ダークマン
この映画「ダークマン」ほど、サム・ライミ監督のコミック・オタクぶりを発揮したものはないと思います。 全編がまさに良質で、破天荒な面白さに満ちあふれた"コミック・ブック"なんですね。 「超人ハルク」や「スワンプ・シング」そのままに、その設定を非常にうまく組み合わせて、更に魅力的な"ダーク・ヒーロー"の存在を描き出していると思います。 ガーゴイル像よろしく、ビルの屋上で地上を見下ろしながら悩む姿は、コミックのヒーローだけが許される特権だ。 そして、それだけでは終わらずに、一種のフランケンシュタインものとしてストーリーを練ったところに、サム・ライミ監督の手腕が光っている。 科学者でありながら、自らの境遇をどうにもできない苦悩。 感情が昂ぶると、アドレナリンを大量に分泌して、化け物と化してしまうことへの恐怖と苦悩。 そうした要素をあぶりだすことで、サム・ライミ監督は、実に魅力的なホラーのキャラクターを生み出すことに成功していると思います。 いかにも良心的な科学者ペイトンに、リーアム・ニーソンを起用したことも大成功で、観ている側はダークマンになる以前の彼の笑顔を知っているだけに、悲痛な思いを彼と共有できることになるのだ。 サム・ライミ監督の演出は、ここに来て早くも円熟の境地を見せており、画面をオーバーラップさせる、彼のお得意の手法はもとより、十八番のシェイキーカム撮影や、対象を歪ませる画面効果などを実にさりげなく使っており、とにかく全編が"コミック的映画手法"で貫かれているんですね。 更に今回は、バジェットでの制約が緩かったとみえて、後半にはヘリコプターを使ったアクションなどを盛り込み、かなり派手になっていて、そして、実にダイナミックなのだ。 ペイトンのラボにある人工皮膚再生装置のように、随所で見せるSFXもなかなか小技が効いていて、その使い方が実にうますぎる。 彼が撮った「死霊のはらわた」シリーズもそうだが、サム・ライミ監督は、SFXはただのツールにすぎないと考えているようで、決してそれに頼ったフレームを作らないのだ。 そして、ラストシーンで、振り返ったペイトンに被る「ダークマンと呼んでくれ」というセリフは、このヒーローの"深い哀しみと運命"を漂わせていて、見事なほどハマっていると思います。
悪は存在しない
このレビューにはネタバレが含まれています
炎上
本作品を池袋の名画座:文芸地下劇場で、観ております。 先ず、黛敏郎の仏教的の映画音楽が、大変印象に残りましたが、タイトル音楽は、キリスト教的です。 次に、市川崑監督の暗いトーンの演出が一貫していて、小説とは違いますが、映画史に残る傑作です。 次に、大映映画なので、製作費が掛かった映画のようですが、シュウ閣寺が炎上するシーンは、特撮が、程々で、ガッカリです。 他に、高林陽一監督の映画がありますが、比較すると、本作より小説に近い映画作品です。
マッドマックス:フュリオサ
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に登場した女戦士フュリオサの過去を描くスピンオフ作品。 「怒りのデス・ロード」で描かれなかった、フュリオサの出生からシタデルに入るまでの経緯、そして Immortan Joe に連れ去られるまでの物語が描かれています。 幼少期のフュリオサがかわいい。 大人になったフュリオサはアニャちゃんが演じますが、子役からアニャちゃんに代わる過程でAIを活用し、子役の顔にアニャちゃんをはめこんでいるそうです。 確かに、アニャちゃんぽいけど体が小さいなぁと思うシーンがありました。 怒りのデスロードの爽快なカーアクションシーンはそのままで、本作は車が空も飛ぶ。よく考え付くな〜と関心しつつすごく楽しめました。 新たな適役、ディメンタスの脳筋っぽいキャラクターも面白くて魅力的。映画館で楽しむべき映画。 帰宅してすぐ前作を視聴しました。
荒野の七人
エルマー・バーンスタインの軽快でダイナミックな心躍らせる、この「荒野の七人」のオープニングのテーマ曲は、「大いなる西部」「アラビアのロレンス」と並んで、"これから何かとてつもなく面白い事が始まるぞ"という予感を、いつ聴いても感じさせてくれます。 この映画「荒野の七人」は、黒澤明監督の「七人の侍」に惚れ込んだユル・ブリンナーが翻訳権を買い取り、「七人の侍」へのオマージュとリスペクトを捧げて、舞台をメキシコに設定して映画化した西部劇の痛快作です。 この映画のタイトルにきちんと、"東宝映画「七人の侍」より"と、クレジットされていて、本家の「七人の侍」のような重厚さこそありませんが、アクションの見せ場がふんだんに用意された、映画史に残る、上質の娯楽作品だと思います。 農民のために野盗の群れと戦う七人のガンマンには、まず、リーダー格のクリスに黒ずくめの服がピタッと決まって、リーダーの風格漂う精悍なユル・ブリンナー(「七人の侍」の志村喬の役)。クリスの片腕的存在の参謀役のビンに、ユル・ブリンナー以上のカリスマ的な存在感を示すスティーヴ・マックィーン(稲葉義男の役)。 無口なナイフ投げの名手ブリットに、粋でダンディーなジェームズ・コバーン(宮口精二の役)。 インテリくずれのニヒルなリーに、ロバート・ヴォーン(新しく作られた役)。 可愛い子供たちの身代わりになって、壮烈な戦死を遂げる、子供好きのメキシコ男ライリーに、チャールズ・ブロンソン(千秋実の役)。 金しか頭にない曲者ハリーに、ブラッド・デクスター(加東大介の役)。 そして、七人のうちで一番若い、血の気の多いチコに、ドイツ映画界から招かれたドイツのジェームズ・ディーンことホルスト・ブッフホルツ(三船敏郎と木村功を一緒にした役)。 マックィーンもコバーンもブロンソンも当時の映画界ではまだ新人で、この映画が彼らにとってブレークするきっかけとなった作品で、文字通りの出世作になったのです。 華麗で見事なショット・ガンさばきを見せるマックィーンと、セリフらしいセリフは一言もないナイフ使いのコバーンと、朴訥な中にも男の渋さと哀愁を感じさせたブロンソンは、特に我々映画ファンに強烈な印象を残してくれました。 監督は「OK牧場の決闘」「ゴーストタウンの決闘」など西部劇の痛快作を数多く手がけているジョン・スタージェス。 この監督はなぜか汽車の好きな監督で、自分の映画に必ずと言っていい程、汽車を登場させていますが、この映画にもSLを使っているシーンが出て来ます。 従来の西部劇がひとりの強いヒーローを主人公にしていたのに対して、この映画は七人の集団グループを主人公にしたところが新鮮で、その後の西部劇の映画史の流れの中で、新しいタイプを作ったと言えるかも知れません。 この映画は世界的にも大ヒットを記録し、以後、このシリーズは4作目まで作られる事になるのです。 当時としては珍しいメキシコ・ロケの作品で、メキシコの乾いた風景がこの映画の雰囲気に、実によくマッチしていたと思います。 仇役は名門アクターズ・スタジオ出身の名優イーライ・ウォラックとコバーンにナイフで殺される、西部劇ではお馴染みの名脇役ボブ・ウェルキが、憎々しげに悪役を楽しんで演じていたのが印象的でした。 これら七人のガンマンは、野盗との何度かの攻防の末、結局、生き残ったのは、三人のガンマンのみ-。 リーダーのクリスがラストで呟きます。 「勝ったのは俺たちじゃない。百姓だよ」と。
青春の門 自立篇
映画「青春の門 自立篇」は、五木寛之原作の大河小説の映画化で、浦山桐郎監督がかつて「キューポラのある街」で描いた人間のみじめさを、とことん追求して掘り起こす繊細なタッチの映像手法が生かされて、戦後の朝鮮動乱後の当時の世相・社会状況が生々しく再現されています。 昭和29年、故郷の福岡県の筑豊を捨てた主人公の伊吹信介(田中健)は早稲田大学に入学しますが、その時代は現在と違って生活に追われる貧しい学生たちが飢えと疲れで苛立っていました。 原作者の五木寛之や浦山桐郎監督が青春時代を過ごしたであろう、その当時のつらくて切ない心情が彼等の今や帰らぬ青春への郷愁として切々と描かれているような気がします。 浦山桐郎監督は"金持ちの飼い犬として仕える屈辱のアルバイト"、"わずかな金にしかならない売血"、"青春期の性に身もだえして歩き回った新宿の赤線地帯のざわめき"、"ヤクザがうろつく薄気味悪い青線地帯の裏通り"、"世捨て人でインテリ風の娼婦や底抜けに明るい娼婦たちの物憂いアンニュイな日々"、"そのインテリ娼婦とのふれあい"、"独特の雰囲気のある喫茶店風月堂の音楽とコーヒーの香りとそれと対照的な小便臭いドブ板沿いの屋台とそこでコップに溢れる梅割り焼酎"、"歌声喫茶でのロシア民謡の響き"------このような当時の世相を主人公・伊吹信介の生き様を通して、切なくも哀惜の念に溢れ、情念のこもった点景として映像化していきます。 我々観客がまるでその時代にタイムスリップして、同時代を生きているかのような錯覚を覚えるほどの生々しい臨場感で迫ってきます。 そしてこの映画で描かれた当時の状況が、それまでのエネルギーの主力であった石炭から経済的に安価な石油の時代へのエネルギーの転換期であったという時代背景を忘れてはいけないと思います。 安価な石油の大量輸入に支えられた、その後の高度成長期直前の戦後の世相を、浦山桐郎監督は自らが体験した時代を愛着と郷愁の念を込めた繊細なカメラワークで見事に描いていると思います。 出演者では織江を演じる大竹しのぶが、九州の女性の気の強さと優しさ、逞しさと明るさといった複雑でデリケートな役どころを健気に、尚且つ情熱的に演じていて惚れ惚れするような見事な演技です。 織江は信介にとって郷里の筑豊そのものの存在であるような気がします。 しかし信介の愛を求めて状況した織江は、大都会の冷酷な汚濁の中でもまれ、打ちひしがれていきます。東京のような大都会には、かつて住んでいた筑豊の炭鉱住宅のような連帯感や、人間らしいロマンは見出しようがなく、こんな状況の中での男女のもつれは切なくもやるせなくてたまりません。 新宿二丁目のローザと呼ばれる娼婦のカオルに扮した、いしだあゆみの切なくも哀しい女性の姿を、心の襞に染み込むような魂を揺さぶる演技が忘れられません。 クラシック音楽に過去の教養を垣間見せる彼女の夢と男の性の対象でしかない現実との大きな乖離が、"絶望的な倦怠となって不思議な魅力"を漂わせます。 そして、カオルは同じように戦争の影を引きづりながら生きているボクシング・コーチの石井(高橋悦史)の気持ちと同化して心中未遂を起こしますが、この二人の関係に描かれる、どうしようもなく救いのない人間の生きる苦しみ、悲しみが心に重く響いてきます。 その後、信介は大学の仲間たちと新しい演劇運動を目指して北海道へ旅立って行きますが、「相手から絶対に目を離すな」とボクシングで石井コーチに徹底的に鍛えられ、"目をつぶらない人生"の生き方を教えられた信介が、これからの青春をどのように生き抜いていくのかという含みをもたせて、映画は幕を閉じます。 そして原作はこの後、「放浪篇」、「堕落篇」------と書き続けられていきます。
いちご白書
この映画「いちご白書」は、1960年代後半の大学紛争を描く、我々映画ファンの間では、もはや伝説的な青春映画の傑作だ。 1970年度のカンヌ国際映画祭で、「M★A★S★H」と最後までグランプリを争い、残念ながら敗れたものの、審査員賞を受賞したことでも有名だ。 そして、このタイトルそのものに、青春のロマンを秘めたこの作品は、末永く語り継がれるべき作品でもあると思う。 1970年代というのは、学生運動もヤマを越えたとはいえ、安保がらみの大学立法粉砕闘争で、全国の大学が揺れに揺れていた時代だ。 そんな時代の状況の中で、当時の若者の圧倒的な支持を得た映画としても有名だ。 ボートが水面を滑るように進むシーンからこの映画は始まる。 そのボートのエイトの二番を漕ぐのが、主人公のサイモン(ブルース・デイヴィソン)。 彼は大学のボート部員、ノンポリ学生だ。 彼の大学はストライキ中だ。学校側が、近くの公園に予備将校訓練隊のビルを建てようとしたのが、事件の発端だった。 そして、これに社会不安や政治問題が絡んで、事態は一層、深刻になって来ていた。 サイモンはノンポリだから、ストライキのことは良くわからない。 それでも、友人から大学の本館は女子学生であふれていると聞いて、ノコノコと出かけていく。 そして、この大学構内で、彼は素敵な女の子を見つける。 彼女はリンダ(キム・ダービー)、女性解放委員だった。 ただでさえ、見るもの聞くもの新鮮で、好奇心をかきたてられていたサイモンは、リンダと知り合って、大学構内の闘争生活も更に楽しくなっていく。 どーも、ヘラヘラした闘争青年なのだが、誰でも初めはこんなものかも知れない。 リンダと二人、食料集めに行ったり、抜け出してボートの練習もしたり、ボート仲間を闘争に引っ張り込んだり------。 だが、激しい闘争の巻き添えをくらって、警察に逮捕されたあたりから、サイモンも少しずつ気付いて来る。「これは遊びじゃない」と------。 そして、リンダが彼のもとから去って行ってしまう。 理由は、彼が学生運動をゲームのように考えていると思ったからであり、リンダにはリンダで、ボーイフレンドがいたからでもあったのだ。 こうして、サイモンの心はしだいに追いつめられてくる。 リンダと一緒の楽しい生活はもうない。 しかし、闘争からは身を引けない何かが、心の中にある。 彼は"自分の青春を賭けるべきもの"を、知り始めていたのだ。 そして、サイモンは、"自分との対話"を始める------。 そんな時、反対派のボート部員に殴られて、彼は自分にとって必要なのは、"自分自身のために闘うこと"だと知る。 自分にとって出来ること、出来ないことをはっきり感じ、何をしなければならないかを理解したのだ。 そんなサイモンを待っていたかのように、リンダが彼のもとへ戻ってくる。 サイモンは、彼女と同じ目的に向かって最善の努力を尽くすことに、今まで感じられなかった愛の実感と、生き甲斐とを見つけだすのだ。 そして、二人は自分たちの正しいと信じたことをやり遂げようとする。 仲間たちと腕を組み、協力し、そして、大学側の不正が暴露されて、闘争はエスカレートしていく。 今、大学当局との緊張した状況の中で、同じ目的に向かう二人。 この時、初めて二人は、"真実の愛"を、語り合えたのかも知れない。 しかし、時の歯車は回っていき、この美しい二人にも容赦はなかった。 大学当局が遂に、学生たちの強制排除に踏み切ったのだ。 体育館に立て籠もったサイモンたちに、警官隊と州兵が襲いかかってくる。 催涙ガスが充満し、棍棒が振り下ろされた。 リンダが殴打され、顔が鮮血に染まっていく------。 それを見て、サイモンは初めて、自分から警官隊に飛びかかっていく。 サイモンは、自分の守らねばならぬものを知っていたのだ。 そして、それは、生命を捨てても守らなければならないものを------。 心にズシリと重たいものを残してくれる映画だ。
ある日どこかで
この映画「ある日どこかで」は、初恋にも似た瑞々しい恋の予感をうまくとらえ、恋の高ぶりを知った時の、胸が切なさで締め付けられんばかりの思い出を、えも言われぬ訝しさを、そっと心の奥底にしまい、いつまでも大切にしておきたい----と、ほろ苦くも切ない思いにさせてくれる、そんな素敵な映画なのです。 「カム・バック・トゥ・ミー」----、クリストファー・リーヴが劇作家としてデビューしたパータィの日、彼の許に知らない老婦人が訪れ、そう囁くのです。 それから8年後、リーヴは滞在したホテルの資料室にある、絶世の美女のポートレートに魅かれ、彼女のことを調べるのです。 そして、この美女は、70年前の大女優で、あの謎の老婦人がその女性だったことを知ったリーヴは、その時代へのタイムトラベルを試みるのです----。 この女優の正体を探るミステリアスな前半から、過去へと旅をし、湖畔で初めて、「あなたなのね」と呟く彼女との出会いに始まるラブロマンス。 一歩間違えれば、実に陳腐な三流のメロドラマになったところを、限りなき美しさに彩られた上質の名作に仕上がったのは、"時の流れ"というものが、そこに横たわっているからだろう。 このクリストファー・リーヴとジェーン・シーモアのロマンスは、時間という絶対に越えられないものによって阻まれてしまうのです。 その壁が越えられた時、この物語はノスタルジックな世界の中に"夢物語"として美化され、かつてのハリウッド黄金期の"甘美で華麗な世界"に足を踏み込んだような錯覚を覚えてしまうのだ。 それほどまでに、想い出にも似た、過去の風景はひたすら美しく、ジョン・バリーの音楽もひたすら甘く効果的だ。 壁のシーモアが微笑むポートレートは、まさに彼女がリーヴに愛を告白した、人生で最高に幸せな瞬間のもの。写真に封じ込まれた、その至福の時は永遠に続く一方、リーヴと時の流れに引き裂かれた彼女は、その生涯を60年後に会える彼のためにホテルの一室に封じ込めるのです----。 そして、待ちに待った再会の日、といってもリーヴは未だ彼女を知らない、切ない不幸な出会いの日、彼女は静かに息を引き取るのです。 とにかく、この映画で素晴らしいのは、ジェーン・シーモアの比べようもないほどの美しさ。 女優というものが、その生涯において、最も輝いていた時を、「ある日どこかで」の中で見せてくれています。 彼女の美しさこそが、この映画を名作の域にまで高めたのだし、我々観る者をこの世界に魅了してやまないだろうと思うのです。 上質のメロドラマと、タイムトラベルというSF的要素を巧みに織りまぜて、"ノスタルジックな感性溢れるファンタジー"に仕上げた、まさに名作だと思います。
大いなる決闘
この「大いなる決闘」は、ジョン・フォード監督の後継者として期待された、アンドリュー・V・マクラグレン監督が撮った西部劇で、本当に西部劇らしい味のある西部劇だ。 すでに西部開拓時代が終焉を迎えたアリゾナが舞台で、かつては鬼保安官として名を馳せたチャールトン・ヘストンも、今は歳をとり、引退を間近に控えて、娘と二人で静かに隠居生活を送ろうと考えていた。 そこへ、かつてヘストンが刑務所に送った、白人とインディアンのハーフのジェームズ・コバーンが脱獄し、重なる恨みをはらそうと復讐のために一味を引き連れて、近づいて来る。このコバーンの屈折したハーフの悪党ぶりは、凄みがあって実に素晴らしい。 奸智に長けたコバーンは、ヘストンの裏をかいて彼の娘バーバラ・ハーシーを誘拐して逃げてしまうのだ。 ヘストンは追手と共にコバーンを追跡する事になるが、その一行に娘の恋人で、見るからに頼りない青年のクリス・ミッチャも同行することになる。 その後、追手の一行はコバーンの策略で、ヘストンとクリスの二人だけで追跡を続けなければならなくなってしまう。これがコバーンの狙いで、岩山の中腹に陣取った彼は、ヘストンたちが双眼鏡でこちらを見ていると知ると、部下たちにバーバラを犯させる。 だが、頼りない青年と思われたクリスは意外にも、冷静沈着でヘストンが顔負けするするほどの勇気と機敏な行動を見せ始めるのだ。 そして、クライマックスは、いよいよ、ヘストンとコバーンという2大スターの対決となっていく。 このクライマックスの決闘シーンは、西部劇史上でも有数の見事なラストシーンになっていると思う。 自分に恨みを持つコバーンは、自分をあっさりとは殺さずに、ジワジワとなぶり殺しにするだろうから、そこにチャンスが生まれるというヘストンの読みがモノをいうラストでは、あちこちを撃ち抜かれて、崖から落ちて瀕死の状態になったヘストンのところへ、勝ち誇ったコバーンが降りて来て、とどめを刺そうと身をかがめたその瞬間、コバーンの背中からのショット-------。 コバーンの背中に、いきなり銃弾の穴があいてドサリと倒れると、その向こうに寝たままのヘストンが見え、その左手に拳銃が握られているという鮮烈なショット-------。 カメラの角度をうまく活用した、アンドリュー・V・マクラグレン監督の斬新な演出が楽しめましたね。
仁義
フルスピードで飛ばしてきた車が、西マルセイユ駅に着いたところから、この映画「仁義」は幕を開ける。 駅では、パリ行きの夜行列車が発車寸前。 車から降りた二人の男が、列車まで懸命に走る。 しかし、二人の姿が何となくぎこちない。 よく見るとお互い手錠で繋がれているのだ--------。 この映画「仁義」は、発端からこのような犯罪ムードとサスペンスを画面いっぱいに漂わせながら展開していく。 決して会ってはならない5人の男--------。 それが運命の糸に操られて、のっぴきならない対決へと追い込まれていく。 友情を縦糸に、裏切りを横糸に、意地と仁義の男の世界が、息もつかせぬサスペンスのうちに、織りなされるのです。 「いぬ」「サムライ」「影の軍隊」と、常に厳しい規律と仁義に生きる男たちの世界を描き続けてきた、フランス映画のフィルム・ノワールの鬼才ジャン=ピエール・メルヴィル監督が、オリジナル脚本を書き下ろした傑作だと思います。 外国映画にしては珍しい、日本映画のやくざものを思わせるような題名だが、原題は「赤い輪」で、一種の運命の輪とでも言うべきもので、日本流に言えば、生物が死んで生まれる過程を、永久に繰り返す意味の仏教の言葉「輪廻」にあたる概念を、メルヴィル監督は、きっと脳裡に描いていたに違いありません。 それはやはり、仏教で言う、生死と因果が限りなく続く意味の「流転」にも通じる思想で、この映画「仁義」の中でも、一つの輪のように動く5人の男の、避けようもない宿命を、人間模様として描き出したかったのではないかと思います。 そして、この映画のもう一つの大きな魅力は、豪華な俳優陣の競演ですね。 アラン・ドロン、イヴ・モンタンの二大スターが、初めて共演するというワクワクするような顔合わせに加え、「居酒屋」「サムライ」「Z」などの名優フランソワ・ペリエ、「大追跡」「大進撃」などのブールビル、それに「荒野の用心棒」「悪い奴ほど手が白い」などのイタリアの名優ジャン・マリア・ヴォロンテの三大俳優が出演と、とにかく映画ファンにとっては、たまらない豪華なキャスティングだ。 ジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画の特色は、常に"男の映画"であり、決して無駄口をたたかない"男たちの映画"であるということだ。 この口数の少ない男たちにとっては、当然、"行動"が大きな比重を占めることになる。 言葉のあいまいさを極力しりぞけて、ただひたすら正確な"行動の連鎖"の中に生きていく男たち--------。 それが、メルヴィル監督の一貫して追求している"男のイメージ"であり、同時に、それはメルヴィル監督の映画作家としての根本理念、いや心意気でもあると思います。 そして、「仁義」の男たちも、皆一様に口数が極端に少ない。 特に、アラン・ドロン演じるコレーとジャン・マリア・ヴォロンテ演じるボージェルは、寡黙、すばやく行動する、といった点で、極めて類似した性格を持っている。 意志が強く、いかなる場合でも感情を厳しく抑制し、黙々と行動する。 メルヴィル監督が描き続けてやまない、こういう"男のイメージ"には、アメリカのハードボイルドと日本的な意味での男らしさとの反映があると、私は確信的に思っています。 口数の少なさや、行動の迅速さなどで、ハードボイルド的人間と、日本の男らしい男とは共通性を持っているが、ハードボイルド的人間が、しばしば欲望全肯定的なのに対して、日本の男は、徹底して"ストイック"であるといった、本質的な違いがあると思います。 メルヴィル監督には、この二つの男の類型を総合して、彼自身の男のイメージを作り上げようとしているのだと思います。 彼がひたすら、ギャング映画に固執するのは、それが男の行動を純粋に追求し得る、最も適切なジャンルに他ならないからだ。 溢れるような言葉は、かえって人間の実態を捉えにくいものにするし、"寡黙と無表情"に貫かれた行動は、何よりも雄弁に、その人間の心情をそくそくと伝えてくるものなのだ。 「仁義」におけるアラン・ドロンとジャン・マリア・ボロンテの結びつきかたは、最も男らしい男の心情的連帯の典型なのだと思います。 この二人は、ただの一言も自分の気持ちを説明するような言葉はしゃべらないが、しかし、その結びつきの固さは、惚れ惚れするような見事さだ。 ボロンテが、刑事のブールビルが仕掛けた罠にかかったドロンを助けに駆けつけた時、ただ「逃げろ」とだけ言って、ドロンを逃がした後、刑事から「なぜ警察だと知らせなかった?」と問われて、「知らせたら、あいつは逃げずにお前を殺しただろう」と答える。 このボロンテの一言に、男を描いたこの映画の全てが凝縮されていると思います。 ドロンは、遂に自分の心情を説明するような言葉は、一言も語らず、ボロンテは、ブールビルの問に答えた一言だけ。 その一言に、ドロンとの固い結びつきと深い理解がひらめき、更には、敵であるブールビルへの思いやりが込められているのだ。 それから、この映画で印象的だったのは、イヴ・モンタンが、射撃に心を打ち込んで、アル中から立ち直り、男同士の心意気に命を捨てる、というシークエンスだ。 一つの技術が人生の"道"に繋がるという、日本的な発想を感じさせて、実に感慨深かったと思います。
オデッサ・ファイル
この映画「オデッサ・ファイル」の題名のオデッサとは、Organization der Ehemaligen SS-Angehorigenのイニシャルから1文字づつとった略語ですが、それはSS(ナチス親衛隊)の逃亡を図るための秘密組織で、その実情については多くの謎のベールに包まれていて、アウシュヴィッツのユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の実行者であるアイヒマンを追って、遂に南米アルゼンチンで捕らえたイスラエルのユダヤ人本部では、その組織について、「初めナチスの残党は、米軍発行の新聞紙"星条旗"の運搬トラックの運転手を買収し、アイヒマン以下をその荷の中に隠して検問所を突破し、40マイルごとに作られた秘密の連絡所でシリア人のパスポートを受け取ってスイスの国境を越え、ジュネーブを経てアルゼンチンへ亡命させた。 そして、この組織はあらゆる階層の人々によって忠実に支えられ、膨大な資金源などもその民族的背景の奥深くに隠されている」とその驚くべき事実を語っています。 原作はイギリスのジャーナリスト出身のフレデリック・フォーサイスで、彼はドゴールフランス大統領の暗殺未遂を描いた「ジャッカルの日」の世界的な大ベストセラーによって、一躍、ポリティカル・スリラー小説の第一人者となり、その後、立て続けに「オデッサ・ファイル」、「戦争の犬たち」を発表し、その地位を不動のものにしました。 当然の事ながら、これら3作の原作を読破した上で、この映画「「オデッサ・ファイル」をじっくりと楽しみながら鑑賞しました。 製作は「ジャッカルの日」の敏腕プロデューサーのジョン・ウルフ、監督は当時「ポセイドン・アドベンチャー」の大ヒットでそのキャリアの絶頂期を迎えていたロナルド・ニーム、脚色は「ジャッカルの日」、「ブラック・サンデー」などポリティカル・サスペンスを得意とするケネス・ロス、撮影は「寒い国から帰ったスパイ」の名手オズワルド・モリス、音楽は「エビータ」のアンドリュー・ロイド・ウェバーという一流の豪華なスタッフが集結していて、映画ファンとしてはもう観る前からワクワクしてきます。 この映画は"オデッサ"という恐るべき組織に単身挑む一人のルポライターのジョン・ヴォイト演じるペーター・ミラーが、その謎を追って展開するサスペンスフルなポリティカル・スリラーです。 映画は1963年11月下旬、みぞれ降りしきる西ドイツのハンブルクで、ミラーは、突然アメリカで起こったケネディ大統領暗殺のニュースを耳にします。 彼はその時、自家用車内にいて、たまたまその脇を1台の救急車がすり抜けていくのをルポライターとしての好奇心から尾行し、貧しい一人のユダヤ老人が自殺した事を知ります。 この老人は戦時中、アウシュビッツの強制収容所に入れられドイツ人から忍びがたい屈辱を与えられ、その事実を丹念に日記に残していて、その日記を読んだ事がミラーにオデッサ調査の気持ちを起こさせます。 オデッサという組織が、ただナチスの戦犯者を国外へ逃亡させるだけなら、それほど恐れる必要もありませんが、しかし、この組織が旧ナチス勢力による第三帝国の夢よもう一度とその復興を企てているところに戦慄すべき問題を孕んでいます。 現実問題として、フレデリック・フォーサイスが、この小説の執筆計画を発表したところ、おびただしい数の脅迫の手紙が届いたとの事で、今なお、ナチスの思想的な残党が世界の隅々に根強く息づいているのかと思うと底知れぬ恐怖を覚えます。 ユダヤ老人の日記には、収容所で悪魔のように冷酷無比の名優マクシミリアン・シェル演じるロシュマン大尉に関する内容が事細かに記されていて、ミラーはこの未知の男を探し出さずにはいられない"強い衝動"に襲われ、行動を開始しますが、すると彼は次々と不可解な事件に遭遇する事になります。 ある日突然、地下鉄のホームから誰かに突き落とされたり、三人組のイスラエルの諜報機関に拉致され、猛烈な特訓を強制されてSS機関へ送り込まれたり、彼と新星メアリー・タム演じる恋人ジギーとの会話が警察を通じてSS側に洩れたり、彼がSS機関の名簿である"オデッサ・ファイル"を盗み出そうとして、SS機関の人間と激しい死闘を強いられたりと----まさに次から次へと展開する息詰まるサスペンスの連続で映画的緊張感に酔いしれてしまいます。 ミラーは次第に抜き差しならぬ"戦慄と恐怖と陰謀"の大きな渦の中に巻き込まれていきますが、ミラーは直接には戦争を知らない世代で「居酒屋」のドイツの名女優でマクシミリアン・シェルの実姉でもあるマリア・シェル演じる母親から過去の"驚愕の事実"を聞かされます。 そして、映画のクライマックスとも言うべきラストシーンになります。 この"驚愕の事実"を知ったミラーは、どんな事があろうともロシュマン大尉を許す事が出来ず、遂にその姿なき宿敵ロシュマンとの対決の時が来ます。 「真夜中のカーボーイ」で夢と現実の中に彷徨う現代人の無力感・焦燥感を絶妙に演じたジョン・ヴォイトと冷徹水の如き尊大さでナチス復興の野望を打ち出してやまぬ男ロシュマンの粘着質の人間像を、凄みを効かせて演じたマクシミリアン・シェルの対決シーンは、新旧二大演技派俳優の火花を散らす演技合戦でもあり、本当に見応え十分でこの二人の壮絶な演技の背後から、新しい時代が必ずしも古い時代をそう易々と乗り越えてはいない事をある種の重量感をもって訴えかけてくる迫力を感じました。 ヨーロッパにとって、ナチスの不気味な残影はいつまでも人々の心の中に消える事なく残っていて、「マラソンマン」(ジョン・シュレシンジャー監督)、「ブラジルから来た少年」(フランクリン・J・シャフナー監督)などの映画でもこの事は繰り返し描かれ、あらたなるナチス的なものへの恐怖と憎悪の感情が悪夢として残っている事をこの「オデッサ・ファイル」もポリティカル・スリラーという形に仮託して、訴えかけて来ていると思います。
ジャッカルの日
サスペンス映画というのは、一難去ってまた一難で、主人公の運命はどうなるのかということに、観ている者をハラハラ、ドキドキさせる映画、それも単純なアクションものではなく、意表をつくアイディアと、ストーリーのうまさと、映画的なテクニックのあの手この手で、グイグイ引っ張っていく映画、そういうジャンルの娯楽映画として、ずば抜けて面白いのが、名匠フレッド・ジンネマン監督の「ジャッカルの日」だと思います。 何よりもまず、着想が実に凝っています。 サスペンス映画というのは、とかく現実にはあり得ないような話になりやすいものですが、これは、もしかしたら現実に本当にあったかもしれない話であり、世界の政治の動向にも関わりのある事件なのです。 すなわち、アルジェリアの独立をめぐるフランスの植民地の叛乱で、その時代のド・ゴール大統領の暗殺計画が次々に行なわれ、いずれも失敗に終わった時、表面には出なかったが、もう一つこういう事件もあったという形で、えらくまことしやかに物語が繰り広げられるのです。 実際に、ド・ゴール大統領の暗殺未遂事件は、1961年以降、5回も起こっているのです。 フランスがアルジェリア戦争の泥沼にはまって、戦争継続かアルジェリアの独立承認かの決断を迫られた時、戦争の継続を望むフランスの軍部は、軍の長老でフランス解放の英雄であるド・ゴール将軍を強引に大統領に担ぎ出したのです。 ところが、老獪なド・ゴールは、軍部に担がれていると見せかけておきながら、着々と手を打ってアルジェリアの独立を承認してしまったのです。 軍部の極右派は、地下にもぐってテロ活動を続け、繰り返し、彼らを裏切ったド・ゴールの暗殺を計画したのだった。 一方、ド・ゴールは、生粋の軍人として、暗殺なんか怖くないと、高い鼻を益々高くしながら、護衛を付けるのも迷惑がって、公式の式典などでは恐れることなく、堂々と公衆の前に現われたのだった。 だから、護衛役の警察当局も、テンテコ舞いさせられたに違いありません。 原作者のフレデリック・フォーサイスは、その頃、イギリスの新聞記者としてパリにあり、もっぱらド・ゴール大統領関係の取材をしていたというから、当時の警察の動きには詳しい訳です。 そして、この原作の小説と映画の強みは、どこまでが本当で、どこからが嘘か分からないくらい、実在の人物や実際の場所、実際の役所の機構などをうまく使って、一人の殺し屋を追う警察の動きを丹念に描いているところにあると思います。 そして、この警察の動きと、着々と計画を進める殺し屋ジャッカルの動きとが交互に描かれていって、警察と殺し屋の知恵比べがサスペンスを呼ぶという仕掛けになってくるのです。 極右派の地下組織O・A・Sに金で雇われる殺し屋を演じるのは、イギリスの舞台出身のエドワード・フォックス。 小柄だが、筋肉質の、見るからにすばしっこい印象をしています。 端麗な顔なのに、陰惨でニヒルなところがあるのは、この映画のためのメイク・アップや特に工夫した表情のせいなのかも知れません。 このジャッカルの役を、当時、イギリスの人気俳優のマイケル・ケインが熱望したとのことですが、フレッド・ジンネマン監督は、このジャッカルという人間は、既成のイメージが付いた俳優では駄目で、全く色の付いていない俳優にするべきだとの考えから、当時、ほとんど無名のエドワード・フォックスを抜擢したというエピソードが残っています。 この暗号名ジャッカルという殺し屋、依頼を受けると早速ロンドンで、暗殺のためのこまごました準備を始めます。 偽のパスポートを請求するために、全く他人の死んだ子供の名義を使います。 それも、一つの偽名が警察に分かった場合、直ちに別の国籍の、まるで人相も違う人間に成りすませるよう、変装用の髪の染料や色の付いたコンタクトレンズなどと一緒に、幾通りも用意するのです。 更に、パイプだけで組み立てることのできる狙撃銃を専門家に作ってもらうのです。 一方、ジャッカルにド・ゴール大統領の暗殺を依頼したO・A・Sは、その代金を支払うために地下組織にやたらと銀行強盗をやらせるのですが、警察ではなぜO・A・Sが急にそんなに躍起になっているのか、その理由を調べるために、イタリアに亡命しているO・A・Sの幹部の一人を、イタリアの街角で数人でぶん殴って、食糧輸送車に乗せてパリへ連れて来てしまいます。 これは明らかにイタリアの主権の侵害で、かつての日本における金大中事件と同じです。 金大中事件の場合は、犯人たちがこれ見よがしに金大中を自宅近辺で釈放して、日本政府のことなど眼中にないような態度に出たので国際問題化しましたが、この映画でみると、同じような事件で闇から闇に葬られているようなことも案外色々あるのかも知れないなと思わせられます。 そういうことも、この映画のサスペンスの重要な要素の一つになっているのだと思います。 O・A・S幹部を拷問して、その断片的な告白からフランス警察は、ド・ゴール大統領暗殺計画の一端をつかみます。 フランスというと日本では、非常に自由で文化的な国という印象が持たれていますが、なかなかどうして、相当な警察国家であり、警察はかなり乱暴なことをやってのけるのです。 この映画はそれをド・ゴール大統領の進歩的な政策を守るという、正しい目的のための手段として描いていますから、なんとなく当然のことのように観てしまいますが、こういうところも、ちゃんとフランスの政治体制の怖さを描いたものとして観るべきだと思います。 そうでないと、フランスの学生運動のことなども分からなくなってきます。 計画を察知した政府は閣議を開いて、最も優秀な刑事だというルベル警視に全権を任せて、捜査を始めさせます。 ところがO・A・Sもさるもの、女スパイを大臣級の人物の情婦にして、捜査状況の情報を盗ませるのです。 それで捜査の状況が次々にジャッカルに伝わり、ジャッカルは見破られた変装を次々に別の変装に取り替えながら、パリへと近づいていくのです。 その虚々実々の駆け引きは、映画的な緊張感を伴ったサスペンスに満ち溢れています。 この映画の面白さの一つに、ルベル警視を演じるミシェル・ロンスダールの配役の妙があると思います。 この人物、およそ風采のあがらない小太りの中年男で、これといった才気も機敏さも、逞しさも風格もないのに、なぜかフランス随一の名刑事なのだというのです。 いつも寝ぼけ眼で、大臣のお呼びだというのでエッチラオッチラ役所に駆けつけ、モソモソと部下の指揮を執り始めるといった具合なのです。 ところが、閣議から誰かが情報を洩らしているだろうと睨むと、容赦なく大臣たちの全部の電話を盗聴して、女スパイのハニートラップに引っかかった大臣をとっちめるのです。 なるほど、たいした切れ者なのです。 一方、ジャッカルは、パリに近づく途中、田舎町のホテルでデルフィーヌ・セイリグ演じる有閑マダムをたらし込んで、警察の捜査をかわすのです。 そして、最後の見せ場は、パリのシャンゼリゼから凱旋門前の広場で行われる、革命記念日の大パレードでの大捕物です。 遂に、ド・ゴール大統領を狙撃できる場所にまで達したジャッカルを、危機一髪でルベル警視が射殺するのですが、革命記念日の大パレードの実写の使い方が実にうまくて、まるでこの映画の撮影のために、何十万人のエキストラを縦横に使ったような、巧みな画面処理のうまさを見せつけてくれます。 こういうところは、さすが名匠フレッド・ジンネマン監督の演出の見事さが光ります。 かつて、フレッド・ジンネマン監督が、ゲーリー・クーパー主演の傑作西部劇「真昼の決闘」のような野心作を撮った時の激しさは、この作品にはありませんが、もっと悠々と愉しんで大向こうを唸らせる大作に仕上げていると思います。
蘇える金狼
古臭い、笑えるとつぶやきつつ、つい引っ張られて観てしまう。 村川透監督の「蘇る金狼」はそんな映画だ。 1979年の公開だから、描かれる風俗が古臭いのは仕方がない。 大藪春彦の原作も、劇画的な展開が顕著な一気読み小説だった。 話は典型的なピカレスクロマンだ。主人公の朝倉(松田優作)は、東和油脂の経理部に勤めている。 七三分けの長髪と黒縁の眼鏡。だが、夜の朝倉は狼だ。 ジムでサンドバッグを叩く彼の上半身には、見事な筋肉が盛り上がっている。 朝倉は銀行から輸送中の現金を奪い、金を麻薬に換え、麻薬を使って女を操り、甘い汁を吸いたい放題の会社中枢部へにじり寄って行く。 つまり、この映画は悪党のオンパレードだ。悪には悪を、毒には毒を。 法も正義も介入しない伏魔殿で、社長(佐藤慶)や部長(成田三樹夫)や次長(小池朝雄)や議員(南原宏治)や強請屋(千葉真一)や私立探偵(岸田森)らが果てしない暗闘を繰り広げる。 まるで怪優たちのオールスター・ゲームではないか。 そして、饗宴の中心で強力な磁力を放つのが、松田優作だ。 団塊の世代に属する日本映画の俳優で、運動神経や身体能力に彼ほど自覚的な人はいなかった。 だからこそ、優作の「狂気芝居」は、きわどく成立する。 ただ、あまりにも、原田芳雄そっくりのセリフ廻しだけはいただけないが。 東京湾第二海堡で撮影されたアクション・シーンの速さは、優作の動きと、カメラマンの仙元誠三の力量に負うところが大きいと思う。
ドラゴンクエスト ダイの大冒険 ぶちやぶれ!!新生6大将軍
敵側の豪魔軍師ガルヴァスの側近である妖魔将軍メネロが外見・性格・戦い方ともに最高でした。マァムやレオナに並ぶ新たなヒロインとして期待してしまう程の彼女をダイ達は攻撃できるのか? 追記:自分はマァムの事よりもメネロの髪や肌が戦闘で痛まないか心配になる程メネロに惚れていましたw
ワン・フロム・ザ・ハート
フランシス・フォード・コッポラ監督の「ワン・フロム・ザ・ハート」は、第二次世界大戦前後のアメリカ映画の楽しさを、1980年代前半頃の最先端の映像、音響技術を駆使して再現しようとした映画だ。 舞台はラスベガス。愛し合うカップルが、ふとした感情のすれ違いで、喧嘩別れをしてしまう。 そして、それぞれ別の恋人を見つけようとするのだが、本当の愛を確認して、また元のサヤへ納まっていくのだ。 この単純な物語に、全編に流れる、トム・ウエイツの音楽をたっぷり重ねて謳い上げ、ラスベガスの街もオールセット。 まさにあのMGMミュージカルのムードの再現。 画面も通常のスクリーンサイズではなくて、1940年代のスタンダードサイズで撮影しているのだ。 さらに、色彩までもが当時のテクニカラー発色に似せてあるのだ。 あの塗り込んだようなテクニカラー独特のタッチで、心理を語ろうとしているのだ。 しかも、何より興味深いのは、このセット、この色彩、そして華麗な画面構成が、全てVTRを利用した最新の映像技術で処理されているという事。 例えば、彼の説得を聞かないで、彼女は新しい恋人と飛行機に乗ってしまいます。 絶望のまま駐車場に引き返す、彼の後ろは空港ビル。 突然、そのビルの屋上すれすれに、彼女が乗ったジャンボ機が、ドワッと飛び立って行く。 遠近感を無視した映像効果が、ドラマティックな興奮を盛り上げるのだ。 これはVTRによる合成の効果なのだが、従来のマット合成やスクリーンプロセスでは得られなかった、美しい仕上がりと効果を発揮していると思う。 VTRからフィルムに戻す時に生じる、色の冷たい沈みが若干、感じられるのだが、それにしても見事な技術だと思う。 映画とは、こんなにも面白いものなんだよ。 こんなにも楽しいものなんだよ。 こんなストレートな映画の魅力を、最先端の技術の粋をこらして、フランシス・フォード・コッポラ監督は、語っているのだ。 ナスターシャ・キンスキーの神秘的な美しささえ、その狙いの一つなのだと思う。 この映像技術に目が届かないと、古いと思えるかも知れない。 重いと言う人もいるだろう。 しかし、このヘビーな画像こそ、コッポラ映像の思想であり、魔力なのだ。 まさに、映像と音響による魔性のトリップ感覚なのだ。
テオレマ
ミラノの大企業家パオロの家に、謎の青年がやって来る。 青年は、パオロやその家族と性的な接触を持ち、彼らの欲望を解放して、やがて立ち去る。 残された人々は、彼ら自身の真実に向き合うのだった。 彼に感化されたメイドは、屋敷を出て、聖女になり、パオロは、自分の工場を労働者に渡して、荒野をさまようのだった-------。 ピエル・パオロ・パゾリーニ監督は、最初このテーマを、詩による舞台劇として考えていたそうだ。 そのため、この映画は知的な構成が明らかすぎるほど明らかだ。 すみずみまで、よく計算されており、登場人物の役割も、わかりやすい。 だが、主人公が、神か悪魔かといった謎が、不条理演劇のように、簡単には割り切れないのだ。 それは、主人公のテレンス・スタンプの顔のクローズ・アップが、極めて映画的な効果をもたらしているからだ。 この映画は、映画史に残る、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の傑作のひとつだと思う。
帰らざる夜明け
1930年代の中頃、フランス中部の緑の田園地帯が背景で、田舎道を走るバスから中年の農家の女タティ・クーデルク(シモーヌ・シニョレ)が降り立ちます。 重い荷物を引きずって、通りかかった若者が手を貸して、それが縁でジャンと名乗る旅の若者(アラン・ドロン)は、彼女の家の野良仕事の手伝いをするために雇われる事になります。 このフランスの名女優シモーヌ・シニョレが演じる、女中あがりの後家さんは、十数年前に主家の父親に手ごめにされ、その息子にはらまされて死産。 そして、その息子と結婚したけれども、飲んだくれの亭主は死に、残った舅のアンリ爺さん(ジャン・ティシェ)が今も年がいもなく夜な夜な彼女を求めて来るのだった。 その彼女が舅を「いやらしい老いぼれめ」と罵れば、運河の跳ね橋を挟んで住む、亡夫の妹夫婦は老父を抱き込んで、彼女が支えてきた農場を横取りしようと狙っている。 そうはさせじと、肩ひじ張って後家の頑張りを、シモーヌ・シニョレが、がさつな動作で絶妙に演じてみせる。 この映画の主役は、実質、このシモーヌ・シニョレだと言えます。 やがて判明するジャンの正体は、殺人を犯して追われる身の医学生くずれですが、そんな若者が行きずりの年上の女の痛ましさに、ふと心惹かれ、彼女もまた、その優しさにすがって、女としての最後の炎を燃やします。 だが、ジャンは、彼女の義妹夫婦の娘で、まだ16歳の若さで父無し子をかかえたフェリシーとも、抱き合ってしまいます。 結局、フェリシーの両親は、兄嫁のタティ・クーデルクを憎むあまり、ジャンにも敵意を重ね、彼の秘密をかぎとると、娘に命じてパスポートを盗ませ、それを持って警察に密告します。 映画のラストは、警察官の大掛かりな包囲で、逃れきれぬと悟ったジャンは、未亡人のタティ・クーデルクをかばって射殺され、彼女もまた、流れ弾を受け、燃えさかる家の中で息絶えるのです。 あまりにも、むごすぎる悲劇ですが、映画はむしろ一つの風景の中の出来事として、淡々と描いています。 運河があり、機帆船が通り、跳ね橋が上下する、その古風でのどかなロケーションが実に素晴らしい効果を上げていると思います。 ささやかな地域社会の、まだささやかな片隅にも、人間の欲望と愛欲と孤独とが複雑に絡み合って、破綻の悲劇へと追い詰められていく、この物静かなニヒリズムがとてもいいと思います。
アイアンクロー
自分は90年代のプロレスファンなので「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックは、馬場さんとの試合を過去の映像として見たことがあるくらいで、80年代の息子たちエリック兄弟の活躍や悲劇は正直ぜんぜん知らなかった。 それでもアイアンクローという技は、小中学生のころ男子の間では広く知られていて、友達同士よくやり合った世代である。 そんな世代のプロレスファンでも、リック・フレアー、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディなど、知っているレスラーがちょろっと登場したりしていて、そこは見ていて楽しい。 映画としてはいわゆる毒親モノで、絶対的な父フリッツのスパルタ、抑圧、プレッシャーにより息子兄弟が不幸になっていく悲劇を描いている。 自分の夢を強制的に息子に託すという、典型的なダメになるパターン。(もちろん、うまくいく場合もあるが…) ただ、ストーリーはそれ以上でもそれ以下でもなく、事前情報として聞いていた通りの感じだったので、前知識を何も入れずに観たほうが驚きが得られると思った。 観た直後の感想としては、確かに父フリッツはひどい暴君ぶりで息子たちを苦しめるが、それにしたってエリック兄弟は不幸すぎるだろ…と。 本当に呪われてるような、そんな悲劇だった。 それでも最後は少し救いがあり、観客を安堵させてくれる。 また、父からのプレッシャーに苦しめられるが、兄弟たちは仲が良く、強い絆が感じられた。 だからこそ悲しいのだが…。 エリック一家(父や息子兄弟)を演じた俳優陣はみんな良かった。 それぞれ実際の人物の雰囲気をうまく出せていたと思う。 ただ、「プロレスの良さ・凄み」みたいなものは、この映画にはあまり感じなかった…。 プロレスのシーンでもう少し迫力や躍動感といったものを見せてくれれば、レスラーが苦労(トレーニングだけでなく、薬物使用など)してまでリングに上がる理由が伝わるように思う。 まぁ父親との確執の部分が弱くなってしまうのかもだけど…。 で…鑑賞後、エリック一家についてさらに調べたところ、映画よりももっともっとひどい悲劇であったことが判明し、絶句…。 なんだよ、事実が映画を超えてるじゃねーか‼
オッペンハイマー
「インセプション」「テネット」などのノーラン監督作品で、さらに上映3時間もあるということで、かなり身構えて観に行った。 「テネット」のようにチンプンカンプンだったらどうしよう⁉と心配もあったが、事前情報も少し頭に入れてから視聴したので、自分が思っていたよりは難解には感じなかった。 ただし、登場人物も多くて名前は覚えられないし、誰が何者かという説明もなく、会話から察するしかないので、そこは初見で全てを理解するのは不可能だと思う。 また、時間軸も説明なしにコロコロ変わる。 モノクロ映像だったり、服装や見た目で判断はできるが、ここもかなりややこしい…。 あとは、オッペンハイマーがスパイ容疑をかけられた件(聴聞会など)が意外と映画の大部分を占めていて、ここももちろん説明なく始まるので、最初は何をやってるんだろう?となった。 基本、会話のシーンがほとんどで、話を理解するために3時間ずっと頭を働かせないといけないので、上映後はまぁまぁの疲労感だった。 で、観たあと最初に思ったのは、なんでクリストファー・ノーランはこれを撮ったんだろう? オッペンハイマーを題材にした映画、ノーランが撮らなくてもよくない?? と感じてしまった。 確かにオッペンハイマーという人物の人間性だったり、パーソナリティーという部分はとてもよくわかる作品ではあった。 が、その他の部分が説明不足すぎて、一回観ただけでは自分含めた一般の人には伝わりにくい。 このわかりにくさはノーラン監督の作家性だから仕方ないが、原爆を開発したオッペンハイマーという人物の物語を描くのであれば、もう少し一般の人にわかりやすくするべきだと被爆国の人間としては思う。 そして、よく言われている原爆描写が不十分という指摘。 自分も正直、それを少し感じてしまった。 あくまでオッペンハイマー視点、当時もちろんオッペンハイマーが実際の原爆投下を目撃したわけではないので、そこは描かないという理由もわかる。 ただ映画では、オッペンハイマーは頭の中で原爆の凄惨さを体感してしまう。 そこの描写は、「はだしのゲン」などを見て育った自分からするとやっぱり弱いなぁと…。 まぁ「はだしのゲン」のような原爆投下直後の被爆者を実写で描くのはいろいろ難しいだろう…。 なので、そこはもう直接的に当時の写真などを使って見せても良かったんじゃないかと思う。 その方が原爆や被爆の残虐性が海外の詳しくない人たちにもより伝わるし、後のオッペンハイマーの苦悩も観客がより共感できたと思う。 総じて、悪い作品とも思わなかったし、正直アカデミー作品賞を取るほど良かったとも思わなかった。 個人的にはノーランの「オッペンハイマー」より、スピルバーグの撮った「オッペンハイマー」を観てみたかった…。
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