第三の男
この映画「第三の男」は、第二次世界大戦が終わったばかりの、ウィーンを舞台に繰り広げられるサスペンス映画の傑作だと思います。 アントン・カラスのテーマ曲の響き、モノクロ撮影の美しさ、名優オーソン・ウェルズの存在感、映画史に残る名セリフと名シーンなど、多くの魅力を持った作品だと思います。 この映画で特筆すべきは、その製作年代でしょう。 なんと第二次世界大戦が終わった4年後の1949年の製作です。 キャロル・リード監督は、第二次世界大戦直後のウィーンを舞台に、戦争の傷跡がそこここに残るウィーンの街で映画を撮影しています。 建物がいきなり砲弾の痕で崩壊していたり、壁に穴が開いていたりするのを見るだけで、もう歴史資料そのものです。 そういう意味では、この映画が持つ混沌とした感じは、一種のドキュメンタリーとしての要素を含んでいるように思います。 そんな戦後の混乱期を舞台に演じられる、闇物資を巡って起きる犯罪事件に巻き込まれた、アメリカ人作家に起こるスリルとサスペンスの物語です。 この映画の基調は、イギリス伝統の探偵小説が持つ味わいであり、それはヒッチコックのサスペンス映画と共通するものですね。 また、この映画は製作年代を反映してモノクロ映画となっていますが、その光と影の深い陰影を捉えたカメラがとても美しい。 そして、この黒白の対比は、物語の錯綜と謎の行方や、正義と悪など、劇としての要素を強く印象付ける、卓越した効果になっていると思います。 それが一番効果を上げているのが、人の影が建物に、怪物めいた巨大な姿となって現れるところでしょうか。 この年代は、モノクロ撮影の末期という事もあって、光と影だけで表現できる映像について、ある種、完成の域にあったのではないでしょうか。 そんな、モノクロ撮影のもつ潜在的な力を再発見させてくれる映画でも有りますね。 しかし、何より感銘を受けたのは、名優オーソン・ウェルズの悪役ハリー・ライムでした。 この金の亡者のような冷酷なアメリカ人を、なんとも魅力的に、愛らしく演じて、この作品の中では、決して多くない出演時間ながら、おいしいところを全て持っていきますね。 このカリスマ的なヒールであれば、アリダ・ヴァリ演じるヒロインでなくとも、夢中にならずにはいられないでしょう。 白黒の画面の中で、輝くような笑顔と、陰鬱な悪を使い分け、その落差の大きさが、単なる悪役にはとどまらない、人間としての業の深さを表しているようです。 これほど魅力的な悪役は、他にちょっと思いつかないほど、強い個性を持っていますね。 これはたぶん、キャロル・リード監督の演出の力もあるのでしょうが、多くをオーソン・ウェルズその人の魅力から、発せられているように思えます。 更に映画音楽史上、最も印象深い曲の一つとして上げられる、アントン・カラスのチターの演奏によるテーマ曲が、この映画のドラマに見事に共鳴して響きます。 このボヘミア調のメロディーが、戦後の無国籍の混沌とした世相の哀調を奏で、その軽快なテンポが、本来重苦しくなるはずのこの映画の陰惨な内容を、どこか軽快に中和し、エンターテインメントとして提供するのにちょうどいい味わいに変えているように思います。 そんなこの映画は「魅力的な悪役」「完璧なテーマ曲」「完成されたモノクロ映像」「歴史的ウィーン」など、見所がいっぱいなんですね。
さらば愛しき女よ
アメリカのハードボイルド小説が生んだ3大私立探偵といえば、ダシール・ハメットのサム・スペード、ロス・マクドナルドのリュー・アーチャー、そしてレイモンド・チャンドラーが創造したフィリップ・マーロウだ。 過去、ハンフリー・ボガートやエリオット・グールドなどが演じた、名探偵フィリップ・マーロウをこの映画「さらば愛しき女よ」では、ロバート・ミッチャムが、都会に疲れた男の哀しみを見事に滲ませて好演していると思う。 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説は、色々な監督と俳優で映画化されて来たが、この映画は1946年にハワード・ホークス監督、ハンフリー・ボガート主演で作られた「三つ数えろ」(大いなる眠り)以来の秀作だと思う。 この映画は、ロバート・ミッチャム扮する主人公の私立探偵フィリップ・マーロウが、ロスアンゼルスの街路を見渡せる、うらぶれた部屋から、警部補のナルティ(ジョン・アイアランド)に電話をかけ、事件の真相を話すところから始まる。 物語の舞台は、1941年のロスアンゼルスで、まずこの冒頭の場面のムードからして、映画的魅力に満ちて、素晴らしい。 監督は、第一線の写真家から映画に進出し、リアリズム西部劇の秀作「男の出発」で並々ならぬ才能を見せ、続く「ブルージーンズ・ジャーニー」も好調だったディック・リチャーズで、この映画が3作目となっている。 ある女の消息の調査を依頼されたマーロウは、わずかな手掛かりをもとに調査を進めていたが、彼の前で次々と殺人が発生し、重要参考人にされてしまう。 警察の追及と、暗殺者に狙われながら、マーロウは事件の核心に迫るのだが----------。 次から次へと起こる暴力沙汰を織り交ぜて、繰り広げられるこの物語は、このジャンルの定石と言っていいが、重要なのは物語の筋よりも演出のタッチだと思う。 いささか人生に疲れて、うらぶれた感じの主人公マーロウが、ロバート・ミッチャムの渋い好演で、よく生かされていることも成功の要因だと思う。 レイモンド・チャンドラーの小説におけるマーロウの心情には、日本的な"もののあわれ"に共通する何かがあると思っているが、それがこの作品に滲み出ているのも、実に素晴らしいと思う。 それと併せて、ディック・リチャーズ監督の簡潔で流れるような描写で、1940年代のやるせないムードを全編に漂わせる演出が実に見事で、ナチス・ドイツがソ連へ攻め込んだという切迫した時代なのに、人々はジョー・ディマジオの連続安打の話題などをしているということを織り込んだ、当時の時代色の醸成とが、実にいい味を生み出していると思う。 そして、何よりもこの映画を面白くさせているのは、マーロウもさることながら、怪力の巨漢ムースの存在だ。 恐怖という感情とはほとんど無縁でありながら、愛する女ベルマを思う純情ぶり、あたかもそれは、あのキングコングの恋の様に、コッケイにして崇高、美しくも哀しい。 結局、その恋人に裏切られ、銃弾をぶち込まれた彼が「どうして?」とつぶやいた様に、"人生への懐疑と絶望"が、この映画の底に重く淀み、単なる謎解きのミステリー映画に終わらせていないのだ。 マーロウ自身も、決して颯爽としている訳ではなく、貧乏で野球が好きで、仕事も何か仕方なくやっているという感じがとても面白い。 そんな虚しい探偵マーロウであるだけに、余計に、最後に見せる彼の人情味というものが、私の胸をグッと突き刺すのです。
ドラゴン・キングダム
我らがジャッキー・チェンとジェット・リーの2大カンフー・アクション・スターが、まさかの競演を果たしたという、それがロブ・ミンコフ監督の「ドラゴン・キングダム」だ。 この2人の競演を可能にしたのが、ハリウッド資本というのが不思議な縁のなせる業。 内容はへっぽこ異世界ファンタジー。 白人の気弱な少年の主人公が、カンフー映画を貸してくれる中華街の老人と関わっているうちに、異世界に迷い込み、現実世界に戻るため、ひょんなことから手にした如意棒を孫悟空に返さなくてはならないというものだ。 ジャッキとリーは、ファンタジーの世界において、少年と目的を同じくする旅の道連れとして登場する。 せっかく大スターが競演するのだから、白人の少年を真ん中に置いた生煮えファンタジーなどで少々がっかりするが、愛嬌のある童顔ながら、シリアスで悲壮感溢れるドラマがお似合いのリーと、テクニカルながらもコミカルな動きでユーモア感覚のあるジャッキーの、互いの持ち味が活きるような話というのもなかなか難しそうだ。 監督のロブ・ミンコフは、ディズニー出身で、「ライオン・キング」で知られ、「スチュワート・リトル」や「ホーンテッド・マンション」で実写映画に進出。 どうやらカンフー好きらしい。ファミリー・ピクチャーならそこそこ大丈夫そうだが、歴史的な作品を任せるのに適切かと問われたら、やっぱり不安が先に立ってしまう。 こういった、両雄並び立つタイプの作品で、この監督、しかもファンタジーなどというから、どうせろくなものは見られないという諦めをもって劇場に足を運んだが、期待値の低さゆえか、少なくとも作り手がジャッキーなり、リーなりに敬意を持って作っているということと、観客が観たいものをよく理解していること、それだけで好感を持ちましたね。 観客が観たいものといえば、もちろん、ジャキーとリーのカンフー対決だ。 この映画、2人が敵と味方に分かれるような脚本ではないが、ジャッキーの酔拳vsリーの少林寺、それぞれお得意のスタイルで激しいバトルを繰り広げるシーンが用意されている。 このシーンの演出も、短いショットを編集でつないで誤魔化す、いんちきアクションとは違う。 不満がないわけではないが、アメリカ映画としては頑張っていると思う。 因みに、この対決、最初の脚本にはなかったらしいのだ。 「せっかく2人が競演するというのに闘わないなんてのはダメだ」という監督の意向を受けて変更したらしい。 演出の腕前はともかく、観客の求めるものを理解した監督ですね。 だって、これがこの作品の最大唯一の見所ですからね。 もしこれがなければ、いったい何のための映画なのか、ということになってしまうところだった。
反逆のメロディー
この映画「反逆のメロディー」は、原田芳雄が体現した1970年代の無頼派の鮮烈な青春像を描いた作品だと思います。 この映画は、日活ニューアクション映画の決定打とも言うべき傑作中の傑作で、澤田幸弘監督の2作目の作品だ。 この物語の主人公は、ヤクザの元幹部でドロップアウトした哲(原田芳雄)。 長髪にサングラス、デニムのブルージーンズの上下。 くわえ煙草で胸を無雑作にはだけ、かっこ良くジープを乗り回す原田芳雄が、ぶっきら棒で凄みのあるセリフ回し、全身が尖った鋭いナイフのような、圧倒的な存在感で、当時の無頼な青春像を体現していて、実に素晴らしい。 また、悪徳刑事役の青木義朗もシブくて、えげつないキャラを実にうまく演じていると思う。 かつて原田芳雄が「まず組織をぶっ壊して、物語を始めようというアナーキーさ。それが1970年の荒ぶる時代の気分だった」と語っていたように、主人公がアンチ・ヒーローなのは、私の心の中にも、カッコいいことは絶対恥ずかしいという気持ちがあり、フィクションであるこの映画に、時代のドキュメンタリー性を感じ、大いに共感出来るのだ。 この映画は、青春時代の特徴である、"孤独と焦燥感"を抱えた若者たちの無軌道な行動、反権力的な気分の遊戯精神が叩き込まれた、"日活ニューアクション映画"の代表作であり、金字塔的な作品だと思う。 この映画は、渡世の義理、仁義、作法といった、それ以前のヤクザ映画に必要不可欠な要素を全て無視しながらも、完璧な娯楽映画として成立させていて、今この映画を観ることで、あの頃の時代の空気感、匂い、緊張と恐怖と、ある種の恍惚感を感じとることが出来る、そんな映画なのだ。
吶喊(とっかん)
この映画「吶喊」は、動乱の幕末を死と背中合わせの若者の心情を刻みながら、痛快に生きた姿をユーモラスに描き、戦争の愚劣さを風刺した、岡本喜八監督・脚本の才気あふれる青春時代劇の隠れた傑作だと思います。 千太(伊藤敏孝)は、貧乏百姓のせがれで単細胞。 万次郎(製作も兼ねた岡田裕介)は、目先のきく官軍の密偵見習い。 ともに狭い枠の中では、とうてい生きられない自由闊達な若者だ。 この二人が、みちのくで戊辰戦争に巻き込まれ、仙台藩の下級武士・十太夫(高橋悦司)が組織するカラス組なるゲリラ隊と共に官軍と戦う羽目になってしまう。 千太は、何のために人々が血を流し合うのかさっぱり解らないが、何かやっていれば、そのうちにいいことがあるだろうというヤジ馬型。 一方の万次郎は、事態を冷静に見極め、計算して行動する打算型。 この好対照の二人がだましたり、だまされたりしながら戦争そっちのけで、軍用金の強奪を企てることに--------。 無意味な戦争をあざ笑うかのように、奔放に生きた若者の姿が、戦中派の岡本喜八監督の軽快なテンポの演出と相まって、観ている私の胸に生き生きと迫ってくるんですね。 とりわけ、伊藤敏孝演じる千太のずっこけぶりがおかしく、悲しい。 この「吶喊」は、太平洋戦争に押しつぶされた一学徒兵の青春をシニカルに描いた「肉弾」の延長戦上にある作品ですが、戦争と青春を直視した「肉弾」とは手法を変え、同じモティーフを斜視しながら、戦中派の心情を吐露してみせるあたりは、さすが岡本喜八監督、心憎いばかりのテクニックを見せてくれます。 仲代達矢、高橋悦史、岸田森、田中邦衛、伊佐山ひろ子など脇役陣も豪華で、木村大作の撮影、佐藤勝の音楽も、実に素晴らしかったと思います。
華麗なるヒコーキ野郎
この映画「華麗なるヒコーキ野郎」は、ジョージ・ロイ・ヒル監督、ウィリアム・ゴールドマン脚本、ロバート・レッドフォード主演という「明日に向って撃て!」の黄金コンビによる、ノスタルジーに溢れた、ごきげんな作品ですね。 まず冒頭のユニバーサルのマークが、1970年代のものではなく、飛行機が地球を一周する、この映画の舞台背景となる1920年代当時のものなのが、実に凝っていると思います。 ピアノのソロが被さるオープニングは、第一次世界大戦の空軍のエースたちのモノクロ写真で、モロにジョージ・ロイ・ヒル監督の趣味の世界が出ていると思います。 もともと、朝鮮戦争で空軍のパイロットを務めていたというジョージ・ロイ・ヒル監督は、大の飛行機マニアで、多分、「スティング」でアカデミー作品賞と監督賞を獲得した後、次は何を撮りたいかと製作会社に聞かれて、すぐにこの映画の企画を提出したのかも知れません。 製作会社としても、当時、人気絶頂のロバート・レッドフォードが出演してくれれば、「スティング」の顔合わせの復活だし、即座にGOサインを出したに違いありません。 そして、脚本は「明日に向って撃て!」で、やはりロイ・ヒル&レッドフォードと組んだウィリアム・ゴールドマン。 当時のインタビューで、ゴールドマンは複葉機なんて好きでもなんでもなかったが、執拗にロイ・ヒルにくどかれて、執筆を行なったと言っています。 そして、レッドフォードも同じような趣旨の発言をしており、この作品でロイ・ヒルは、原案、製作、監督の三役を務め、何と彼の愛機二機を出演させているほどなのだ。 この映画の物語は、1926年のネブラスカで幕を開ける。 小川で釣りをしている少年の耳に飛び込んできたのは、飛行機のプロペラ音。 近くの草原へと走ると、そこに「グレート・ウォルド・ペッパー」と、描かれた複葉機が飛来する。 この機から降りてきたペッパーことレッドフォードは、ゴーグルをはずすと、満面の笑顔で、集まった人々を遊覧飛行へと案内する。 ここでは1926年という年の設定が、絶妙なのだと思います。 それは、かのリンドバーグが、ニューヨークとパリの間の単独無着陸大西洋横断をやってのけたのは1927年、この同じ年にアメリカでの"連邦航空法"も整備され、パイロットの資格や飛行機の対空性の基準が、厳しく審査されるようになったのだ。 つまり、この1926年というのは、飛行機が輸送手段として考えられる以前の、大空をただ単に駆け巡ることの出来た最後の年でもあるのだ。 映画の中で"連邦航空法"の施行を聞いたレッドフォードが、「俺は郵便配達じゃない。飛行機乗りなんだ」と呟くシーンがあり、泣かせてくれます。 こうして、映画の前半は、レッドフォード扮する旅回りのパイロットたちの大活躍を描いていくんですね。 走る車から飛行機へと梯子を伝ってよじ登る、飛んでいる飛行機の翼上を歩く、はては、飛行機から飛行機へと空中で乗り移るなどの荒業が続出し、飛行機マニアのロイ・ヒル監督は、ウィリアム・A・ウェルマン監督の第一回アカデミー作品賞受賞の「つばさ」以来、特撮を一切使わない"飛行機映画"が作りたかったらしく、どの場面も本当に飛行機を飛ばしているのだ。 翼から翼への空中での乗り移りは、さすがにレッドフォードがやっているとは思えないが、それでも直前の地上二、三千フィート地点で翼の上に立っているレッドフォードのショットがあるのは、驚きを通り越して、それだけで感動的でもある。 雲がないと高さが出ないため、雲待ちをしながらレッドフォードを翼の上に立たせたという逸話もあり、ロイ・ヒル監督の、このこだわり恐るべしですね。 そして、CG万能の時代を迎えた今、この映画は"永遠不滅の輝き"を放っていると思います。 撮影で死者が出なかったのが不思議なくらいだが、映画の後半でレッドフォードのペッパー機が墜落する場面は、飛行機スタントの神様フランク・トールマンが起こした本当の事故だということで、実際にトールマンは骨折しているらしい。 この危険な空中サーカスのやりすぎで、飛行機免許を取り上げられたペッパーが、偽名を使ってハリウッドに乗り込み、第一次世界大戦の空軍のエース(ボー・スヴェンソン)とともに、戦争映画の空中スタントを務めるラストは、まさに感動ものだ。 しかも、ペッパーの機は、どこまでも高く飛んで、雲の間に飛び込んで消えてしまうのだ。 ロイ・ヒル監督は、後にジョン・アーヴィングの「ガープの世界」を映画化した時、レスリング・マニアのガープの設定を、赤ちゃんの頃、母親に空へと放り上げられたことが忘れられない青年へと変更した、ロイ・ヒル監督らしい決着の付け方でもあるような気がします。 現実よりも、多分、空を飛んでいることの方が好きなロイ・ヒル監督。 この「華麗なるヒコーキ野郎」という映画は恐らく、ジョージ・ロイ・ヒル監督にこそふさわしい呼び名だと思います。
ダイ・ハード
ロサンゼルスのビジネスセンターに落成した巨大なビルが、テロリストに乗っ取られた。 彼らが狙うのは、6億ドルの巨額の債権。 外部と完全に遮断された、このビルの一室に、刑事が一人残っていた。 彼は、ロサンゼルスならぬ、ニューヨークの刑事。 たった一人の刑事と13人のテロリストの凄絶な戦い。 場所が閉ざされたビルの内部ということと、全てがコンピュータ仕掛けで、おいそれと動きがとれないスリル。 ブルース・ウィリス扮する刑事のアクションは、誠に凄絶で、我々観る者をグングン引き込んでいく。 このビルが日系資本のものであるという皮肉や、離婚を目の前にした、単身赴任の刑事という設定などが、いかにも現代的でリアリティーを感じさせる。 監督は「プレデター」のジョン・マクティアナン。 全てが解決したと思わせておいて、次から次へとショッキングなアクションのつるべ打ち。 かなり荒っぽい演出だが、存分に満腹感を味わわせてくれる。 外部から協力したロサンゼルス警察のサージェントが黒人で、ラストでがっちり握手するあたりも、観客層を意識した演出でニヤリとさせられる。
ダークマン
この映画「ダークマン」ほど、サム・ライミ監督のコミック・オタクぶりを発揮したものはないと思います。 全編がまさに良質で、破天荒な面白さに満ちあふれた"コミック・ブック"なんですね。 「超人ハルク」や「スワンプ・シング」そのままに、その設定を非常にうまく組み合わせて、更に魅力的な"ダーク・ヒーロー"の存在を描き出していると思います。 ガーゴイル像よろしく、ビルの屋上で地上を見下ろしながら悩む姿は、コミックのヒーローだけが許される特権だ。 そして、それだけでは終わらずに、一種のフランケンシュタインものとしてストーリーを練ったところに、サム・ライミ監督の手腕が光っている。 科学者でありながら、自らの境遇をどうにもできない苦悩。 感情が昂ぶると、アドレナリンを大量に分泌して、化け物と化してしまうことへの恐怖と苦悩。 そうした要素をあぶりだすことで、サム・ライミ監督は、実に魅力的なホラーのキャラクターを生み出すことに成功していると思います。 いかにも良心的な科学者ペイトンに、リーアム・ニーソンを起用したことも大成功で、観ている側はダークマンになる以前の彼の笑顔を知っているだけに、悲痛な思いを彼と共有できることになるのだ。 サム・ライミ監督の演出は、ここに来て早くも円熟の境地を見せており、画面をオーバーラップさせる、彼のお得意の手法はもとより、十八番のシェイキーカム撮影や、対象を歪ませる画面効果などを実にさりげなく使っており、とにかく全編が"コミック的映画手法"で貫かれているんですね。 更に今回は、バジェットでの制約が緩かったとみえて、後半にはヘリコプターを使ったアクションなどを盛り込み、かなり派手になっていて、そして、実にダイナミックなのだ。 ペイトンのラボにある人工皮膚再生装置のように、随所で見せるSFXもなかなか小技が効いていて、その使い方が実にうますぎる。 彼が撮った「死霊のはらわた」シリーズもそうだが、サム・ライミ監督は、SFXはただのツールにすぎないと考えているようで、決してそれに頼ったフレームを作らないのだ。 そして、ラストシーンで、振り返ったペイトンに被る「ダークマンと呼んでくれ」というセリフは、このヒーローの"深い哀しみと運命"を漂わせていて、見事なほどハマっていると思います。
悪は存在しない
このレビューにはネタバレが含まれています
炎上
本作品を池袋の名画座:文芸地下劇場で、観ております。 先ず、黛敏郎の仏教的の映画音楽が、大変印象に残りましたが、タイトル音楽は、キリスト教的です。 次に、市川崑監督の暗いトーンの演出が一貫していて、小説とは違いますが、映画史に残る傑作です。 次に、大映映画なので、製作費が掛かった映画のようですが、シュウ閣寺が炎上するシーンは、特撮が、程々で、ガッカリです。 他に、高林陽一監督の映画がありますが、比較すると、本作より小説に近い映画作品です。
マッドマックス:フュリオサ
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に登場した女戦士フュリオサの過去を描くスピンオフ作品。 「怒りのデス・ロード」で描かれなかった、フュリオサの出生からシタデルに入るまでの経緯、そして Immortan Joe に連れ去られるまでの物語が描かれています。 幼少期のフュリオサがかわいい。 大人になったフュリオサはアニャちゃんが演じますが、子役からアニャちゃんに代わる過程でAIを活用し、子役の顔にアニャちゃんをはめこんでいるそうです。 確かに、アニャちゃんぽいけど体が小さいなぁと思うシーンがありました。 怒りのデスロードの爽快なカーアクションシーンはそのままで、本作は車が空も飛ぶ。よく考え付くな〜と関心しつつすごく楽しめました。 新たな適役、ディメンタスの脳筋っぽいキャラクターも面白くて魅力的。映画館で楽しむべき映画。 帰宅してすぐ前作を視聴しました。
荒野の七人
エルマー・バーンスタインの軽快でダイナミックな心躍らせる、この「荒野の七人」のオープニングのテーマ曲は、「大いなる西部」「アラビアのロレンス」と並んで、"これから何かとてつもなく面白い事が始まるぞ"という予感を、いつ聴いても感じさせてくれます。 この映画「荒野の七人」は、黒澤明監督の「七人の侍」に惚れ込んだユル・ブリンナーが翻訳権を買い取り、「七人の侍」へのオマージュとリスペクトを捧げて、舞台をメキシコに設定して映画化した西部劇の痛快作です。 この映画のタイトルにきちんと、"東宝映画「七人の侍」より"と、クレジットされていて、本家の「七人の侍」のような重厚さこそありませんが、アクションの見せ場がふんだんに用意された、映画史に残る、上質の娯楽作品だと思います。 農民のために野盗の群れと戦う七人のガンマンには、まず、リーダー格のクリスに黒ずくめの服がピタッと決まって、リーダーの風格漂う精悍なユル・ブリンナー(「七人の侍」の志村喬の役)。クリスの片腕的存在の参謀役のビンに、ユル・ブリンナー以上のカリスマ的な存在感を示すスティーヴ・マックィーン(稲葉義男の役)。 無口なナイフ投げの名手ブリットに、粋でダンディーなジェームズ・コバーン(宮口精二の役)。 インテリくずれのニヒルなリーに、ロバート・ヴォーン(新しく作られた役)。 可愛い子供たちの身代わりになって、壮烈な戦死を遂げる、子供好きのメキシコ男ライリーに、チャールズ・ブロンソン(千秋実の役)。 金しか頭にない曲者ハリーに、ブラッド・デクスター(加東大介の役)。 そして、七人のうちで一番若い、血の気の多いチコに、ドイツ映画界から招かれたドイツのジェームズ・ディーンことホルスト・ブッフホルツ(三船敏郎と木村功を一緒にした役)。 マックィーンもコバーンもブロンソンも当時の映画界ではまだ新人で、この映画が彼らにとってブレークするきっかけとなった作品で、文字通りの出世作になったのです。 華麗で見事なショット・ガンさばきを見せるマックィーンと、セリフらしいセリフは一言もないナイフ使いのコバーンと、朴訥な中にも男の渋さと哀愁を感じさせたブロンソンは、特に我々映画ファンに強烈な印象を残してくれました。 監督は「OK牧場の決闘」「ゴーストタウンの決闘」など西部劇の痛快作を数多く手がけているジョン・スタージェス。 この監督はなぜか汽車の好きな監督で、自分の映画に必ずと言っていい程、汽車を登場させていますが、この映画にもSLを使っているシーンが出て来ます。 従来の西部劇がひとりの強いヒーローを主人公にしていたのに対して、この映画は七人の集団グループを主人公にしたところが新鮮で、その後の西部劇の映画史の流れの中で、新しいタイプを作ったと言えるかも知れません。 この映画は世界的にも大ヒットを記録し、以後、このシリーズは4作目まで作られる事になるのです。 当時としては珍しいメキシコ・ロケの作品で、メキシコの乾いた風景がこの映画の雰囲気に、実によくマッチしていたと思います。 仇役は名門アクターズ・スタジオ出身の名優イーライ・ウォラックとコバーンにナイフで殺される、西部劇ではお馴染みの名脇役ボブ・ウェルキが、憎々しげに悪役を楽しんで演じていたのが印象的でした。 これら七人のガンマンは、野盗との何度かの攻防の末、結局、生き残ったのは、三人のガンマンのみ-。 リーダーのクリスがラストで呟きます。 「勝ったのは俺たちじゃない。百姓だよ」と。
青春の門 自立篇
映画「青春の門 自立篇」は、五木寛之原作の大河小説の映画化で、浦山桐郎監督がかつて「キューポラのある街」で描いた人間のみじめさを、とことん追求して掘り起こす繊細なタッチの映像手法が生かされて、戦後の朝鮮動乱後の当時の世相・社会状況が生々しく再現されています。 昭和29年、故郷の福岡県の筑豊を捨てた主人公の伊吹信介(田中健)は早稲田大学に入学しますが、その時代は現在と違って生活に追われる貧しい学生たちが飢えと疲れで苛立っていました。 原作者の五木寛之や浦山桐郎監督が青春時代を過ごしたであろう、その当時のつらくて切ない心情が彼等の今や帰らぬ青春への郷愁として切々と描かれているような気がします。 浦山桐郎監督は"金持ちの飼い犬として仕える屈辱のアルバイト"、"わずかな金にしかならない売血"、"青春期の性に身もだえして歩き回った新宿の赤線地帯のざわめき"、"ヤクザがうろつく薄気味悪い青線地帯の裏通り"、"世捨て人でインテリ風の娼婦や底抜けに明るい娼婦たちの物憂いアンニュイな日々"、"そのインテリ娼婦とのふれあい"、"独特の雰囲気のある喫茶店風月堂の音楽とコーヒーの香りとそれと対照的な小便臭いドブ板沿いの屋台とそこでコップに溢れる梅割り焼酎"、"歌声喫茶でのロシア民謡の響き"------このような当時の世相を主人公・伊吹信介の生き様を通して、切なくも哀惜の念に溢れ、情念のこもった点景として映像化していきます。 我々観客がまるでその時代にタイムスリップして、同時代を生きているかのような錯覚を覚えるほどの生々しい臨場感で迫ってきます。 そしてこの映画で描かれた当時の状況が、それまでのエネルギーの主力であった石炭から経済的に安価な石油の時代へのエネルギーの転換期であったという時代背景を忘れてはいけないと思います。 安価な石油の大量輸入に支えられた、その後の高度成長期直前の戦後の世相を、浦山桐郎監督は自らが体験した時代を愛着と郷愁の念を込めた繊細なカメラワークで見事に描いていると思います。 出演者では織江を演じる大竹しのぶが、九州の女性の気の強さと優しさ、逞しさと明るさといった複雑でデリケートな役どころを健気に、尚且つ情熱的に演じていて惚れ惚れするような見事な演技です。 織江は信介にとって郷里の筑豊そのものの存在であるような気がします。 しかし信介の愛を求めて状況した織江は、大都会の冷酷な汚濁の中でもまれ、打ちひしがれていきます。東京のような大都会には、かつて住んでいた筑豊の炭鉱住宅のような連帯感や、人間らしいロマンは見出しようがなく、こんな状況の中での男女のもつれは切なくもやるせなくてたまりません。 新宿二丁目のローザと呼ばれる娼婦のカオルに扮した、いしだあゆみの切なくも哀しい女性の姿を、心の襞に染み込むような魂を揺さぶる演技が忘れられません。 クラシック音楽に過去の教養を垣間見せる彼女の夢と男の性の対象でしかない現実との大きな乖離が、"絶望的な倦怠となって不思議な魅力"を漂わせます。 そして、カオルは同じように戦争の影を引きづりながら生きているボクシング・コーチの石井(高橋悦史)の気持ちと同化して心中未遂を起こしますが、この二人の関係に描かれる、どうしようもなく救いのない人間の生きる苦しみ、悲しみが心に重く響いてきます。 その後、信介は大学の仲間たちと新しい演劇運動を目指して北海道へ旅立って行きますが、「相手から絶対に目を離すな」とボクシングで石井コーチに徹底的に鍛えられ、"目をつぶらない人生"の生き方を教えられた信介が、これからの青春をどのように生き抜いていくのかという含みをもたせて、映画は幕を閉じます。 そして原作はこの後、「放浪篇」、「堕落篇」------と書き続けられていきます。
いちご白書
この映画「いちご白書」は、1960年代後半の大学紛争を描く、我々映画ファンの間では、もはや伝説的な青春映画の傑作だ。 1970年度のカンヌ国際映画祭で、「M★A★S★H」と最後までグランプリを争い、残念ながら敗れたものの、審査員賞を受賞したことでも有名だ。 そして、このタイトルそのものに、青春のロマンを秘めたこの作品は、末永く語り継がれるべき作品でもあると思う。 1970年代というのは、学生運動もヤマを越えたとはいえ、安保がらみの大学立法粉砕闘争で、全国の大学が揺れに揺れていた時代だ。 そんな時代の状況の中で、当時の若者の圧倒的な支持を得た映画としても有名だ。 ボートが水面を滑るように進むシーンからこの映画は始まる。 そのボートのエイトの二番を漕ぐのが、主人公のサイモン(ブルース・デイヴィソン)。 彼は大学のボート部員、ノンポリ学生だ。 彼の大学はストライキ中だ。学校側が、近くの公園に予備将校訓練隊のビルを建てようとしたのが、事件の発端だった。 そして、これに社会不安や政治問題が絡んで、事態は一層、深刻になって来ていた。 サイモンはノンポリだから、ストライキのことは良くわからない。 それでも、友人から大学の本館は女子学生であふれていると聞いて、ノコノコと出かけていく。 そして、この大学構内で、彼は素敵な女の子を見つける。 彼女はリンダ(キム・ダービー)、女性解放委員だった。 ただでさえ、見るもの聞くもの新鮮で、好奇心をかきたてられていたサイモンは、リンダと知り合って、大学構内の闘争生活も更に楽しくなっていく。 どーも、ヘラヘラした闘争青年なのだが、誰でも初めはこんなものかも知れない。 リンダと二人、食料集めに行ったり、抜け出してボートの練習もしたり、ボート仲間を闘争に引っ張り込んだり------。 だが、激しい闘争の巻き添えをくらって、警察に逮捕されたあたりから、サイモンも少しずつ気付いて来る。「これは遊びじゃない」と------。 そして、リンダが彼のもとから去って行ってしまう。 理由は、彼が学生運動をゲームのように考えていると思ったからであり、リンダにはリンダで、ボーイフレンドがいたからでもあったのだ。 こうして、サイモンの心はしだいに追いつめられてくる。 リンダと一緒の楽しい生活はもうない。 しかし、闘争からは身を引けない何かが、心の中にある。 彼は"自分の青春を賭けるべきもの"を、知り始めていたのだ。 そして、サイモンは、"自分との対話"を始める------。 そんな時、反対派のボート部員に殴られて、彼は自分にとって必要なのは、"自分自身のために闘うこと"だと知る。 自分にとって出来ること、出来ないことをはっきり感じ、何をしなければならないかを理解したのだ。 そんなサイモンを待っていたかのように、リンダが彼のもとへ戻ってくる。 サイモンは、彼女と同じ目的に向かって最善の努力を尽くすことに、今まで感じられなかった愛の実感と、生き甲斐とを見つけだすのだ。 そして、二人は自分たちの正しいと信じたことをやり遂げようとする。 仲間たちと腕を組み、協力し、そして、大学側の不正が暴露されて、闘争はエスカレートしていく。 今、大学当局との緊張した状況の中で、同じ目的に向かう二人。 この時、初めて二人は、"真実の愛"を、語り合えたのかも知れない。 しかし、時の歯車は回っていき、この美しい二人にも容赦はなかった。 大学当局が遂に、学生たちの強制排除に踏み切ったのだ。 体育館に立て籠もったサイモンたちに、警官隊と州兵が襲いかかってくる。 催涙ガスが充満し、棍棒が振り下ろされた。 リンダが殴打され、顔が鮮血に染まっていく------。 それを見て、サイモンは初めて、自分から警官隊に飛びかかっていく。 サイモンは、自分の守らねばならぬものを知っていたのだ。 そして、それは、生命を捨てても守らなければならないものを------。 心にズシリと重たいものを残してくれる映画だ。
ある日どこかで
この映画「ある日どこかで」は、初恋にも似た瑞々しい恋の予感をうまくとらえ、恋の高ぶりを知った時の、胸が切なさで締め付けられんばかりの思い出を、えも言われぬ訝しさを、そっと心の奥底にしまい、いつまでも大切にしておきたい----と、ほろ苦くも切ない思いにさせてくれる、そんな素敵な映画なのです。 「カム・バック・トゥ・ミー」----、クリストファー・リーヴが劇作家としてデビューしたパータィの日、彼の許に知らない老婦人が訪れ、そう囁くのです。 それから8年後、リーヴは滞在したホテルの資料室にある、絶世の美女のポートレートに魅かれ、彼女のことを調べるのです。 そして、この美女は、70年前の大女優で、あの謎の老婦人がその女性だったことを知ったリーヴは、その時代へのタイムトラベルを試みるのです----。 この女優の正体を探るミステリアスな前半から、過去へと旅をし、湖畔で初めて、「あなたなのね」と呟く彼女との出会いに始まるラブロマンス。 一歩間違えれば、実に陳腐な三流のメロドラマになったところを、限りなき美しさに彩られた上質の名作に仕上がったのは、"時の流れ"というものが、そこに横たわっているからだろう。 このクリストファー・リーヴとジェーン・シーモアのロマンスは、時間という絶対に越えられないものによって阻まれてしまうのです。 その壁が越えられた時、この物語はノスタルジックな世界の中に"夢物語"として美化され、かつてのハリウッド黄金期の"甘美で華麗な世界"に足を踏み込んだような錯覚を覚えてしまうのだ。 それほどまでに、想い出にも似た、過去の風景はひたすら美しく、ジョン・バリーの音楽もひたすら甘く効果的だ。 壁のシーモアが微笑むポートレートは、まさに彼女がリーヴに愛を告白した、人生で最高に幸せな瞬間のもの。写真に封じ込まれた、その至福の時は永遠に続く一方、リーヴと時の流れに引き裂かれた彼女は、その生涯を60年後に会える彼のためにホテルの一室に封じ込めるのです----。 そして、待ちに待った再会の日、といってもリーヴは未だ彼女を知らない、切ない不幸な出会いの日、彼女は静かに息を引き取るのです。 とにかく、この映画で素晴らしいのは、ジェーン・シーモアの比べようもないほどの美しさ。 女優というものが、その生涯において、最も輝いていた時を、「ある日どこかで」の中で見せてくれています。 彼女の美しさこそが、この映画を名作の域にまで高めたのだし、我々観る者をこの世界に魅了してやまないだろうと思うのです。 上質のメロドラマと、タイムトラベルというSF的要素を巧みに織りまぜて、"ノスタルジックな感性溢れるファンタジー"に仕上げた、まさに名作だと思います。
大いなる決闘
この「大いなる決闘」は、ジョン・フォード監督の後継者として期待された、アンドリュー・V・マクラグレン監督が撮った西部劇で、本当に西部劇らしい味のある西部劇だ。 すでに西部開拓時代が終焉を迎えたアリゾナが舞台で、かつては鬼保安官として名を馳せたチャールトン・ヘストンも、今は歳をとり、引退を間近に控えて、娘と二人で静かに隠居生活を送ろうと考えていた。 そこへ、かつてヘストンが刑務所に送った、白人とインディアンのハーフのジェームズ・コバーンが脱獄し、重なる恨みをはらそうと復讐のために一味を引き連れて、近づいて来る。このコバーンの屈折したハーフの悪党ぶりは、凄みがあって実に素晴らしい。 奸智に長けたコバーンは、ヘストンの裏をかいて彼の娘バーバラ・ハーシーを誘拐して逃げてしまうのだ。 ヘストンは追手と共にコバーンを追跡する事になるが、その一行に娘の恋人で、見るからに頼りない青年のクリス・ミッチャも同行することになる。 その後、追手の一行はコバーンの策略で、ヘストンとクリスの二人だけで追跡を続けなければならなくなってしまう。これがコバーンの狙いで、岩山の中腹に陣取った彼は、ヘストンたちが双眼鏡でこちらを見ていると知ると、部下たちにバーバラを犯させる。 だが、頼りない青年と思われたクリスは意外にも、冷静沈着でヘストンが顔負けするするほどの勇気と機敏な行動を見せ始めるのだ。 そして、クライマックスは、いよいよ、ヘストンとコバーンという2大スターの対決となっていく。 このクライマックスの決闘シーンは、西部劇史上でも有数の見事なラストシーンになっていると思う。 自分に恨みを持つコバーンは、自分をあっさりとは殺さずに、ジワジワとなぶり殺しにするだろうから、そこにチャンスが生まれるというヘストンの読みがモノをいうラストでは、あちこちを撃ち抜かれて、崖から落ちて瀕死の状態になったヘストンのところへ、勝ち誇ったコバーンが降りて来て、とどめを刺そうと身をかがめたその瞬間、コバーンの背中からのショット-------。 コバーンの背中に、いきなり銃弾の穴があいてドサリと倒れると、その向こうに寝たままのヘストンが見え、その左手に拳銃が握られているという鮮烈なショット-------。 カメラの角度をうまく活用した、アンドリュー・V・マクラグレン監督の斬新な演出が楽しめましたね。
仁義
フルスピードで飛ばしてきた車が、西マルセイユ駅に着いたところから、この映画「仁義」は幕を開ける。 駅では、パリ行きの夜行列車が発車寸前。 車から降りた二人の男が、列車まで懸命に走る。 しかし、二人の姿が何となくぎこちない。 よく見るとお互い手錠で繋がれているのだ--------。 この映画「仁義」は、発端からこのような犯罪ムードとサスペンスを画面いっぱいに漂わせながら展開していく。 決して会ってはならない5人の男--------。 それが運命の糸に操られて、のっぴきならない対決へと追い込まれていく。 友情を縦糸に、裏切りを横糸に、意地と仁義の男の世界が、息もつかせぬサスペンスのうちに、織りなされるのです。 「いぬ」「サムライ」「影の軍隊」と、常に厳しい規律と仁義に生きる男たちの世界を描き続けてきた、フランス映画のフィルム・ノワールの鬼才ジャン=ピエール・メルヴィル監督が、オリジナル脚本を書き下ろした傑作だと思います。 外国映画にしては珍しい、日本映画のやくざものを思わせるような題名だが、原題は「赤い輪」で、一種の運命の輪とでも言うべきもので、日本流に言えば、生物が死んで生まれる過程を、永久に繰り返す意味の仏教の言葉「輪廻」にあたる概念を、メルヴィル監督は、きっと脳裡に描いていたに違いありません。 それはやはり、仏教で言う、生死と因果が限りなく続く意味の「流転」にも通じる思想で、この映画「仁義」の中でも、一つの輪のように動く5人の男の、避けようもない宿命を、人間模様として描き出したかったのではないかと思います。 そして、この映画のもう一つの大きな魅力は、豪華な俳優陣の競演ですね。 アラン・ドロン、イヴ・モンタンの二大スターが、初めて共演するというワクワクするような顔合わせに加え、「居酒屋」「サムライ」「Z」などの名優フランソワ・ペリエ、「大追跡」「大進撃」などのブールビル、それに「荒野の用心棒」「悪い奴ほど手が白い」などのイタリアの名優ジャン・マリア・ヴォロンテの三大俳優が出演と、とにかく映画ファンにとっては、たまらない豪華なキャスティングだ。 ジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画の特色は、常に"男の映画"であり、決して無駄口をたたかない"男たちの映画"であるということだ。 この口数の少ない男たちにとっては、当然、"行動"が大きな比重を占めることになる。 言葉のあいまいさを極力しりぞけて、ただひたすら正確な"行動の連鎖"の中に生きていく男たち--------。 それが、メルヴィル監督の一貫して追求している"男のイメージ"であり、同時に、それはメルヴィル監督の映画作家としての根本理念、いや心意気でもあると思います。 そして、「仁義」の男たちも、皆一様に口数が極端に少ない。 特に、アラン・ドロン演じるコレーとジャン・マリア・ヴォロンテ演じるボージェルは、寡黙、すばやく行動する、といった点で、極めて類似した性格を持っている。 意志が強く、いかなる場合でも感情を厳しく抑制し、黙々と行動する。 メルヴィル監督が描き続けてやまない、こういう"男のイメージ"には、アメリカのハードボイルドと日本的な意味での男らしさとの反映があると、私は確信的に思っています。 口数の少なさや、行動の迅速さなどで、ハードボイルド的人間と、日本の男らしい男とは共通性を持っているが、ハードボイルド的人間が、しばしば欲望全肯定的なのに対して、日本の男は、徹底して"ストイック"であるといった、本質的な違いがあると思います。 メルヴィル監督には、この二つの男の類型を総合して、彼自身の男のイメージを作り上げようとしているのだと思います。 彼がひたすら、ギャング映画に固執するのは、それが男の行動を純粋に追求し得る、最も適切なジャンルに他ならないからだ。 溢れるような言葉は、かえって人間の実態を捉えにくいものにするし、"寡黙と無表情"に貫かれた行動は、何よりも雄弁に、その人間の心情をそくそくと伝えてくるものなのだ。 「仁義」におけるアラン・ドロンとジャン・マリア・ボロンテの結びつきかたは、最も男らしい男の心情的連帯の典型なのだと思います。 この二人は、ただの一言も自分の気持ちを説明するような言葉はしゃべらないが、しかし、その結びつきの固さは、惚れ惚れするような見事さだ。 ボロンテが、刑事のブールビルが仕掛けた罠にかかったドロンを助けに駆けつけた時、ただ「逃げろ」とだけ言って、ドロンを逃がした後、刑事から「なぜ警察だと知らせなかった?」と問われて、「知らせたら、あいつは逃げずにお前を殺しただろう」と答える。 このボロンテの一言に、男を描いたこの映画の全てが凝縮されていると思います。 ドロンは、遂に自分の心情を説明するような言葉は、一言も語らず、ボロンテは、ブールビルの問に答えた一言だけ。 その一言に、ドロンとの固い結びつきと深い理解がひらめき、更には、敵であるブールビルへの思いやりが込められているのだ。 それから、この映画で印象的だったのは、イヴ・モンタンが、射撃に心を打ち込んで、アル中から立ち直り、男同士の心意気に命を捨てる、というシークエンスだ。 一つの技術が人生の"道"に繋がるという、日本的な発想を感じさせて、実に感慨深かったと思います。
オデッサ・ファイル
この映画「オデッサ・ファイル」の題名のオデッサとは、Organization der Ehemaligen SS-Angehorigenのイニシャルから1文字づつとった略語ですが、それはSS(ナチス親衛隊)の逃亡を図るための秘密組織で、その実情については多くの謎のベールに包まれていて、アウシュヴィッツのユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の実行者であるアイヒマンを追って、遂に南米アルゼンチンで捕らえたイスラエルのユダヤ人本部では、その組織について、「初めナチスの残党は、米軍発行の新聞紙"星条旗"の運搬トラックの運転手を買収し、アイヒマン以下をその荷の中に隠して検問所を突破し、40マイルごとに作られた秘密の連絡所でシリア人のパスポートを受け取ってスイスの国境を越え、ジュネーブを経てアルゼンチンへ亡命させた。 そして、この組織はあらゆる階層の人々によって忠実に支えられ、膨大な資金源などもその民族的背景の奥深くに隠されている」とその驚くべき事実を語っています。 原作はイギリスのジャーナリスト出身のフレデリック・フォーサイスで、彼はドゴールフランス大統領の暗殺未遂を描いた「ジャッカルの日」の世界的な大ベストセラーによって、一躍、ポリティカル・スリラー小説の第一人者となり、その後、立て続けに「オデッサ・ファイル」、「戦争の犬たち」を発表し、その地位を不動のものにしました。 当然の事ながら、これら3作の原作を読破した上で、この映画「「オデッサ・ファイル」をじっくりと楽しみながら鑑賞しました。 製作は「ジャッカルの日」の敏腕プロデューサーのジョン・ウルフ、監督は当時「ポセイドン・アドベンチャー」の大ヒットでそのキャリアの絶頂期を迎えていたロナルド・ニーム、脚色は「ジャッカルの日」、「ブラック・サンデー」などポリティカル・サスペンスを得意とするケネス・ロス、撮影は「寒い国から帰ったスパイ」の名手オズワルド・モリス、音楽は「エビータ」のアンドリュー・ロイド・ウェバーという一流の豪華なスタッフが集結していて、映画ファンとしてはもう観る前からワクワクしてきます。 この映画は"オデッサ"という恐るべき組織に単身挑む一人のルポライターのジョン・ヴォイト演じるペーター・ミラーが、その謎を追って展開するサスペンスフルなポリティカル・スリラーです。 映画は1963年11月下旬、みぞれ降りしきる西ドイツのハンブルクで、ミラーは、突然アメリカで起こったケネディ大統領暗殺のニュースを耳にします。 彼はその時、自家用車内にいて、たまたまその脇を1台の救急車がすり抜けていくのをルポライターとしての好奇心から尾行し、貧しい一人のユダヤ老人が自殺した事を知ります。 この老人は戦時中、アウシュビッツの強制収容所に入れられドイツ人から忍びがたい屈辱を与えられ、その事実を丹念に日記に残していて、その日記を読んだ事がミラーにオデッサ調査の気持ちを起こさせます。 オデッサという組織が、ただナチスの戦犯者を国外へ逃亡させるだけなら、それほど恐れる必要もありませんが、しかし、この組織が旧ナチス勢力による第三帝国の夢よもう一度とその復興を企てているところに戦慄すべき問題を孕んでいます。 現実問題として、フレデリック・フォーサイスが、この小説の執筆計画を発表したところ、おびただしい数の脅迫の手紙が届いたとの事で、今なお、ナチスの思想的な残党が世界の隅々に根強く息づいているのかと思うと底知れぬ恐怖を覚えます。 ユダヤ老人の日記には、収容所で悪魔のように冷酷無比の名優マクシミリアン・シェル演じるロシュマン大尉に関する内容が事細かに記されていて、ミラーはこの未知の男を探し出さずにはいられない"強い衝動"に襲われ、行動を開始しますが、すると彼は次々と不可解な事件に遭遇する事になります。 ある日突然、地下鉄のホームから誰かに突き落とされたり、三人組のイスラエルの諜報機関に拉致され、猛烈な特訓を強制されてSS機関へ送り込まれたり、彼と新星メアリー・タム演じる恋人ジギーとの会話が警察を通じてSS側に洩れたり、彼がSS機関の名簿である"オデッサ・ファイル"を盗み出そうとして、SS機関の人間と激しい死闘を強いられたりと----まさに次から次へと展開する息詰まるサスペンスの連続で映画的緊張感に酔いしれてしまいます。 ミラーは次第に抜き差しならぬ"戦慄と恐怖と陰謀"の大きな渦の中に巻き込まれていきますが、ミラーは直接には戦争を知らない世代で「居酒屋」のドイツの名女優でマクシミリアン・シェルの実姉でもあるマリア・シェル演じる母親から過去の"驚愕の事実"を聞かされます。 そして、映画のクライマックスとも言うべきラストシーンになります。 この"驚愕の事実"を知ったミラーは、どんな事があろうともロシュマン大尉を許す事が出来ず、遂にその姿なき宿敵ロシュマンとの対決の時が来ます。 「真夜中のカーボーイ」で夢と現実の中に彷徨う現代人の無力感・焦燥感を絶妙に演じたジョン・ヴォイトと冷徹水の如き尊大さでナチス復興の野望を打ち出してやまぬ男ロシュマンの粘着質の人間像を、凄みを効かせて演じたマクシミリアン・シェルの対決シーンは、新旧二大演技派俳優の火花を散らす演技合戦でもあり、本当に見応え十分でこの二人の壮絶な演技の背後から、新しい時代が必ずしも古い時代をそう易々と乗り越えてはいない事をある種の重量感をもって訴えかけてくる迫力を感じました。 ヨーロッパにとって、ナチスの不気味な残影はいつまでも人々の心の中に消える事なく残っていて、「マラソンマン」(ジョン・シュレシンジャー監督)、「ブラジルから来た少年」(フランクリン・J・シャフナー監督)などの映画でもこの事は繰り返し描かれ、あらたなるナチス的なものへの恐怖と憎悪の感情が悪夢として残っている事をこの「オデッサ・ファイル」もポリティカル・スリラーという形に仮託して、訴えかけて来ていると思います。
ジャッカルの日
サスペンス映画というのは、一難去ってまた一難で、主人公の運命はどうなるのかということに、観ている者をハラハラ、ドキドキさせる映画、それも単純なアクションものではなく、意表をつくアイディアと、ストーリーのうまさと、映画的なテクニックのあの手この手で、グイグイ引っ張っていく映画、そういうジャンルの娯楽映画として、ずば抜けて面白いのが、名匠フレッド・ジンネマン監督の「ジャッカルの日」だと思います。 何よりもまず、着想が実に凝っています。 サスペンス映画というのは、とかく現実にはあり得ないような話になりやすいものですが、これは、もしかしたら現実に本当にあったかもしれない話であり、世界の政治の動向にも関わりのある事件なのです。 すなわち、アルジェリアの独立をめぐるフランスの植民地の叛乱で、その時代のド・ゴール大統領の暗殺計画が次々に行なわれ、いずれも失敗に終わった時、表面には出なかったが、もう一つこういう事件もあったという形で、えらくまことしやかに物語が繰り広げられるのです。 実際に、ド・ゴール大統領の暗殺未遂事件は、1961年以降、5回も起こっているのです。 フランスがアルジェリア戦争の泥沼にはまって、戦争継続かアルジェリアの独立承認かの決断を迫られた時、戦争の継続を望むフランスの軍部は、軍の長老でフランス解放の英雄であるド・ゴール将軍を強引に大統領に担ぎ出したのです。 ところが、老獪なド・ゴールは、軍部に担がれていると見せかけておきながら、着々と手を打ってアルジェリアの独立を承認してしまったのです。 軍部の極右派は、地下にもぐってテロ活動を続け、繰り返し、彼らを裏切ったド・ゴールの暗殺を計画したのだった。 一方、ド・ゴールは、生粋の軍人として、暗殺なんか怖くないと、高い鼻を益々高くしながら、護衛を付けるのも迷惑がって、公式の式典などでは恐れることなく、堂々と公衆の前に現われたのだった。 だから、護衛役の警察当局も、テンテコ舞いさせられたに違いありません。 原作者のフレデリック・フォーサイスは、その頃、イギリスの新聞記者としてパリにあり、もっぱらド・ゴール大統領関係の取材をしていたというから、当時の警察の動きには詳しい訳です。 そして、この原作の小説と映画の強みは、どこまでが本当で、どこからが嘘か分からないくらい、実在の人物や実際の場所、実際の役所の機構などをうまく使って、一人の殺し屋を追う警察の動きを丹念に描いているところにあると思います。 そして、この警察の動きと、着々と計画を進める殺し屋ジャッカルの動きとが交互に描かれていって、警察と殺し屋の知恵比べがサスペンスを呼ぶという仕掛けになってくるのです。 極右派の地下組織O・A・Sに金で雇われる殺し屋を演じるのは、イギリスの舞台出身のエドワード・フォックス。 小柄だが、筋肉質の、見るからにすばしっこい印象をしています。 端麗な顔なのに、陰惨でニヒルなところがあるのは、この映画のためのメイク・アップや特に工夫した表情のせいなのかも知れません。 このジャッカルの役を、当時、イギリスの人気俳優のマイケル・ケインが熱望したとのことですが、フレッド・ジンネマン監督は、このジャッカルという人間は、既成のイメージが付いた俳優では駄目で、全く色の付いていない俳優にするべきだとの考えから、当時、ほとんど無名のエドワード・フォックスを抜擢したというエピソードが残っています。 この暗号名ジャッカルという殺し屋、依頼を受けると早速ロンドンで、暗殺のためのこまごました準備を始めます。 偽のパスポートを請求するために、全く他人の死んだ子供の名義を使います。 それも、一つの偽名が警察に分かった場合、直ちに別の国籍の、まるで人相も違う人間に成りすませるよう、変装用の髪の染料や色の付いたコンタクトレンズなどと一緒に、幾通りも用意するのです。 更に、パイプだけで組み立てることのできる狙撃銃を専門家に作ってもらうのです。 一方、ジャッカルにド・ゴール大統領の暗殺を依頼したO・A・Sは、その代金を支払うために地下組織にやたらと銀行強盗をやらせるのですが、警察ではなぜO・A・Sが急にそんなに躍起になっているのか、その理由を調べるために、イタリアに亡命しているO・A・Sの幹部の一人を、イタリアの街角で数人でぶん殴って、食糧輸送車に乗せてパリへ連れて来てしまいます。 これは明らかにイタリアの主権の侵害で、かつての日本における金大中事件と同じです。 金大中事件の場合は、犯人たちがこれ見よがしに金大中を自宅近辺で釈放して、日本政府のことなど眼中にないような態度に出たので国際問題化しましたが、この映画でみると、同じような事件で闇から闇に葬られているようなことも案外色々あるのかも知れないなと思わせられます。 そういうことも、この映画のサスペンスの重要な要素の一つになっているのだと思います。 O・A・S幹部を拷問して、その断片的な告白からフランス警察は、ド・ゴール大統領暗殺計画の一端をつかみます。 フランスというと日本では、非常に自由で文化的な国という印象が持たれていますが、なかなかどうして、相当な警察国家であり、警察はかなり乱暴なことをやってのけるのです。 この映画はそれをド・ゴール大統領の進歩的な政策を守るという、正しい目的のための手段として描いていますから、なんとなく当然のことのように観てしまいますが、こういうところも、ちゃんとフランスの政治体制の怖さを描いたものとして観るべきだと思います。 そうでないと、フランスの学生運動のことなども分からなくなってきます。 計画を察知した政府は閣議を開いて、最も優秀な刑事だというルベル警視に全権を任せて、捜査を始めさせます。 ところがO・A・Sもさるもの、女スパイを大臣級の人物の情婦にして、捜査状況の情報を盗ませるのです。 それで捜査の状況が次々にジャッカルに伝わり、ジャッカルは見破られた変装を次々に別の変装に取り替えながら、パリへと近づいていくのです。 その虚々実々の駆け引きは、映画的な緊張感を伴ったサスペンスに満ち溢れています。 この映画の面白さの一つに、ルベル警視を演じるミシェル・ロンスダールの配役の妙があると思います。 この人物、およそ風采のあがらない小太りの中年男で、これといった才気も機敏さも、逞しさも風格もないのに、なぜかフランス随一の名刑事なのだというのです。 いつも寝ぼけ眼で、大臣のお呼びだというのでエッチラオッチラ役所に駆けつけ、モソモソと部下の指揮を執り始めるといった具合なのです。 ところが、閣議から誰かが情報を洩らしているだろうと睨むと、容赦なく大臣たちの全部の電話を盗聴して、女スパイのハニートラップに引っかかった大臣をとっちめるのです。 なるほど、たいした切れ者なのです。 一方、ジャッカルは、パリに近づく途中、田舎町のホテルでデルフィーヌ・セイリグ演じる有閑マダムをたらし込んで、警察の捜査をかわすのです。 そして、最後の見せ場は、パリのシャンゼリゼから凱旋門前の広場で行われる、革命記念日の大パレードでの大捕物です。 遂に、ド・ゴール大統領を狙撃できる場所にまで達したジャッカルを、危機一髪でルベル警視が射殺するのですが、革命記念日の大パレードの実写の使い方が実にうまくて、まるでこの映画の撮影のために、何十万人のエキストラを縦横に使ったような、巧みな画面処理のうまさを見せつけてくれます。 こういうところは、さすが名匠フレッド・ジンネマン監督の演出の見事さが光ります。 かつて、フレッド・ジンネマン監督が、ゲーリー・クーパー主演の傑作西部劇「真昼の決闘」のような野心作を撮った時の激しさは、この作品にはありませんが、もっと悠々と愉しんで大向こうを唸らせる大作に仕上げていると思います。
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