ジャッカルの日
サスペンス映画というのは、一難去ってまた一難で、主人公の運命はどうなるのかということに、観ている者をハラハラ、ドキドキさせる映画、それも単純なアクションものではなく、意表をつくアイディアと、ストーリーのうまさと、映画的なテクニックのあの手この手で、グイグイ引っ張っていく映画、そういうジャンルの娯楽映画として、ずば抜けて面白いのが、名匠フレッド・ジンネマン監督の「ジャッカルの日」だと思います。 何よりもまず、着想が実に凝っています。 サスペンス映画というのは、とかく現実にはあり得ないような話になりやすいものですが、これは、もしかしたら現実に本当にあったかもしれない話であり、世界の政治の動向にも関わりのある事件なのです。 すなわち、アルジェリアの独立をめぐるフランスの植民地の叛乱で、その時代のド・ゴール大統領の暗殺計画が次々に行なわれ、いずれも失敗に終わった時、表面には出なかったが、もう一つこういう事件もあったという形で、えらくまことしやかに物語が繰り広げられるのです。 実際に、ド・ゴール大統領の暗殺未遂事件は、1961年以降、5回も起こっているのです。 フランスがアルジェリア戦争の泥沼にはまって、戦争継続かアルジェリアの独立承認かの決断を迫られた時、戦争の継続を望むフランスの軍部は、軍の長老でフランス解放の英雄であるド・ゴール将軍を強引に大統領に担ぎ出したのです。 ところが、老獪なド・ゴールは、軍部に担がれていると見せかけておきながら、着々と手を打ってアルジェリアの独立を承認してしまったのです。 軍部の極右派は、地下にもぐってテロ活動を続け、繰り返し、彼らを裏切ったド・ゴールの暗殺を計画したのだった。 一方、ド・ゴールは、生粋の軍人として、暗殺なんか怖くないと、高い鼻を益々高くしながら、護衛を付けるのも迷惑がって、公式の式典などでは恐れることなく、堂々と公衆の前に現われたのだった。 だから、護衛役の警察当局も、テンテコ舞いさせられたに違いありません。 原作者のフレデリック・フォーサイスは、その頃、イギリスの新聞記者としてパリにあり、もっぱらド・ゴール大統領関係の取材をしていたというから、当時の警察の動きには詳しい訳です。 そして、この原作の小説と映画の強みは、どこまでが本当で、どこからが嘘か分からないくらい、実在の人物や実際の場所、実際の役所の機構などをうまく使って、一人の殺し屋を追う警察の動きを丹念に描いているところにあると思います。 そして、この警察の動きと、着々と計画を進める殺し屋ジャッカルの動きとが交互に描かれていって、警察と殺し屋の知恵比べがサスペンスを呼ぶという仕掛けになってくるのです。 極右派の地下組織O・A・Sに金で雇われる殺し屋を演じるのは、イギリスの舞台出身のエドワード・フォックス。 小柄だが、筋肉質の、見るからにすばしっこい印象をしています。 端麗な顔なのに、陰惨でニヒルなところがあるのは、この映画のためのメイク・アップや特に工夫した表情のせいなのかも知れません。 このジャッカルの役を、当時、イギリスの人気俳優のマイケル・ケインが熱望したとのことですが、フレッド・ジンネマン監督は、このジャッカルという人間は、既成のイメージが付いた俳優では駄目で、全く色の付いていない俳優にするべきだとの考えから、当時、ほとんど無名のエドワード・フォックスを抜擢したというエピソードが残っています。 この暗号名ジャッカルという殺し屋、依頼を受けると早速ロンドンで、暗殺のためのこまごました準備を始めます。 偽のパスポートを請求するために、全く他人の死んだ子供の名義を使います。 それも、一つの偽名が警察に分かった場合、直ちに別の国籍の、まるで人相も違う人間に成りすませるよう、変装用の髪の染料や色の付いたコンタクトレンズなどと一緒に、幾通りも用意するのです。 更に、パイプだけで組み立てることのできる狙撃銃を専門家に作ってもらうのです。 一方、ジャッカルにド・ゴール大統領の暗殺を依頼したO・A・Sは、その代金を支払うために地下組織にやたらと銀行強盗をやらせるのですが、警察ではなぜO・A・Sが急にそんなに躍起になっているのか、その理由を調べるために、イタリアに亡命しているO・A・Sの幹部の一人を、イタリアの街角で数人でぶん殴って、食糧輸送車に乗せてパリへ連れて来てしまいます。 これは明らかにイタリアの主権の侵害で、かつての日本における金大中事件と同じです。 金大中事件の場合は、犯人たちがこれ見よがしに金大中を自宅近辺で釈放して、日本政府のことなど眼中にないような態度に出たので国際問題化しましたが、この映画でみると、同じような事件で闇から闇に葬られているようなことも案外色々あるのかも知れないなと思わせられます。 そういうことも、この映画のサスペンスの重要な要素の一つになっているのだと思います。 O・A・S幹部を拷問して、その断片的な告白からフランス警察は、ド・ゴール大統領暗殺計画の一端をつかみます。 フランスというと日本では、非常に自由で文化的な国という印象が持たれていますが、なかなかどうして、相当な警察国家であり、警察はかなり乱暴なことをやってのけるのです。 この映画はそれをド・ゴール大統領の進歩的な政策を守るという、正しい目的のための手段として描いていますから、なんとなく当然のことのように観てしまいますが、こういうところも、ちゃんとフランスの政治体制の怖さを描いたものとして観るべきだと思います。 そうでないと、フランスの学生運動のことなども分からなくなってきます。 計画を察知した政府は閣議を開いて、最も優秀な刑事だというルベル警視に全権を任せて、捜査を始めさせます。 ところがO・A・Sもさるもの、女スパイを大臣級の人物の情婦にして、捜査状況の情報を盗ませるのです。 それで捜査の状況が次々にジャッカルに伝わり、ジャッカルは見破られた変装を次々に別の変装に取り替えながら、パリへと近づいていくのです。 その虚々実々の駆け引きは、映画的な緊張感を伴ったサスペンスに満ち溢れています。 この映画の面白さの一つに、ルベル警視を演じるミシェル・ロンスダールの配役の妙があると思います。 この人物、およそ風采のあがらない小太りの中年男で、これといった才気も機敏さも、逞しさも風格もないのに、なぜかフランス随一の名刑事なのだというのです。 いつも寝ぼけ眼で、大臣のお呼びだというのでエッチラオッチラ役所に駆けつけ、モソモソと部下の指揮を執り始めるといった具合なのです。 ところが、閣議から誰かが情報を洩らしているだろうと睨むと、容赦なく大臣たちの全部の電話を盗聴して、女スパイのハニートラップに引っかかった大臣をとっちめるのです。 なるほど、たいした切れ者なのです。 一方、ジャッカルは、パリに近づく途中、田舎町のホテルでデルフィーヌ・セイリグ演じる有閑マダムをたらし込んで、警察の捜査をかわすのです。 そして、最後の見せ場は、パリのシャンゼリゼから凱旋門前の広場で行われる、革命記念日の大パレードでの大捕物です。 遂に、ド・ゴール大統領を狙撃できる場所にまで達したジャッカルを、危機一髪でルベル警視が射殺するのですが、革命記念日の大パレードの実写の使い方が実にうまくて、まるでこの映画の撮影のために、何十万人のエキストラを縦横に使ったような、巧みな画面処理のうまさを見せつけてくれます。 こういうところは、さすが名匠フレッド・ジンネマン監督の演出の見事さが光ります。 かつて、フレッド・ジンネマン監督が、ゲーリー・クーパー主演の傑作西部劇「真昼の決闘」のような野心作を撮った時の激しさは、この作品にはありませんが、もっと悠々と愉しんで大向こうを唸らせる大作に仕上げていると思います。
蘇える金狼
古臭い、笑えるとつぶやきつつ、つい引っ張られて観てしまう。 村川透監督の「蘇る金狼」はそんな映画だ。 1979年の公開だから、描かれる風俗が古臭いのは仕方がない。 大藪春彦の原作も、劇画的な展開が顕著な一気読み小説だった。 話は典型的なピカレスクロマンだ。主人公の朝倉(松田優作)は、東和油脂の経理部に勤めている。 七三分けの長髪と黒縁の眼鏡。だが、夜の朝倉は狼だ。 ジムでサンドバッグを叩く彼の上半身には、見事な筋肉が盛り上がっている。 朝倉は銀行から輸送中の現金を奪い、金を麻薬に換え、麻薬を使って女を操り、甘い汁を吸いたい放題の会社中枢部へにじり寄って行く。 つまり、この映画は悪党のオンパレードだ。悪には悪を、毒には毒を。 法も正義も介入しない伏魔殿で、社長(佐藤慶)や部長(成田三樹夫)や次長(小池朝雄)や議員(南原宏治)や強請屋(千葉真一)や私立探偵(岸田森)らが果てしない暗闘を繰り広げる。 まるで怪優たちのオールスター・ゲームではないか。 そして、饗宴の中心で強力な磁力を放つのが、松田優作だ。 団塊の世代に属する日本映画の俳優で、運動神経や身体能力に彼ほど自覚的な人はいなかった。 だからこそ、優作の「狂気芝居」は、きわどく成立する。 ただ、あまりにも、原田芳雄そっくりのセリフ廻しだけはいただけないが。 東京湾第二海堡で撮影されたアクション・シーンの速さは、優作の動きと、カメラマンの仙元誠三の力量に負うところが大きいと思う。
ドラゴンクエスト ダイの大冒険 ぶちやぶれ!!新生6大将軍
敵側の豪魔軍師ガルヴァスの側近である妖魔将軍メネロが外見・性格・戦い方ともに最高でした。マァムやレオナに並ぶ新たなヒロインとして期待してしまう程の彼女をダイ達は攻撃できるのか? 追記:自分はマァムの事よりもメネロの髪や肌が戦闘で痛まないか心配になる程メネロに惚れていましたw
ワン・フロム・ザ・ハート
フランシス・フォード・コッポラ監督の「ワン・フロム・ザ・ハート」は、第二次世界大戦前後のアメリカ映画の楽しさを、1980年代前半頃の最先端の映像、音響技術を駆使して再現しようとした映画だ。 舞台はラスベガス。愛し合うカップルが、ふとした感情のすれ違いで、喧嘩別れをしてしまう。 そして、それぞれ別の恋人を見つけようとするのだが、本当の愛を確認して、また元のサヤへ納まっていくのだ。 この単純な物語に、全編に流れる、トム・ウエイツの音楽をたっぷり重ねて謳い上げ、ラスベガスの街もオールセット。 まさにあのMGMミュージカルのムードの再現。 画面も通常のスクリーンサイズではなくて、1940年代のスタンダードサイズで撮影しているのだ。 さらに、色彩までもが当時のテクニカラー発色に似せてあるのだ。 あの塗り込んだようなテクニカラー独特のタッチで、心理を語ろうとしているのだ。 しかも、何より興味深いのは、このセット、この色彩、そして華麗な画面構成が、全てVTRを利用した最新の映像技術で処理されているという事。 例えば、彼の説得を聞かないで、彼女は新しい恋人と飛行機に乗ってしまいます。 絶望のまま駐車場に引き返す、彼の後ろは空港ビル。 突然、そのビルの屋上すれすれに、彼女が乗ったジャンボ機が、ドワッと飛び立って行く。 遠近感を無視した映像効果が、ドラマティックな興奮を盛り上げるのだ。 これはVTRによる合成の効果なのだが、従来のマット合成やスクリーンプロセスでは得られなかった、美しい仕上がりと効果を発揮していると思う。 VTRからフィルムに戻す時に生じる、色の冷たい沈みが若干、感じられるのだが、それにしても見事な技術だと思う。 映画とは、こんなにも面白いものなんだよ。 こんなにも楽しいものなんだよ。 こんなストレートな映画の魅力を、最先端の技術の粋をこらして、フランシス・フォード・コッポラ監督は、語っているのだ。 ナスターシャ・キンスキーの神秘的な美しささえ、その狙いの一つなのだと思う。 この映像技術に目が届かないと、古いと思えるかも知れない。 重いと言う人もいるだろう。 しかし、このヘビーな画像こそ、コッポラ映像の思想であり、魔力なのだ。 まさに、映像と音響による魔性のトリップ感覚なのだ。
テオレマ
ミラノの大企業家パオロの家に、謎の青年がやって来る。 青年は、パオロやその家族と性的な接触を持ち、彼らの欲望を解放して、やがて立ち去る。 残された人々は、彼ら自身の真実に向き合うのだった。 彼に感化されたメイドは、屋敷を出て、聖女になり、パオロは、自分の工場を労働者に渡して、荒野をさまようのだった-------。 ピエル・パオロ・パゾリーニ監督は、最初このテーマを、詩による舞台劇として考えていたそうだ。 そのため、この映画は知的な構成が明らかすぎるほど明らかだ。 すみずみまで、よく計算されており、登場人物の役割も、わかりやすい。 だが、主人公が、神か悪魔かといった謎が、不条理演劇のように、簡単には割り切れないのだ。 それは、主人公のテレンス・スタンプの顔のクローズ・アップが、極めて映画的な効果をもたらしているからだ。 この映画は、映画史に残る、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の傑作のひとつだと思う。
帰らざる夜明け
1930年代の中頃、フランス中部の緑の田園地帯が背景で、田舎道を走るバスから中年の農家の女タティ・クーデルク(シモーヌ・シニョレ)が降り立ちます。 重い荷物を引きずって、通りかかった若者が手を貸して、それが縁でジャンと名乗る旅の若者(アラン・ドロン)は、彼女の家の野良仕事の手伝いをするために雇われる事になります。 このフランスの名女優シモーヌ・シニョレが演じる、女中あがりの後家さんは、十数年前に主家の父親に手ごめにされ、その息子にはらまされて死産。 そして、その息子と結婚したけれども、飲んだくれの亭主は死に、残った舅のアンリ爺さん(ジャン・ティシェ)が今も年がいもなく夜な夜な彼女を求めて来るのだった。 その彼女が舅を「いやらしい老いぼれめ」と罵れば、運河の跳ね橋を挟んで住む、亡夫の妹夫婦は老父を抱き込んで、彼女が支えてきた農場を横取りしようと狙っている。 そうはさせじと、肩ひじ張って後家の頑張りを、シモーヌ・シニョレが、がさつな動作で絶妙に演じてみせる。 この映画の主役は、実質、このシモーヌ・シニョレだと言えます。 やがて判明するジャンの正体は、殺人を犯して追われる身の医学生くずれですが、そんな若者が行きずりの年上の女の痛ましさに、ふと心惹かれ、彼女もまた、その優しさにすがって、女としての最後の炎を燃やします。 だが、ジャンは、彼女の義妹夫婦の娘で、まだ16歳の若さで父無し子をかかえたフェリシーとも、抱き合ってしまいます。 結局、フェリシーの両親は、兄嫁のタティ・クーデルクを憎むあまり、ジャンにも敵意を重ね、彼の秘密をかぎとると、娘に命じてパスポートを盗ませ、それを持って警察に密告します。 映画のラストは、警察官の大掛かりな包囲で、逃れきれぬと悟ったジャンは、未亡人のタティ・クーデルクをかばって射殺され、彼女もまた、流れ弾を受け、燃えさかる家の中で息絶えるのです。 あまりにも、むごすぎる悲劇ですが、映画はむしろ一つの風景の中の出来事として、淡々と描いています。 運河があり、機帆船が通り、跳ね橋が上下する、その古風でのどかなロケーションが実に素晴らしい効果を上げていると思います。 ささやかな地域社会の、まだささやかな片隅にも、人間の欲望と愛欲と孤独とが複雑に絡み合って、破綻の悲劇へと追い詰められていく、この物静かなニヒリズムがとてもいいと思います。
アイアンクロー
自分は90年代のプロレスファンなので「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックは、馬場さんとの試合を過去の映像として見たことがあるくらいで、80年代の息子たちエリック兄弟の活躍や悲劇は正直ぜんぜん知らなかった。 それでもアイアンクローという技は、小中学生のころ男子の間では広く知られていて、友達同士よくやり合った世代である。 そんな世代のプロレスファンでも、リック・フレアー、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディなど、知っているレスラーがちょろっと登場したりしていて、そこは見ていて楽しい。 映画としてはいわゆる毒親モノで、絶対的な父フリッツのスパルタ、抑圧、プレッシャーにより息子兄弟が不幸になっていく悲劇を描いている。 自分の夢を強制的に息子に託すという、典型的なダメになるパターン。(もちろん、うまくいく場合もあるが…) ただ、ストーリーはそれ以上でもそれ以下でもなく、事前情報として聞いていた通りの感じだったので、前知識を何も入れずに観たほうが驚きが得られると思った。 観た直後の感想としては、確かに父フリッツはひどい暴君ぶりで息子たちを苦しめるが、それにしたってエリック兄弟は不幸すぎるだろ…と。 本当に呪われてるような、そんな悲劇だった。 それでも最後は少し救いがあり、観客を安堵させてくれる。 また、父からのプレッシャーに苦しめられるが、兄弟たちは仲が良く、強い絆が感じられた。 だからこそ悲しいのだが…。 エリック一家(父や息子兄弟)を演じた俳優陣はみんな良かった。 それぞれ実際の人物の雰囲気をうまく出せていたと思う。 ただ、「プロレスの良さ・凄み」みたいなものは、この映画にはあまり感じなかった…。 プロレスのシーンでもう少し迫力や躍動感といったものを見せてくれれば、レスラーが苦労(トレーニングだけでなく、薬物使用など)してまでリングに上がる理由が伝わるように思う。 まぁ父親との確執の部分が弱くなってしまうのかもだけど…。 で…鑑賞後、エリック一家についてさらに調べたところ、映画よりももっともっとひどい悲劇であったことが判明し、絶句…。 なんだよ、事実が映画を超えてるじゃねーか‼
オッペンハイマー
「インセプション」「テネット」などのノーラン監督作品で、さらに上映3時間もあるということで、かなり身構えて観に行った。 「テネット」のようにチンプンカンプンだったらどうしよう⁉と心配もあったが、事前情報も少し頭に入れてから視聴したので、自分が思っていたよりは難解には感じなかった。 ただし、登場人物も多くて名前は覚えられないし、誰が何者かという説明もなく、会話から察するしかないので、そこは初見で全てを理解するのは不可能だと思う。 また、時間軸も説明なしにコロコロ変わる。 モノクロ映像だったり、服装や見た目で判断はできるが、ここもかなりややこしい…。 あとは、オッペンハイマーがスパイ容疑をかけられた件(聴聞会など)が意外と映画の大部分を占めていて、ここももちろん説明なく始まるので、最初は何をやってるんだろう?となった。 基本、会話のシーンがほとんどで、話を理解するために3時間ずっと頭を働かせないといけないので、上映後はまぁまぁの疲労感だった。 で、観たあと最初に思ったのは、なんでクリストファー・ノーランはこれを撮ったんだろう? オッペンハイマーを題材にした映画、ノーランが撮らなくてもよくない?? と感じてしまった。 確かにオッペンハイマーという人物の人間性だったり、パーソナリティーという部分はとてもよくわかる作品ではあった。 が、その他の部分が説明不足すぎて、一回観ただけでは自分含めた一般の人には伝わりにくい。 このわかりにくさはノーラン監督の作家性だから仕方ないが、原爆を開発したオッペンハイマーという人物の物語を描くのであれば、もう少し一般の人にわかりやすくするべきだと被爆国の人間としては思う。 そして、よく言われている原爆描写が不十分という指摘。 自分も正直、それを少し感じてしまった。 あくまでオッペンハイマー視点、当時もちろんオッペンハイマーが実際の原爆投下を目撃したわけではないので、そこは描かないという理由もわかる。 ただ映画では、オッペンハイマーは頭の中で原爆の凄惨さを体感してしまう。 そこの描写は、「はだしのゲン」などを見て育った自分からするとやっぱり弱いなぁと…。 まぁ「はだしのゲン」のような原爆投下直後の被爆者を実写で描くのはいろいろ難しいだろう…。 なので、そこはもう直接的に当時の写真などを使って見せても良かったんじゃないかと思う。 その方が原爆や被爆の残虐性が海外の詳しくない人たちにもより伝わるし、後のオッペンハイマーの苦悩も観客がより共感できたと思う。 総じて、悪い作品とも思わなかったし、正直アカデミー作品賞を取るほど良かったとも思わなかった。 個人的にはノーランの「オッペンハイマー」より、スピルバーグの撮った「オッペンハイマー」を観てみたかった…。
ディア・ハンター
この映画の監督はマイケル・チミノで、当時37歳で、「サンダーボルト」に次ぐ2本目の作品とは思えない力量を発揮していると思う。 東欧出身のビルモス・ジグモンドの撮影は、小さな鉄鋼町とそれを取り囲む山脈とを落ち着いた色調と雄大な構図で描く一方、ベトナムのジャングルを鮮烈な迫力で捉えていると思う。 音楽のスタンリー・マイアーズは、結婚式のシーンに流れるスラブ音楽は感動的だし、ジョン・ウィリアムスのギター演奏は、この映画を重厚なものにしていると思う。 この映画は、ベトナム戦争をテーマとしているが、アクション本位の戦争映画ではなく、また肩をいからせた反戦映画でもない。 マイケル・チミノ監督は、この映画の製作意図を、「このドラマにおける戦争とは、キャラクターとストーリーを展開させるための手段だ」「ごく平凡に生きてきた若者たちが、ふりかかった戦争という危機に、どう対処したか? だからここに描かれた戦争とは、彼らの勇気と意志力をテストする手段なのだ」と説明している。 しかし、この映画が、ベトナム戦争がアメリカの若者たちに残した、取り返しのつかない傷跡を、深い悔恨をもって見つめていることは疑えないところだ。 もう二度と、かつての青春には戻れない戦争という異常な経験を、叙事詩的な展開の中で、怒りを込めて糾弾しているのが真意であろう。 ペンシルバニア州のクレイトンという平穏な町から、マイケル(ロバート・デ・ニーロ)、ニック(クリストファー・ウォーケン)、スティーブン(ジョン・サベージ)の三人が、ベトナムに出征するまでの数日間、その間にスティーブンの結婚式があり、友人5人打ち揃っての鹿狩りがある。 このクレイトンは、ロシア系の閉鎖的な町で、会話にもロシア語が混じるし、ロシア正教会が町の中心でもある。 ロシア式の結婚式とパーティーが、延々と生活感をこめて描写される。 その後の鹿狩りで、マイケルは、一発のもとに大鹿を射止める。 これに前段の1時間をつかっているが、ロシア系アメリカ人に焦点を当てていることは、ベトナム戦争の背後に、ソ連があったことを考えると、意味深長であり、ニックが米軍病院で、ソ連兵と疑われるところは複雑だ。 マイケルは、「鹿は一発で仕留めるものだ」という自信をもっている「鹿の狩人(原題)」である。 この一発でという言葉は、ロシアン・ルーレットという残酷な賭けを通じて、この映画で大きな意味をもってくる。そして、ここにもロシアが現われる。 中盤は一転して、酸鼻なベトナム戦線に移るが、この転換は衝撃的で、前段と対極的な地獄図である。 ベトコンの捕虜となった三人は、ロシアン・ルーレットの賭けの対象となる。 向かい合ったふたりが、弾丸一発を弾倉に込めたリボルバー拳銃を、交互にこめかみに当てて撃ち合い、その生死に金が賭けられる。 このような賭けが実際に行われたどうかは知らないが、一発に生死を賭けるという命題が、極端な形で示されたものと言っていいだろう。 死地を脱した三人のうち、スティーブンは足を失い、ニックは気が狂い、サイゴンでロシアン・ルーレットの射手となり、救出に来たマイケルの前で倒れる。 前段では予想もできなかった戦争の狂気が、ダイナミックに描かれる。 後段は、再び静かなクレイトンの町。しかし、一人、無事帰還したマイケルには、昔の青春は戻りようがない。 ニックの恋人で、今はマイケルを頼りとするリンダ(メリル・ストリープ)が言う、「今日は暗い日ね」という言葉は、悲しくも虚しい。 そして、マイケルにはもう鹿が撃てないのだ。
ゾディアック
この映画はデビッド・フィンチャー監督作品で、フィンチャーが連続殺人事件を描いたということから、出世作の「セブン」を思い出した。 だが、この映画「ゾディアック」が「セブン」と大きく異なるのは、ここで描かれているのが実際に起こった事件であり、いまだ未解決という点だ。 それと惨殺死体だけを見せた「セブン」に対して、こちらは犯行そのものを映していく。 しかも、このときのカメラが容赦ないんですね。 次々と有力情報がもたらされるものの、どれも実ることはなく、結局は空振りに終わってしまう。 この描き方がドキュメンタリーとまでは言わないにしても、少し引いた目線で描かれる。 ところが、それがある瞬間、一気に身も凍るスリラーへと変わる。 この話法の転換が実に見事でしたね。 犯人の挑発、自己顕示欲。それにマスコミが乗ったことで、モンスターのようにその像を膨らませていった。 そして、そのことがまた真実を知りたいという男たちの執念をさらに増幅させる。 しかし、もがけばもがくほど一様に深みにハマっていく。まさに底なし沼。 フィンチャーは、そんな事件に魅入られた男たちをひとりに絞ることなく複数描くことで、この事件が生み出した不条理そのものをあぶり出しているようにも見える。 論理では決して割り切れない、人間の不可解な心理と行動。 そういう意味でも、実に見応えのある映画だった。
ロッキー2
この「ロッキー」の続篇、「ロッキー2」は、シルヴェスター・スタローンが主演・脚本に加えて演出も担当している、ワンマン映画ですね。 「ロッキー」の後、主演した「F・I・S・T」も、監督兼任の「パラダイス・アレイ」も、今一つパッとしなかったスタローンとしては、なんとしても、この映画を成功させたかったに違いありません。 彼のそんな初心に帰った、その気迫が、作品の出来は別としても、この映画の強烈な熱気となって表れていたと思います。 物語は、前作のあの感動的なクライマックスから始まります。 あのチャンピオン・アポロとの死闘。駆けつける恋人・エイドリアン。 予想以上の頑張りを見せたロッキーは、一躍、人気者になります。 CM出演の話もきたし、家も買った。 エイドリアンと結婚し、彼女は愛の結晶を身ごもります。 そんな中、アポロは再試合を求めるんですね。 あの時、ロッキーを叩きのめせなかった不満。 つまり、焦りを露わな怒りに変えての挑発なんですね。 だが、ロッキーは、この挑発には乗らない。 エイドリアンとの約束があるからだ。 しかし、生活は次第に苦しくなり、彼は精肉工場や沖仲仕などの肉体労働で働くが、うまくいかない。 妻も身重のまま、ペットショップで働きます。 とうとうロッキーは、再試合の調印をしてしまう。 それを知った妻は、倒れて早産、昏睡状態のまま、生死の境をさまようことになるのです。 神の前で、妻の蘇生を祈るロッキー。 やがて、意識を取り戻した妻は、ロッキーの手を握りしめて、ひとこと言う。 「私とベビイのために勝って」。 あまりにもベタな場面ですが、でも、いい場面ですね。 そして、これからが、レビューでも触れられていたように、アドレナリンの上がる、怒涛のいい場面へとなだれ込んでいきます。 朝陽を背に、力いっぱいのトレーニングをするロッキー。 人間、やる気を起こした時の爽快な感情の高まりを、映像のリズムに再現した見事な場面ですね。 そして、チャンピオン・アポロとの激闘、勝利。 恐らく、公開当時、アメリカの映画館では、観客のもう総立ちの拍手が鳴り響いていたでしょうね。 もう、本当にベタな演出なんですが、観る者の心理を十分に読み込んだ、うまい盛り上げ方ですね。 それだけに、当然、結果は予想がついていたにもかかわらず、でも、わかっていても、ロッキーに声援を送りたくなる魅力を、この映画は持っているんですね。 裏町で、力いっぱい生きて行く勇気。土壇場で立ち上がる、その意欲。 ストレートに、素直に、観る者の心に響いてきます。 映画を観るという行為の中で、これはやはり、大切な事なのだと思いますね。
薔薇の名前
“ウンベルト・エーコのメタファーと引用に散りばめられた知の迷宮世界をジャン・ジャック・アノー監督流に映画化した怪奇幻想の中世ミステリーの異色作「薔薇の名前」” この映画「薔薇の名前」は、原作がイタリアの記号学者ウンベルト・エーコが1980年に発表した、古典的ミステリー小説の映画化で、監督が8万年前の人類の生活を描いた異色SFで、世界中の映画ファンを熱狂させた「人類創世」のジャン・ジャック・アノー。 主演が当時、円熟期を迎えていた我らが、初代ジェームズ・ボンドことショーン・コネリー、共演にこの映画の前の出演作「アマデウス」で憎々しげなサリエリ役でアカデミー主演男優賞を受賞したF・マーリー・エイブラハムとミステリー好き、映画好きが泣いて喜ぶメンバーが結集した映画です。 舞台は、中世ヨーロッパに異端審問の嵐が吹き荒れていた14世紀の、北イタリアのベネディクト修道院に、会議の準備のために、修道士のバスカヴィルのウィリアム(ショーン・コネリー)と見習い修道士のアドソ(クリスチャン・スレーター)がやって来るところからこの物語は始まります。 この修道院に着いた二人を待ち受けていたのは、不可解な殺人事件でした。 そこでキレ者の修道士のウィリアムとその弟子のアドソは、この修道院の文書館で、挿絵師として働く若い修道士が、謎の死を遂げ、それに続いて、ギリシャ語の翻訳を仕事とする修道士が殺されたため、これらの事件の真相究明に乗り出し、この事件が、文書庫と関係があると睨むが—-という展開になっていきます。 映画を観る前は、何かイメージ的に”荘厳で重厚なドラマ”だと思っていましたが、実際に観てみるとその内容は、”爆笑する恐怖ドラマ”で、映画のファーストシーンからラストシーンに至るまで、終始一貫して、この”二重構造”が貫かれているところが、潔いというか感心してしまいました。 とにかく舞台が中世の僧院なので、暗くて、重たくて、難解そうだなという感じで、事実、画面は一貫して限りなく暗く、重たく、難解そうなムードが漂っているんですが—-ところが中味はというと、全く正反対で終始笑えるほどのおかしさに満ち溢れているのです。 修道士のウィリアムとその弟子のアドソの関係は、かの名探偵シャーロック・ホームズとワトソン博士の関係になっていて、主人公がバスカヴィルのウィリアムス—-これからわかるように、かのシャーロック・ホームズ物の名作「バスカヴィル家の犬」と言う事で、コナン・ドイルへのリスペクトとオマージュを捧げているのがわかります。 また、修道院に到着したウィリアムが、すばやくトイレの場所を推理してしまうシーンで、いきなり笑ってしまいます。 とにかく、”あぶり出し文字”はあるは、”からくり部屋”はあるは、”落とし穴”あり、”暗号”あり、”迷路”ありと、古典的なミステリーの定番がこれでもかこれでもかというくらいのオンパレード。 ミステリー好きにとっては、たまらない仕掛けが連続して、すっかりうれしくなってしまいます。 そして、連続殺人で殺されていく修道士たちの殺され方というのが、また、いちいち凝っていて笑わせてくれます。 その中でも一番おかしかったのは、大きな水ガメの中に頭を突っ込んで死んでいる人が、脚を思い切りVの字開きしていたのが、最高にチャーミングでお茶目な演出でした。 最後に超人ともいえるウィリアムが、絶体絶命の大ピンチに見舞われ、ああ、遂に彼も死んでしまうのか、どう頑張っても彼が生き延びる可能性はないなと思っていたら、何と彼は無事、生き延びてしまうのです。 どうやって、彼が危機を脱出出来たのかについての説明は全くありません。 後で、じっくり考えてみても、よくわかりません。 そこで私なりに推理してみました。多分、これは監督にもわからないでしょう。 彼が生き延びた理由は唯一つ、これしかありません。 それを演じていたのが我らがショーン・コネリーだったからなのです! これ以外に理由は、全く考えられません(笑)。 こういう、ある意味、いい加減なご都合主義の撮り方って大好きですね(笑)。 また、この映画にはとにかく、”異常な顔”がたくさん出てくるところも私好みです。 修道士がみんな、念入りにインパクトの強烈な顔の持ち主ばかり。 よくもまあ、これだけ凄い顔ばかり集めたものだと感心してしまいます。 その中でもロン・パールマン、彼の”異常な顔”には誰もかないません。 “まともな顔”というのが、主役のショーン・コネリーとその弟子のクリスチャン・スレーターだけというから、とにかく凄すぎます(笑) 「アマデウス」でサリエリを完璧に演じたF・マーリー・エイブラハムが完全な”悪玉”の顔になっていたのはさすがでした。 考えてみると、確かに中世の僧院というのは、相当、異常なところだったろうと思います。 この映画を観ていると、つくづく”カトリックの世界は、壮絶なサディズムとマゾヒズムのせめぎ合う世界”じゃないかとも思ってしまいます。 心理的なSMの美学の香りが漂ってきそうな雰囲気を妖しく醸し出しています。 この映画は表面的な中味は、ほとんど”お笑いの世界”なのですが、奥深いところで”カトリックのSMの美学”の方もしっかりと描いていて、この映画、一筋縄ではいかないというのか、なかなか侮れません。 そして、映画好きとしての、この映画の最大の見どころは何と言っても、主役のショーン・コネリーのカッコよさ、渋さにつきます。 同時期の「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ監督)でも、彼の出演シーンだけ突如、渋いトーンになっていましたが、彼ほど年齢を重ねていくにつれて、魅力を増していく俳優も珍しいと思います。 何といっても、彼の年輪を重ねた顔のシワが、男としての魅力に満ち溢れています。 額なんか縦ジワと横ジワが交差してチェック柄になっていたりします。 それが、”老いのわびしさ”ではなくて、”老いの豊かさ”を象徴しているかのように見えてきます。 正しく、我らがショーン・コネリー、男としても役者としても円熟の境地です。 尚、この映画は1987年度の英国アカデミー賞にて、ショーン・コネリーが最優秀主演男優賞を受賞(納得の受賞です!)し、メイクアップ賞も受賞し、1986年フランスのアカデミー賞に相当するセザール賞にて、最優秀外国映画賞を受賞しています。
秋のソナタ
イングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」は、人間の孤独やエゴイズム、憎しみや不安や絶望というものをテーマに、厳しく人間の内面を凝視する作品だ。 才能のある、性格も勝気な女性が、平凡な家庭生活におさまっていられなくて、夫と子供たちを捨てて家を出て行ってしまう。 夫を嫌ったわけでもなければ、子育てにうんざりしたわけでもない。 ただ、どうしても家庭におさまりきれなかっただけなのだ。 そんな妻=母に見捨てられた夫と子供たちは、彼女の才能や女性としての魅力を誇りとして賛美していただけに、彼女を憎むよりもむしろ、彼女の家族であることに値しないかのように扱われてしまったことの劣等感に苛まれて、ひっそりと生きてきたのだ。 夫は再婚もせず、自分を捨てた妻を想いながら、わびしく死んでいった。 長女は、そんな父を愛おしく思えば、なおのこと、母の不人情さを憎むよりも、母の愛に恵まれなかった自分を悲しく思うばかりである。 そして、長女は心優しい牧師と結婚し、寝たきりの身体障害者で言語障害もある妹を引き取って、一緒に暮らしている。 彼女には子供もあったが、死んでしまった。 長女の夫の牧師は、そんな、母の愛に恵まれず、悲しい思い出の多い妻を心から愛し、いたわっているが、知的で自己に厳しく、不幸は全て自分の内側に囲い込んで静かに微笑していて、夫に甘えるというようなことの微塵もない彼女の心の中には、もう一歩、入り込めないもどかしさを感じているようである。夫はただ、ちょっとはらはらしながら、彼女を見守っているばかりらしい。 一方、家庭を捨てて広い世界に翔んでいった母は、そこで、ピアニストとして才能を顕し、演奏旅行で世界各地を歩き、たぶん多くの才能で有名な男性たちとも交わったのであろう。 しかし今、寄る年波で、長年支えになった愛人とも死別し、ちょっと心が落ち込んでいる。 仕事も落ち目なのかもしれない。 ある日、思い立って長女に手紙を書く。 長女は喜んで母を我が家に招きたいと返事を書く。 そこで、母が、七年ぶりに娘に会いにやってくる。 イングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」は、以上のような過去を前提として、この母親が長女夫婦の家へ訪ねてくるところから始まります。 厳密に言えば、この母娘の物語の紹介者のようなかたちで、まず、長女の夫が現われて妻の性格や自分とのロマンスを印象的なエピソードを交えて説明するところから始まり、続いて、妻が母へ、是非しばらく一緒に暮らしましょうという手紙を書いて夫に見せるという運びになり、次いで母親が訪ねてくる場面になります。 北欧のどこか、湖に面した静かな美しい風景と、贅沢ではないが、申し分なく好ましいたたずまいの家屋。 リヴ・ウルマンの演じるつつましく聡明そうな長女エヴァと、見るからに好人物であるが決して愚かではないその夫のビクトール(ハールヴァル・ビョルク)。 そこにやってくる母親シャルロッテ(イングリッド・バーグマン)。 ベルイマン監督の映画には難解なものが多かったが、この作品は、以前撮った「ある結婚の風景」と同じように、難解なところはひとつもない。 それどころか、この出だしなど、まるでチェーホフかストリンドベリーの芝居の幕開きを思わせ、さあこれから、少し深刻だけれども十分に趣味のよいドラマで愉しんでいただきます、と口上を述べているような趣さえあるのです。 ある人物が訪ねてくることによって、それまでそこに凍結されていた人間関係の葛藤が再び動き出し、過去に積み重ねられていた諸々の愛憎が表に出て、収拾のつかないような混乱にまでたちいるが、最後にはまた、登場人物たちのささやかな力ではどうにもならないような大きな矛盾が明らかになるのだ。 そこで登場人物は、最初よりは少しは深まった認識で、静かに破局に耐えなければならず、我々観る者は、そのわびしさ、せつなさを主人公と共有して、知的な涙の浄化作用に身を委ねるのです。 チェーホフやストリンドベリーを頂点とする近代劇には、こういう構成の作品が多いが、ベルイマン監督はこの映画で、明らかにその定型通りに愉しませることをくっきりと予告し、見事に愉しませ、きりりと定型どおりに終わらせるのです。 だが、では定型なら陳腐かと言えば、全然そうではなく、近代劇にはあり得なかったような、たんげいすべからざる新しい要素がそこにあるのです。 それは、主として母親のキャラクターに関わるものなのです。 イプセンの「人形の家」であまりにも有名なように、家庭を捨てて翔んでゆく女性というのは、近代劇が生み出したヒロインの最たるものだと思う。 家を出たノラが、その後どうなったかという議論は、魯迅の原作の中国映画「傷逝」にもあった。 かつては、ノラは家を出たことをきっと後悔しただろう、という話になることが多かったが、女性の社会進出の著しい昨今では、家を出て良かったというノラが増えているに違いない。 シャルロッテは、成功したノラとして、ほとんど自分が悪かったとは思わずに娘のところへ帰ってくる。 捨てた娘に会うのは少しバツが悪いが、娘は自分を誇りにしているはずだ、ぐらいの気持ちらしい。 シャルロッテは、エヴァから次女のヘレナ(レーナ・ニーマン)が同居していると聞いて嫌な顔をする。 夫と長女を捨てたことについてはなんとも思っていないが、身障者の次女を見捨て、かえりみなかったことは、さすがに母親として良心が咎めるからだろう。 しかし今さら引き返すわけにもいかないので、ヘレナの部屋に行って元気づけるようなことを言うのだった。 しらじらしい、うわべだけの言葉である。 彼女は、ノラのように俗物の夫の鎖を勇気をもって断ち切ったというより、芯からのあっけらかんとしたエゴイストなのだ。しかし、イングリッド・バーグマンは、これを思うがままに生きてきた魅力的な女として演じているし、ベルイマン監督も決してこの母を非難してはいないのだ。 多分、このシャルロッテは、これを演じるバーグマン自身をモデルとして描いたもののような気がします。 スウェーデン出身で、幸福な家庭の妻であり母であった彼女が、ハリウッドで大成した後、イタリアの大監督ロベルト・ロッセリーニに惚れて、家庭を捨てたことはあまりにも有名な話です。 エヴァは母を喜んで迎えたつもりなのだが、会えばもう、かつて捨てられたことの恨みしか出てこない。 それどころか、エゴイストの母親によって少女時代にどんなに劣等感ばかり募らされたかを言いたてるのです。 シャルロッテはあやまって、これからは仲良くなってゆこうと下手に出るが、エヴァの心のわだかまりの深さに辟易すると、さっさとまた家を出て行ってしまうのだ。 このエヴァの、自他ともに神経的にまいってしまうところまで鋭利な言動で追い込んでゆく過程は、これまでもベルイマン作品でもう何度見せられたか分からぬお得意のところで、リヴ・ウルマンの演技も堂に入っている。 リヴ・ウルマンの剃刀の刃のような切れ味の演技に比べると、さすがの大女優バーグマンも押され気味で、たじたじしながら臭い大芝居で持ちこたえているように見える。 しかし、この二つの役は明らかにバーグマンのほうが儲け役であると思う。 母に去られたエヴァが、せっかく老後を穏やかに過ごそうとする母の心を傷つけてしまったことで、またくよくよ悩んでいるのに対し、再び家を出たシャルロッテのほうは、汽車の中で新しい愛人の老指揮者かなにかの手を握って嬉々としている。 あくまでも良心的で、常に悩まずにはいられない娘と、身障者の次女を家に残してきたことすら、もう忘れてしまったかのような母とのカットバック。 この勝負は明らかである。母は強者であり、娘は弱者である。娘のほうが道徳的には正しいが、しかし彼女は、この無邪気な強者である母親を凌ぐことは決してできないのだ。 母娘が一緒にピアノでショパンを弾く場面で、母がショパンの”男性的な力強さ”について娘に語り、娘がそう教えられられてしょんぼりするあたりが素晴らしく象徴的だが、ただ良心的で内省的であるだけの人間は、悪気のない実行力のある人間にはとても勝てないのである。道徳より人間的魅力に軍配が上がるのだ。 ベルイマン監督はこれまで、エヴァ的な人間の苦悩だけを一途に追ってきたが、「ある結婚の風景」のラストで別れた元夫婦による姦通をユーモラスに肯定してみせたあたりから、苦悩を忘れても許される人間というものを、ちらりと見せ、それに微笑を与えている。 このエヴァとシャルロッテの表現で、それはいっそう明らかになったと思う。バーグマンが儲け役であり、臭い芝居を得々とやっても、それがかえって可愛く見える所以である。 しみじみと優しいが、しかし十二分に辛辣な映画であり、演出も演技もカメラも完璧だ。
裸足で散歩
ニューヨークの演劇のメッカ、ブロードウェイで1963年10月23日に公演の幕を開けてから大ヒット・ロングランを続けた、「おかしな二人」などのウェルメイドなコメディを得意とする劇作家・ニール・サイモンの「裸足で公園を」の映画化作品の「裸足で散歩」。 舞台の演出のマイク・ニコルズに代わって、ジーン・サックス監督が演出し、主演はブレーク前のロバート・レッドフォードが舞台からスライドして、相手役は舞台のエリザベス・アシュレイに代わって、当時、売り出し中だったジェーン・フォンダで、脇をフランスの名優・シャルル・ボワイエ、ミルドレッド・ナットウィック、ハーバート・エデルマンが固めるという豪華で素敵なメンバーが出演しています。 ニール・サイモンが得意とする笑いあり、ペーソスありの都会的な洒落たウェルメイドのコメディ映画として、古き良き時代のアメリカ映画の面白さを堪能出来ました。 ロバート・レッドフォードとジェーン・フォンダは「逃亡地帯」(アーサー・ペン監督)以来、2度目の共演ですが、この二人が新婚夫婦を演じ、ニューヨークのとある古びた屋根裏部屋のあるひどい部屋に住む事になり、そこから巻き起こるゴタゴタを笑いとペーソスで描いていきます。 このようなコメディ映画の良しあしは、脇役の出来不出来で決まる事が多いものですが、この映画では屋上の部屋の住人の「ガス燈」の名優シャルル・ボワイエ、ジェーン・フォンダの母親役のミルドレッド・ナットウィック、電話の工事人役の「男はつらいよ」シリーズにも出演した事のあるハーバート・エデルマンが、ユニークで味のある良い演技をしていて、主役二人に対して、絶妙なバランスの良いアンサンブル演技を示していて、映画全体が非常に良くなったと思います。 ニール・サイモンのいつもの、その独特なウィットの効いたセリフ廻しと都会的な洒落たタッチが観ていて、すごく心地良いというか、ハートウォーミングな感覚がいいんですよね。 そして、彼の得意とする、短いセリフを数人の登場人物が矢継ぎ早やに、かつスピーディに応酬するというコメディタッチの中に、辛辣で皮肉に満ちたペーソス感を醸し出すのが実にうまいなと、いつも感心してしまいます。アメリカ人が、ニール・サイモンのお芝居が大好きな理由がよくわかります。 その後、「明日に向って撃て!」で大ブレークする前の、若き日のロバート・レッドフォードがコメディ映画に出演しているのも珍しく、大いに見どころがあり、泥酔してセントラル・パークの中を裸足で歩き廻り、ゴミ箱を頭から被ったりするなど、コミカルで、非常にチャーミングで素敵な演技を披露しています。 また、若妻役のジェーン・フォンダもまだ、演技派女優になる前の明るくハツラツとした頃の可愛らしさに溢れていて、ロバート・レッドフォードともまさにピタッと息の合った演技を見せています。
赤い天使
この映画「赤い天使」は、増村保造監督、若尾文子コンビによる第15作目の作品で、敗色濃い中国大陸を舞台に、従軍看護婦とそこで出会った男たちの物語だ。 この映画は「兵隊やくざ」と同じ有馬頼義の原作ですが、あの痛快さや開放感はどこにもなく、暗く重苦しいトーンで貫かれている。 最前線の野戦病院は、傷病兵であふれ、死者も生者も一個のモノと化していく。 負傷した脚をノコギリで切断する音が響く手術の描写をはじめ、実際に従軍経験のある小林節雄の撮影を得た、増村保造監督の過剰なまでのリアリズム演出は、戦争の真実を抉って鬼気迫るほどだ。 両手を失った一等兵(川津祐介)、戦場の狂気の中で正気を保とうとモルヒネを常用する医師(芦田伸介)。 戦争に身体も心も蝕まれた男たちに深い愛を捧げるヒロインを演じた若尾文子が、凄絶なまでに美しい。 増村保造監督の映画のヒロインの多くは、狂気の愛に生きるが、戦場という極限状況に置かれた若尾文子は、おびただしい死と隣り合わせの男たちに愛を与え、一瞬の生を実感させる。 狂気でもエロスでもない、純粋な愛を。
アメリカン・フィクション
アカデミー賞ノミネート作品がアマプラで配信されているということで軽い気持ちで視聴したが、皮肉が効いた良質なブラック・コメディ映画で十分楽しめた。 差別、貧困、ドラッグ、ギャング…という黒人に対するステレオタイプなイメージ、そして無意識にエンタメとして黒人に求めているもの。 そんなものだけが勝手に黒人のリアルだと人々は勘違いしてしまっている。 実は主人公の家族のようにインテリで富裕層の黒人も多くいるし、割合で言えば中流家庭の黒人がほとんどで、そこは日本とあまり変わりないのかもしれない。 映画、本、音楽などのエンタメの影響もあり、自分も「黒人」で連想するイメージは先に述べたような「差別」「ギャング」といったステレオタイプなものだった。 この映画で言う、「読者は馬鹿だから」に完全に当てはまる人間だった…。 そんな勝手なイメージや勝手なリアルを思いっきり皮肉った身につまされるコメディで、派手さはないけどジワジワと沁みてくるような笑いで、大人の雰囲気の作品に感じた。
落下の解剖学
このレビューにはネタバレが含まれています
ハムレット
この映画「ハムレット」は、イギリスを代表するシェイクスピア役者の名優ローレンス・オリヴィエが、製作・監督・主演をし、自身アカデミー主演男優賞も受賞したハムレット映画の決定版だ。 そして、このウィリアム・シェイクスピアの代表的な舞台劇の映画化にあたり、当時、彼が主催する名門オールド・ヴィク座から多数の舞台役者を招聘し、重厚で見応えのある作品に仕上げていると思う。 暗い画面の中に渦巻く霧が割れて、遥か下方に、陰鬱そのものの様なエルノシア城の望楼が、黒々と浮かび上がってくる。 これが、この映画「ハムレット」の全てを象徴しているように思う。 デンマークの王子ハムレットは、亡き父王の亡霊に出会い、父が暗殺されたことを知り、殺害者で、現国王のクローディアスに復讐を誓う。 そのため、ハムレットは狂気を装うが、誤ってオフィーリアの父ポローニアを殺してしまう。 そして、旅芸人一座に暗殺劇を上演させて、クローディアスの犯罪を突き止めたハムレットは、クローディアスに唆されたレアティーズと試合をするが-------。 この映画化作品は、確かに舞台そのものを模倣しているところがあり、アブストラクトな装置やスモーク、ワンショットが非常に長く、カット数も少ないため、まるで舞台そのものを観ているような気になり、映画を観ていることを忘れさせてくれます。 しかし、ここには、オールド・ヴィク座の舞台での歴史的な成功とはまた違う、オリヴィエの映画的欲望といったものが、もう凄まじいまでの重厚さで埋め込まれていると思う。 例えば、亡き父の亡霊に復讐を誓った後、カメラは亡霊の目になって、事の真相を知らされて絶句するハムレットを見つめながら階段を昇って行く。 また、母親ガートルードとのいさかいの場面に、ハムレットを諫るため自ら登場した亡霊は、その後、またしても、もがき苦しむハムレットを見つめながら、部屋の階段を昇って行く。 どちらも、ハムレットを一人残して亡霊、つまりカメラが階段を後ろ向きに引いて行くショットとなっている。 つまり、ここでは観ている側の我々の視点と亡霊の視点が一体化しているのだ。 そのため、亡霊の目で、この復讐劇全体を眺めるという、稀有な「ハムレット」体験を可能にしてくれていると思う。 そして、この後ろに引いて行くショットは、もう一箇所出てくる。 オフィーリアに「尼寺へ行け!」と暴言を吐いた後、舞台劇ではもっと後の場所なのだが、この映画では、そのまま城の上まで一気に昇って、この劇で最も有名な「生きるべきか死ぬべきか」のモノローグになる。 それはあたかも、亡霊に呼び寄せられたかのように、城の上に出て行く印象を与えている。 つまり、ハムレットは、ここで亡霊と一体化するのだ。 そのため「生きるべきか死ぬべきか」というセリフが口をついて出てくるのだ。 まさに生死をさまようハムレットが、この映画的手法によって表現されているのだと思う。 その他にも、黒と白との息詰まるコントラストや、ナレーションによる独白などで、復讐に焦点を絞った、明晰で、理性的なハムレット像を創ったオリヴィエは、ここでは、舞台ではなく、まさしく"映画のハムレット"を生み出しているのだと思う。
勇気ある追跡
この映画「勇気ある追跡」は、西部劇の大スター、ジョン・ウェインに初のアカデミー主演男優賞をもたらした記念すべき映画です。 「ネバダ・スミス」、「エルダー兄弟」などの娯楽映画のベテラン職人監督のヘンリー・ハサウェイがメガホンを撮ったこの映画は、ジョン・ウェインの数ある西部劇の出演作の中でも異色の西部劇といえると思います。 黒いアイパッチをつけ、粗野で大酒飲みの保安官というキャラクターで、珍しく汚れ役を演じています。 ジョン・ウェインは1959年の「リオ・ブラボー」(ハワード・ホークス監督)以降、それまでの精悍で立派なイメージに執着する事をやめて、実際の自分の実年齢と体型にふさわしい役柄を演じるようになっていたため、この映画のような汚れ役は初めてだと思います。 彼は1964年頃から、癌と闘いながらタフでたくましい西部の男を演じ続けて来ましたが、今回の1969年の「勇気ある追跡」で初の汚れ役に挑戦して、それを見事に演じきり、今まで過少評価されていた演技力を広く認めさせる事になったと思います。 原作はチャールズ・ポーティスが1968年に発表して、米国で大ベストセラーになった「トゥルー・グリット」で、アメリカ現代文学史に残る名作として現在も長く読み継がれている小説です。 14歳の時、父親を悪党に殺された女性の一人称形式の小説で、成長した彼女の視点から振り返られた過去の物語という設定で、少女時代のキム・ダービー演じるマティに復讐の助っ人として雇われるのが、ジョン・ウェイン演じるルースター・コグバーン保安官で、彼は元南軍の無法ゲリラ部隊の一員で銀行強盗も働いた事もあるという、複雑な過去を持つ、クセのある人物像になっています。 ジョン・ウェインが画面に登場すると、彼の映画の中での過去の異常でダーティな体験が、そのまま彼の体全体からにじみ出ているような男を、勝気で向こう見ずな少女マティが助っ人として雇う映画の最初のシーンに我々観る者は映画的なワクワク感と共に、魅力的な映画の世界にスーッと引き込まれてしまいます。 まるで、”少女マティの紡ぎだす夢の世界のような、非現実的で、心躍る展開”になって来ます。 助っ人としてもう一人、テキサス・レンジャーの若者のカントリーミュージックのスターのグレン・キャンベルが演じるラ・ビーフの三人で、父親殺しの犯人のトムの追跡の旅に出るというスリリングな物語が展開していきます。 この映画の白眉はなんといっても、映画ファンの間で伝説的な名場面として語り草になっている、クライマックスの馬上のコグバーンが、口に手綱をくわえ、ライフルと拳銃で応戦しながら、悪党一味の中に突っ込んで行く場面ですが、しかし映画ファンの大向こうをうならせる、その死闘の場面だけではなく、そこに至るまでの三人の追跡の旅の過程も味わい深く、興味深いものがありました。 三人三様に向こう意気が強く、最初は互いに罵り合っていましたが、旅を続け、共に闘ううちに、お互いの心を開き、やがて本当の親子のような関係になるというエピソードには、ヘンリー・ハサウェイ監督、なかなかやるなという印象を強く持ちました。 原作の小説を先に読んでから、この映画化作品を観ましたが、原作の小説がそうであるように、この映画のこのようなデリケートな味わいのエピソードというものは、結局、少女マティの見た夢のような印象を与えます。 原作者のチャールズ・ポーティスも、父親を亡くした少女マティの”無意識的な願望が生んだファンタジー”として構想されていたような気がしてなりません。 そう言えば、後年の2010年にこの映画のリメイク作品である「トゥルー・グリット」(ジョエル&イーサン・コーエン監督)も一種のファンタジーである事を強調して映画化されていましたが、イーサン・コーエン監督も「トゥルー・グリット」の製作意図として、「現代人には非常にエキゾチックに感じられる世界に、14歳の少女が入り込んでゆくという点で”不思議の国のアリス”のような作品でもある」といみじくも語っていたのが、この事を象徴的に言い表わしていると思います。
長い上映時間と、法廷映画で物事の事実がはっきりとするストーリーではないので途中退屈に感じてしまった。 でも、ハッキリスッキリしないストーリーを楽しむ映画で鑑賞後にあれこれと考えたり他の方のレビューを見るのが楽しい映画でした。 夫婦関係を題材にしただけの映画に見えますが、実際には共働き家庭の家事育児分担、国際結婚、親権争い、性的指向、障害など現代社会の要素がたくさん盛り込まれています。
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