、惨めな死を迎えるのを見ることの恐ろしさ、そうしたものが、彼をいわゆる改心へ導いていく様が、この映画では自然なこととして頷けるのが、実にいいのです。 そして、頷けるばかりではなく、人間は本来、"善なる性"を持っていて、どんな性悪に見えるものでも、その本来の呼び声には、結局は答えていくものなのだといったことを考えさせられ、感じさせられます。 ヒューマニズムは、やはり人間不滅のテーマであり、結局はそれが最後の勝利となるのだというのが、スクルージの中に描かれた"チャールズ・ディケンズの人生哲学、人間観"なのだろうと思います。 しかも、ディケンズは、イギリスの作家だから、そうしたヒューマニズムを生のまま突き出して、私たちに歯の浮くような思いをさせることはしないのです。 得意の苦く辛い諧謔の粉を、とっぷりとまぶして、私たちが、まずそのピリリとした味を噛み締めながら、おもむろに、この歪められ、汚濁した社会の中で、究極的に人間を救うものは何か、それは"人間の善意"なのだという一つの真実につき当たる仕掛けになっているのだと思います。 そして、そこへいくまでの紆余曲折のドラマが、ディケンズの世界のたまらない面白さなのだと思います。
アラベスク
スタンリー・ドーネン監督のロマンティック・コメディ「アラベスク」は、主演が、私が最も好きな男優のグレゴリー・ペックとイタリアの大女優ソフィア・ローレン。 何でもこの映画は、ソフィア・ローレンが、大のグレゴリー・ペックファンで、一度でいいから、ペックと競演したいという夢があり、それが叶った映画という事で有名です。 恐らく、「ローマの休日」のペックを観て、胸キュンとなったのかもしれませんね。 この映画でのソフィア・ローレンの役は、グレゴリー・ペックの前に突然、現われ、彼を翻弄する謎の美女といった役です。 アクション盛りだくさんのサスペンス映画なのですが、ローレン自身が拳銃を振り回したりという、そんなシーンはありません。 監督のスタンリー・ドーネンは、ミュージカル映画の監督として有名ですが、こういう洒落たサスペンス映画も撮っているし、1本だけれどもSFも監督しているんですね。 その中でも、最も有名なのが、「雨に唄えば」と「シャレード」ですね。 言語学者であるデヴィッド・ポロック(グレゴリー・ペック)が、古代アラビアの象形文字の解読を依頼されます。 ところが、引き受けた途端に、彼の身に危険が次々と降りかかり始めます。 ヤズミン(ソフィア・ローレン)という謎のアラブ美女が、彼の味方になってくれるのですが、どうも彼女の言うことは、嘘が多いので、デヴィッドは、彼女に翻弄されてしまいます。 いったい、彼女は味方なのか敵なのか? 最後の最後までわかりません。 そのあたりのスタンリー・ドーネン監督の演出は、なかなかうまいと思いますね。 加えて、この映画は、アクションシーンも実に豊富です。 動物園、水族館、高速道路、そして、ラスト近くは、牧場で西部劇さながらの馬でのチェイスシーンまであるサービスぶり。 もう、本当に嬉しくなってしまいます。 007も真っ青のアクション映画ですよ、これは。 とにかく、主人公が、刑事でもスパイでもなく、大学の言語学の教授というところが、いいですね。 知的でインテリジェンスに溢れたグレゴリー・ペックには、もうドンピシャのはまり役ですね。 素人っぽいドジをしまくりながらも、果敢に敵に立ち向かい、象形文字の謎を解明しようとする、グレゴリー・ペックが、実に楽しそうに演じていて、とても素敵です。 もちろん、ソフィア・ローレンも、謎の美女を妖艶に演じていて、ペックとの競演が本当に嬉しそうだなという事がわかり、好感が持てましたね。
エクソシスト
この映画「エクソシスト」は、現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念を描いた、映画史に残る傑作だと思います。 この映画「エクソシスト」の製作、原作、脚色は、ウィリアム・ピーター・ブラッティで、彼は、それまでにも「暗闇でドッキリ」とか「地上最大の脱出作戦」等、数多くのコメディ映画の脚本を書いていますが、コメディと違ってこの「エクソシスト」が、果たして成功するのかどうか、全くわからなかったと彼は語っています。 彼の両親は、シリアとレバノンの生まれで、映画の冒頭に出てくる中東の廃墟の場面は、彼の出生とアメリカ情報局勤務当時の、その地での記憶と深く関わりがあると言われていますが、映画の本筋からは少しそれた感じを受けました。 それより、むしろ、この映画の実質的な、本当の意味での主役ともいえる、ギリシャ移民の子であるカラス神父(ジェーソン・ミラー)の、アメリカ社会から疎外されたような孤独な姿の中に、ウィリアム・ピーター・ブラッティの生い立ち、人間像、系譜といったものが生かされているような気がします。 この映画が、初めて公開された当時の日本では、ユリ・ゲラーの"スプーン曲げ"がもてはやされ、超能力やオカルト現象がブームを巻き起こしていました。 科学万能やエレクトロニクス革命の時代への反動のように、超常現象への関心が異常な程、高まっていました。 この事が「エクソシスト」を頂点とする、いわゆる"オカルト映画"のブームとなって現れたことは間違いありませんが、それは単に表層的なオカルト映画や見世物の恐怖ではなく、神と悪魔の存在を信じる欧米人にとっては、「エクソシスト」を始めとする一連のオカルト物は、彼らの心に奥深く突き刺さり、恐怖と戦慄を呼び起こしたのではないかと思います。 この映画のストーリーは、1949年のメリーランド州のある町で、14歳の少年の身に実際に起こった事件が元になったという事で、この少年は、3カ月に渡って悪霊に苦しみましたが、カトリックの"悪魔祓い師"(エクソシスト)によって解放されたそうです。 しかし、本当にこのような事実があったのかどうか、そして、カトリックの秘法によって人間の心が救われるのかどうか----我々、現代人にとってはなかなか信じ難い事です。 ましてや、キリスト教の歴史や背景や教義について、ほとんど知らない我々日本人にとっては、この映画の宗教的な本当の深さは、到底、わかりようがない気がします。 映画「エクソシスト」で描かれる、悪魔に取り憑かれた12歳の少女リーガン(リンダ・ブレア)の異常でおぞましい振る舞いは、むしろ滑稽でもあり、生理的な嫌悪感しか感じさせません。 悪魔の所業を示す音響効果や特撮も、反対にその実在感というものを希薄にしているような気がします。 むしろ、病院で再三再四繰り返される、脳や脊髄の近代的な医学検査の残酷さこそショッキングであり、また、カラス神父が自分の老母を貧窮の中に死なせる、ニューヨークの精神老人病棟の悲惨な状況の中にこそ、現代の悪霊そのものの姿を感じてしまいます。 カラス神父の、神に一生を捧げたばかりに、精神病の医者の資格を持ちながら、愛する母親を生ける屍のように放置しなければならなかった苦しみは、少女の悪霊に白髪の老母の姿を見て、その声を聞き間違う程に深いものがあったのだと思います。 そして、少女に巣食った悪霊を自らの心に受け入れて、身を捨てるカラス神父の壮絶な最期は、"現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念"を我々観る者の魂の奥底に突き付けてきます。 この「エクソシスト」は当時、評判になったような少女リーガンの異常で、怪奇的なオカルトタッチの姿にその興味を持つのではなく、悪魔祓い師(エクソシスト)の"カラス神父の絶望の淵に深く沈みこんだ心"にこそ、焦点をおいて観るべきなのだと強く思います。 半ば壊れかかったアパートで、一人ラジオを聴き、病院のベッドで顔をそむけ、そして、地下鉄の入り口に幻のように現われる老母の姿は、カラス神父にとっては、少女リーガンに取り憑いた悪霊そのものです。 そして、この悔恨の悪霊は、乱れた男女関係その他、諸々の人間関係から生まれた、この世の邪悪と共に、この純粋で無垢な少女の身を借りて、醜い悪魔となって、この世に現われて来たような気がします。 そして、メリン神父(マックス・フォン・シドー)とカラス神父の二人の死というものを代償にして、やっと追い祓われる悪魔は、実は"現代社会の中で、人それぞれに歪められてしまった心そのもの"である事を暗示的に示しているのだと思います。 原作、脚色のウィリアム・ピーター・ブラッティと監督のウィリアム・フリードキンの、この映画に情熱をかけた真の狙いもそこにあったのだと思います。
スコルピオンの恋まじない
ウディ・アレン監督がハワード・ホークス、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー監督への限りなきオマージュを捧げた小粋でお洒落な作品が、「スコルピオンの恋まじない」だ。 毎回、今度はどんな手で来るのかと、我々映画ファンをワクワクさせてくれる、ウディ・アレンの映画------。 この映画「スコルピオンの恋まじない」は、1940年代のハリウッドのスクリューボール・コメディの復活を目論んだ、ウディ・アレンらしい小粋で、お洒落な作品です。 主人公のC・W・ブリッグス(ウディ・アレン)は、昔気質の保険調査員。 そんな彼の前に、超合理主義者のリストラ担当重役のベティ・アン・フィッツジェラルド(ヘレン・ハント)が、立ちはだかります。 水と油、まさに犬猿の仲の二人。 そんな二人がある日、ナイトクラブで胡散臭い催眠術にかけられてしまい、文字通り、"恋の魔法"になっていく-----という、思わずニンマリとしてしまう程、スクリューボールな展開になっていきます。 この二人、顔を合せれば、凄まじい言い争いを始めてしまうのですが、結局、この攻防も二人の仲を高めるためのプロセスであり、スクリューボール・コメディの定石が、この映画にはドンピシャと当てはまります。 この二人の饒舌ともいえるセリフの応酬を見ていると、真っ先に思い出すのが、ハワード・ホークス監督のケーリー・グラントとロザリンド・ラッセル主演の「ヒズ・ガール・フライデー」で、オフィスのレトロな雰囲気や同僚達とのアンサンブルまでよく似ていて、嬉しくなってきます。 ウディ・アレンも公言している通り、この映画はハリウッドの黄金時代の名画の数々へのオマージュが散りばめられていて、映画ファンとしては、ウディ・アレンの映画への限りなき愛に共感し、この映画に陶酔させられてしまいます。 インチキ魔術師の呪文に踊らされて、次々に宝石を盗んでいくブリッグスとベティ・アンですが、これは泥棒カップルの騒動を描いた、ハリウッド黄金期のソフィスティケイテッド・コメディの巨匠エルンスト・ルビッチ監督の「極楽特急」の設定を思わせ、ウディ・アレン監督のセンスの良さを感じます。 ブリックスにかけられる呪文"コンスタンチノープル"は、「極楽特急」でもお洒落なキーワードとして使われているので、思わずニャッとしてしまいます。 また、主人公の仕事が保険会社の調査員というのは、名匠ビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白」と同じですし、更にソフト帽にトレンチコートというブリッグスの格好は、ウディ・アレンが敬愛してやまないハンフリー・ボガートが主演した、ハワード・ホークス監督の「三つ数えろ」での私立探偵のスタイルにそっくりで、大いに笑わせてくれます。 このように、ハワード・ホークス、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー監督といった、巨匠達の映画世界からヒントを頂戴しつつも、きちんとウディ・アレン・テイストに仕立て上げているところが、彼の凄いところだと感心してしまいます。 考えてみると、役者としてのウディ・アレンが、そこに登場するだけで、その映画はウディ・アレン・オリジナルになってしまう凄さ。しかも、過去に彼が好んで演じた、"冴えない神経症の男"といったハマリ役を捨て去って、"デキル男"を溌剌と演じても、全く違和感なく、すんなりと馴染んでしまうから不思議です。 この映画が魅力的なのは、ひとえに偉大な過去の巨匠達に対するウディ・アレンの少年のように純真な、一人の映画ファンとしての心で満ち溢れているからだと思います。 この映画のようにシンプルで、奇をてらう事のない作品は、なかなかないと思うし、映画において、わかりやすさや親しみやすさが、いかに大切な事であるかを痛感させられます。
少林サッカー
この映画「少林サッカー」は、ヒーロー漫画へのノスタルジーに満ち溢れた、とにかく観て大爆笑する理屈抜きに面白くて楽しい映画ですね。 監督・主演は、ドニー・イェンと共に、世界中でブルース・リー(李小龍)を最も愛する男チャウ・シンチー。 少林拳を世界に広めるために、かつて少林寺で学んだ6人の仲間が結集してサッカーチームを作り、ハイテク・トレーニングや筋肉増強剤で人間サイボーグと化したデビルチームと対戦する事に。 カンフーを自由自在に操り、超人的なスピードで展開されるプレーの数々。 一昔前のスポ魂ドラマを思わせるストーリー展開に、シュールな即興ギャグのつるべ打ち。 とにかく、面白すぎます!!! この映画は、"ノスタルジー"というツボに弾丸シュートを決めてくれるのです。 それも懐かしいヒーロー漫画へのノスタルジーなのです。 とにかく試合のシーンが凄い、凄すぎます。 ボールは火を噴き、人は宙を舞う。「そんなアホな!」と思わず突っ込みたくなるような超人プレーのオンパレード。 これは、まさしく漫画「キャプテン翼」の世界そのものなのです。 どうせ映画、フィクションなんだからと、"開き直ったような潔さ"が、この映画に比類なきパワーを与えているのだと思います。 そう、ヒーローは何だってやり遂げてしまうのです。 香港映画伝統のワイヤー・アクションや最新のCG技術も、この漫画的な世界感を映像化するための単なるツールに過ぎず、リアリズムの価値をはき違えた最近の映画には、このフィクションが生み出す途方もなく、底なしの興奮が希薄になっているので、そういう意味からもこの映画の価値があるように思います。 おおよそカンフーの使い手には似つかわしくない肥満の男やおっさんに、ブルース・リー気取りのキーパーなどなど。 ブルー・リーおたくのチャウ・シンチー、やっぱり、ブルース・リーへのオマージュをしっかり映画の中で描いています。 対するは、コテコテの悪役。ダメ人間が巨悪を討つ。 このカタルシスも、ヒーロー漫画へのトリビュートになっていると思います。 そして、このようなおバカなキャラクターを照れる事もなく堂々と演じ切った面々に拍手を送りたいと思います。
アザーズ
1945年、第二次世界大戦末期のイギリスのジャージー島。出征した夫の帰りを待つニコル・キッドマン扮するグレースは、広大な屋敷で二人の子供と暮らしている。 子供達は、極度の光アレルギーで、屋敷の窓という窓には、いつも分厚いカーテンがかかっている。 ある朝、屋敷に三人の新しい使用人がやって来る。 そして、その日を境に、数々の不可解な現象がグレース一家を襲い始める。 屋敷の中に見えない何者かが入り込んでいる。それは一体誰なのか? というスリリングな物語ですね。 近年のホラー映画は、スプラッタやサイコ系が主流を占めていると思います。 確かに、死者の魂や幽霊といった宗教観は、IT全盛の現代にあっては、いかにも古臭いという感じは否めません。 そんな中、アレハンドロ・アナーバル監督は、オールドスタイルのゴシック・ホラーに、恐怖演出の原点を見出し、古典への帰着を起点として、新たなゴシック・ホラーを創造しようと試みていると思います。 この点が、私がこの作品を好きな理由なんですね。 誰もいない部屋から聞こえてくるピアノの音、不気味にはためく窓辺のカーテン、死者の写真、闇夜に浮かび上がる洋館、といった怪奇演出は、怪談文化をバックボーンに持つ、我々日本人のセンスにもしっくりと馴染むような気がします。 何を見せて、何を見せないのか。これは恐怖映画の永遠の命題だろうと思います。 アレハンドロ・アナーバル監督は、ヒッチコックの映画から多大な影響を受けたと語っていますが、ヒロインが見えない存在への恐怖に浸食されていくという観点から、とりわけ「レベッカ」の表現技術を意識していると思います。 そして、見えないものに息を与え、得体の知れない恐怖を生み出すことに成功していると思います。 さらに、グレース・ケリーやジョーン・フォンテーンといった、ヒッチコック映画のヒロインを思わせるニコール・キッドマンのクール・ビューティーぶりが、もう素晴らしいの一言に尽きますね。 情緒不安定なヒロインの錯綜する心理を見事に演じ、恐怖とインパクトを増幅させてくれます。 この映画の売りは、なんと言っても、やはり衝撃のドンデン返しにありますね。 しかし、この映画はスマートなストーリー・テリングを尊重しており、そのためには、中途で少しぐらいのヒントなら見せても構わないと考えているフシがありますね。もちろん、全ては緻密な計算に基づいてはいますが。 そして、最後はとても哀れで悲しい物語として完結するんですね。 生者と死者の世界のあやふやな境界線に、深い思いを馳せずにはいられません。 オチを知ってしまった今でも、もう一度観てみたいと思わせてくれるんですね。 光と闇の巧みなコントラストが、この映画を完璧な恐怖映画に仕立て上げていると思います。 この映画では、暗闇はサスペンス、光はショックを演出しています。 暗闇は恐怖の余り、真相が見えなくなっていることを象徴し、光は子供を殺し得る危険なもの、最後には視点を変える契機として、劇的な役割を果たしているのだと思います。
ストレイト・ストーリー
この映画「ストレイト・ストーリー」は、旅を続ける事で、自分の人生に決着をつけようとする、ひとりの老人の姿を通して、人間の生きる意味を淡々と問いかける珠玉の名作だと思います。 この映画「ストレイト・ストーリー」は、実話をもとに「ワイルド・アット・ハート」の鬼才デヴィッド・リンチ監督が、それまでの作風と180度違う、シンプルで心暖まるロード・ムービーの誕生は、多くの映画ファンを驚かせた事でも有名で、何度観ても、本当に心に残る珠玉の名作だと思います。 10年来仲違いをしていた兄が心臓発作で倒れたと知った73歳のアルヴィン(リチャード・ファーンズワース)は、和解するために、何と時速8kmのトラクターで560km離れた兄の暮らすウィスコンシン州へと6週間の旅をするのです----。 映画を観終えた後、アメリカの地図を見てみると、出発したアイオワ州のローレンスから、目的地のウィスコンシン州のマウント・ザイオンまでの道程を確認した時、あらためて感動が心の底から甦って来ます。 トウモロコシ畑の中の一本道を、ひたすら真っ直ぐに進むだけのシンプルな物語は、まさにストレイトなストーリーになっていると思います。 主人公のアルヴィン爺さんが旅先で出会う人々との交流は、まさに、"一期一会"の精神にも合致するもので、何ともほのぼのと心がじんわりと暖まって来ます。 ぶっきらぼうだが、確固とした信念に基づいて人生訓を語り掛ける彼のその姿には、嫌味のかけらもなく、実に素直に、自然に聞けてしまうから不思議です。 それは、何よりもアルヴィンを演じるリチャード・ファーンズワースの存在抜きでは考えられません。 彼の演技を超越した名演技は、この老主人公の背負ってきた人生の年輪の重みを感じさせてくれます。 また、ベテラン・カメラマンのフレディ・フランシスによる、壮大な俯瞰シヨットで捉える"アメリカの原風景"は、ため息がこぼれるほどの美しさです。 ノロノロと進むトラクター。ゆっくりと進む事で初めて見えてくるものがあるのです----。 空の大きさ、星の美しさ、自分自身の人生----。 考えてみれば、この長い旅路は、アルヴィンの人生そのものなのかも知れません。 頑なに独立独歩で旅を続けるアルヴィンは、この旅で自分の人生に決着をつけようとしているのかも知れません。 そこには、何かをやり遂げる事で、自分の生きてきた証を残そうとする、力強い気骨というものを感じてしまいます。 そして、バスにでも乗れば早いところを、敢えて苛酷な野宿の旅を選択したアルヴィンの実直さに、思わず目頭が熱くなって来るのです。 長い旅路の果て、アルヴィンは兄と再会します。 アルヴィンの心の中では、和解なんてもうどうでもいい。 ただ子供の頃のように、二人一緒に夜空の星を見上げていたい。そんな二人の間には、もはやどんな言葉もいらないのです。 ここで、カメラがスッと立ち上がり、満天の星空を映し出すのです----。 私が今まで観て来たたくさんの映画の中でも、指折り数えるほどの美しいエンディングだったと思います。 この映画を観終えて、再び思う事は、この映画は本当に、あのデヴィッド・リンチ監督の映画なのだろうかと----。 実際、これまでにリンチ監督が真正面から描いてきた暴力や狂気は、映画の背後に塗り込められ、驚くほどヒューマンな感動作に仕上がっていると思うのです。 しかし、世の中の"ダークサイド"を抉り出してきたリンチ監督が、"ブライトサイド"も含めた表裏一体の世界感を持っているのは、何も不思議な事ではなく、むしろ、世の中には昼と夜があるように、当たり前の事なのかも知れません。 それ以上に、実話としてのアルヴィン・ストレイトという一人の人間の偉業の前では、作り手であるリンチ監督の個性や作為的な演出など、もはや蛇足なのかも知れません。 とはいえ、奇をてらわない、さり気ない演出は、やはり確かな技量を持つデヴィッド・リンチという名監督だからこそ、なせる業なのだと思います。 なお、この映画は1999年度のニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀主演男優賞と最優秀撮影賞を受賞しています。
ギャング・オブ・ニューヨーク
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スリーピー・ホロウ
この映画「スリーピー・ホロウ」は、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールド全開のゴシック・ホラーの大傑作だ。 とにかく、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールドに魅せられる素敵な映画です。 この「スリーピー・ホロウ」は、ワシントン・アーヴィング原作の「スリーピー・ホローの伝説」の映画化作品で、ティム・バートンが当時、「シザー・ハンズ」、「エド・ウッド」に引き続き、盟友のジョニー・デップとタッグを組んだゴシック・ホラーです。 ジョニー・デップはティム・バートン監督の思わずニヤリとしてしまう、ちょっとばかりズレたユーモアと余程、相性が合うのだと思います。 実際この映画を観てみると、シリアスでありながら、どこかピントのずれている主人公のキャラクターは、もうデップ以外には考えられません。 デップも共演のクリスティーナ・リッチも一応、美男美女の部類に入るとは思いますが、いわゆる正統派の美形には見えず、こういうところもバートン監督の好みだろうと思われ、とにかく、デップとリッチは古色蒼然たるこのゴシック・ホラーにはぴったりの配役だと感心してしまいます。 18世紀のニューヨーク郊外の村、スリーピー・ホロウでは夜な夜な馬に乗って現われては住人の首を掻き切る"首なし騎士"が人々を恐怖のどん底に陥れていました------。 斧を振りかざした"首なし騎士"が、漆黒の馬にまたがり、闇夜を疾走する場面の"絵"になる事といったらありません。 村を丸ごと作ってしまったというセットも素晴らしい雰囲気を醸し出していますし、霧が立ち込める不気味な夜は、色彩も美しく、優れて絵画的でもあります。 つまり、この映画はまさしく、現代の映画作家の中で、最も寓話的な作家であるティム・バートン監督による"ファンタジーな絵本"の世界を映像化したものだと思います。 そして、これらの幻想的でダークな、鳥肌が立つくらいに綺麗で美しい映像を撮影しているのが、何と「ゼロ・グラビティ」、「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、「レヴェナント:蘇えりし者」で3年連続でアカデミー賞の最優秀撮影賞を受賞という快挙を成し遂げた、メキシコ出身の天才撮影監督のエマニュエル・ルベツキ。 初めてこの映画を観た時、この撮影は何と凄いのだろうと衝撃を受けた時の記憶が甦り、当時からルベツキの撮影技術が素晴らしかったという事がわかります。 バートン監督はこの映画の前に撮った「マーズ・アタック!」で、SF映画をおもちゃの世界にして楽しませてくれ、今回はゴシック・ホラーの世界で魅せてくれました。 この既成概念にとらわれたホラーというジャンルを手玉に取って、自らの作家性で塗り潰してしまう語り口は、紛れもなくバートンワールドそのものです。 また、この映画にはかつて、バートン監督が偏愛した1960年代のハマー・フィルム社の"怪奇映画"に対するバートン監督のリスペクト、オマージュに満ち溢れています。 バートン監督は、「当時の怪奇映画は映像的には美しかったが、スタジオ撮影のシーンとロケ撮影のシーンとの間に大きな隔たりがあった。 その隔たりを埋めようとして、セットはもっと現実っぽく、実際の風景は作り物っぽくなるようにした」と語っていて、バートン監督のこの狙いが見事に成功していると思います。 更に、"首なし騎士"の造形に見られるように、バートン監督が、「シザーハンズ」、「バットマン」、「バットマン・リターンズ」で描いてきた"異形の者"への偏愛も健在で、それまでに磨いてきた映像テクニックを縦横無尽に使い分け、自分の創造性を"さらり"と表現してみせる技を習得した彼は、まさに円熟の境地に達した感があります。 そして、この映画の最大の見どころはやはり、ヘンテコで奇妙な器具をこねくり回して、頑固な程に科学的な捜査を試みるジョニー・デップと村の迷信的な存在である"首なし騎士"との対決です。 科学的な合理性と超自然的な怪談の激突を、"頭でっかちな男VS首なし騎士"の対決として象徴的に描いているのが面白くてたまりません。 この"首なし騎士"を演じるクリストファー・ウォーケンの唸り声以外、セリフが全くないにもかかわらず、あの"美しくも怖い顔"で、我々観る者を恐怖のどん底に落とし込む程、怖がらせてくれて見事の一語に尽きます。 本当にクリストファー・ウォーケンは「ディア・ハンター」での演技がそうであったように、エキセントリックな役がよく似合う、本当に凄い役者だなといつも思います。 デップが古い伝説的な迷信にとり憑かれた村人に囲まれて、ひとり大真面目に捜査を行なう様子はいささか滑稽で、いざという時に臆病風邪を吹かせてしまうというキャラクターにも愛着が持てます。 そして、バートン監督は、我々観る者に謎解きという知的ゲームを与えておきながら、全く考える余裕すら与えない程に衝撃的な首切り殺人や戦慄の映像を畳みかけ、観ている側を完全にパニック状態に陥らせてしまいます。 そして、苦悩する主人公のデップと同様に、我々観る者の、理性を保とうとする機能までも破綻させてしまいます。 この演出技法には全くお手上げで、本当に心憎い監督です、ティム・バートンは------。 映画の終盤には、西部劇ばりのワクワクするような、血沸き肉躍る、騎馬チェイスが用意されていて、エンターテインメント性にも満ち溢れていて、カルト的なのに大娯楽映画。 これこそが、まさにバートン監督映画の魅力であり、彼のように鮮やかに自分の趣味とビジネスを両立させている監督は、長いハリウッド映画の歴史の中でも、極めて稀な存在だと思います。
人間の証明
人間の虚栄と孤独の底から証明される人間そのものとは何かという原作のテーマを映画的サスペンスの世界で描いた角川映画が「人間の証明」だと思う。 この映画「人間の証明」は、角川春樹事務所の「犬神家の一族」に続く第2回作品で、製作が角川映画、配給が東映、興業(上映)が東宝という三者協力体制であり、これに撮影の現場を担ったスタッフの日活が加わっての日本映画界にとっては異例づくめでの公開でした。 原作は当時のベストセラー作家の森村誠一の第三回角川小説賞の受賞作で、脚本は当時としても異例の一般公募を行ない、結果としてプロの脚本家の松山善三が第一位となり、監督は「新幹線大爆破」等のサスペンス物を得意とする佐藤純彌、音楽に「犬神家の一族」やアニメのルパン三世でおなじみの大野雄二を起用し、このような多角的な角川旋風が、当時の沈滞していた日本映画界に新風を吹き込んだ事でも知られる作品です。 しかし、このような日本映画界にとっての異端児の作品に対する当時の評価は、「まとまりの悪い、消化不良の大作」、「ツッパリに見合う新鮮さもなく、中身は母もの悲劇」、「読み捨ての域を出ず、国籍不明映画」、「見世物多すぎ、焦点ボケ」等と厳しいものでした。 「見てから読むか、読んでから見るか」という言葉が、この映画の宣伝に使われていますが、個人的には、この映画の場合、まず原作を読んで、現在の東京とニューヨークを結び付け、更に太平洋戦争直後の傷跡に遡って、"人間の虚栄と孤独の底"から証明される人間そのものとは何かという事を沈思黙考して、ゆっくりと考える事が先にあった方がいいと思います。 原作の森村誠一が、この小説のあとがきの中で、「論理性だけでなく、人間性が犯人を討ち取るような推理小説」と書いていて、原作の本文中の「八杉恭子は、自分の中に人間の心が残っていることを証明するために、すべてを喪ったのである。棟居は、人間を信じていなかった。だが決め手をつかめないまま恭子に対決したとき、彼は彼女の人間の心に賭けたのである。心の片隅で、やはり人間を信じていたのだ」という一節が、この原作の小説の重要なテーマだと思います。 そして、原作と映画の脚本とを比較してみると、主人公が原作の棟居刑事(松田優作)から、映画では八杉恭子(岡田茉莉子)に移っています。 また、映像美を強調するために恭子は女性評論家ではなく、ファッション・デザイナーに変えられています。 それから、ニューヨークの場面も車の追跡という映画的な見せ場も追加されています。 そして、特に、人間を証明するという最も重要な場面が、原作では、棟居刑事が恭子から自白を勝ち取るところに重点がおかれているのに対して、映画では、棟居刑事が自白を迫るガレージの場面から、更に、華やかな表彰式での恭子の告白、そして霧積での投身とそれを許す棟居刑事という場面にまで発展させています。 このようなテンポの早い映画的な展開も、原作を先に読んでいれば、非常にわかり易いと思います。 また、外国人スタッフだけを使ってのニューヨークロケもさほど違和感もなく、映画のラスト近くの、霧積からニューヨークへの映画的展開も実にうまいと思います。 そして、ケン刑事(ジョージ・ケネディ)の最後の死は、終戦の決着でもあるのかも知れません。
チャイナタウン
この映画「チャイナタウン」は、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドへのオマージュを込めたハードボイルド探偵映画の傑作だと思います。 この映画「チャイナタウン」の舞台となっている1930年代のロサンゼルスは、アメリカ社会が東海岸から西海岸へと発展の波を広げて行った時期に、太平洋岸最大の近代都市を形成しつつありました。 だが、そうした急速な膨張の反面には、かなりの無理がまかり通って来るもので、当然の事ながら、そこには不当な利権や醜い政治的な裏取引が蔓延して来ます。 この映画は、そのような時代背景の中に、それぞれの数奇で不条理な宿命とでも言うべき運命を背負って、哀しみの中で生きる人間たちの苦悩、葛藤をスリリングに、尚且つドラマティックに描いています。 レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドという二人のハードボイルド・ミステリー作家へのオマージュを込めて、しかも、ロバート・タウンのオリジナル脚本によって、それまでのどの映画よりも1930年代のロサンゼルスのハードボイルド探偵映画らしく映画化されていて、複雑で錯綜する話の内容をハードボイルド的なサスペンスでたたきこんでゆくので、一時たりとも画面から目が離せません。 ストーリーや当時の風俗やしぐさが、それらしいだけではなく、この映画製作に携わった人々は、"ハードボイルド的世界の精神"をきちんとつかんでいるし、主役の過去を秘めた虚無的な私立探偵ギテスを演じるジャック・ニコルソンの"シニシズムと人間臭さ"がまた映画好き、探偵小説好きにはたまらない魅力があります。 そしてロバート・タウンは、ジャック・ニコルソンとは長年の親友で、彼を念頭に置いてこの脚本を書いたと言われるだけに、ジャック・ニコルソンの魅力を十二分に引き出していると思います。 この映画は、1930年代のロサンゼルスの陽光きらめく太陽の底に淀む、退廃的なムードと虚無感に満ちた、陰湿な世界が展開されていますが、脚本のロバート・タウンは、そのレイモンド・チャンドラー的ハードボイルドの世界を見事に再構築していると思います。 監督は「戦場のピアニスト」、「ローズマリーの赤ちゃん」の名匠ロマン・ポランスキーで、彼は1933年生まれのポーランド系ユダヤ人で、第二次世界大戦中にその子供時代を過ごし、母親をナチスの強制収容所で失うという、悲惨で哀しいトラウマを抱えた過去を持っています。 「私の最も辛かった時期は子供時代である。----ドイツ兵がゲットーを一掃した頃から、私は肉体的苦痛と恐怖のギリギリを味わって来たのだ。----そして私は人生の早い時期に、政治的思想を持ち行動にも参加した。だが私は信じられないような多くの失望を味わった」と語る彼の言葉は、この映画の持つ"戦慄と人間不信"の背景となっているような気がします。 そして彼の妻は、彼の子を身籠ったまま、狂信的なヒッピーに惨殺されたあの女優のシャロン・テートであり、その恐ろしい事件の地、ハリウッドに再び戻ってこの映画を撮りました。 そして、彼はこの映画に冷酷な殺し屋の一人として特別出演していて、存在感のある演技も披露しています。 この映画のラストの30分の思いがけない意表を衝く結末については、これは有名な話ですが、監督のポランスキーと脚本のロバート・タウンで意見が分かれ、ポランスキーの主張する不幸な結末でなければ、この映画のテーマが台無しになってしまうという意見が通り、この結末になったそうですが、やはりラストはこの結末以外には考えられません。 警察も手が出せない政財界の大物であるクロス(ジョン・ヒューストン)が、「時と所を得れば人間は何でも出来るのだよ」という神をも恐れぬセリフは、ポランスキー監督の人間不信の言葉でもあるような気がします。 このクロスを「マルタの鷹」等のハードボイルド映画の監督でもあるジョン・ヒューストンが、実に憎々しげでアクの強い人間像を演じて見事です。 そして、クロスの娘であり、また女でもあるという"複雑で哀しい宿命を背負い、妖気と虚無的で退廃感の漂う"人妻イブリンを演じるのが、フェイ・ダナウェイで、彼女が十字架として背負う哀しい宿命は、彼女の左の緑の瞳の中の小さな黒点として象徴されています。 彼女の瞳の中にその黒点を認めた時、共に暗く哀しい過去を持つギテスとイブリンは、宿命の糸で結ばれます。 しかし、その愛はほんの束の間で、急速に回転し出した運命の歯車は、一気にカタストロフィへ突き進んで行きます。 車でロサンゼルスから逃れ去ろうとするイブリンを背後から撃った警官の銃弾が撃ち抜いたのは、彼女の左目である事を我々観る者は見落としてはいけないと思います。 映画の題名である"チャイナタウン"が、この映画の舞台になるのは、この最後の10分程の短いラスト・シークェンスにすぎませんが、なぜ、このチャイナタウンを映画の題名にしたのかという事を考えると、"チャイナタウン"は、アメリカの街の中の異境であり、迷路のようなこの街の中に、ポランスキー監督は、ポーランドでのゲットーと同じ安らぎを見出し、併せて、自分の妻のおぞましい惨劇を引き起こしたアメリカへの批判をしているとしか思えてなりません。 紙屑が舞い、野次馬が去って行く薄汚いチャイナタウンの夜のシーンは、哀しさと怒りを込めた、静かな中にも深く、優しさに溢れた名ラストシーンだと思います。
アリスの恋
子連れ未亡人の絶望を突き抜けた明るさと活力を描いた、女性映画の秀作「アリスの恋」 アメリカン・ニユーシネマの先駆けとなった「イージー・ライダー」(デニス・ホッパー監督)で描かれた若者たちの当てもなく彷徨し、放浪の旅へ出かけるモチーフは、それ以後のニューシネマの作品に連綿として息づいていたと思います。 そして、この映画史の流れは、1970年代後半に隆盛となった"女性映画"へと繋がっていき、女性の生き方や生活感情をリアルに描いていきました。 こうした映画史的な流れの中で、映画「アリスの恋」は、ニューヨークのアクターズ・スタジオという演劇学校で、役者が観客の前で出来る限り自然に肉体と心を動かし、真の意味での生きた芝居をする、”スタニスラフスキイ・システム"を大胆に取り入れました。 人間の内面から役になりきる、自然でリアルな"メソッド演技"の代表的な女優のエレン・バースティン扮する中年女性のアリスが、夫を交通事故で失い、幼い息子を連れて、生きるために職を求め、アメリカ国内を放浪して歩くという、一種のロードムービーとも言える、アメリカン・ニューシネマを代表する女性映画の秀作です。 アリスが、新しい人生を発見していくまでの姿を、日常性豊かに、ユーモアも交えながら、リアリズムで綴っていきます。 監督は、マーティン・スコセッシ。 喘息病みのため、子供の時から映画館に入りびたりだったという、生来の映画オタクである事は、この映画の始まるメイン・タイトルの異常な凝りようや、ファースト・シーンの、アリスの少女時代の古めかしい描き方を見てもわかります。 また、逆光の使い方やジョン・F・ケネディ大統領の引用にも、アメリカン・ニューシネマの、当時としては斬新な感覚が生きていると思います。 彼は、この映画でリアリティのある女性を描くために、製作者、編集者、美術のスタッフは、全て女性で固め、女性と組む事で、女性の感覚からみておかしいと思う場合には、撮影現場で遠慮なく変更の提案をさせ、そのためにアドリブの部分が多くなったとの事です。 女性を描くためには、同時に男性が描かれなければなりませんが、トラック運転手で事故死した粗暴な夫、旅の途中でアリスに求愛する男達を通して、暴力的な本性丸出しの男の姿が、女性の不信の対象としてリアルに見つめられています。 そして、最後に知り合った男が、牧場を持つカウボーイ(クリス・クリストファーソン)で、息子に対する暴力の中から男の本当の愛情を見出し、スッタモンダの末、ラストではこの二人が結ばれる事になります。 この映画の中で心に残る印象的なセリフ、「----男なしではどうしたらいいのよ」と語るアリスの弱気な言葉は、「あたしの人生なのね、あたしの! 誰かの人生で、あたしが助けてやろうっていうんじゃないんだわ」という健気な言葉と矛盾するものではないところに、生活と闘うこの女性の人間的な深さが出ていたのではないかと思います。 また、この映画の、もう一人の主役は、12歳の息子を演じたアルフレッド・ルッターで、存在感のある素晴らしい演技を披露しています。 むしろ、この映画は母子家庭の微妙な親子の感情がメインテーマであり、思春期に入ろうとするこの子供が、母親の男関係を見つめる心の揺れと、一人前の男へと脱皮していく過程に重点が置かれているという見方も出来ます。 この中年の子連れ未亡人は、抑圧された不幸な結婚から解放されて、少女時代からの夢であった歌手への途を求めて、ニューメキシコからフェニックス(ここでの昼下がりの街を職探しのためにバーを巡るところのうら悲しくて切ない場面のエレン・バースティンの演技は鳥肌が立つくらいに凄い演技を示しています)、そしてツーソンの街へと広大な大陸を横断しての旅を続けて行きますが、その夢も空しく、レストランのウエイトレスしか仕事がないという現実の厳しさ-------。 ラストの牧場主と結ばれる結末は、安易だという評価が、公開当時あったそうですが、しかし、個人的には、映画というものはやはり、ハッピーエンドの方が後味が良いと思っています。 この映画の原題は、「ALICE DOESN'T LIVE HERE ANYMORE」といって、アメリカの古くからあるスタンダード曲から採られていますが、この題名の意図するところからして、この安住の地だと思われた牧場主との生活も、アリスが一生落ち着くところかどうかわからない----とマーティン・スコセッシ監督は暗示しているのかも知れませんが。 しかし、アリスのような愛すべき女性は、どうか幸福であって欲しいと心の底から祈りたくなって来ます。 漂泊の子連れ未亡人を描いたこの「アリスの恋」は、絶望を突き抜けた明るさと活力に満ちたところに、ひと筋の光明を見出す、優れた女性映画の秀作だと思います。 なお、この映画は1974年度の第47回アカデミー賞で、最優秀主演女優賞をエレン・バースティンが受賞し(映画史に残る名演技!)、1975年度の英国アカデミー賞で、最優秀作品賞、最優秀脚本賞(ロバート・ゲッチェル)、最優秀主演女優賞、最優秀助演女優賞(タイアン・ラッド)を受賞しています。
燃えつきた納屋
アラン・ドロンという俳優は、例えば「地下室のメロディー」や「シシリアン」でジャン・ギャバンと、「山猫」や「スコルピオ」でバート・ランカスターというベテランの大物俳優と競演したりして、尊敬するベテラン俳優の胸を借り、果敢に挑んでいくところが凄いなと思っています。 そして、女優陣に目を向けると、これまた彼が敬愛してやまない、大女優のシモーヌ・シニョレと「帰らざる夜明け」と今回紹介されている「燃えつきた納屋」で競演しているんですね。 彼の俳優としての成長期に、ヌーベルバーグの監督たちとは敢えて組まずに、ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニなどの名匠の作品に出演していたように、本当に彼は監督、共演者に恵まれて大スターの道を切り開いていきましたよね。 この映画「燃えつきた納屋」は、実に美しい映像に満ち溢れた作品ですね。 その美しさに、文学的な香気が匂い立つほどです。 そして、ほとんど、戦慄さえ感じさせてくれる作品だと思います。 まず、映画の冒頭での、一面の雪の銀世界に息をのんでしまいます。 一年の半分は、白一色に埋もれるという、フランス東部の高地の小さな村。 この閉鎖的な地域社会で殺人事件が発生する。 休暇旅行でスイスへ向かう、通りすがりの金持ちのパリ女が、高級車から刺殺死体となって投げ出され、所持金を奪われていたのです。 そこへ、ブザンソンの街から、予審判事のアラン・ドロンが、捜査のためやって来ます。 そして、彼は現場に近い農場一家に、容疑の目を向ける。 この農場を切り回すのは、雌牛のようにがっしりと、侵しがたい尊厳さえ持つ、初老のシモーヌ・シニョレ。 今は、無力に老いた夫と、実は不満がいっぱいの二組の息子夫婦と、娘と孫たちの大所帯を、気丈に支えて守り抜く50女は、村人からの信頼も厚く、警察署長さえ一目置くほどの存在なんですね。 だが、判事は、一家の次男坊を徹底的にマークし、一家に接近し、内部に踏み込んで探ろうとする。 この、いわばヨソ者の"闖入"によって、彼ら親子の断絶と裏切りが暴かれ、それは一家の崩壊へと繋がっていく--------。 この映画は一応、ミステリ仕立てになっているが、そのサスペンスは、むしろ判事とヒロインの農婦との、"心理ドラマ"にあると思います。 いわば、敵対関係にある二人の、けれど"強く美しい都会の男"と、"母に似た立派な女"との、言わず語らぬ"郷愁と敬慕の思いの交流"こそ、私の胸に切なく迫ってくるんですね。 この映画の題名「燃えつきた納屋」は、農場のアダ名ですが、一家の現実と、女家長シモーヌ・シニョレの心情的な世界の終末を象徴しているような、いい題名だと思いますね。 青春の夢を捨て、妻として、夫を愛し、子供たちを愛して、必死に働き、守り続けてきた"納屋"の、だがその炎上に、揺らめいた最後の"女の情念"が痛ましいですね。 しんしんと降り積む雪の風景と、ジャン・ミシェル・ジャールの哀切の旋律に、人の世の人の営みの孤独が、そくそくと胸に迫ってきます。
追想
この映画は、戦争の無残さを人間の尊厳を賭けた一人の男を通して描いた、ロベール・アンリコ監督の映画史に残る不朽の名作だと思います。 1975年製作のフランス映画「追想」は、原題を"古い銃"と言い、永遠の青春レクイエムの名作である「冒険者たち」のロベール・アンリコ監督の映画史に残る名作で、フランスのアカデミー賞に相当する、第1回セザール賞の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(フィリップ・ノワレ)、最優秀音楽賞(フランソワ・ド・ルーベ)を受賞していますね。 クエンティン・タランティーノ監督が「イングロリアス・バスターズ」で、この「追想」にオマージュを捧げて撮ったのはあまりにも有名な話ですね。 映画の冒頭で描かれるフランスの田舎の一本道を、親子三人が自転車で走るのをスローモーションで捉えた、ソフトで心温まるシーンからすでに「冒険者たち」で魅了したロベール・アンリコ監督独特の映像美の世界にすっと引き込まれてしまいます。 第二次世界大戦末期の時代を背景に、映画の前半で、中年医師のジュリアン(フィリップ・ノワレ)とその美しい妻のクララ(ロミー・シュナイダー)との愛情に満ちた幸福そのものの家庭生活の描写があります。 特に回想シーンでのこの夫婦の最初の出逢いの頃の、甘くも希望に満ちた追想は、実に繊細なムードで描かれていますが、やがてこの映画が、一見ソフトで温かいムードでありながら、実は極めて残酷で執念にも満ちたものを内包している事が徐々にわかってきます。 ドイツ軍が、最後のあがきでフランス国内で残虐な行為を行ってきている中、ジュリアンは、友人の勧めもあり、妻子を自分が昔、育った故郷の村の、今は別荘になっている古城へ疎開させます。 疎開後しばらくして、何の連絡もない事を不審に思ったジュリアンは、妻子の疎開先へ急ぎ出かけます。 そこでジュリアンは、ドイツ兵によって無残に射殺された娘、火炎放射器で焼き尽くされ石垣に染みついた黒影と化した、妻の無残な姿に対面する事になります。 普段は、温厚でおおらかなジュリアンの心に、これ以上の激しい憎悪はないだろうと思われるほどの憤怒の炎が燃え上がります。 我々日本人の場合ですと、憎しみの感情もいつしか悲しいあきらめの感情に変わっていきがちですが、西欧人の場合、愛情のエネルギーも、もの凄く大きいだけに、その裏返しでもある憎悪のエネルギーも、一段と激しく熱いものがあるような気がします。 ジュリアンの残虐な行為を行ったドイツ兵への報復も徹底しており、憎しみの執念がたぎっています。 彼は昔、使用した"古い銃"を持ち出して、報復のためドイツ兵を次々と殺害していきます。 かって知ったる場所の優位性(秘密の通路や抜け穴等)を活かした、その周到な実行の仕方、行動の機敏さ、執念の炎の燃えさかるジュリアンの報復には、人間の尊厳を傷付けられた者しか持ちえない、激しい何かを感じてしまいます。 ロベール・アンリコ監督は1931年4月の生まれで、この「追想」の時代背景になる1944年頃は13歳の少年であり、その頃の時代の印象が心の中に鮮明に残像として残っているものと思われ、ジュリアンの妻子が殺された時の、真っ赤な血のイメージは鮮烈ですが、それは恐らく少年時代の心象風景の反映なのかもしれません。 ジュリアンの生き甲斐としていたものの全てが、一瞬の内に音をたてて無残にも崩壊していき、彼の心の奥底に激しく噴き上げてくる憎悪の感情。 回想シーンに出てくる妻クララのあまりにも美しく、幸福そうな笑顔に満ち溢れていた姿を思い出す事で、彼の憎悪の念が、我々観る者の気持ちと一体化し、より一層心の中に深く響いてきます。 この回想シーンのロミー・シュナイダーの溢れんばかりの光り輝くような美しさは、例えようがないほど素晴らしく、よけいに、その後に訪れる悲劇との乖離が痛ましくも哀れに見えてなりません。 戦争は不可抗力であったかもしれないが、妻子への残虐な行為は不可欠であったのかと心の中に問いかけるジュリアンの報復の執念は、普段は大らかな、肥満体で温厚な小市民のイメージのフィリップ・ノワレが演じる事で、不気味なほどの恐ろしさでドイツ兵に向けられ、その変貌の凄まじさが、我々観る者の心を激しく揺り動かすのです。 ドイツ兵を一人づつ、独自の方法で殺していくジュリアンの行為は、冷酷非情な復讐の鬼と化して、火炎放射器を放つシーンなどで描写されていますが、ロベール・アンリコ監督は、決して激情のみに走る事なく、映画全編を通して、そのソフトで温かな語り口を失いませんが、だからこそ、よけいに映画を観終わった後に残る、心の底からの恐ろしさというものが感じられたのかもしれません。
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