哀れなるものたち
エマ・ストーンの演技に大きく期待しすぎてしまった。 エマ・ストーンは本作で2度目のアカデミー賞主演女優賞をとるのではという評判を聞いて、エマ・ストーンの「体は大人の女性、脳みそは赤ちゃん」の演技がすごそうだ、と、ここに注目ポイントを置いてしまった。 映画館で、その期待していた演技を見た瞬間これは脳みそが子供というよりはまるで障害者の演技みたいだ・・と感じてしまい、集中できなくなってしまった。 自分の期待が変なところに集中してしまったのが良くなかった。でも正直に言うと最初の印象は、期待していたほどの演技ではなくてがっかり・・という印象だった。 冒頭の見せ場は脳が子供というふるまいと、性に目覚めるシーンだと思うが女性として見ると女性の自由が性一辺倒に描かれるというのはやはり疑問に思った。 この2点で冒頭はあまり楽しめなかったが、世界に冒険に出て成長していくベラを見ていくうちに楽しめるようになってきた。 魚眼レンズのような撮影の仕方に何か意味があるのかわからなかったが、広角レンズで撮影された広い視野の映像は圧巻だったし、独特な世界観はすごく楽しめたし好きな映像でした。
ミッシング
"国家に翻弄される人間の尊厳を賭けた、孤独な叫びを描いた社会派映画の秀作「ミッシング」" 1982年のアメリカ映画「ミッシング」は、ギリシャの政治家ランブリスキ暗殺事件を描いた「Z」、チェコの"スランスキー事件"の恐るべき実態に迫り、スターリニズムの内幕を暴いた「告白」、ウルグアイでのアメリカ人暗殺事件を描いた「戒厳令」のイヴ・モンタン主演の"政治三部作"を撮ったギリシャ出身の政治色の強い社会派映画の俊英コスタ・ガヴラス監督の作品で、彼がアメリカ映画界で初めて撮った映画です。 この映画は、1982年の第55回アカデミー賞の最優秀脚色賞を受賞し、同年の英国アカデミー賞の最優秀脚本賞、最優秀編集賞を受賞し、また第35回カンヌ国際映画祭で最高賞のグランプリとジャック・レモンが最優秀主演男優賞を受賞しています。 監督のコスタ・ガヴラスは、この映画の製作意図について「この物語で最も素晴らしいのは、この国がいかに自己を批判する能力を持ち合わせているかを示している点だ。 これはアメリカ人が作った。それもラディカルな人たちではない、相当保守的な人たちだ。彼らがこの映画の後ろ盾なのだ。このこと自体、アメリカという国の民主主義と自由主義の最大の証拠だ。」と語っています。 映画は、1973年9月のチリの人民連合のアジェンデ政権が軍事クーデターで崩壊した時に、ひとりのアメリカ青年が突然、失踪します。 政治的な理由で逮捕されたのか、あるいは何かの事件に巻き込まれて殺害されたのか。 このチリのクーデターを描いた映画として、1975年の「サンチャゴに雨が降る」(エルビオ・ソトー監督)がありましたが、この映画はアジェンデ大統領と民衆の抵抗をアジェンデ側から描いていました。 当時のチリのアジェンデ政権は、国民の民主的な選挙によって成立した初めての社会主義政権でしたが、アメリカのCIAは選挙に関与し、影響を与えようとしますが失敗し、遂に軍部による軍事クーデターに直接介入するという手段をとり、クーデターを成就させます。 背景は全く同じですが、「ミッシング」はクーデターに巻き込まれたアメリカ人を描くことで、アメリカの国家的な政治的陰謀を告発する内容になっています。 アメリカ人青年のチャールズ・ホーマン(ジョン・シェア)と妻のベス(シシー・スペイセク)は南米のある都市で暮らしています。 もちろんチリのサンチャゴですが、映画では特定していません。 チャールズは、そこで小説を書いたり翻訳をしたり、近所の子供たちに絵を教えたりしていました。 ところが、軍事クーデターが起こった後、チャールズが突然、失踪し、姿が見えなくなります。 この物語の前半のハイライトともいえる、戦車が出動し、外出者は無差別に銃殺されるクーデターの生々しい緊迫感が、ヒリヒリするようなタッチで迫力満点の映像で描かれていきます。 コスタ・ガヴラス監督の緊迫したドキュメンタリータッチの演出が冴え渡ります。 やがて、チャールズの父親のエドワード(ジャック・レモン)が、息子の失踪の知らせを受け、ニューヨークからやって来ます。 エドワードとベスは、チャールズの行方を捜すべくアメリカ大使館へ行きますが、"息子さんは潜伏しているのではないか"という返事しか返ってきません。 これには何か秘密があるに違いないと感じた二人は、病院や政治犯が収容されたスタジアムへ行き、目撃者の話を聞いていくうちに、失踪の真相を次第に知っていきます。 クーデターの内情を知りすぎたチャールズは、アメリカ大使館の了解あるいは画策のもと、軍事政権によって抹殺されたと思われます。 行方を捜すという、ひとつの目的でエドワードとベスは、行動を共にしているだけで、最初、この二人は全く気持ちが繋がっていませんでした。 しかし、困難な調査を共に続けていくうちに、"互いに深まっていく世代を超えた共感と和解"のプロセスをコスタ・ガヴラス監督は丹念に情感を込めて描いていて、この映画を"奥行きのある見事な人間ドラマ"に仕立てていると思います。 クーデターの背後にある不気味なアメリカの影。 巨大な政治的な陰謀。人民のためという正義の名を借りたファシズムの実態。人間のエゴイズム。 二人の目の前に"現代の厳しい現実"が次々と立ち塞がって来ます。 特に、虚しい捜索を続ける中、サッカー・スタジアムに無造作に山積みされた死体の山を見た時、クーデターの悲惨さを垣間見たエドワードの心境に変化が訪れます。 当初、エドワードは、息子や息子の嫁をあまり良く思っていませんでした。 彼には実業家としての地位や財力もあり、アメリカ政府を信じる一般の常識的な国民でした。 しかし、必死になって夫を探すベスと接することによって、本当の息子の真の姿を知るようになります。 それと同時に"国家の利益"を名目に、息子を抹殺した"国家権力"への激しい怒りを爆発させていくことになります。 監督のコスタ・ガヴラスの"国家権力とは何のためのものなのか。 果たして国民ひとりひとりを守るための存在なのか。 いや、国家そのもののための権力の行使ではないのか"という、激しい怒りにも似た厳しいメッセージが伝わってくるようです。 エドワードを演じた名優ジャック・レモンの、体の奥底からほとばしり出るような、魂を揺さぶる演技には唸らされます。 「息子の生死だけでも知りたい!」と全身全霊を込めてふりしぼるように言うジャック・レモンの目に、いつの間にか涙がじっとたまっています。 カンヌで絶賛された、彼の演技を通り越した、生の人間の悲痛な心の叫びがひしひしと伝わって来ます。 共演のシシー・スペイセクも、義父のエドワードにそっと寄り添う演技で、静かな中にも心の内側には激しい怒りと哀しみを秘めた、ひとりの女性の表情を見事に表現しています。 そして、エドワードが映画のラストシーンで空港に送りに来た、アメリカ大使館員に対して、「アメリカは君たちを許しておくほど甘くはないぞ」と告訴する意思を告げたのに対して、アメリカ領事が「それはあなたの自由(free)です」と答えるのを強く制して、「いや、それは私の権利(right)なのだ」ときっぱりと言うシーンは、アメリカの良心を示していて、このシーンにこそコスタ・ガヴラス監督の最も伝えたかったテーマがあるのだと感じました。 この映画が、ニューヨークで公開される直前に、まともに糾弾された形のアメリカ国務省は、この映画の内容は事実無根であるとして長文の声明文を発表したそうです。 これに対して、コスタ・ガブラス監督は「ここに描かれていることはフィクションではない」と正式に反論し、また、弁護士であり、この映画の原作の作者でもあるトマス・ハウザーは、そのあとがきの中で「私はチャールズ・ホーマンの死をめぐる事件の、公平かつ正確な再構成であると確信している」と書いています。
約束
映像派詩人、日本のクロード・ルルーシュと言える、斎藤耕一監督の名を否応なく高めたのが、この映画「約束」だ。 この後に続く「旅の重さ」「津軽じょんがら節」と並んで、まさに油の乗り切った、最も充実していた時期の作品で、斎藤耕一監督らしい、流麗な映像テクニックで押し切る1時間28分は、自信に満ち溢れている。 青春の儚さとか、人間の危うさといった、彼独特のテーマをセリフを極力抑え、舞台設定やその背景を上手に利用して、フォトジェニックに語っていく。 フランス映画、それもクロード・ルルーシュ監督の「男と女」をイメージさせるような演出方法は、1972年当時の日本映画では、恐らく斬新極まりないものだったろう。 アメリカ映画では、ニューシネマが一巡した頃だ。 旧態依然とした映像表現に固執する日本映画の中で、斎藤耕一監督の映画は、その殻を打ち破るような画期的なものだったに違いない。 この映画は、始まって10分ほどはセリフがない。 日本海に沿って北上する列車、車内の点描。 海の景色、浜辺の波、空を飛ぶ鳥。 子供が遊び、ブランコが揺れている。 人物抜きの映像だけで見せるショットが多い。 派手なアクションや奇抜なストーリーだけを追う姿勢はない。 セリフで状況と心理を説明する、近年のTVドラマの対極にある。 まさに映像派詩人の名に相応しい叙情が醸し出される。 萩原健一と岸恵子、この組み合わせも意外だし、その舞台が冬の日本海沿岸を北上する急行列車となれば、それだけで何か日本映画離れした雰囲気を期待させる。 役の設定は、萩原健一がひと仕事片づけようというチンピラの男で、岸恵子が肉親の墓参りのために仮釈放された女囚で、次の朝までに刑務所へ戻らなければならない。 列車の中で、偶然乗り合わせた男は、向かいの席に保護司と黙りこくったまま座る女に、ある種の母性を感じ、やがて愛情であることを自覚する。 そして、列車を降りた後にも続く、男の若く一途な愛情表現に、女も次第に心を動かされ、感情が高まっていく。 そこに、女の愛に破れた過去や、殺人を犯して刑事に追われる男の身の上が絡まってくる。 男の心情にほだされた女は、刑期を終える二年後の再会を「約束」する。 だが、刑務所に女を見送った直後、男は強盗犯として逮捕される--------。 約束の日の、約束の場所で、いつまでも待ち続ける女の表情は虚ろだ。 小さなすれ違いだが、二人にとっては決定的に切なく、哀しい。 GSのテンプターズから、俳優に転向して間もない頃の萩原健一のキャラクターを、実に上手く活かしていると思う。 女に向ける、がむしゃらな好意に満ちたナイーヴな優しさが印象的だ。 ベテラン女優の岸恵子の方も、萩原健一を巧みにリードして、男から一方的に押し付けられる好意に、ひと筋の灯りを見い出す、寂しい女の姿を演じて、実に素晴らしい。 陰影に凝ったライティングや、望遠レンズで引きつけたクローズアップショットの多用など、斎藤耕一監督ならではの映像テクニックが、思う存分発揮されていると思う。 クロード・ルルーシュ監督の影響を受けたと思われるショットも数多くあり、流麗な映像感覚で見せることが日本映画でも出来るのだ、ということを証明した作品だと思う。
セルピコ
この「セルピコ」はご承知のように、ニューヨーク派の名匠シドニー・ルメット監督の作品で、アル・パチーノは、アカデミー賞で主演男優賞の受賞はできなかったものの、ゴールデン・グローブ賞のドラマ部門の主演男優賞を受賞しましたね。 私はアカデミー会員という、いわば、映画界の身内で投票するアカデミー賞よりも、各国の外国特派員の記者たちの投票で選ばれるゴールデン・グローブ賞の方が、より映画ファンの目線で選ばれ、映画ファンの気持ちに、より近い結果になっていると思っています。 この「セルピコ」が公開された1974年頃のアメリカでは、クリント・イーストウッド主演の「ダーティ・ハリー」あたりから、警官ものの映画が、ブルース・リー(李小龍)の「燃えよドラゴン」のカンフー映画と共に流行となっていましたが、この警官ものは、ジーン・ハックマン主演の「フレンチ・コネクション」のような派手なアクションを売り物にする、ショッキングな実録タッチのサスペンスものと、ジョージ・C・スコット主演の「センチュリアン」のような、社会派警官の苦悩を描くものとの二つの系統に分かれていたように思います。 この「セルピコ」は、当然、後者の社会派警官の苦悩を描く系統に属する作品になっています。 ニューヨーク市警察の汚職を内部告発した、実在の警官をモデルにしているこの映画は、アメリカ社会の腐敗をリアルに描いて、とても迫真性のある映画になっていると思います。 しかし、このような映画が製作され、また率直に新聞を通して世論に訴えるところに、アメリカの伝統的な自由が生きており、忖度と腐敗だらけの、どこかの東洋の島国と違って、腐敗を腐敗に終わらせない社会の根強い復元力を感じさせます。 かのワシントン・ポスト紙の記者であったボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインによる、ウォーターゲート事件の新聞キャンペーンもその一つの例とみるべきでしょう。 1971年2月、ブルッキング・サウスの麻薬担当刑事のセルピコは、麻薬犯を逮捕しようとして、犯人に戸口から顔面を直撃されて倒れます。 同行の二人の刑事は、意識的にか支援をためらったのです。 セルピコが撃たれたとの報に、警察の同僚と上層部が、すぐに警官相互の殺しではないかと思ったほど、セルピコは警察内部で恨みを買っており、孤立していたのです。 というのは、その前年の4月25日、ニューヨークタイムズ紙の第一面は「ニューヨーク市警の汚職数百万ドルに及ぶ」との大見出しを掲げ、その後、連日にわたって、関連の暴露記事で強力な論陣を展開しました。 この報道は、セルピコの告発に基づいた調査結果であり、それだけに、彼は警察内部では異端者として忌避される存在になっていたのです。 当時のニューヨークのリンゼイ市長は、世論に応えるため、5人の委員からなる調査委員会を設ける事を宣言し、その調査が進んでいましたが、一方、セルピコは、最も危険な麻薬担当への転出を上司に強いられていたのです。 瀕死のベッドから、画面は彼が11年前に希望に燃えて、警察学校を卒業する場面へとフラッシュバックします。 正義感の強い仕事熱心な彼が、同僚たちが不感症になっている収賄、さぼり、暴行などの汚れた環境の中で、外見的な変貌と内面的な苦しみを重ねてゆく推移が、早いテンポで描かれます。 人間的に一般市民との繋がりを深めようとすればするほど、職場である警察の閉鎖社会からは次第に遊離していくのだった。 そして、裸のつき合いを持つヒッピー的な友人の間から現れた優しい恋人も、彼の人間性には魅せられ、愛しながらも、余りの潔癖さとその苦悩を見るに耐えかねて、別れていってしまいます。 組織の全部が狂ってしまったその内部からの、外部に向かっての社会的な告発が、それに至るまで、どのように深刻な人間的な苦悩を踏むものであるか、そして、内部告発に踏み切らせるものは、その組織の上層部の硬直化した問題処理の態度に起因している事を、セルピコは強く訴えているのです。 しかし、組織の内部での真剣な解決への努力と内省の苦しみを欠いた、安易な内部告発は、むしろ、うとましい一種の卑劣感が伴うものであり、社会に強く訴える力は、到底、持ちうべくもありません。 やむにやまれぬ正義感に立って、しかも、あらゆる内部解決の努力を払った、最後の手段としての苦悩の告発であり、一方においてはそれと並行して、あくまでも、その組織内にあって忠実勇敢に、日常の職務執行に献身するセルピコのような姿にこそ、我々は心を打たれるのだ。 それにしても、いかなる形であれ、内部告発者の末路は暗いものがあります。 その後、セルピコは不具の身を人知れず、スイスで過ごしたと言われています。
クイルズ
精神病院と監獄でその人生の大半を過ごした作家、マルキ・ド・サド。 サディズムの語源となった、この反骨精神に溢れた男の晩年を描いた、フィリップ・カウフマン監督の「クイルズ」。 その退廃的で卑猥な内容から、発禁処分を受けながら、権力に屈することなく、挑発的な作品を世に送り出す。 禁じられれば禁じられるほど、書くことへの執念が燃える。 周囲の人間を少しずつ虜にしていくサド侯爵。 だが、遂に彼を監視する目的で、精神病院の責任者が新たに送り込まれ、彼は窮地に立たされる。 サドの書くことへの執念は、果たしてどのような結末を迎えるのか?-------。 これだけ主役、脇役ともに芸達者が揃う映画も珍しい。 特に、主役のサド侯爵を演じるジェフリー・ラッシュは凄い。 本当は、観る前はちょっとミスキャストかなと思っていたのだが。 退廃的で猥褻なサド侯爵を演じるなら、ジェフリー・ラッシュは、確かに上手い俳優だが、色気が足りない感じがして、もうちょっと艶のあるタイプの俳優の方がいいのでは?と。 しかし、あにはからんや、観てみたら、イイんだな、これが!! あの鬼気迫る感じは、まさにラッシュならでは。色気も意外とあったりするのだ。 ペンと紙を奪われ、書くことを禁じられたサドは、まずはワインと鶏肉の骨を使ってシーツに書く。 それも禁じられれば、自らの指を傷つけ、その血で自分の衣服に書く。 衣服を奪われれば、獄中の狂人と小間使いのマドレーヌを使って、口伝えで文章を伝える。 そして、それが原因で恐ろしい事件が起き、拷問の末、遂に地下牢に全裸でつながれれば、自らの排泄物で壁に書く。 まさに凄まじいまでの情念なのだ。 18~19世紀に言論の自由を謳うのは、かくも命懸けのことだったのだ。 サドの言動に戸惑いながらも、彼に惹かれずにはいられない若き神父は、ミイラとりがミイラになってしまうのだけど、この徐々にサドを理解して傾倒していく様子が少し弱かったような気がする。 マルキ・ド・サドを心のどこかで理解しながら、愛するマドレーヌが非業の死を遂げて、悲しみと怒りで凄まじい行動をとり、遂には発狂する。 彼がこうなるプロセスを、もう少しじわじわと描くことが出来れば、ラストがもっと効果的だったはずだ。 サディズムの定義は、他者に苦痛を与えることで性的な快感を得ることだ。 その生涯で27年以上も牢獄暮らしをした、サド侯爵の本名は、ドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。 代表作は「ジュスティーヌ」「ソドムの百二十日」など。 「ソドムの百二十日」は、イタリアの鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督によって映画化されたが、まことに凄まじい作品だった。 美徳を知りたければ、まず悪徳を知ることだとはサドの名言。 言論の自由が、この作品の最大のテーマだが、かなり挑発的で見応えのある映画だ。
イルカの日
マイク・ニコルズ監督の「イルカの日」は、フランスの作家ロベール・メルルのベストセラーSF小説の映画化で、脚本を「卒業」「キャッチ22」の才人バック・ヘンリー、音楽をフランソワ・トリュフォー監督映画でお馴染みのジョルジュ・ドルリューという魅力的なスタッフが結集しています。 イルカの言語能力の開発によって、人とイルカという異種間のコミュニケーションに到達しようとする海洋生物学者(反骨の名優ジョージ・C・スコット)の科学的な努力が、南海の澄み切った自然の中で、次第に博士とイルカとの純粋な交流が愛情となって育まれていく前半部が、特に素晴らしかったと思います。 マイク・ニコルズ監督の、人間とイルカに向ける優しい眼差しと瑞々しい感覚にあふれる演出と、また、この映画を担当したジョルジュ・ドルリューの哀愁を帯びて、我々、映画を観る者の心の琴線をふるわせる、繊細でリリカルなメロディのテーマ曲が全編に流れ、映画音楽の持つ力の素晴らしさに、しばし映画的魅惑の世界に誘い込まれてしまいます。 特に、アルファ(愛称ファー)とビーという名前の2頭のイルカの演技が素晴らしく、水槽の中を2頭が揃って泳いでいるシーンや水槽の仕切りを飛び越えようとする、あまりにも美しく心を洗われるような流麗な映像は、この映画の白眉とも言える程、鮮烈で見事なシーンだったと思います。 しかし、このイルカを大統領暗殺計画に使おうとする政治的な陰謀が展開する後半は、文明に毒された醜悪な人間との対比で、イルカの純粋無垢な美しさが我々、観る者の胸を打つものの、SF仕立ての安易な冒険物のストーリーに堕してしまったのは、返す返すも残念でなりません。 どうも、製作者側の意図する、動物映画と政治サスペンス映画とSF映画と人間ドラマ映画の観点を全て詰め込もうとするあまり、それぞれが全て中途半端になったように思います。 SFや政治サスペンスという原作の小説の呪縛から解き放たれて、陸と海の、それぞれの哺乳動物の代表である人とイルカのナイーヴな愛情の交流に絞れば、ラストの博士夫妻とイルカたちとの悲しくも切ない別れのシーンがあまりにも素晴らしく、余韻を残すものだっただけに、もっとこの映画の感動が高まったであろうと惜しまれてなりません。
アトランティック・シティ
この映画「アトランティック・シティ」はヌーヴェル・ヴァーグの旗手ルイ・マル監督が老残のギャングの失われた夢、過去へのノスタルジーを描いた名作だ。 近代化の波が押し寄せ、古き良き時代は過去のものとなりつつあるカジノの街、アトランティック・シティ。 この映画「アトランティック・シティ」は、ここに生きる老ギャングの飄々とした姿を描いた、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの旗手で、「死刑台のエレベーター」「鬼火」のルイ・マル監督がアメリカへ渡って、「プリティ・ベビー」の次に撮った作品で、彼のアメリカ時代の最高傑作と評価の高い作品です。 この映画の舞台となっているのは、賭博が合法化されて以来、急速に変貌しつつあるギャンブル都市アトランティック・シティ。一攫千金を夢見てこの街にやって来る者が絶えません。 ある麻薬事件を契機にして、老残のギャング、ロウ(バート・ランカスター)と、プロのディーラーを目指すサリー(スーザン・サランドン)とが、このドラマの核となります。 まず、映画のファースト・シーンは、同じビルの隣の部屋から、窓越しに台所で裸になって身体を洗っているサリーを覗いているロウの姿を捉えます。 冒頭のこのショットで、我々観る者は、あらかじめ古き良き時代の伝説の中に、自分の身を浸して生きているかのように見えるロウの、胡散臭さを否応なく了解させられるのです。 べっとりとまとわりつくような、その胡散臭さを受け入れられるかどうかが、この映画に魅了されるかどうかの分岐点になるような気がします。 あっさりと殺されてしまうサリーの別れた夫デイブや、ロウの愛人とおぼしきグレースなどのユニークなキャラクターを絡ませながらも、この映画の真の主人公は、ゆっくりと退廃していく"アトランティック・シティ"そのものなのだと思います。 ドラマとしては、ある種、汗臭いことこの上ないのに、画面は淡いトーンの色彩で統一されていて、何度も観返してみると、ルイ・マル監督はどの登場人物にも、常に一定の距離を置いて描き、ひとつの街全体が静かに崩れていく様子を見つめたかったのかも知れません。 幼児性と、それゆえの小狡さを持ったロウのキャラクターを、名優のバート・ランカスターは余裕たっぷりに、若い女とのささやかな触れ合いをユーモラスに、かつ哀歓を漂わせながら演じて見せ、彼のいつもながらの、渋くて味わい深い、演技のうまさに圧倒されてしまいます。 彼の夢は、あまりにもナイーヴなのですが、それはもはやこの世界の中では、"失われた夢"、"過去へのノスタルジー"にしかすぎないのです。 そして、ルイ・マル監督の演出のうまさに驚いたのは、この映画のラストで、解体されつつある老朽化したビルに、カメラがさりげなくパンするあたりの、どこまでも計算の行き届いた、鮮烈で象徴的なエンディングです。 なお、この映画は1980年度の第35回ヴェネチア国際映画祭で最優秀作品賞に相当する金獅子賞を、1981年度のNY映画批評家協会賞の最優秀主演男優賞・脚本賞を、同年の全米映画批評家協会賞の最優秀作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞を、LA映画批評家協会賞の最優秀作品賞・主演男優賞・脚本賞を、英国アカデミー賞の最優秀監督賞・主演男優賞を受賞しています。
SAYURI
ロブ・マーシャル監督の「SAYURI」は、貧しい漁村から口減らしのために売られた少女が、花街で一番の芸者になるという、女の一代記。 日本を舞台にした作品だが、原作も映画化したのもアメリカ人。 「ラスト・サムライ」と同様、ハリウッド製和風ファンタジーといったところだ。 とはいえ、「ラスト・サムライ」ほど違和感を感じなかった。 日本人キャラが、みんな英語で会話するのも、中国人女優の芸者姿も、心配したほど気にならなかった。 しかし、観終わった後の感想はというと、「それで?」と言うしかない。 さゆりの生き様や芸者の世界のしきたりを描くことで、一体何を伝えたかったのだろうか。 千代が花街に売られてきて、さゆりという芸者になり、ライバルの初桃と壮絶な置屋の後継者争いをするところは、絢爛な世界の裏の女のドロドロとした姿を描いていて、退屈しない。 初桃を演じたコン・リーは、憎まれ役を見事に演じている。 ところがコン・リーが姿を消すと、火が消えたように画面が寂しくなり、映画も失速していく。 残念ながら、主役のチャン・ツィイーのさゆりに、まわりを圧倒するような存在感がないのだ。 不思議な瞳を持つという設定も生かされていないし、男を虜にする美しさと芸と色気も十分に描かれていなかった気がする。 そのために、彼女の一途な恋愛も「あ、そう。」という感じでしか観ることができなかった。 製作のスティーヴン・スピルバーグは、原作に惚れ込んで映画化を決めたと言われているが、一体この話のどこに魅力を感じたのだろうか、と思ってしまう。 「ラスト・サムライ」では、サムライをインディアンの部族のように描きながらも、武士道という独特の美学を描いていた。 しかし、残念ながら「芸者は娼婦ではない」のが事実であったとしても、芸者は武士のような、ある種の美学を体現する存在ではないのだ。 芸者の世界には詳しくないので、色々と勉強になったが、千代が神社にお参りするシーンで、どう見ても伏見稲荷という鳥居をくぐって、お賽銭を投げて鈴を鳴らすところで「ゴーン」と鐘の音がしたのには、ずっこけてしまった。 というわけなので、どこまで考証が確かなものかも、正直いってよくわからない。 着物の着方がまことに雑で、興醒めしたが、映像はとても美しく、退屈はしなかった。 しかし、面白かったかと聞かれるとそれほどでもなく、つまらなかったのかと言えば、それほどでもないという微妙な感じの作品でしたね。 日本の俳優陣では、渡辺謙が達者な英語を披露して、さすがという感じで、また、桃井かおりもいい味を出していましたが、役所広司だけは英語も全くダメ、演技もダメでしたね。 これでは、役所広司は今後、ハリウッド映画からのオファーは来ませんね。
HERO
英雄・秦の皇帝の命を狙う刺客を次々と倒した功績で、皇帝への謁見を許された無名という男。 賢明なる皇帝が、刺客たちとの戦いを語る彼の話が真実ではないことに気がついた時、その男は10歩の距離までに迫っていた。 美しい色彩設計、端正な構図、羅生門的な物語構成。 それらがこの作品の品格を高めていることは、間違いない。 しかし、様式にこだわり抜いて見せたこの作品は、そこに足を引きずられたのか、アクションのリズムを刻まない。 ジェット・リー、トニー・レオン、マギー・チャン、チャン・ツィイー、ドニー・イェンという、これだけのアジアの大スターを揃え、これだけのスケールの作品でありながら、最後まで血沸き肉躍ることのない、このアクション娯楽大作は、その一点において作品のあるべき姿を見失っているのではないかと思う。 様式の中に閉じ込められた夢幻的なアクション・シークエンスは、それが生気のないプラスティックのディスプレイのように、自らを閉じ込めたショーケースという枠組みを、突き破りはしない。 窮屈な型に閉じ込められて、物語は最後まで躍動する瞬間を得ることがない。 つまり、様式がアクションのリズムを殺しているのだ。 もちろん、私怨を超えて安定した国家を築く大義を語るのが、この作品のテーマなので怒りや哀しみを押し殺した"枠組み"に納まることを選ぶ「英雄」たちが、そういう窮屈なショーケースの中でしか、その美しくも超絶的なアクションを披露出来ないのは物語的な必然なのかも知れない。 ただ、物語のテーマに忠実であることで、この映画はそれ以上の何かになる可能性を自ら放棄しているのだと思う。 優等生であるが故の、面白味のなさを感じるのだ。 監督のチャン・イーモウは、それまでどんなジャンルの映画でも器用に、巧みな手腕を発揮してきた人だが、この作品でまた、これまでとは違う"武侠映画"というジャンルに挑戦して、一応の成功を収めていると思う。 大地を揺るがす秦の大軍、唸る矢、芸術的な振り付けを施されて宙に舞う剣士たち。 それにしても、それらのシーンが美術館の展示品であるかのようにダイナミズムを欠いているのが、実に惜しいと思う。 そして、この監督が枠に閉じ込めコントロールする発想でしか、アクション映画を撮れないのであれば、彼の体質に合っていない、このジャンルではなく、もっと小味な人間ドラマの路線でいった方がいいように思う。
ある愛の詩
この映画「ある愛の詩」は、「愛とは決して後悔しないこと」という主人公オリヴァーの名セリフで、公開当時、一世を風靡し、アメリカでも日本でも大ヒットした、爽やかで美しい純愛ドラマですね。 お話自体はなんてことはない。 大学生のオリヴァー(ライアン・オニール)と女子大生ジェニー(アリ・マッグロー)が愛し合う。 男は名門の富豪(レイ・ミランド)の跡取り息子で、女はイタリア移民の菓子職人の娘。 だから、青年の親の反対にあうのだが、彼は家を捨て、家からの経済援助を捨てて、貧しい結婚生活にとびこむ。 そして、二人で力を合わせて苦労の末、オリヴァーは大学院を出て一流の法律事務所に就職、さあ、これから幸せにという時、ジェニーは白血病で死んでしまう-------。 身分違いの恋の障害といい、死が二人を分かつ悲劇性といい、なんと古風なまでのシンプルさ。 だが、それでいて決してべとつかない。 甘さに嫌味がないんですね。 職人監督アーサー・ヒラーが見せる展開は、生き生きと新鮮です。 当時はやりのヴェトナム反戦と学園紛争の代わりに、アイスホッケーとバッハ。 そして、フランシス・レイの音楽。 その流麗で哀切の旋律が、あふれる"愛の優しさ"を謳いあげます。 よく考えてみると、この映画は本当は"夢物語"なんですね。 ヒロインは現代のシンデレラであり、オリヴァーは王子さまなのだ。 だが、嘘を現実だと思わせるこの映画のうまさ。 父と子の断絶に、当時の若い観客は共感し、愛し合う二人の姿に酔ったのかも知れません。 こんな風に勇気を持ちたい、こんな風に愛し愛されてみたいという、若い世代の叫びにも似た憧れなのだろうと思います。 最後にオリヴァーが、ジェニーを抱きしめる病室の場面では、訳知りの大人でさえ、心の底からこみあげてくる嗚咽を止めることさえできなくなってしまうでしょう。 それにしても、「愛とは決して後悔しないこと」、普遍的ないい言葉です。
スコルピオ
この俊英マイケル・ウィナー監督の「スコルピオ」は、バート・ランカスター、アラン・ドロンの二大スターに演技派のポール・スコフィールドが絡む、ストリーリーよりも役者の魅力で見せるスパイ映画の佳作だ。 殺し屋スコルピオ(アラン・ドロン)は、親友のベテランCIA情報部員クロス(バート・ランカスター)から、中東の某国首相の暗殺を依頼される。ところが、クロスは二重スパイだった------。 そして、勝手に引退を決め込んだクロスの暗殺を、CIAから依頼されたのは、彼の元相棒のスコルピオだった------。 友情や愛情さえも押しつぶしていく非情なスパイ戦を、マイケル・ウィナー監督が硬質なタッチで描いていく。 このようなストーリーは、スパイ映画としては定番のプロットで、この映画が公開された1970年代にしても、新鮮味には乏しかったのではないかと思う。 だが、逃げるベテランのバート・ランカスターと、それを追う現役バリバリのアラン・ドロンという顔合わせは、両者が初共演したルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」より遥かにスリリングで魅力的だ。 非情な組織に翻弄される男の悲哀を、ランカスターとドロンの二人の俳優が、それぞれにいい感じのムードを醸し出していて、実に素晴らしい。 初めてこの映画を観た時は、よくある話をキャスティングで見せる映画だと感じたが、観直してみると、それほど単純ではないことに気づく。 無骨顔の熱いヤツと、二枚目でクールなヤツという風貌だけで分けず、行動力や頭のキレが互角で似たタイプの二人が、相手の出方を予測しながら行動する、"丁々発止の心理戦"がスリリングで、ビターなラストも実に印象的だ。 この映画には昨今のスパイ物にはない、翳りや悲哀、漢涙を搾り取られる快感があるのだ。 1970年代の男気映画の基本テイストが、そこには紛れもなくあるのだ。
凍える牙
乃南アサの直木賞受賞作「凍える牙」といえば、過去に何度かテレビドラマ化され、小説だけでなくドラマで作品の魅力に触れた人も多いだろう。 原作者の乃南アサ自身が、「誰よりも『凍える牙』を理解していることが感じられた」とコメントしている通り、難事件に切り込む様子や主人公となる女刑事の職場での葛藤を描くと同時に、事件の鍵を握るウルフドッグの闇夜を駆け抜ける姿が脳裏に焼き付いて離れない。 車内で不可解な人体発火事件が発生、ベテランながら出世の道が険しいサンギル刑事(ソン・ガンホ)は、新人女性刑事ウニョン(イ・ナヨン)とコンビを組まされ、難事件に挑み始める。 遺体に残った獣に噛まれた跡や、腰に締めたベルトの発火装置で、他殺と判断したサンギルだったが、被害者周辺を洗ううちに、更なる連続殺人事件が発生する。 狼と犬の交配種であるウルフドッグが、噛み殺す現場を唯一目撃したウニョンは、署内の圧力にも屈せず、ウルフドッグの調教主を割り出そうとするのだったが--------。 「悲夢(ヒム)」のイ・ナヨンが、男性社会のしかも警察という組織の中に蔓延する、セクハラやパワハラを受け、上司が真相究明を諦める中、最後まで事件に喰らいつく芯の強いウニョンを、凛とした美しさで好演している。 働く女性であれば、一度は体験があるであろう、苦々しい場面が度々描かれるからこそ、殺人鬼に変貌させられた、ウルフドッグの孤独な瞳に共鳴していくウニョンの気持ちに寄り添えるのではないだろうか。 一方、ウニョンの上司であるベテラン刑事サンギルを、名優ソン・ガンホが、中年の悲哀を漂わせながら飄々と演じ、ちぐはぐコンビぶりを発揮する。 刑事魂と出世欲の間で葛藤する姿もまた、男ならではの孤独な闘いを映し出す。 組織の中に波紋を巻き起こし、真相の追及に没頭するウニョンを次第に受け入れ、サンギルが上司として、刑事として一皮剥けるまでのドラマも映画版ならではの見どころだろう。 人間に調教されたウルフドッグの謎、そして事件があぶり出す社会の闇に迫るアクションシーンも圧巻だが、更なる犯行を重ねるかもしれないウルフドッグを、単身バイクで追いかけるウニョンの真夜中の疾走は、切ないまでに美しかった。 追う者と追われる者、もしくは人間と動物の垣根を越えた”孤独な魂の共鳴”が、サスペンスにとどまらない余韻を残す作品だ。
アガサ/愛の失踪事件
「アガサ 愛の失踪事件」のラストには、思わず声を上げてしまった。 惚れ惚れするような別離の映像なのだ。 この映画は、ミステリーの女王、アガサ・クリスティ本人をヒロインとした作品だ。 アガサ・クリスティは、1926年に11日間、姿を消した事件がある。 その間、彼女は何をしたのか、また、何のために。 この件は、遂に明らかにされないまま、彼女は世を去った。 この映画は、その謎を推理し、想像し、ある一つの愛のサスペンスを構築する。 ミステリーの女王を素材にして、ミステリーを創り上げようというのだ。 脚本は、キャサリン・タイナン。彼女は、当時の新聞を読み漁り、関係者を尋ねて、謎のパズルを、女性のアングルから解いたのだ。 アガサという女性の謎を追って、女性が物語を創っただけに、全編から滲み出る、ひたむきな女の哀しみが、たまらなく胸を打つ。 アガサ・クリスティを演じるのが、ヴァネッサ・レッドグレーブ。 彼女の作品を愛しているコラムニストが、ダスティン・ホフマン。 彼女が、土壇場の行動に走ろうとする時、身をもって助けるのが彼なのだ。 彼と彼女の間に、密やかな愛の感情が通い合う。 二人の手の動き、目のさばき。内に抑えた愛の表現が、実に心に沁みるのだ。 そして、全てが終わったラスト。迎えに来た人々に連れられ、アガサは、駅のホームに立つ。その反対側のホームに彼。 二人の目が合った瞬間、ホームの間に列車が入って来る。 激しい抱擁をするでもない。しとどな涙を流すのでもない。 だが、これ程までに観る者の胸を締め付ける、美しい"別れ"は、めったい見られない。 アガサ失踪事件の謎に挑戦したこの映画。 その謎の本質を、女の哀しみに絞り込んで、それ故に、観る者の胸を震わせる、愛の映像に昇華したのだ。
第9地区
監督、キャストとも無名でありながら、アカデミー賞で作品賞など4部門でノミネートされた「第9地区」。 この映画「第9地区」は、人によってはB級SFコメディー、他の人には気味の悪いグロテスクなホラー、私にとってはSFに名を借りた"政治寓話"なのです。 エイリアンを「難民」として描いた異色のSF映画で、その設定の妙が光っている。 受賞こそならなかったが、独創性なら、その年の作品賞に輝いた「ハート・ロッカー」に勝るとも劣らないと思う。 巨大な宇宙船が南アフリカのヨハネスブルクの上空に停止した。中にいた異形の宇宙人は衰えきって、戦うどころじゃない。 宇宙人は地上に移され、隔離されたコロニーに閉じ込められた。そして、その状態が20年も続き、宇宙人の強制退去が開始される。 宇宙船は「インデペンデンス・デイ」にそっくりだし、巨大化した虫のような宇宙人は「エイリアン」の末裔。 でもこの宇宙人、この映画では姿形は薄気味悪くても、中身はアメリカ先住民のように力なき民なのです。 この後は、強制退去の先頭に立った主人公が、ふとした偶然からエイリアンに変身して人類に立ち向かうことになるのです。 古くは、アーサー・ペン監督の「小さな巨人」、最近だと「アバター」でお馴染みの展開になるのです。 この映画は、先住民を追い払う先頭に立ったはずの主人公が、先住民とともに戦う「アバター」の親戚みたいなものだ。 「アバター」のパンドラ星は美しかったし、ナヴィ族だって慣れてみると結構、綺麗だったんですが、パンドラ星を巨大なスラムに、ナヴィ族を「エイリアン」のグロテスクな化け物に入れ替えると、この映画になると思うのです。 もちろんこれは、一見、B級SFコメディーのように見えますが、舞台が南アフリカなので、かつての"アパルトヘイト"を念頭に置いて、人種差別や移民迫害を、このように被差別者をエイリアンに置き換えて、痛烈に諷刺した社会派映画なのだ。 言葉も姿も異なる人たちには、ある種の恐怖を抱くのが普通ですが、普通の感情で暮らすなら、他者の排除に終わってしまいます。 そんな事やって大丈夫なのという思いが欧米圏では切迫しているので、この「第9地区」がアカデミー賞の候補にもなったのだと思う。 助けられ、難民として隔離された彼らは、野蛮で不潔な「下級住民」として、人類から蔑視されるようになる。 果たして人類とエイリアンは共存できるのか? ------。 物語は後半、ある事件をきっかけにエイリアンと人類の戦いに発展する。 そして、ニール・ブロムカンプ監督は、ニュースやインタビューの映像を織り込んで、ドキュメンタリータッチに仕上げている。 おかげで、突拍子もない物語が、不思議と臨場感にあふれ、手に汗握る場面も多くあり、ラストシーンにはほろりとさせられた。 何だかつかみどころのない感じもするけれど、作り手たちの発想力に素直に脱帽させられた。 SFはSFでも、「スターシップ・トゥルーパーズ」のような、メイン・ストリームから外れたところで、私が偏愛するカルト映画の貴重な1本になったのです。
ひとり狼
大映映画「ひとり狼」は、村上元三の原作を池広一夫監督、市川雷蔵主演で映画化した、正統派股旅映画の佳作だ。 博奕も剣の腕も凄い、人斬り伊三蔵(市川雷蔵)は、行き倒れの博徒の子として生まれ、拾われた武家の家でその娘と恋に落ち、ついに女に裏切られ、婿である武士を傷つけ、凶状持ちとして逐電し、ヤクザになったという暗い過去を持っている。 しかし、いったんヤクザに身を落とした彼は、全ての目的と欲望を捨て、義理人情というよりは、あらゆる様式にはめこんだ、非人間的な完璧なヤクザになりきろうとする。 風のように人を斬り、風のように去っていく人斬り伊三蔵の道中姿は、旅人の本質である虚無的な姿勢を、これまでになく美しく本格的に捉えていると思う。 加藤泰監督の「沓掛時次郎・遊侠一匹」や山下耕作監督の「関の弥太っぺ」が、同じ本格的なヤクザを描きながら、彼の心の底に眠る静かな情感を、ロマンチシズムの中で、巧みに描き出したのとは違い、この「ひとり狼」は、あくまでも非情に硬質に主人公を流れさせる。 それは後に登場する「木枯し紋次郎」の世界に似て、冷たく研ぎ澄まされた、テロリスト的なアウトローの孤独な姿を描いている。 既成のあらゆるものを信じなくなった一人の男が、儀礼的な儀式のみにすがることによって、自己を守っていく姿は、混乱した状況の中における一つの生き方なのかもしれない。 情も捨て、信奉も捨てて、流れることにのみ行動の意味を把握しようとする、永久流転の”ひとり狼”は、かつてのビートとかヒッピーとか言われたような時代風俗者たちとは違い、永久に自己を大切にしようとする楽天主義者なのかもしれない。 だが、これが時代劇映画、しかも股旅ものとなると、東洋的無常感が介入して、先覚的な行為者の姿に見えてくるのは、それが虚構の世界であるだけの理由だろうか。 いずれにせよ、この映画は過去の「沓掛時次郎・遊侠一匹」や「関の弥太っぺ」のように、情感に潜り込もうとすることなく、一見つかみどころのない混乱した状況を、冷たく様式化し、風景にのみ生きようとする直線的な行為者を描いたことによって、股旅ものの傑作になっていると思う。 そして、この人斬り伊三蔵に扮する市川雷蔵は、折り目正しい、端正な演技で、時代劇スターとしての貫禄を示し、下層アウトローの庶民的ニヒリズムを見事に演じ、晩年の代表作になったと思う。
やさぐれ刑事(デカ)
この藤本義一原作、渡邊祐介監督、原田芳雄主演の「やさぐれ刑事」は、主人公の原田芳雄扮する刑事が、自分が狙っていた暴力団幹部に妻を寝取られ、コールガールに売りとばされて怒り狂い、警察官としての職務も規律もなげうって復讐の鬼と化してしまう。 そして、ダーティな追跡劇を、北海道から九州までと大がかりに繰り広げるさまを描いた、ハードボイルド刑事アクション映画なのです。 藤本義一の原作小説のハードボイルド色を極力抑えて、活劇としての面白みを強調していると思う。 職務に忠実なあまり、家庭からはみ出し、さらに、妻を奪われてからというもの警察機構からもはみ出した”男の屈折したエネルギー”を、原田芳雄が実に好演して見せているが、映画としてはリアリティの欠如が目立ち、いささか説得力が乏しかったような気がする。 しかし、日本の伝統である任侠映画のパターンに、アメリカ映画の「ダーティハリー」シリーズに代表される豪快なアクションを織り混ぜて、それまでの刑事ものとは一味違った、”アクション娯楽活劇”に仕上げた渡邊祐介監督の演出の手腕は、なかなか冴えていたと思う。
華麗なる賭け
この映画「華麗なる賭け」は、スティーヴ・マックィーンがそれまでのイメージを変え、フェイ・ダナウェイ扮する保険調査員とのギリギリの知恵比べと愛を展開する、粋でお洒落でスタイリッシュな犯罪映画の傑作だと思います。 この映画「華麗なる賭け」は、アクション・スターとして活躍していたスティーヴ・マックィーンが、それまでとうって変わって"退屈しのぎ"に泥棒を楽しむという、優雅でエレガントな頭脳犯を演じて、公開当時、話題になった作品です。 主演のスティーヴ・マックィーンは、汗と泥の土臭い匂いが似合っていたウエスタン・ルックから、オーデコロンと胸元のハンカチが似合う、東部の知的なセレブへと大胆なイメージチェンジを図って勝負に出た作品とも言えます。 監督は、「シンシナティ・キッド」でマックィーンと組み、「アメリカ上陸作戦」「夜の大捜査線」と、立て続けにヒット作を飛ばした、当時、絶好調だったノーマン・ジュイソン。 そして、編集に、後に「帰郷」「チャンス」という名作を監督する事になるハル・アシュビーが参加しています。 マックィーン扮するトーマス・クラウンという男は、独身の大金持ちの紳士。大邸宅に住みポロを楽しみ、チェスで頭を休め、サンドバギーでリフレッシュするというセレブ。 それでもまだ退屈なので、トーマス・クラウンは遂に、銀行強盗の完全犯罪を目論みます。 後に、フェイ・ダナウェイ扮する保険会社の秘密調査員が、「なぜ強盗なんか計画したの?」と聞くと、「金のためじゃない、自分で楽しむためさ」と答えますが、何とも非常にぜいたくな泥棒なのです。 この映画の原作は、ボストンに住む弁護士が書いたもので、1950年にボストンのブリンクス銀行から現金120万ドルが強奪され、犯人がいまだに不明という事件をヒントにしていて、この事件は後に、ウィリアム・フリードキン監督、ピーター・フォーク主演で映画化された「ブリンクス」の、あの強奪事件なのです。 ヒロイン役のフェイ・ダナウェイは当時、演劇界では名前は知られていたそうですが、映画界では新人同様でしたが、それでもマックィーンとチェスを楽しむうちに、お互いにその気になり勝負そっちのけで抱き合うシーンでは、その後の彼女の魅力の片鱗が垣間見られたように思います。 そして、映画の画面は、TVドラマの金字塔的作品の「24」シリーズで多用された、"マルチ・スクリーン"をふんだんに使っていて、溢れる程の過剰な映像表現は、まさに"華麗なる"にふさわしい映像の魅力を発散させています。 音楽を「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」などの小粋で、洒落た感覚の映画音楽を数多く書いてきたミシェル・ルグランが、この映画でも映画音楽の永遠の名曲でもある「風のささやき」という素敵なテーマ曲を作曲していて、我々映画音楽ファンを楽しませてくれます。 この映画は公開当時、評価としては芳しくなかったようですが、興業的には大ヒットを飛ばし、マックィーンはこの利益を、自身の映画プロダクションに注ぎ込んで、次にあのアメリカ映画のアクション映画の歴史を大きく変革させた「ブリット」に主演する事になるのです。 なお、この映画は1968年度の第41回アカデミー賞で、テーマ曲の「風のささやき」が最優秀歌曲賞を受賞し、同年のゴールデン・グローブ賞でも最優秀歌曲賞を受賞していますね。
初恋のきた道
この映画「初恋のきた道」は、世界的名匠チャン・イーモウ監督が描いた、清冽で瑞々しく繊細なタッチの映画史に残る永遠の名作だと思います。 この映画「初恋のきた道」は、中国を代表する世界的な名匠のチャン・イーモウ監督による"しあわせ三部作"の1作目の「あの子を探して」に続く2作目の作品(3作目は「至福のとき」)で、一本の道を通して生まれた"清冽で瑞々しく繊細なタッチ"の映画史に残る初恋の物語です。 物語は父親の葬儀のために故郷の村に帰郷した息子が、その村で長く語り草になっている両親のなれそめを回想するというノスタルジックな展開で描かれていきます。 この映画の中国語の原題は「我的父親母親」で、"私のお父さん、お母さん"という事で主人公の息子の視点からの題名で、日本語題名の「初恋のきた道」は、ヒロインの少女チャオディの視点からの題名になっていて、英語の題名が「The Road Home」という事で、それぞれに味わい深い題名になっていますが、個人的にはやはり「初恋のきた道」が一番好きな題名ですね。 山あいの小さな村へ町からやって来た新任の若い小学校の教師チャンユーと、彼に恋する思いを伝えようとする少女チャオディ。 新校舎の建設現場に、手作りの弁当を運ぶ事で、彼女はその思いを伝えようとします。 そして、次第に彼等は言葉を交わし、心を通わせていきますが、"文化大革命"という大きな時代のうねりの中、彼は政治的な理由で町へ強制連行されます。 この突然の予期せぬ別離によって少女チャオディは、悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れながらも、ただひたすら町へと続く一本道で来る日も来る日も恋する人を待ち続けます。 この若き日の母親役としてチャン・イーモウ監督に抜擢されたのが、この映画がデビュー作となる新星、チャン・ツィイーで純粋無垢で可憐な少女チャオディを鮮烈に演じていて、この映画の魅力の大半は彼女の存在抜きには考えられません。 チャン・ツィイーは、この映画の翌年の「グリーン・デスティニー」(アン・リー監督)で世界的にブレークし、2003年のチャン・イーモウ監督の「HERO(英雄)」でも華麗で鮮やかな演技を披露しています。 チャン・イーモウ監督にとっては、"第二のコン・リー"とでも言うべき存在の女優になっていきます。 チャン・イーモウ監督も、彼女をいかに可憐で魅力的に描こうかと強く意識していて、映画の大部分は彼女のクローズアップで構成され、その瑞々しくもチャーミングな存在感は、映画全体を爽やかに明るく躍動させていると思います。 我々、映画を観る者は彼女が微笑むと、一緒になって微笑み、彼女が涙を流すと、一緒になって涙を流すという、久しく忘れかけていた感情を呼び覚ましてくれます。 彼女はそんな我々映画ファンの心の琴線を震わせるヒロイン像なんですね。 そして、現在のシーンをモノクロで撮影し、過去をカラーで撮影するという映像の手法が、初恋の思い出をより美しくきらめかせ、ロマンティックな効果を与えているように思います。 過ぎ去りし日を描く、カラー撮影の言葉では到底言い表わせないような美しさは、初恋の瞬間のときめき、きらめきを鮮やかに表現していて、ため息がもれる程の映画的な陶酔の世界を味わえます。 誰にとっても思い出とは、いつまでも永遠に美しいままで記憶されるもの、そんなチャン・イーモウ監督の優しい思いが伝わるようで、麗しき映像は郷愁さえも呼び覚ましてくれます。 そして、更には中国の何千年と続く悠久の大地、黄金色の麦畑、純白の雪原を鮮やかにとらえた映像が叙情性を高めてくれます。 正しく、息をのむようなシーンの連続です。 父母への追慕の気持ちは、息子である主人公の人生にも深みをもたらし、父の棺を担いで帰りたいと強情を張る老いた母と、父が去った学校を健気に守り続けた若き日の母が二重に重なった時、"過去と現在が一本の道で繋がり"、感動が一気に頂点に達します。 初恋の延長の上にある、母であるヒロインの長い人生を目のあたりにして、主人公の息子も我々映画を観る者も、一途に人を思う気持ちというものが、信じられないような"力"を生む事を知り、つらく厳しい事も多かっただろうが、それはそれで幸せな人生だったのだろうと心の底から強く感じます。 映画を観終えて思うのは、この映画のようにシンプルな物語からは、純粋な愛の力強さがくっきりと鮮やかに浮き上がってきます。 心が荒みかけているこの時代に、忘れかけていた素直な感動を与えてくれる"愛の賛歌"とも言えるこの「初恋のきた道」をこれからも、心の宝石とすべく、何度も繰り返し観たいと思っています。
龍の忍者
この「龍の忍者」は、東映が協力した香港カンフー・アクション映画で、まず東映スタイルの忍者群の活躍場面が紹介されてから、舞台は中国へ。 隠棲する元伊賀流の忍者・田中浩を慕う、若者コナン・リーが、ユーモラスにカンフーの腕前を発揮するが、田中を父の仇と思い、日本から探しに来た真田広之が現われ、若い二人の対決となり、これに真田の恋人・津島要がちらりと絡む。 監督はユアン・ケイという人物だが、展開のテンポの速さや、場面処理の歯切れの良さは、従来の香港映画とはだいぶ違う。 東映側が相当、手伝っているのがうかがわれる。 真田が田中を襲う場面など、とても香港映画とは思えないタッチだ。 だが、お話そのものは散漫で、なんだかはっきりしないところもあるが、やがて、田中は自分が父の仇ではないことを真田にわからせ、リーと仲良くするように言い残して自殺する。 その光景を見て、真田が田中を殺したものと勘違いしたリーは、真田に決闘を挑み、五重塔のてっぺんで丁々発止と渡り合う。 ここは香港映画らしい、延々と続く、いつもの長丁場だが、さんざん闘ったあげく、二人が和解したところへ、邪教を操る男の一味が現われ、インスタントの祭壇を組み立て、二人に挑戦する。 ブルース・リー(李小龍)の凄味のあるアクションから、ジャッキー・チェン(成龍)のユーモラスなアクションへと、この映画の製作当時、カンフー映画の流れは移っていて、この映画もユーモラスな趣向が主体で、中国の妖術が、日本の刀には通じない、というお笑いもある。 この敵の親玉がやたらと強く、さすがの二人もたじたじになるが、いくら強くても、久米の仙人みたいにお色気には弱いと知り、津島要のお色気攻撃で、骨抜きになったところを、KOするというのがオチになっている。 それにしても、若き日の真田広之の、JACで鍛えた、キレキレのカンフー・アクションは、今観ても凄いの一言に尽きる程、素晴らしい。
ザ・ヤクザ
外国の監督が、日本を舞台にした映画を撮ってもめったに成功しないものだ。 必ず風俗的にチグハグで、ヘンテコなところが出てくるからだ。 だが、この映画「ザ・ヤクザ」は、稀に見る成功作だと言ってもいいと思う。 何しろ監督が「ひとりぼっちの青春」や「追憶」などのシドニー・ポラックだということと、ヤクザ映画(任侠映画)の本家・東映の全面的な協力のおかげで、おかしな失敗をしないですんだと思う。 アメリカで私立探偵をしていたハリー(ロバート・ミッチャム)が、友人のタナー(ブライアン・キース)から、ヤクザの東野(岡田英次)に誘拐された娘を取り戻してくれと頼まれて来日し、終戦の頃に愛し合った英子(岸恵子)と再会する。 彼女の兄だという健(高倉健)は、ヤクザの足を洗い、京都で剣道の師範をしているが、昔、英子がハリーに救われた"義理"を返すために協力を約束する。 ハリーと健は、タナーがつけてよこした若い用心棒のダスティ(リチャード・ジョーダン)も加えて行動を起こし、タナーの娘の奪還に成功する。 その結果、健もハリーも東野一味から狙われることになり、健の兄で全国ヤクザの長老格の五郎(ジェームズ繁田)を苦しい立場に立たせることになる。 シドニー・ポラック監督は、古めかしいフジヤマ・ゲイシャ的なイメージにこだわらず、1970年代当時の日本の自然な風俗の中で、物語を進めていて、安直なアクション映画のタッチではなく、腰を据えたドラマの味を出していると思う。 京都の大学の講師だった五年間に、ヤクザ映画の熱狂的なファンになったというポール・シュレーダーの原作もなかなかうまく出来ており、タナーが東野に密売する銃器の前払金を使い込んで、銃器を渡せなくなったため、娘を誘拐されたことがわかってから、場面は急テンポで緊迫の度を増していく。 そして、東野に脅かされたタナーが、ハリーの暗殺を企てたりしたあげく、ハリーが健と二人で、東野の邸へなぐり込みをかけるクライマックスへと至る。 健さんは日本刀、ミッチャムはショットガンと拳銃で暴れるこの修羅場は、カメラ・アングルにも工夫を凝らした、見応えのある一幕で、岡崎宏三の撮影が光っている。 健はこの乱戦で、東野の子分だった五郎の息子を殺す羽目になったため、指を詰める。 そして、健が実は英子の兄ではなく夫なのに、恩義のために自分たちの関係を隠していたという事情を知ったハリーも、侘びのしるしに指を詰めて健に送る。 "義理"というものが、本家の東映の映画より、合理的によくわかるのが面白い。 健さんも、ミッチャムも好演で、真の友情が生まれる経過がよく出ており、英語と日本語のまぜかたも上手くいっている。 そして、岸恵子もこの二人のバランスに相応しい配役だったと思う。
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