ソウルの春
ファン・ジョンミンとチョン・ウソンの再対決。 アシュラに比べると史実に基づいているので、ド派手で残酷なシーンは少なく物足りなさも少し感じましたが、韓国ではパラサイトを上回る観客動員数で国民4人に1人が劇場に足を運んだそう。 ファン・ジョンミン演じるチョン・ドゥグァンが起こした事件を描いた『タクシー運転手』ももう1度見たくなった。 韓国は映画というエンタメを通して歴史を学べてうらやましい、日本でも過去の政治家等の悪事を映画として描いてほしいと思いました。
犯罪都市 NO WAY OUT
マ・ドンソクが圧倒的なパワーで悪人どもをバッタバッタぶっ倒すという、みんなが見たいものは見せてくれる。 娯楽作品として、それだけで合格点は出せているが、それ以上の期待値は超えてこなかった。 個人的にこの手の作品は、ストーリーより悪役が重要だと思う。 悪役がより極悪で残虐で、観客にこいつはヤバイ奴だと思わせたら勝ちで、クライマックスの対マ・ドンソク戦がメインカードとして相応しいかどうかにかかっている。 同系色の作品で、「孤狼の血 Level 2」がシリーズ2作目でも成功しているのは、鈴木亮平演じるヴィランの魅力が圧倒的であるのが大きい。 今回の「犯罪都市」3作目は、日本のヤクザが登場するということで楽しみだったが、日本側のヴィランであるリキ(最近売れてる青木崇高)は、ヴィジュアルもセリフもなんだかチンピラ感が強く、個人的に悪役として魅力が弱いと感じた。 これ系の韓国人の悪役俳優にある泥臭さや顔面力、ヤバイ奴感が薄い…。 とくに彼が発するセリフが、韓国の人が書いた台本なのか、チンピラやザコキャラが言うような、ありきたりなダサいセリフしかない。 ここは日本のスタッフがなんとかすべきだと思う。 また、外国人の役者が演じる日本人役のセリフがカタコトなのも、やはりノイズに感じてしまう。(日本人俳優で揃えられそうなものだが…) あと、國村隼のフェードアウト感もなんだかなぁ…だった。 一方、韓国側のヴィランである汚職刑事は、これまでと違いスマートなイケメンで、憎たらしい感じは良かったが、過去作に比べるとインパクトに欠ける。 とくに最後の方は状況的に既にけっこう追いつめられていたし、もう少し強大な敵でいてほしかった。 そんな感じで今作の「ヴィラン」には苦言はあるけど、マ・ドンソクを見てるだけで、なんだかんだ楽しめてしまう作品でもある。 ただ、4作目もあるようだけど、劇場で観るかは迷うなぁ…。
密輸 1970
コメディ、アクション、サスペンス、犯罪、シスターフッド、さらには「海女」「ジョーズ」「韓国70年代カルチャー」など、多種多様なジャンルが詰め込まれた、これぞ娯楽映画‼というような作品だった。 序盤、ややオーバーアクションでコメディタッチな作風に戸惑い、その後の海女チーム、地元ヤクザ、密輸王、税関の四つ巴展開に少し頭が混乱してしまう場面もあったが、後半からの怒涛の見せ場の連続はさすがの面白さで、やはり韓国映画のパワー恐るべし‼ とにかくエンターテイメント性が高く、前知識や解説もとくに必要ないし、万人が楽しめる映画だと思った。 ただ、自分は前評判が良すぎたので、かなりハードルを上げて観てしまった部分もあったかなと…。 やっぱり個人的に韓国映画は、韓国ノワールや泥臭くて容赦ないバイオレンス作品の方が好みだなぁ…。
ブラドック/地獄のヒーロー3
チャック・ノリス主演の、ランボーやコマンドーみたいなアクション映画‼️しかもただの銃じゃなく、自動小銃G3に6連グレネードランチャーで北ベトナム正規軍を皆殺し🔫からの建物・車両破壊💥それに敵の飛行機を奪う時の肉弾戦が個人的に痺れました。そして手榴弾を投げられ、重傷でも敵4人とヘリをAK-47で血祭りにあげ、撃ち落とす勇姿に惚れました。 これは最高のB級戦争アクション映画です👍
凶悪
Netflix「地面師たち」が面白く、ずっと気になっていた「凶悪」も鑑賞しました。 ピエール瀧、リリーフランキー、松岡依都美が両作品に出演しています。 リリー・フランキーの怪演が本作も素晴らしかった。地面師たちが好きな人は凶悪もぜひ。 鑑賞後、実際の事件について調べると、思った以上に実際の事件に忠実に描かれていて恐ろしさが増します。
劇中で流れる昔のであろう音楽は知らない曲だけどどこか懐かしい音楽。昔のイケイケファッションも、日本の昭和の服装とリンクするところがあって面白かったです。 海の中の映像や音は圧巻で映画館で見てよかった映像でした。どうぶつの森の素潜りを思い出すような映像と音に涼しい気分になれます。 全体的に面白かったのですが、名前と顔を覚える前にストーリーが展開していきついていけなかったり、いまいちよくわからない話の掛け合いがありノリきれなかったのが残念でした。
コンクリート・ユートピア
イ・ビョンホン、かっこいいイメージでしかなかったけど、こんな小汚いおじさんも演じられるんだなと感心。 イ・ビョンホン×パク・ソジュン×未曾有の大災害時に唯一崩落しなかったマンション×韓国映画 これだけですごく面白そう!と期待をして見たのですが、期待を超える展開はありませんでした。 あまり評価が高くなかったのも納得。 どの役に感情移入するか人によってわかれそうなストーリー。キム・ボヨン演じるミョンファが個人的には1番苦手な行動をとっていました。マンション一同で生き残るために役割分担をして協力しあいますが、ミョンファは消極的協力。なのに自分の正義を貫いて結局数々の被害者を出してしまった、その点の反省は感じられない、悪い意味でのいい子ちゃんキャラ。でも、一般的にはミョンファが1番共感を得るのかしら。。
犬神家の一族
このレビューにはネタバレが含まれています
チャイナタウン
アメリカ合衆国の国内のチャイナタウンの土地は、どのような土地なのか。 これを見事に描く、ポーランド映画。 製作は、アメリカ合衆国。 ポランスキーの演出は、どのシーンも、深みあるショットで構成されていて、俊英的、連発です。 乃ち、これは、トリュフォー映画と対極を成す、傑作なのです。 ジョン・ヒューストンの演技、が、印象に残る、ラストシーンは、大変、哲学的で、映画史に残ります。 次に、アメリカ人は、中国人には負ける、と表現した、社会派映画として観ることも出来る、すぐれた作品でもあります。
理由
疑惑の影
退屈な日々を過ごす娘チャーリー(テレサ・ライト)の所へ、突然、彼女の叔父(ジョゼフ・コットン)が現われ、しばらく一家とともに暮らすことになる。 自分と同じ名前を持つこの叔父を、娘は幼い頃から敬愛しており、彼女は大歓迎だったが、その叔父にはどうも不審な点が多かった。 やがて、二人の探偵がやって来て、叔父に殺人容疑がかかっていることを知らされる。 娘は不安になり、調べ出した新聞には未亡人殺しの記事が載っていた。 しかも、叔父が土産にくれた指輪に彫ってあったイニシャルは、被害者のそれと同じだったのだ。 果たして、叔父は本当に殺人犯なのか? 娘の不安は恐怖へと変わっていく-------。 不気味な演奏の「メリー・ウィドー」の序曲のワルツとともに始まるこの映画は、殺人事件そのものや犯人探しがテーマではなく、大好きな叔父さんが、その犯人ではないかと疑う、姪と叔父の物語だ。 この映画は、登場人物の恐怖心理を、スリラーの神様ヒッチコック監督が巧みに映像化していて、二人のチャーリー、二人の探偵、列車の走るシーンが二つなど、二組のペアが次々と登場する。 姪も叔父も同じチャーリーであるのは、ヒッチコック映画の秘密を解く鍵の一つである、左右対称のモチーフ、同じ人間の表と裏、天使と悪魔、他人の犯した罪のために苦しむ人間と犯罪者の葛藤のイメージなんですね。 もちろん死体が出てくるわけではなく、のどかな田舎町の平和な家庭を舞台にした、ヒッチコック監督ならではのサスペンス映画になっていると思う。 そして、ジョゼフ・ヴァレンタインの撮影による緻密な映像が、不安感を見事に盛り上げている。 この映画は、「わが町」で知られるアメリカの劇作家ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに乞われてシナリオを書いたもので、異色のサスペンス映画というよりも、ずばり、映画の本質とはサスペンスそのものであることを教えてくれる映画だ。 そして、ヒッチコック映画のお楽しみでもある、彼の登場シーンは、冒頭の列車の中の客席の中の一人としてチラッと出てきますので、お見逃しのないように。
フランティック
"映像の魔術師ロマン・ポランスキー監督による、縦の構図を駆使してサスペンスの醍醐味を堪能させてくれる「フランティック」" この映画「フランティック」は、ロマン・ポランスキー監督がアメリカで事件を起こし、ヨーロッパへと移った後に撮った、ワクワクする面白さ、楽しさに満ちた会心のサスペンス映画です。 主人公のウォーカー医師(ハリソン・フォード)は、学会出席のため、妻と20年ぶりにパリへやって来ます。だが、彼がシャワーを浴びている間に、突然、妻の姿がホテルから消えてしまいます。サスペンスの名手でもあるポランスキー監督による快調な滑り出しで、我々観る者をいきなり、このポランスキーの映像魔術の世界へと誘ってくれます。 どうやら、空港で間違えたスーツケースに何か関係があるようだ?----。警察に妻の失踪依頼をするものの、言葉の通じない異国の地、頼みとすべき警察は思うように捜査をしてくれず、当てになりません。 そこで、自ら妻探しに乗り出したウォーカーは、妻を探してパリ中を走り回ります。このハリソン・フォードの妻を探して一途に突っ走るその姿に、思わず応援したくなる程の緊迫した緊張感のある演技を披露してくれます。この映画の3年前に出演した「刑事ジョン・ブック/目撃者」で演技開眼したハリソン・フォードは,実に感情表現のうまい役者になったものだと驚かされます。 見えざる恐怖が、異国の地の旅行者に不気味に降りかかるという設定が、見事に心を突き刺す仕掛けとなっていて唸らされます。そして、新星エマニュエル・セイナーの妖しい美しさもこの映画の大きな魅力のひとつとなっています。 そして、何と言ってもポランスキー監督の演出はさすがだと思わせてくれます。まず画面に深みがあるのです。例えば、手前にシャワーを浴びている夫。ガラスの向こう側で何か言っている妻。しかし、それは夫には全く聞こえません。すると、その妻がスッと左に消えます。 この夫、ガラス、妻、見事に焦点が合っていて、"縦の芝居"が鮮烈なサスペンス効果を生んでいるのです。 それから、屋根の先端へ落ちた物を何とか取ろうと、手を差し伸べる謎の女、そして、その女を助けようとするハリソン・フォード----。ここでも、"縦の構図"がぴたりと決まるのでスリルが倍増して、ワクワク、ハラハラの興奮と緊張感が味わえるのです。ポランスキー監督の計算され尽くした演出の腕が冴え渡ります。 そして、このような部分部分の効果だけではなく、この映画では"縦の構図"の奥にパリの街が常に"存在"して、ドラマを語っているのです。 とにかく、このように、なまじっかな論理を捨て去って、"映像の魅惑"で我々観る者をたっぷりと楽しませてくれる、ロマン・ポランスキー監督による極上のサスペンス・ミステリーの傑作だと思います。
M★A★S★H マッシュ
アリスのレストラン
この映画「アリスのレストラン」は、アメリカのフォーク・シンガーの元祖であるウディ・ガスリーの息子で、現代の吟遊詩人と言われたアーロ・ガスリーが、実名で登場し、自身の同名のヒット曲とともに、自らの青春とその彷徨を演じていくという、ホロ苦いヒューマン・ドラマであり、ニューシネマの傑作だと思う。 ヴェトナム反戦で揺れる1960年代後半のラブ&ピースなヒッピー・カルチャーを、「俺たちに明日はない」のアーサー・ペン監督が描いた作品。 ヒッピーのアーロは、大学をドロップアウトすると、レストランを経営する友人アリスを訪ね、仲間とともに廃屋の教会に住み、おんぼろギターを抱えた日々を過ごしていた。 だがある日、彼のもとに徴兵検査の通知が届き、彼はなんとか逃れようとするのだった。 しかし、そんな楽しい日々も長くは続かず、麻薬中毒の仲間が、バイクを暴走させて死ぬという不幸な事件が起こり、アーロとその仲間たちは、最後のパーティを思い出に面々散っていくのだった---------。
キル・ビル Vol.1
クエンティン・タランティーノ監督が敬愛、偏愛する香港のカンフー映画や日本のチャンバラ映画、任侠映画に限りなきオマージュを捧げた映画が「キル・ビル Vo.1」だ。 この映画「キル・ビル Vo.1」は、公開当時、6年間の長い沈黙を破りタランティーノが帰って来たと話題になった作品で、乱れ飛ぶ多くの前情報から、とんでもなくハチャメチャな映画を予想していたところ、その想像の遥か上を行く、タランティーノ・ワールドが全開で炸裂し、狂喜乱舞した思い出があります。 もう、とにかく腕が飛ぶわ、脚が飛ぶわ、首が飛ぶわの凄まじいゲテモノ・バイオレンスのオンパレード。 映画の冒頭、第一の復讐シーンで見せる乾いたユーモアとクールなバイオレンス演出で、いつもと変わらぬタランティーノのセンスの良さを感じてしまいます。 包丁を背後に隠し持ったまま、娘に「学校はどうだった?」と尋ねるシーンなど、いかにもタランティーノらしく嬉しくなってきます。 その後の展開も、例によって、倒錯した時系列の処理が巧妙であったり、さすがと思わせてくれる演出で溢れていて、我々タランティーノ・ファンを楽しませてくれます。 しかし、何といっても目が画面にくぎ付けになるのは、タランティーノが敬愛、偏愛する香港のカンフー映画や日本のチャンバラ映画、任侠映画、それもB級映画に限りなきオマージュを捧げたという、破天荒なタランティーノ的世界感です。 「自分にはアジアの文化がよくわかるんだ」と公言して憚らないタランティーノですが、よく言うよと内心思いながら、この言葉、半分位は正しいのかなと思ってしまいます。 というのは、日本の大衆文化でよく見受けられた、劇的すぎるヒーロー像やドラマ展開、荒唐無稽な殺陣などを我々日本人の目には、"カッコいい!"と感じさせる一方で、どこか滑稽に映っていたように思います。 この"滑稽"という感覚を、タランティーノはよく理解しているなと思います。 我らが千葉真一演じる沖縄で寿司屋を営む刀作りの名人、服部半蔵という日本人像や、日本刀用のホルダーがある飛行機の座席、更には、ユマ・サーマンやルーシー・リューが、大立ち回りの最中にぎこちない日本語で啖呵を切ったりするのも、"滑稽"という感覚を突き詰めて行くプロセスの延長戦上にあるものだと思います。 ただ、さすがに、日本映画に漂う独特の風情、情緒、粋な感覚に対しては、一応、枠にこそはめ込んでいたものの、少々紋切り型であったような印象を受けます。 しかし、そこはタランティーノ、このような感情に関わる部分を、何とマカロニ・ウエスタン的な感覚とノリで処理してみせたのです。 この演出テクニックには、正直、唸らされ、タランティーノが映画の天才と呼ばれる所以なのだと心の底から思います。 これだけ、ある意味、ごった煮モードの世界観を剛腕でねじ伏せ、展開してみせたタランティーノ、誠に恐るべしです。 この映画は、かなり唯我独尊的なオタク映画で、"滑稽"さの追求といい、綱渡り的な面白さの映画になっているため、この手の映画がダメな人には究極の駄作に見えてしまうというのも、わからないでもありません。 しかし、タランティーノは何もリアルな日本を描こうとした訳ではなく、彼が愛した日本映画の記憶を、オーバーに愛情をこめて甦らせただけなのです。 そして、この映画はタランティーノ以外の誰にも作れない、というより許されない映画だろうと強く感じます。 そう感じさせてくれたのが大変嬉しく、タランティーノ映画はこうでなくちゃいけません。
インサイダー
この映画「インサイダー」は、自分を信じ自分を貫こうとする男の美学をクールに熱く語る、マイケル・マン監督の社会派ドラマの傑作だと思います。 「ヒート」、「コラテラル」のマイケル・マン監督が放つ、男同士の死闘をクールに描いた骨太の社会派ドラマですね。 静けさの中にもほとばしる熱気、マイケル・マン監督の抑制された演出が、男達の生きざまを輝かせます。 自分を信じ、自分を貫こうとする男の美学が、我々観る者の心を激しく揺さぶります。 アメリカのCBSの人気報道番組「60ミニッツ」の舞台裏で実際に起きた事件を描いた、実録社会派ドラマで、「60ミニッツ」の敏腕プロデューサー、ローウェル・バーグマン(アル・パチーノ)とタバコ会社の不正を内部告発した、ジェフリー・ワイガンド(ラッセル・クロウ)という二人の実在する男達の熱い戦いを実録タッチで描いています。 2時間38分と長い上映時間ですが、マイケル・マン監督の工夫を凝らした演出が、ピリピリするような緊張感を持続させてくれます。 まず、実話に基づいている事もあって、手持ち撮影によるドキュメンタリー・タッチが実に効果を上げていると思います。 更に、クローズ・アップやスローモーションで画面にメリハリをつけ、バーグマンのジャーナリストとしての信念と、ワイガンドの迷える複雑な心情を鮮やかに映し出していると思います。 このワイガンドが内部告発をする段になって、様々な圧力がかかり、身の危険や家族崩壊の危機にさらされる事になります。 凄まじいまでの葛藤と戦い、ワイガンドは強固な正義心を貫こうとします。 現実問題として、このような過酷な試練にさらされた時、人間は理想というものを貫き通せるものであろうか? 人間は本来は、もっともっと弱いはずだし、このワイガンドの勇気を我々は現実のものとして、受け止められるであろうか?----と、自問自答せざるを得ません。 様々な脅迫に耐えられず、夫から離れていったワイガンドの妻は、現実的な人間らしさを象徴するキャラクターでもあります。 ただ、残念ながら、この女性は丁寧に描かれていたとは言い難く、このドラマの枠外へと追いやられてしまっています。 こう考えてくると、結局のところ、ワイガンドの正義心を前へと突き動かしているのは、"男と男の信頼関係"だったのだと思います。 バーグマンの信念、それは、自分の情報源になってくれる人間を守ってやる事。 これがジャーナリストの鉄則だと信じているのです。 CBSがタバコ会社の圧力に負けて放送が中止になれば、新聞社へ情報を流し、あらゆる手段を使ってでも、この内部告発を世間に伝えようとするのです。 ワイガンドの勇気に報いるために、バーグマンもまた、組織の中での自分の立場を顧みる事などしないのです。 この二人の男の稀有な勇気と信頼が、長く険しい道のりの果て、真実の公開へとたどり着かせるのです。 我々が日頃、享受している「言論の自由」や「報道の自由」は、これら多くの犠牲や努力の上に成り立っているのだと、あらためて痛感させられます。 バーグマンとワイガンドが命を懸けて示してくれた大きな理想。 これは、紛れもなく、れっきとした事実なのです。
アメリカン・グラフィティ
時代は1962年、アメリカが最も輝いて美しかった頃のカリフォルニアの小さな町の一夜の若者たちの姿を、41のヒット曲にのせて描いた映画が、ジョージ・ルーカス監督の 「アメリカン・グラフィティ」ですね。 ジョージ・ルーカス監督が29歳の時に撮ったこの映画は、カリフォルニア州モデストで育ち、車と映画が大好きだったというルーカス自身の失われた10代の青春時代へのノスタルジーであり賛歌なのだと思います。 カリフォルニア山間部の小さな町を舞台に、夕陽の沈む頃から朝日の昇るまでの、ある一夜の出来事をこの映画は描いています。 この日は夏の終わりであると同時に、明日、東部の大学に出発しようとしているカート(リチャード・ドレイファス)とスチーブ(ロン・ハワード)にとっては、"故郷で過ごす最後の日"という特別な意味を持っていたのです。 時代は1962年。若き大統領ジョン・F・ケネディのもとで、アメリカが最も輝いて美しかった頃です。 ヴェトナム戦争はまだ泥沼化しておらず、少年たちは長髪ではなくポマードをたっぷり使った"グリース"で、女の子たちは"ポニー・テイル"の時代。 まだ、フリーセックスもドラッグもない時代。 彼らの若さは車と、そしてアメリカン・ポップスの音楽で表現していた時代。 この時代、彼らの世界はあくまでシンプルで、音楽はあくまでもスイートなのです。 映画のリズムは、当時の伝説的なディスクジョッキー、ウルフマン・ジャックのラジオ番組とそこで使われるヒット曲で描かれていきます。 「イージー・ライダー」と並んで既成の音楽の使い方としては、やはり斬新なものがあり、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」からビーチボーイズの「オール・サマー・ロング」まで、当時のヒット曲が実に41曲も使われているのです。 旅立つ朝、故郷の町を飛行機で去って行くカートの姿にかぶさってスパニエルズの「グッド・ナイス・スイートハート」が流れるところでは、胸にこみ上げてくるものがあり、思わず目頭が熱くなってきます。 カートが追い続け、遂に手に入らない、"白いサンダーバード"は失われつつある青春の象徴なのかも知れません。 ドラマが終わって、最後に4人の主人公のその後を言葉とスチールで示すエンディングの演出もまた素晴らしい。 あのひょうきん者のテリー(チャーリー・マーティン・スミス)が、「ヴェトナム戦争に従軍し、行方不明」と語られる時、我々観る者はこのドラマの背後に、"語られない、もうひとつの大きなドラマ"を予感するのです。 製作がフランシス・フォード・コッポラ。無名時代のハリソン・フォードが出演していたのも嬉しいし、おませな13歳を演じたマッケンジー・フィリップスが非常に印象に残りました。
光る眼
映画:ゼイリブ、よりも、哲学的思想が、感じられるSF映画。 旧作品(オリジナルモノクローム映画)、と、違って、新宇宙系の子供たちは、女の子たちの人数が多くて、考えさせますが、高度究まる、特撮で、あっという間に終わってしまう、教育的SF映画の秀作。 そして、旧約聖書的を外していない演出のカソリック映画です。
ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還
「ロード・オブ・ザ・リング」も、この第三部で遂に完結の時を迎えましたね。 フロドは滅びの山に指輪を捨てることが出来るのか? アラゴルンらは冥王サウロンの軍勢からゴンドール王国を守ることが出来るのか? という、この「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」は、ファンタジー映画の最高峰だと言えると思います。 このシリーズで私が最も好きな「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」について、その思いを下記に書いてみたいと思います。 全てのドラマは結末に向かって、疾走していく。 七層建築の白亜の城塞都市ミナス・ティリス、巨獣オリファントの群れと二十万余の兵が、ペレンノールの野で激突する"中つ国"最大の戦闘など、最初から最後までがまさにクライマックスという、壮大な巨編のフィナーレに立ち会えた興奮と感動は、一生忘れることがないほどのインパクトを、私に与えてくれました。 この映画を観終わった時に覚えた、本当に長い旅を終えたかのような疲労感と安堵感、そして、もう旅に出ることはないという寂寥感は、何とも言葉に出来ないものがありました。 あらためて、このシリーズを観続けた私も、彼ら、旅の仲間と共に果てしない旅を続け、そして、終えたんだ、という実感がこみ上げてきます。 この映画の作劇面に関して言うと、まずは冒頭に、ゴラムがまだスメアゴル(アンディ・サーキス)であった頃、指輪を手に入れて、身も心も変貌するほどの過程を挿入した点が良かったと思います。 下手なダイジェストを流すよりも、よほどこの苛酷な旅の意義が鮮明になります。 もちろん、第二部同様、この第三部でも主人公たちのグループを三つに分け、各々の空間を巧みに交錯させていくストーリー・テリングこそが、3時間23分もの長さの上映時間を全く感じさせない最大の要因であることは、言うまでもありません。 この三つのグループとは、セオデン王を中心にアラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)とレゴラス(オーランド・ブルーム)、ギムリ(ジョン・リス・デイヴィス)にメリー(ドミニク・モナハン)が加わったローハン国の軍勢、モルドールとの決戦に備えるべく、ゴンドール国へ説得に向かったガンダルフ(イアン・マッケラン)とピピン(ビリー・ボイド)、そして、ゴラムを道先案内人として、敵国モルドールへと潜入したフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)です。 このように離れた場所を舞台にしながら、この作品が一本筋の通ったドラマとしてブレを感じさせないのは、彼らの決死行は全て、フロドという小さなキャラクターが指輪を捨てるという使命を達成するためのものであり、その使命のためには何ら自己犠牲をいとわないという固い結束が、徹底して描き込まれているからだと思います。 この物語は、弱気が強気をくじくことの"カタルシス"と、あらゆる誠心の中で、「自己犠牲」の精神こそが、最も感動的であることをよく知っていて、とことんそこにこだわってみせるのです。 そして、この第三部を牽引するのは、極めてシンプルなエモーションなのだと思います。 サムが自分を見失いかけたフロドを励ますために、故郷のホビット庄を語り、遂にはフロドを背負って歩き出す場面は、"永遠の名場面"として長く語り継がれることになると思います。 ビジュアル面について言えば、戦争シーンが前作にも増して素晴らしく、様々なアイディアに溢れています。 クリーチャーの怪物たちのリアルな動きからは、一時も目が離せず、自然と身を乗り出してしまいます。 この映画の視覚スペクタクルの偉大な点は、登場人物たちがとてつもない危機に立たされているという状況を、ロングショット一発で知らしめるところだと思います。 モンドールの黒門の前で、四面楚歌に追いやられた様を、俯瞰で捉えたショットが、その典型です。 そして、私が最も感動したのは、王の戴冠式で、小さき者、ホビットが王から最敬礼をもって迎えられる場面です。 更には、彼らが帰り着いたホビット庄の変らぬ美しさだ。 やはり、この物語はホビットたちの物語だったのだ、と。 彼らこそが真の英雄なのだとあらためて思います。 因みに、「指輪物語」の原作には、フロドたちがホビット庄に帰ると、村はサルマンに支配されていて、フロドたちの活躍で村を荒廃から救うというエピソードがあります。 しかし、個人的には、映画版ではホビット庄に帰ってからのサルマンとの闘いは必要なかったと思います。 長い長い三部作の道程を経て、フロドが指輪を捨て、アラゴルンが王位について、遂に大団円と思った矢先に、まだ何らかのエピソードがあると、普通の感覚の人間ならげんなりすると思うからです。 小説ならば、ちょっとずつ読み進めていったりする手があるが、映画のように長時間観ている分にはそうもいきません。 それだけに、ピーター・ジャクソン監督の大英断には心から拍手を送りたいと思います。 映画を観終えて、あらためて思うことは、ホビットたちこそが真の英雄であると思うのですが、しかし、この映画は単純な英雄譚ではないとも思います。 このドラマは、勝利の果てにある"喪失"を描いていて、どこか"深遠な哀しみ"をたたえていると思います。 指輪戦争の終結と共に、世界から魔法は消え去りますが、同時に"中つ国"の一つの時代は終わりを告げるのです。 フロドたちの顔には会心の笑顔などなく、戸惑いの表情が浮かんでいる--------。 何一つ変わっていないはずのホビット庄の景色も、彼らにはどこか違って映っているような気がします。 それはつまり、彼らが大きなものを得た代わりに、大きなものを背負ったことを物語っているのだと思います。 そして、それは少年が大人に成長していく時の感覚に似ているのかも知れません。 だからこそ、ドラマの悲劇性とは裏腹に不思議と暗さはないのだ。 一人前の男になるための通過儀礼を経たフロドたちに、どこか共感を覚えるためなのかも知れません。 こうして訪れる新たな旅立ち。灰色港の別れの場面でフロドが浮かべる万感の笑顔を見て、やっと私も幸福な涙を流すことが出来たのです。 1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を越えるSF映画が、それから55年たった現在でも現われていないように、この「ロード・オブ・ザ・リング」三部作も、ファンタジー映画の金字塔として、恐らく今後、数十年は君臨するのではないかと思います。 全くタイプの異なる「2001年宇宙の旅」と「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズですが、共通する部分があるとすれば、スタンリー・キューブリックとピーター・ジャクソンという二人の監督が、映像、音楽、とりわけ美術に対して、微塵の妥協も許さぬ"完璧主義"を貫いた点、原作が普遍的な輝きを放っている点ではないかと思います。 この二点が、映画が時代を超越するための必要十分条件なのかも知れません。 あらためて、映画というものが、"総合芸術"であるということを、この映画を観て、強く実感しましたね。 そもそも、考えてみれば、J・J・R・トールキンの壮大な長編を、15カ月かけて一気に撮影し、1年おきにリリースしていくなんて、こんなクレイジーな企画がよくも実現したものだと感心してしまいます。 しかも、3億ドルの総製作費を任せるのは、ニュージーランドの辺境にいた一介のホラー映画監督なのだ。 紛れもなく、伝説の序章は、製作スタジオのニューライン・シネマの勇気ある決断にあったと思います。 そして、この映画は第76回アカデミー賞にて、作品賞、監督賞を含むノミネート11部門の全てでオスカーを獲得するという、映画史に燦然と輝く快挙を成し遂げました。 そして、ピーター・ジャクソン監督は真の王者になったのだと思います。
ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔
J・R・R・トールキンによる冒険ファンタジーの古典「指輪物語」を完全映画化した全三部作の第二部の「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」は、三つに分かれた旅の仲間たちを待ち受ける、新たな出会いと壮絶な戦いを描いた心躍る作品ですね。 それにしても、この映画で幾つもの場面で見られた、黒澤明監督へのオマージュ、あらためて海外の多くの有能な映画監督へ与えた影響の大きさには驚かされますね。 「第一部は序章でしかなかった」という宣伝用のキャッチフレーズは伊達ではない程、第二部は、第一部と比較しても素晴らしい作品に仕上がっていたと思います。 前作の第一部では、必要であったキャラクターや物語の背景に対する説明的な部分が、この第二部では必要がなくなり、上映時間の3時間をたっぷりとドラマに注ぎ込めていたように感じました。 しかも、その3時間の大部分が、戦闘につぐ戦闘になっているから、物凄い迫力になっていて、まさしく、第二部にして、やっと真の戦いの火蓋が切って落とされましたね。 第二部では、三つのグループに分かれて旅を続ける様子が、三つの物語として構成されていますが、これによって、映画的なシナリオの広がりだけでなく、"中つ国"という魅惑的な空間が圧倒的に、その広がりを増して、我々観る者をその隅々にまで誘ってくれました。 これで、第一部で少し感じられた平板な印象が、完全に払拭されたと思います。 そして、これら三つの物語には、それぞれに深みがあります。 指輪を持ったフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)のチームには、ゴラムという新しいキャラクターが加わります。 指輪に心を蝕まれ、醜悪な姿へと成り果てたゴラムを見て、フロドにもある変化が生じていくのです。 想像を遥かにしのぐ指輪の邪悪な力。 フロドの心には、いつか自分もああなってしまうのかもしれないという恐怖心が芽生え、そうした気持ちから、ゴラムに対しても同情を示すようになります。 一方、フロドへの忠誠心が全てであるサムは、ゴラムを一切信用しようとしません。 こうして、この三人に"微妙な緊張関係"が生まれてくるのです。 これだけ大掛かりなスペクタクル映画にあって、このような"繊細な心理状態"まで描き出すとは、やはり、ピーター・ジャクソン監督はただ者ではありません。 メリー(ドミニク・モナハン)とピピン(ビリー・ボイド)のチームは、樹木の牧者エントを促し、サルマン(クリストファ・リー)の要塞オルサンクの塔を攻撃します。 そもそも、私がこの作品に魅入られた最初の理由は、オルサンクの塔の威容なビジュアル・デザインであり、ここでの攻防を期待していたからです。 それが、この塔に到達するのが、メリーとピピンのコンビだとは想像もしていませんでした。 この作品におけるメリーとピピンの二人の著しい成長は微笑ましくもあり、頼もしくも感じました。 それでも、やっぱり第二部屈指のクライマックスは、ヘルム峡谷の戦いである事は言うまでもありません。 セデオン王(バーナート・ヒル)率いるローハンの人間たちが、アラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)、レゴラス(オーランド・ブルーム)、ギムリ(ジョン・リス・デイヴィス)らと共に、オークの大軍と死闘を繰り広げる、映画史に残り得るほどの迫力あるダイナミックな場面です。 この戦闘における、かつてない"視覚体験"には、もう絶句してしまいました。 倒しても倒しても、屍を乗り越えて、うじゃうじゃと現われるウルク=ハイに、もう私の目は釘付け状態でした。 いかにも、「闇の軍団」といった無機質な風情は、不気味で仕方がありません。 そして、城塞戦における攻め口のディテールにも、物凄いリアリティが感じられ、その迫力を倍増していると思います。 これらの場面は、間違いなく、それまでに観た数々の戦闘シーンでも五本の指に入るほどの、究極の激闘シーンであったと思います。 そして、上映時間にして、1時間は経過したでしょうか、とにかく永遠に続くのではないかと思わせる死闘に終止符を打つのが、ガンダルフ(イアン・マッケラン)が率いて来たエルフ軍の助勢。 光を背負って、天から降ってきたかのような威勢を目にした時は、感動で体全体が打ち震えました。 荒々しさを誇示するヘルム峡谷の戦いに象徴される第二部は、悪の力の強大化を、これでもか、これでもかと言わんばかりに見せつける章であったと思います。 この全編を覆い尽くす激しいトーンは、この果てしない旅の最も苦しい部分を見事に切り取って見せていたと思います。 前へ進む事の高揚感をあおった第一部のエンディングとは一変して、サスペンスと緊張感を残して終えたエンディングも非常に印象深く感じました。 次回の最終章の「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」では必ずや実現するであろう旅の仲間たちとの再会が楽しみになって来ます。 そこには、どんなカタルシスが待ち受けているのであろうかと、思い描いただけでもワクワクして来ます。
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