死霊のはらわた
サム・ライミ監督のホラー映画は、ほぼ無条件に楽しめる。 笑えて、頭が切れて、遊びが多いからだ。 特に、この「死霊のはらわた」は、文句なしに楽しめる傑作だ。 話自体は、類型を出ない。森の小屋で週末を過ごそうとした五人の若者が、悪霊に取り憑かれ、恐怖の一夜を送るという展開は、チープなホラー映画の典型だ。 だが、当時22歳の青年だったサム・ライミ監督は、直球をストライクゾーンにズバリと投げ込んでくる。 しかも彼は、釣り球を使わない。 ストライク、ストライク、ストライクで三球三振。 そんな感じの描写がスピーディーに続くので、観ていて全く退屈しない。 大袈裟な流血の場面を前にしても、嫌な気分に陥ったり、気が沈んだりすることはない。 むしろ、けらけらと笑って、次の場面を待ち構える。 ただし、サム・ライミ監督は、ホラー映画の文法をしっかり押さえる。 前進移動と後退移動の着実な切り返し。 そして、あまりにも有名なシェイキー・カムを多用したPOV撮影。 霧や泥や雷の効果的な活用。死霊の正体を映し出さない節度。 かくて「死霊のはらわた」は、低予算ホラー映画のエポックメイキングな作品になったのだ。 製作費は三十七万五千ドル。これで興行収入が三千万ドル以上なのだから、サム・ライミ監督としては、してやったりだろう。 危機を次々と切り抜ける、主役のアッシュに扮したのは、自主映画時代からサム・ライミ監督の盟友だったブルース・キャンベル。 そして、映画ファンとしては、編集助手として親友のジョエル・コーエンの名前がクレジットされているのも、ニヤリとしてしまいますね。
パララックス・ビュー
この「大統領の陰謀」「ペリカン文書」を撮った、社会派のサスペンス映画を得意とするアラン・J・パクラ監督の「パララックス・ビュー」は、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件を思わせる、政治サスペンス映画の秀作だ。 「ダラスの熱い日」のような進歩派のメッセージ映画に終わらず、観ていてハラハラさせられる娯楽映画になっているのが面白い。 シアトルで、進歩派の上院議員が何者かに暗殺される。 事件は「狂人の単独犯」で処理されるが、その後も、事件の目撃者が、次々に不可解な死を遂げる。 女性ジャーナリスト(ポーラ・プレンティス)から、「あの事件は組織的な暗殺だった」と告げられた地方紙の記者(ウォーレン・ベイティ)は、はじめは信用しないが、彼女がその後、何者かに殺されるに至って、ブンヤ根性をかきたてられ、事件を再調査していく。 そして、進歩派の政治家ばかりを狙う、影の暗殺集団があることをつきとめる。 それは、プロの殺し屋の組織ではなく、進歩派にいじけた反発を抱く、プア・ホワイトたちを教育して、暗殺者に仕立てあげていく殺人教習所だった。 その組織の中核にまでウォーレン・ベイティが入り込んだ時、すでに影の手は彼自身にも及んでいた-------。 アメリカ進歩派のプア・ホワイトへの偏見。 それに対抗するプア・ホワイトの進歩派への、いじけたコンプレックス。 アメリカ社会のどうしようもない亀裂をうかがわせる。 製作者側は、もちろん主演のウォーレン・ベイティ、監督のアラン・J・パクラとも進歩派。 パクラ監督は、この後、ウォーターゲイト・スキャンダルを暴いた「大統領の陰謀」を監督することになる。 この映画は、間違いもなく、ジョン・F・ケネディ大統領を殺したのは、中西部のプア・ホワイト、それを操った保守反動どもだと言いたかったのだと思う。
小間使の日記
ルイス・ブニュエル監督の「小間使の日記」は、最もブニュエル監督らしく、また最も彼の作品と異なっているように思える。 淡々としたストーリーのなかに、彼独特のエロティシズムと死の匂いがある。 フランスのノルマンディー地方の、あるブルジョワ家庭の小間使・セレスティーヌに扮する、フランスを代表する名女優ジャンヌ・モローは、決して好感の持てない女を、怪しげなエロティシズムを漂わせつつ演じている。 一地方のブルジョワ家庭を、小間使の目を通して描いているのだが、そこには様々なアブノーマルな世界が展開していく。 冷感症でセックスを拒んでいる女主人。 彼女は、小間使のセレスティーヌが、香水をつけているだけでも、いらついて注意する。 そういった、普通の小間使ではない、世慣れた女をジャンヌ・モローは好演しているといっていい。 夫人からセックスを拒まれている、ミシェル・ピッコリ扮する夫のモンティユは、精力を持て余し、それを狩りに出る事で癒している。 当然のように、セレスティーヌにも言い寄るのだが、相手にされない。 モンティユの舅のラブールは、靴フェティシストで、セレスティーヌに自分のコレクションの靴を履かせたりして興奮するといった有様だ。 とにかく、変な人がいっぱいなのだが、これがブニュエル監督の手にかかると、実に芸術的でエロティシズムを感じさせるのだ。 この作品で重要なのは、セレスティーヌともう一人の、ジョルジュ・ジェレ扮する下男のジョゼフだろう。 二人ははじめから憎み合っているのだが、それはどこか近親憎悪に近い。 確かに二人とも、ただ従順に主人に仕えていないところは、よく似ている。 この映画で、一つだけ、セレスティーヌが女の意地を見せるシーンがある。 ジョゼフが、村の少女を強姦して殺害した時だ。 彼女は、自分の肉体をジョゼフに与えてまでも、彼から殺人の証拠を摑もうとする。 森の中で殺害された少女の足に、蝸牛が這うシーンには寒気がする。 痛々しく、鮮烈なシーンとして忘れられない。 しかし、そこには一つの、少女へのブニュエル監督のメタファーも感じられた。 どこかで人間を愛せないでいる人たち、セレスティーヌと、ジョゼフはまさにそんな人間だった。
鬼火
このフランス映画「鬼火」は、ルイ・マル監督、モーリス・ロネ主演にて、自殺を決意した男の、死に至るまでの二日間の行動を描いた、厭世感あふれる秀作だ。 アル中患者として療養所で暮らすアラン・ルロワ(モーリス・ロネ)は、かつて社交界の花形だったが、今は死にとり憑かれている。 その彼が、人生の最期を締めくくるためにパリの旧友を訪れる-------。 ひと言で言って、フランス映画というのは、非常に感覚的だ。 まず、感覚に訴えてくる。 自殺しようとする男の感覚が、思考よりも何よりも、最初に観る側に伝わってくるのだ。 死への傾斜、物憂い、痺れるような感覚と、それを通して見た世界の相、その頼りなさ、確かにつかめるもののない、何とも言えない不安-----それらが、頭で考えるより先に、いち早くこちらのものとなってくる。 いつの間にか、観客(私)は、死を前にした男の主体に加わって、その半分麻痺した感覚において世界を見、それと親しく接している。 この目で見る世界は、何かよそよそしく、物憂く、そして非情だ。 多くの人々と接しながら、却って孤独の淵へと沈み込んでいく気分が、世界との別れを、抵抗なく感じさせてしまう。 まさにこれは、別れの物語だ。 死に傾斜していく男が、そのどんよりとした意識の中で、この世界とそこに住む人々に別れを告げていく。 人びとは、それぞれに生きている。 しかし、男の目に、彼らの生は耐え難い不純さとして映るのだ。 女たちは彼に優しい。しかし、男は彼女らを恐れる。 女たちもまた、彼のもとを去って行ってしまう。 「あなたには野生はない。あなたにあるのは心よ」。 ソランジュの答えが、彼のもとを去ったすべての女たちの彼への答えであり、また、よそよそしかったこの世界のそれでもあった。 この時、彼はまさに別れを告げるのだ。最も"生きる"ために--------。
マックQ
この映画「マックQ」は、西部劇の大スター、ジョン・ウェインと西部劇の大御所ジョン・スタージェス監督が初めてコンビを組んだ爽快な刑事アクション映画。 この映画「マックQ」は、西部劇の大スターのジョン・ウェイン初の刑事役で、ウィンチェスター銃と馬を、特製ピストルと新型車に変えて大活躍する刑事アクションで、監督が、これまた、「OK牧場の決闘」や「荒野の七人」の西部劇映画の大御所ジョン・スタージェス監督で、意外な事に初めてコンビを組んだ作品です。 映画の舞台は大都市シアトル。中年の刑事ボイルが何者かに散弾銃で射殺されるという事件が起こります。 ボイルの友人の警部補ロン・マックQ(ジョン・ウェイン)は、激怒して自分の手で犯人を捕まえようと決心します。 このマックQを演じる、我らがジョン・ウェインは、黒のブレザーにポロシャツというラフな姿が結構さまになっていて、動きにやはり、敏捷性を欠くのが唯一の弱点ですが、しかし、そんな事はどうでもいいというばかりの貫禄、これは大したものです。 波止場を逃走する殺し屋を、ジャンパー・スタイルのマックQが背後から狙い撃ちして、一発で仕留める場面など、ジョン・ウェインがやるとさまになるし、やはり非常にカッコいいですね。 とにかく、西部男だろうと、刑事だろうと、そんな事には一切お構いなしに、あくまでもジョン・ウェインの持ち味をひたすら貫いているところに、感動すら覚えてしまいます。 そして、麻薬王のサンチャゴという男に目星をつけたマックQは、レストランのトイレの中で彼をこてんぱんに痛めつけて半殺しの目にあわせます。 この事が上司に知れて、マックQはこの事件から手を引けと命じられたため、彼は警官バッジや拳銃を上司に返して一介の市民となり、私立探偵の肩書を得て単独で捜査を続行する事になります。 意外な人物が犯人だったという事になるのですが、とにかく、警察、麻薬ギャング、犯人一味、それにマックQが入り乱れて繰り広げる、相当入り組んだ複雑な筋立てを、さすが百戦錬磨のジョン・スタージェス監督は、手際よく、うまく演出していると思います。 考えてみれば、ふつう、このようなアクション映画は、展開にスピード感を強調して演出するのが定石なのですが、ジョン・スタージェス監督の演出は、逆にゆうゆうたる描き方で、おおらかな雰囲気の楽しさを盛り上げてくれます。 しかし、そうは言っても、スタージェス監督はアクション映画としての面白さのツボも十分心得ているから、映画好きとしてはたまりません。 追いつ追われつのカー・アクション場面も、ダイナミックな迫力があるし、強奪した麻薬をクリーニング屋のトラックに積んで、ハイウェイを突っ走るギャングたち。 近道をぶっ飛ばして彼らを追走するマックQ。 そして、この映画の最大の見せ場とも言える、ラストの海辺における銃撃戦。 2台の車に分乗したサンチャゴと武装した手下どもは、マックQをどこまでも追跡します。 この3台の車がしぶきをあげて海辺を疾走する光景は、映像的に観てもなかなかスリリングで迫力があるし、何よりも非常に美しいのです。 やがてボストン・バッグから高性能マシンガン、イングラムを取り出したマックQは、車もろとも手下どもをやっつけ、最後は、サンチャゴの胸に銃弾をぶち込むのですが、このクライマックス・シーンは、格調高いタッチで西部劇的な爽快感、カタルシスを表現したところは、やはりジョン・スタージェス監督とジョン・ウェイン主演だからこそ成し得たのだと思います。
ヒンデンブルグ
この映画の題名にもなっている「ヒンデンブルグ」とは、飛行船の名前で、もともとはドイツ・ワイマール共和国の大統領の名前で、彼の名にちなんで命名されたものだ。 このヒンデンブルグ号は、第二次世界大戦の直前にナチス・ドイツがその国力を全世界に対して誇示するために作った飛行船なのだが、1937年5月、ドイツのフランクフルトからアメリカのニュージャージー州レークハーストに着陸寸前のヒンデンブルグ号が大爆発し、炎上した事件は、謎の大惨事として、全く原因がわからないまま今日に至っている。 そして、この歴史的な大事件をマイケル・ムーニーが一冊の本にまとめ、「ウエスト・サイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」等のミュージカル映画の傑作や、その一方で「私は死にたくない」や「砲艦サンパブロ」等の社会派ドラマも数多く撮っているロバート・ワイズ監督が映画化したのが、この映画「ヒンデンブルグ」だ。 この大事故は多くの謎に包まれていただけに、空想をはたらかせる余地があるわけで、この映画では反ナチの若い乗務員の犯行という仮説を立てて、物語を構築している。 主演は「パットン大戦車軍団」のジョージ・C・スコット、「奇跡の人」のアン・バンクロフトで、当局の命令で警戒に当たるため、この飛行船に乗り込んだジョージ・C・スコットと、カメラマンというふれこみのゲシュタポのロイ・シネスの対立を軸として、盛り上げられていくサスペンスを、ヒンデンブルグ号の壮大な飛行場面に融合させたロバート・ワイズ監督の演出のうまさは、さすがだ。 ミニチュアと船体の部分的なセットと船内のセットをうまく織り交ぜて、巨大さをよく表現しているのも成功している。 銀灰色に輝く巨体が、ゆうゆうと雲間に消えていく光景は、SF的にロマンさえ感じさせてくれる。 そして、いよいよ事故が起きる寸前から、画面がそれまでのカラーから、さあっと白黒の画面になって、物凄い臨場感が生まれてくるのだ。 もともと、この爆発の模様をしっかりと撮った当時のニュース・フィルムが現存していて、それを実際に入れて再編集したわけだが、ここにロバート・ワイズ監督の大きな意図があったように思う。 あの白黒のニュース・フィルムを入れることによって、時間と空間を見事に合致させ、一つの核を作って、観ている者を、あの大爆発の現場に誘おうと、ロバート・ワイズ監督はしたのだと思う。 そして、彼の計算は見事に当たって、観ている者は目もくらむスペクタクルを目のあたりにすることが出来たのだ。 やはり、ロバート・ワイズ監督は、オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」の編集を手がけた人だけに、編集のテクニックは抜群なわけだ。 そして、映画全体を通してロバート・ワイズ監督が言いたかった事は、科学の急速な進歩で数多くのメカが作り出され、世界は繁栄しているけれど、その繁栄をまた破壊するのも全て人間の行なう事。 その"人間の業の哀しさ"が、ラストの大爆発のシーンに的確に表現されていたのではないかと思うのです。
ペーパー・ムーン
1970年代のアメリカ映画の映画史的な流れとして、過去を取り上げた、いわゆるノスタルジックな映画が流行しました。 過去を取り上げるだけなら、そんなに珍しい事ではありませんが、色彩から衣装、音楽の使い方に至るまで細心の神経と注意をはらい、ノスタルジックな郷愁をかきたて、気分を盛り上げていくような映画が数多く製作されました。 それは、一面では現実からの逃避という側面もありますが、良質の優れた映画には、過ぎ去ったものをもう一度見直そうとする真摯な精神が満ち溢れていたのではないかと思います。 映画批評家出身のピーター・ボグダノヴィッチ監督は、1968年の「殺人者はライフルを持っている!」で鮮烈なデビューを飾った後、1971年のノスタルジア映画の最高峰とも言われる名作の「ラスト・ショー」を撮り、まさに監督としての絶頂期の1973年にこの「ペーパー・ムーン」を撮りました。 その頃、フランシス・フォード・コッポラ監督、ウィリアム・フリードキン監督という当時の新進気鋭の監督たちと、「ディレクターズ・カンパニー」という独立した映画会社を設立し、その第1回作品としてこの「ペーパー・ムーン」が製作された事はあまりにも有名です。 特にピーター・ボグダノヴィッチ監督は過去へのノスタルジック物が大好きで、「ラスト・ショー」で1950年代を描いた後、今度は「ペーパー・ムーン」で1930年代を描きましたが、この映画は白黒スタンダード映画で男と少女という設定はチャップリンの名作「キッド」へのオマージュを捧げた映画になっているのは明らかです。 そして、映画批評家出身で映画オタクでもあるピーター・ボグダノヴィッチ監督が、"古き良き時代の映画よもう一度"という夢を託した映画でもあると思います。 だからといって、古色蒼然と撮っている訳ではなく、カメラ・ワークや編集の仕方は、いわゆる当時のアメリカン・ニューシネマ以後のアメリカ映画の新しさをもっていて、ピーター・ボグダノヴィッチ監督は、非常に斬新で凝った映像作りをしていると思います。 この映画は1930年代のアメリカの不況時代の中西部を舞台に、ライアン・オニール演じる詐欺師の男モーゼとテイタム・オニール演じるアディという少女の心の交流を描く映画で、映画の題名の"ペーパー・ムーン"というのは、当時の有名なヒット・ナンバーの題名となっています。 この映画の実質的な主人公は、母親が他界して孤児となった9歳の少女アディで母親の葬儀に突然現れた詐欺師のモーゼと一緒に、聖書を使って人の善意につけ込む怪しい商売をしながら旅を続ける事になるという、アメリカ映画お得意のロード・ムービーという形をとりながら描かれていきます。 そしてアディはモーゼよりも一枚も二枚も上手をいく天才的な悪知恵を働かせて、モーゼの窮地を救ったりというエピソードが描かれていきます。 当時は未曾有の大恐慌の時代で、子供にとってもサバイバルが大きな問題で、このような悪い時代を軽妙な詐欺で乗り切ろうとする、"シニカルでユーモアたっぷりな設定"が大変うまく生かされ、二人はいい加減な日々を逞しく生きながらも、やがて親子のような絆を作り上げていきます。 カーニバルのアトラクションとして展示されている"ペーパー・ムーン(紙でできた月の模型)でも、信じれば本物の月のように見えるように、いい加減な人生の中にもひとかけらの真実が宿るという事もあるんだよ"という事を映画の作り手たちは、我々観客の心に語りかけて来ているような気がします。 ピーダー・ボグダノヴィッチ監督が、映画の中で1930年代を再現しようとする凝り方は異常なくらい、凝りに凝っていて、映画のロケ地であるカンザス州の田舎町は、南部と中部を中心に8000キロのロケハンをしたあげくに探し出したところだと言われていますし、衣装についても、1930年代の映画でビング・クロスビー、ロバート・テーラー、ジェイムズ・キャグニーなどが着用した撮影用の服もそのまま再使用されたとの事です。 そして、クラシック・カーのラジオやホテルの古いラジオから流れてくるビング・クロスビーの歌やトミー・ドーシー楽団のスウィングなど1930年代のヒット・ミュージックが映画をノスタルジックに楽しく、ワクワクさせてくれます。 この映画の大成功の要因はやはり、撮影当時9歳だったテイタム・オニールのキャスティングにあり、一見すると少年のような容姿ですが、そんな彼女がモーゼが入れ込むグラマーな芸人に対して、ひとりの女としてライバル心を燃やすところの心理描写を実にうまく演じていて、まさに舌を巻く程という形容がぴったりとするくらいの天才的な演技力を示しています。 そして、テイタム・オニールはこの映画の演技で、1973年度第46回アカデミー賞で最優秀助演女優賞を受賞し、同年の第31回ゴールデン・グローブ賞で有望若手女優賞を受賞しています。 テイタム・オニールの9歳でのアカデミー賞の最優秀助演女優賞の受賞は、アカデミー史上最年少での受賞であり、それまでの「奇跡の人」でヘレン・ケラーを演じて16歳で同賞を受賞していたパティ・デュークの記録を破る画期的なものでした。
審判
この映画「審判」は、不条理な世界を描き続けたフランツ・カフカの同名小説の初めての映画化で、「市民ケーン」のオーソン・ウェルズが監督としてメガホン取っています。 ある朝、突然、何の理由も説明されないまま、当局によって"有罪"を宣告された、銀行の副部長ヨーゼフ・K(アンソニー・パーキンス)。 だが検察官も刑事も彼の罪状を知らず、身柄を拘束する必要もないと言い放ちます。自由の身のまま、一挙手一投足を監視され、次第に疲弊していくヨーゼフ・K。 そして、呼び出された法廷は大群衆がひしめき合う廃墟となった劇場で、とても裁判官とは思えぬ下品な司直が無意味なおしゃべりをするばかり。 ヨーゼフ・Kが雇った弁護士の仕事は一向に進展せず、いつまで待っても無罪を勝ち取れません。そのため彼は、裁判の全貌を知ろうとあがきますが、その機構も、審理の過程も、罪状さえもわからないまま追い詰められていきます。 更に、伯父の勧めでとある高名な弁護士を訪ねたKは、それから現実なのか空想なのかわからない奇妙な人間たちの間を往復した揚げ句に--------。 この映画を観ていると、巨大な社会の中の一個人の運命が、何か目には見えない、遥か天空の全く無縁の場所で左右されていて、本人の意志などまるで無意味なんだと思い知らされるような気がします。 そこで犠牲者たるべきKが、共感を呼ぶ存在かというと、そうて゛もないというところが面白いのです。 逮捕される前、彼は銀行の副部長の地位に安住し、自分が拘束されているとは考えもせず、優秀な男だと自惚れていたのです。 そして、逮捕後は、裁判からも自分を縛ろうとする弁護士からも解放されたいと願うくせに、会社の歯車のひとつである事には、やっぱり抵抗を感じていないのです。 この愚かしいまでの"無感覚"に、同情は不要だと思いますが、Kの犯した罪がまさにそれだ、という解釈も出来るような気がします。 つまり、自分が"自由な一個人"だと呑気に思い込んだ罪なのです。 とにかく、この映画を観ている間中、何もかもが歪んだ世界で、主人公のヨーゼフ・Kが、まさに小突き回される姿には戦慄を覚えずにはいられませんでした。
戦略大作戦
この映画「戦略大作戦」は、戦争アクションに、金の延べ棒奪取作戦をプラスしたところが新味の、戦争冒険アクション映画の痛快娯楽作だ。 監督は「荒鷲の要塞」のアクション映画を得意とするブライアン・G・ハットン。 この映画は、戦場の中での戦闘アクションだけでなく、計画犯罪ものの持つ面白さも盛り込んで、二倍楽しんでいただきましょうという趣向だ。 この着想はなかなか面白い。とにかく、人をくった話が展開するのだ。 そして、この映画には当時、大きな反響を呼んでいた、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」の影響を大いに受けていると思う。 朝鮮動乱のアメリカ野戦外科病院を舞台に、そこに勤務する軍医たちの奇妙奇天烈な行動を描いた反戦コメディで、ブラック・ユーモアのタッチを含んで描いていた映画だった。 この「戦略大作戦」の中心人物たちは、ロバート・アルドリッチ監督の「特攻大作戦」のような無頼漢のならず者たちではない。しかし、女のことばかり考えている露骨さは「M★A★S★H」的であり、金が手に入ると聞けば、軍規もそっちのけで行動をし始めるのだ。 従来の戦争冒険アクション映画では、敵の要塞を破壊するとか、重要人物をやっつけるとか、軍の作戦に結びついた事柄が目的になっていたと思う。 だが、この映画は、莫大な金塊をいただこうという、全く個人的な欲望が目的なのだ。 そのチャッカリ屋の代表選手が、クリント・イーストウッド扮するケリーで、テリー・サヴァラスその他の面々を仲間に入れるのだが、「M★A★S★H」のドナルド・サザーランドも加わっており、部隊長が留守の間に勝手に戦車隊を出動させ、作戦本部にあった敵地の地図まで無断で持ち出し、おまけに、自分たちの行動を援護させるために砲兵まで抱き込んで、大砲をぶっ放させるのだから、「M★A★S★H」以上のデタラメさだ。 こうした図々しくも大胆不敵、無軌道もいいとこのイーストウッド・グループの作戦は、数人が密かに敵地へ潜入するなんてものではなく、堂々と敵の陣地を爆破して進み、工兵隊まで動員して橋をかけるなど、普通の戦闘と同じことになってしまう。 その上、これを司令部のおめでたい将軍が、正式の奇襲作戦だと思い込み、「よくやったぞ、勲章だ! 」と喜ぶのだから、いよいよあきれかえったお話なのだ。 デタラメと言えば、これくらいデタラメな戦争映画もないだろう。 しかし、この映画は、そういうデタラメなところが見どころなので、これに腹を立てるような人には、最初から関係のない喜劇なのだ。 それにしても、自分たちが命を捨て、血を流して戦った第二次世界大戦を、こなにふうに笑って笑って、笑い飛ばせるユーモア精神は、たいしたものだと思う。 そして、こんなふうに戦争を捉えて描くと、戦争というものが、いかに馬鹿々々しいものであるか、ということがかえって、くっきりと浮かび上がってくるのだ。
オルカ
この映画「オルカ」は、リチャード・ハリスの船長が、シャチの一種のオルカとの死闘を展開する物語ですが、往年のグレゴリー・ペックが主演して巨大な鯨と死闘を繰り広げた「白鯨」のような文芸大作ではなく、「ジョーズ」の大ヒット以来、一大ブームとなった"動物パニック"物の系譜に連なる、海洋パニック・ロマンとも言える、"スパック・ロマン"と銘打たれた、ショッキングなスペクタクル作品だ。 この作品は、当然、「ジョーズ」の大ヒットの影響を受けて作られた映画ですが、白い海の猛獣オルカが人間に次々と復讐していく凄いスペクタクルが見どころで、しかも、このオルカは声によって交信出来る上に、知能が大変優れているので、海岸沿いの送油管を壊して丘の上の石油貯蔵所を爆発させるなど、頭脳的な作戦をたてて襲ったりするのです。 リチャード・ハリスの船長が、メスのオルカを捕まえようとして死なせ、その死体を甲板に吊るすと、腹から胎児がはみ出してくるというショッキングなシーンがあり、それを夫のオルカが甲板にいるリチャード・ハリスの姿をじっと哀しげな目で見つめ、その姿を目に焼き付けるクローズアップが、この後に展開するオルカの"壮絶な復讐"の重要な伏線になるのです。 この映画の見どころは、この凄まじいオルカの襲撃のスペクタクルとともに、オルカの母子を殺された復讐に燃える哀しい感情表現が、実に鮮やかに画面の中で描かれていることだと思います。 どこまでも追いかけて復讐しようとするオルカに対して、リチャード・ハリスが「お前は何者だ!」と叫びます。 突きつめて考えてみると、このオルカというのは、"人間の原罪意識の象徴"なのだと思います。 原罪意識、人間が積み重ねてきた数々の罪。 その罪の意識が生み出した"恐怖感の象徴"こそ、オルカだと思うのです。 映画の中で、オルカの目が何度も何度も大写しになります。 その目は、時に怒りに燃え、復讐に燃え、時には哀しみの涙さえたたえていました。 そして、何よりも自分の母子に対する愛の心が、その目の中に鮮烈に表現されていたと思います。 マイケル・アンダーソン監督が一番表現したかったのは、生きとし生けるものが持っているはずの感情、心そのものだったように思います。 この映画を単なる"動物パニックもの"から一線を画した、優れたドラマにしたのは、酔っ払い運転手による交通事故のため、愛する妻と子を亡くした過去を持つリチャード・ハリスが、そういう過去のトラウマを引きずりながらも、オルカとの闘いをしなければならなくなる執念の男を、哀しみをたたえて熱演しているのと、海洋学者に扮したシャーロット・ランプリングの知的な奥深い演技によるものだと思います。
マラソン マン
この映画「マラソンマン」は、1970年代を代表するサスペンス映画の傑作です。 何しろ監督が「真夜中のカーボーイ」のジョン・シュレシンジャー、原作・脚色が「大統領の陰謀」のウィリアム・ゴールドマン、撮影が「明日に向って撃て!」のコンラッド・L・ホール、主演が「レインマン」のダスティン・ホフマン、共演が「探偵スルース」のローレンス・オリヴィエ、「オール・ザット・ジャズ」のロイ・シャイダー、「ローリング・サンダー」のウィリアム・ディヴェイン、「ブラック・サンデー」のマルト・ケラーというように、超一級のスタッフ、役者が勢揃いしていて、もうこれだけで、映画的興味をそそられ、しかも、サスペンス映画ときてますから、映画好きにとってはたまらない映画です。 とにかく、1970年代のサスペンス映画というのは、冷静に考えてみると大風呂敷を広げた、壮大なホラ話であるのにもかかわらず、思わず背筋を正してジッと見入ってしまうものがほとんどなのです。 作品が作り手たちの思惑を超えて一人歩きし、"メッセージ性を持った社会派映画"などと高く評価されたり、1977年の「ブラック・サンデー」のように、政治色が強いと解釈され、上映禁止の憂き目を見たという事実など興味深いものがあります。 ジョン・シュレシンジャー監督が手掛けた、この「マラソンマン」も、そんな"壮大なホラ話"の一本であり、現代ニューヨークの超高層ビルの間隙をぬって、ナチスの残党が暗躍するという、大時代的な"怪奇探偵小説"の世界をサスペンス映画として展開してみせた作品です。 しかし、映画の中でナチスの残党に「この国(アメリカ)は豊かだ。だが近頃では神にも見捨てられてしまった」などと言わせているあたりが、一筋縄ではいかないところです。 しかも、マッカーシーの赤狩りで父親を失くした青年を主人公に据え、ナチスの残党と一騎打ちをさせるという設定が、かなり屈折しているなと思います。 そしてまた、そのようなところが、いいようのない翳りと、いかがわしさを、この映画に醸し出し、作品の魅力になっているような気がします。 名門コロンビア大学で専制政治という歴史学を専攻するベーブ(ダスティン・ホフマン)は、アベベに憧れ、セントラル・パークをマラソンするのが日課という生活を送っています。 一方、彼の兄シーラ(ロイ・シャイダー)は、アメリカ政府の諜報員で、ナチスの生き残りであるクリスチャン・ゼル(ローレンス・オリヴィエ)に接近し、味方のふりをして戦犯の逃亡先を探っていました。 このゼルは、第二次世界大戦中に捕虜たちから大量のダイヤモンドを賄賂として受け取っていて、終戦を迎え、ウルグアイにその身を隠したが、あらかじめニューヨークの銀行にダイヤを保管しておき、時折、兄のクラウスとシーラを運び屋にして、闇のルートで売りさばいていたのです。 ところが、クラウスが事故死したため、ゼルがダイヤの安否を確認するためアメリカにやって来ます。 その後、正体を見破られたシーラは致命傷を負わされ、ベーブのもとで絶命します。 更に、物語は密売の秘密を知っていると誤解されたベーブが、ゼルとその一味に捕らえられ、映画史に名高い、"過酷な拷問"を受けてしまいます。 この拷問シーンは、本当に痛い、ヒリヒリするほどの痛さを主人公のベーブと一緒になって、感じてしまいます。 そして、命からがら脱出したベーブは、ただ一人、兄の仇討ちを開始する事になります--------。 主演のダスティン・ホフマンは出世作の「卒業」でも、元中距離走の選手という青年を演じていて、あの時は炎天下、愛する女性を取り戻すために走ったのですが、この作品のクライマックスでは、深夜、濡れた舗道の上を絶望的なまでに、延々と疾走する事になります。 悪魔から逃れるために--------。 そんな彼の姿を捉えた、撮影の名カメラマン、コンラッド・L・ホールによる撮影は異様なほど美しく、我々観る者を圧倒してしまいます。 名優ローレンス・オリヴィエは後年、自身の出演作の中で最もこの作品が好きだと語っていましたが、ほとんど完璧とも言える演技を示していて、さすが1900年代の最高のシェークスピア役者だと言われるだけあって、その深くて味わいのある演技は最高です。 ダスティン・ホフマンが最高の役者だと賞讃し、彼と共演する事を夢見て、遂にその実現を果たした、ローレンス・オリヴィエという役者----、本当に凄い、凄すぎる本物の役者です。
ノスタルジア
イタリアの中部地方の山間には、不可思議な町、あるいは村が存在する。それはまさに「存在」そのものだ。 アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジー」が描くのは、幻想の「水」を辿る旅であり、タルコフスキー自身の、故郷ロシアへの郷愁が、主人公アンドレイ・ゴルチャコフの心象風景として表われていると思います。 ゴルチャコフは呟く。「この風景は、どこかモスクワに似ている」と。霧の漂う丘陵地帯。白い馬。佇む女たち。 そこには、動くことを止めた時が、うずくまっている。 かと思うと、深い谷底から生えてきた角のような台地に、ひしめきあって建つ、赤っぽい石造りの建物。 周囲を濃い緑の山々に囲まれた一握りの台地は、霧の切れる一瞬、幻想ではなかったかと、私は目を疑ってしまう。 しかし、確かに実在する土地なのだ。「ノスタルジア」の旅は、こうして、幻想の中でスタートする--------。 イタリアで、ロシアの詩人ゴルチャコフは、恋人のエウジェニアとともに温泉地を訪れ、世紀末の世を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ることに執着する老人ドメニコと出会う。 エウジェニアは、ロシアへのノスタルジアにとり憑かれたゴルチャコフの、果てしない思案に耐え切れず、別の恋人のもとへ去ってしまう。 そして、ドメニコは焼身自殺し、残されたゴルチャコフは、ドメニコの遺志を継いで、ひとりで温泉を渡り切った時、力尽きてしまうのだった--------。 タルコフスキーにとって「水」は、地上で最も美しく、謎めいた物質なのだろう。だから、ドメニコは俗世の人間に狂人扱いされながらも、水=温泉を渡ろうとする。 俗世間の人々から、このように狂人扱いされているドメニコは、世紀末の世界を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ろうとする。 「水」は、禊に使われるように、ここでもある種の力を持っている。 そして、「水」はあの世とこの世の間の川。ドメニコは、その川の渡し守なのだ。 また、この「水」は、母胎の中の羊水でもあり、世紀末を世界の始まりに戻そうとすることは、胎内への回帰等、胎を持たない男の発想であり、そんなことでもたつくゴルチャコフに嫌気がさして去ってゆくエウジェニアは、中性的な魅力にあふれている。 この映画の中で、特に印象的だった場面は、水溜まりの向こうに横たわるゴルチャコフ。雨が降っている。屋根のない柱廊。 廃墟と化し、屋内であり、屋外でもある奇妙な建物、映画全体を支配する幻を、この建物に感じてしまいました。
暗くなるまで待って
このテレンス・ヤング監督の「暗くなるまで待って」は、もともと芝居だった作品で、舞台がほぼアパートの中だけに限定され、緻密な脚本の妙と役者の演技で魅せる渋いサスペンスものですね。 ハリウッド製の派手なスリラーに比べると地味に思えるかも知れないが、精密に計算し尽くされた脚本は、お見事の一言。 だんだんと緊張感が高まっていき、最後には息をつかせぬ迫力で、我々観る者を釘付けにする。 CGもエロもグロも血みどろもなし。 これこそ美しき職人技だなと思います。 主人公のスージーは盲目で、彼女の夫が麻薬入りの人形をたまたま預かってしまうことから、ギャングたちの抗争に巻き込まれてしまう。 要するに、彼女のアパート内に貴重な麻薬入りの人形があり、それを手に入れたいギャングたちが、あの手この手でスージーを騙すというお話なんですね。 スージーを演じるのはオードリー・ヘプバーン、彼女を騙そうとするこわもてのギャングたちは三人。 スージーの夫は、最初と最後に出てくるだけで、彼女の力にはなれない。 彼女のヘルパーになるのは、小さな女の子一人だけ。 まず最初に、盲目のスージーの無力さが強く印象づけられる。 すぐ目の前に落ちているものを拾うことさえできず、灰皿の中で紙がくすぶっているだけでパニックになり、警察に電話して「部屋の中で何かが燃えてる! 助けて!」と叫ばなければならない。 あまりにもか弱い存在だ。それからおもむろに、このスージーを脅すためにアブナイ男三人が登場する。 この三人の使い方も実にうまい。 ロートとトールマンとカーリノの三人だが、最初はトールマンがメインになってスージーに接し、ロートは脇に回る。 トールマンは、ギャングの一味だが、どこか侠気がある男で、実際にスージーの立場に同情し、手を引こうとする。 すると不気味で残酷な男ロートが前面に踊り出して、終盤の容赦ない恐怖を盛り上げていく。 ラストのロート対スージーの対決は、様々なアイディアを盛り込んだ直接的なアクションで見せるが、前半のトールマン対スージーは心理戦だ。 トールマンの嘘にあっさりと騙されてしまうスージーだが、その後で少女グローリーとの連携がうまく活用される。 あの「電話のベルを二度鳴らす」という仕掛けで、スージーが真相に気づくくだりは、非常に巧いと思います。 そして、有名なあのラスト。絶対絶命を悟ったスージーは、無我夢中でアパート中の電灯を壊して回る。 暗闇が、彼女を守る最後の砦となるのだ。 アメリカでこの映画が上映された時、このシーンでは、映画館中の電灯が消え、実際に客席が真っ暗闇になったそうだ。 心憎い趣向である。そういう状態でこの映画を観たら迫力は倍増だろう。 冷酷な殺し屋ロートが、盲目のスージーを容赦なく襲うクライマックスに盛り込まれた、サスペンスを盛り上げるためのアイディアの量は、半端ないものがある。 マッチとガソリン、ステッキ、そして冷蔵庫。 あらゆる小道具大道具が、驚くべき展開を担う。 そして、追い詰められるスージーの絶望の演技と、名優アラン・アーキン演じるロートのサディスティックな凄み。 今観るとそこまで強烈なことは何もしていないにもかかわらず、もの凄く、非常に残虐でサディスティックな印象を醸し出す。 もちろん、それは華奢なヘプバーンの恐怖に打ち震える演技の見事さにもよるものだが、それまでの伏線がガッチリ効いているからでもある。 リアリティという意味で言えば、ギャング三人が盲目の女性一人を相手に、あそこまで手の込んだ芝居を打つだろうかとか、スージーがああまで懸命に人形を守る理由がないなど、突っ込みどころはあるが、これはリアルな犯罪映画というより、パズラーに近い人工的なエンターテインメントなんですね。 緻密な設定と伏線が、ジグソーパズルのように噛み合って、サスペンスを醸成する、知的遊戯なのだと思います。 そういう意味において、これは精緻な脚本と演出によって、職人的に作りこまれた、見事に知的なサスペンス映画の傑作であると思います。
将軍たちの夜
このレビューにはネタバレが含まれています
マクベス
ポーランド出身のロマン・ポランスキー監督が、シェイクスピアの名作「マクベス」に挑戦し、イギリスで撮った作品が、この「マクベス」ですね。 「水の中のナイフ」「反撥」「袋小路」「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」等々、ポランスキー監督の映画は、常に悪魔の世界、怪奇と幻想の世界を追い続けていたと思います。 そして、特にこの「マクベス」に、その大いなる、彼の特徴が出ていると思います。 このシェイクスピアの「マクベス」は、様々な形で映画化されていて、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」や、オーソン・ウェルズの「マクベス」などが有名ですね。 このポランスキー版の「マクベス」は、出だしの三人の魔女のシーンから、粘っこい怪奇の世界に、我々観る者を引きずり込んでくれます。 そして、この作品の大きなポイントは、マクベスとマクベス夫人を演じる二人の主役。 マクベスにはジョン・フィンチが、マクベス夫人にはフランセスカ・アニスがそれぞれ扮し、怪奇と幻想の世界の王と女王を見事に演じていると思います。 公開当時、ジョン・フィンチが30歳。フランセス・アニスが26歳。 そしてこの若さこそが、ポランスキー監督にとって、人間の生身の本心を、生々しい肉体から爆発させるのに必要なエネルギーだったのだと思います。 終わりの方の魔女の饗宴、これは、まさにポランスキー監督ならではの怪奇の世界になっていたと思います。 私が特に面白いなと思ったのは、ラストシーン。 ダンカンの二人の遺児のうち、下の方の王子が、魔女の洞窟へ近寄って行くんですね。 これは、マクベスと同じことをやろうとしているわけですね。 シェイクスピアの舞台では、この下の王子は、ドラマの途中でアイルランドへ行ったことになって、姿を現わさないのですが、ポランスキーのこの作品では、この王子がマクベスと同じ道を辿ることを暗示して終わるんですね。 これは、深読みしてみると、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」と全く同じなんですね。 黒澤明監督の「蜘蛛巣城」が1957年。ポランスキー監督の「マクベス」が1971年。 ポランスキー監督が、黒澤明監督の影響を受けていなかったとは言いきれないと思います。 そして、さらに深く見つめるならば、あの下の方の王子は、身体が不自由ですね。 何となく時代の流れからいって、あの王子はやがてリチャード三世になるのではないか、なんてことも想像できるわけですね。 権力への欲望は、あの時代、マクベスならずとも、綿々と流れていることを、ポランスキー監督は語ろうとしいてるのだと思います。 あの時代だけではなく、我々の心と身体にも、それは流れているのだと思います。 そして、あの下の王子が、身体が不自由だという表現の裏には、現代の我々の心が歪んでいるという意図が、含まれているのではないでしょうか。
冒険者たち
ロベール・アンリコ監督の「冒険者たち」は、私がこよなく愛する映画の一本で、冒険アクションの形をとりながら、青春のロマンを甘悲しくも、切なく謳い上げた傑作で、主演のアラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラが最高に素晴らしく、また、レティシアに扮した、当時、新人の女優ジョアンナ・シムカスが、何とも言えず、瑞々しい新鮮さを出して、私を魅了したのです。 マヌー(アラン・ドロン)とローランド(リノ・ヴァンチュラ)は、仲の良い相棒で、いつも何か大きい事をやらかそうと夢見ている。 ある日、偶然、知り合ったレティシアに、二人は行為を抱いた。 やがて、三人は、アフリカの海底に眠っている財宝を探しに、冒険に出発するが、争いに巻き込まれて、レティシアは流れ弾に当たって死んでしまう。 深い悲しみのうちに二人は、彼女を美しい珊瑚礁の砂の中に葬るのだった。 やがて、ある孤島で、マヌーも殺され、ひとりぼっちになったローランドは、手榴弾で相手を皆殺しにしてしまう。 孤島に再び静寂が訪れた時、若者たちの死を悼むかのように、潮騒はいつまでも鳴りやまなかった--------。 男たちのレティシアに対する思慕の情、男同士の友情、そして何か大きなものを夢見る彼らの心情が、フランソワ・ド・ルーベの魅惑的な音楽にのって、美しく表現され、ロベール・アンリコ監督の最高傑作となったのです。
チザム
この映画「チザム」は、西部劇の王者ジョン・ウェインが「勇気ある追跡」でアカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞後の初めての作品で、当時62歳のジョン・ウェインはすこぶる元気がいい。 西部史に名高いリンカーン郡戦争の中、ニューメキシコの広大な原野に牧畜王国を築き上げ、冒険と波乱の生涯を送ったチザム(ジョン・ウェイン)の実録の映画化作品だ。 チザムの親友のジェームズ・ペッパーにベン・ジョンソン、彼らと対立する黒幕の親分ローレンス・フィーにフォレスト・タッカー、連邦保安官パット・ギャレットにグレン・コーベット、無法者ビリー・ザ・キッドにジョフリー・デュエルという配役で、西部劇ファンとしては嬉しくなる顔ぶれだ。 この映画は銃撃戦やスタンピードという牛の大暴走などの見せ場も多く、西部開拓史上に名高い人物たち、特に、後に宿命の対決をすることになる無法者ビリー・ザ・キッドと名保安官パット・ギャレットの若き日の姿(といってもビリー・ザ・キッドは21歳でその生涯を閉じた)が、描かれているのも興味深い。 しかも、ビリー・ザ・キッドと言えば、左ききのガンマンとして有名だが、この映画では史上初めて右ききで登場してくる。 彼の写真が実は裏焼きだったので、ずっと左ききだとされてきたが、右ききが本当だったのだ。 かつて二挺拳銃のジョニー・マック・ブラウンをはじめ、ロバート・テイラー、オーディー・マーフィー、ポール・ニューマンと、歴代の左ききのビリーはみな魅力的だったが、それだけに、この映画の右ききのジョフリー・デュエルが扮しているビリーが少し見劣りするのは仕方がないだろうと思う。 この映画は実録とは謳っているが、実説とはかなり違っているものの、とにかく、牛の大暴走場面あり、ガン・プレイあり----と、西部劇ならではの見せ場を次々と盛り込むサービスぶりで、かなり爽快感が味わえるのは確かだ。 ベテランのアンドリュー・V・マクラグレン監督が悠々たるタッチで西部劇の楽しさ、面白さを詰め込んだ作品になっていると思う。
ミクロの決死圏
東西冷戦時代に、その両陣営で研究を競う、物質ミクロ化技術の秘密を握るチェコの科学者が、鉄のカーテンから亡命するが、途中で撃たれ、脳に重傷を負ってしまう。 そこで、西側陣営の軍部は、治療のために情報部員や医師たちを、原子力潜水艇プロテウスに乗り込ませ、この潜航艇ごとミクロ化し、血管注射で科学者の体内へ送り込むことに-------。 この映画「ミクロの決死圏」の監督は、1950年代から1980年代までの長きに渡り、ディズニー製作の傑作SF「海底二万哩」、実験的な映像表現を試みた「絞殺魔」、戦争大作「トラ・トラ・トラ!」のアメリカ側監督、南部の人種差別を描いた問題作「マンディンゴ」など多種多様な作品を発表した、稀代の職人監督・リチャード・フライシャー。 この映画のミクロ化した人間が、人体に潜入し治療を行なうというアイディアは、我が日本の手塚治虫の漫画作品「吸血魔団」をベースにしていると思われますが、タイム・リミットを生かしたサスペンスやスパイとの攻防戦など、手に汗握る展開も見事ですが、何より素晴らしいのは、L・B・アボットによる特殊効果ですね。 「眼下の敵」での海上砲撃戦から、「タワーリング・インフェルノ」の高層ビル火災まで、ミニチュア模型や光学合成を駆使したL・B・アボットの特殊撮影は、現在の水準から見れば、ローテクニックではあるものの、その豊かなイマジネーションは普遍性があり、実に見事な出来栄えだと思います。 とにかく、一時間たつと縮小効果が薄れ、元のサイズに戻ってしまうという、緊迫したスリリングな状況の中、心臓を通過したりとか、異物排除のために白血球が襲い掛かり、心拍の衝撃で潜水艇が大揺れしたりする、体内のスペクタクル・シークエンスは、ほとんど前衛的とも思える程の強烈な美術イメージに貫かれていて、見事としか言いようがありません。 そして、クルーの一人が敵のスパイで、妨害工作をするなどのエピソードも盛り込まれ、観ていて全く飽きさせませんね。 美術監督のデール・ヘネシーによる白血球や血管、巨大な模型で作られた心臓などのセットも実によく出来ていて、非常に印象的でした。 そして、何と言ってもラクウェル・ウェルチの身体にぴったりあったウェット・スーツ姿は、私を含めた男性映画ファンを大いに喜ばせてくれたと思います。 なお、この映画は1966年度の第39回アカデミー賞の美術監督賞・装置賞(カラー)と特殊視覚効果賞を受賞していますね。
サムライ
この映画「サムライ」は、サムライの孤独な死と寡黙なプロの殺し屋の死を鮮やかにオーバーラップして描いた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールの秀作だと思います。 この映画は、フランス映画史において"ヌーベルバーグ"と言われた、新しい波の革新的な動きがあり、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォーら、この運動の担い手たちに多大な影響を与え、また、暗黒映画と言われる、"フィルム・ノワール"の名匠として、伝説的な監督になった、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、ゴァン・マクレオの原作を映画化した作品で、主演がハリウッドに渡って、実質的に失敗し、失意の内にフランスに帰国したアラン・ドロンが、「太陽がいっぱい」「地下室のメロディー」以来のはまり役で復活を遂げた記念碑的な作品ですね。 共演は当時、アラン・ドロンの夫人であったナタリー・ドロン、フランスの名優フランソワ・ペリエが脇を固め、撮影を「太陽がいっぱい」の名手アンリ・ドカエと、映画好きにはたまらないメンバーが集結しています。 主人公の一匹狼の殺し屋ジェフ・コステロ(アラン・ドロン)は、まるで日本の"サムライ"でもあるかのように、死地へ赴くこの男の胸中は、1本の刀に命を懸ける武士の心情の持ち主です。 彼は、寒々として空虚なアパートを出て、今日も孤独な仕事へと向かいます。 今回の殺しの仕事は、クラブ"マルテ"の経営者を殺す事で、そのアリバイ工作を情婦(ナタリー・ドロン)に任せ、その仕事はうまくいったかに見えましたが、逃走の際にピアニストのヴァレリー(カティ・ロジェ)に顔を見られてしまいます。 ジェフをかばったヴァレリーの証言に不審を抱いた警部(フランソワ・ペリエ)は、ジェフに尾行をつけます。 一方、依頼人もジェフを狙い、消そうとしますが失敗。 そして、ジェフのもとに新たな殺人の依頼が来ますが、何とその標的はジェフをかばったはずのヴァレリーだった----、という展開になっていきます。 この映画の題名の「サムライ」は、もちろん日本の武士道に由来しているのですが、常に死と直面し、最後には自ら進んで死地へと赴く、この映画の主人公に"武士道と共通の精神"を見出して、監督のメルヴィル監督が命名したものだと言われています。 クールでストイックで、己の価値観とスタイルを持つ、孤独な一匹狼の殺しのプロフエッショナルの寡黙な男を、ソフト帽にトレンチ姿のアラン・ドロンがその鋭利な刃物を思わせる、静かで厳しい中にもゾッとするような美しさをたたえて好演していると思います。 そして、メルヴィル監督のスタイリッシュでクールなハードボイルド・タッチの演出スタイルが、この映画の全編に横溢していて、1カット、1カットがまさに一枚の絵画を見るようで、観る者の感覚を痺れさすような、陶酔的な心持ちへと誘ってくれます。 サムライの孤独な死と、寡黙なプロの殺し屋の死を、鮮やかにオーバーラップさせて、ピーンと張り詰めた緊張感のある映像で、クールにスタイリッシュに描いた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールの秀作だと思います。
カイロの紫のバラ
この映画「カイロの紫のバラ」は、人間の孤独な心を優しく、温かいまなざしで見つめる人間凝視の秀作だと思います。 この映画は、ウッディ・アレン監督自身が、自作の中で好きな6本の内の1本として挙げていて、1985年度のゴールデングローブ賞の最優秀脚本賞、ニューヨーク映画批評家協会の最優秀脚本賞、カンヌ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞、英国アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀オリジナル脚本賞、フランスのセザール賞の最優秀外国映画賞を受賞している秀作ですね。 映画の舞台は、1930年台の経済不況下のアメリカ・ニュージャージー。 失業中の夫に代わって、ウエートレスをして働くセシリア(ミア・ファロー)にとって唯一の心の支えとなり、淋しい心を癒してくれるのは映画館へ行って、今上映されている「カイロの紫のバラ」という映画を何回も繰り返し観る事でした。 フレッド・アステアの歌う永遠の名曲"ヘヴン"が流れるなか、セシリアが劇場の前でうっとりとした顔でポスターを見つめるという印象的なシーンから映画は始まります。 名画はその冒頭のシーンとラストシーンがいつも素晴らしく、映画ファンの心を虜にし、映画という虚構の世界でひと時の夢を与えてくれます。 1930年台といえば、ハリウッドがまさに"夢の工場"とも言われたミュージカル映画の黄金時代でしたが、当時のアメリカの人々は、大恐慌時代を経て、未だに苦しい生活を強いられており、そういう厳しい現実の生活から逃避出来る唯一の場所は、娯楽としての映画でした。 スティーヴン・スピルバーク監督が、「映画を観るという行為は現実の生活から離れ、ひと時の夢に酔う究極の逃避である」と語った事がありますが、この映画を観るという行為は、いつの時代になっても、究極の逃避であり、特に我々映画ファンと言うのは、元々淋しがり屋で孤独ですので、常に映画という虚構の世界に我が身を置いて、ヒーロー、ヒロインと同じ気持ちになって、厳しい現実の自分から逃避しているのかもしれません。 セシリアは、今日も現実から逃れるようにして、「カイロの紫のバラ」という映画を観ていましたが、これが5回目である事に気付いた映画のヒーロー、トム・バクスター(ジェフ・ダニエルズ)は、劇の途中でスクリーンの中から飛び出して来て、映画の進行は止まり大騒ぎになりますが、そんな事はお構いなしに、映画のヒーロー、トムは何とセシリアに恋をしてしまうという奇想天外なお伽噺の世界が描かれていきます。 困惑した映画会社は、トムを演じるスターのギル・シェパード(ジェフ・ダニエルズ・二役)を動員してトムを映画の中へ連れ戻そうとしますが、そのギルもセシリアを愛してしまい、彼女と駆け落ちしようと言いだします。 全てを捨てて約束の場所で待つセシリア。だがヒーローはその場所へやって来ません。 ヒーローが心変わりしたのか、それとも単なる口先だけの約束だったのか、それとも周囲の陰謀で来る事が出来なかったのか--------。 再びいつもの孤独な生活へと戻っていくセシリア。紫色の夢が破れ、現実の厳しい生活が待っています。 こんなセシリアに対してウッディ・アレン監督は、素敵なラストシーンを用意しています。 哀れなセシリアをほんのひと時、映画の夢の世界に酔わせ微笑みを与えます。 まさしくウッディ・アレン流の優しいダンディズムが遺憾なく発揮されていますね。 傷心のセシリアが観ている映画は、ミュージカル映画の最高傑作と言われる「トップ・ハット」で、彼女は哀しみに沈みながら、映画の中で繰り広げられるフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの華麗な歌とダンスに魅せられて、再び幸福で豊かな気持ちになっていきます。 まさしくこの映画は、主人公のセシリアが映画の魔法の力で、再び生きる希望、勇気を見い出していく、"彼女の人生の再生のドラマ"であると思います。 そして、セシリアを演じるミア・ファローの思わず抱きしめたくなるような、儚い乙女心は実に切なく、人間の孤独感を見事に表現していたと思います。 また、彼女の孤独な心を優しく温かいまなざしで見つめるウッディ・アレン監督の人間凝視の奥深い演出は素晴らしく、彼の最高傑作だと思います。 我々映画ファンは、映画という虚構の世界に憧れ、夢を馳せながら、映画によって自分自身と現実を認識し、映画という魔法の力で明日への生きる活力、希望、勇気を見い出していけるのだと思います。 この映画を深い感動と静かな余韻の中で観終えて思う事は、ウッディ・アレン監督が、この映画で描いた、"悲観と楽観の間をたゆたう絶妙なバランス"は、我々映画ファンに"虚構の世界を楽しく遊ぶ、人生の豊かさを感じさせてくれ、そして、その豊かさの中にこそ本当の人生というものがある"のだという事を教えてくれているように思います。
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