バルカン超特急
このレビューにはネタバレが含まれています
コールガール
この映画「コールガール」は、屈折した人生を送る女と私立探偵の男の心のふれ合いを中心にコールガールの生態や大都会の断面を鋭く捉えた秀作だと思います。 この映画「コールガール」の主演女優のジェーン・フォンダは、1960年代後半にヴェトナム反戦運動に目覚め、自分自身でFTAという反戦グループを設立し、その反戦運動の同士でもあった、ドナルド・サザーランドとタッグを組んでこの映画に出演した、いわば、1970年代を象徴する女優だと言えます。 監督は、当時、デビュー作のライザ・ミネリ主演の「くちづけ」を撮り、後に「大統領の陰謀」という社会派の政治サスペンス映画の秀作を、そして「推定無罪」というサスペンス・ミステリーを撮ったアラン・J・パクラで、当時、バリバリの反戦女優でラディカルなイメージだったジェーン・フォンダから最高の演技を引き出し、この一作を契機に演技派女優へと開眼させていったのです。 ペンシルヴァニアにある研究所の科学者グルマンが、謎の消息を絶って数カ月。彼の上司ケーブルは、警察の捜査がはかどらないのでグルマンの幼友達で警官のクルートに依頼します。 そして、私立探偵になったクルートは、ニューヨークで生計を立てて、舞台女優を目指しているというコールガールのブリー(ジェーン・フォンダ)に宛てて、グルマンが書いたという猥褻な手紙を手掛かりに捜査を始めます。 クルートはブリーに捜査の協力を求めますが、警察への恨みを持つ彼女は、冷たく彼を追い返したりします。 そこで、クルートはブリーと同じアパートの一室を借り、彼女を監視する中で、ブリーの心が和らぎ、やがて彼女の協力でクルートの捜査線上に、意外な人物が浮かび上がって来て------。 この映画の邦題から受ける印象は、何かアメリカのコールガールの生態でも描く風俗映画のような感じですが、ところが、この映画は大都会ニューヨークに渦巻く甘美な情事の謎を、ハードボイルド・タッチで解明していくミステリー仕立てになっています。 そして、この映画の最大の見どころは、私立探偵となったクルートが丹念に謎を解いていく過程と、彼と舞台女優志願のコールガール、ブリーとの人間的な反目と結びつきに、このドラマの面白さが秘められていて、それと併せて、ニューヨークという砂漠のような荒涼とした大都市に住む人間の"無限地獄のような孤独や不安定な心理"に焦点を絞って描いた、優れた心理ドラマになっているのです。 そして、このジェーン・ファンダが演じるブリーという女性の、大都会の中で他人との深い関わり合いを持つ事を極力嫌うヒロイン像というのは、人間同士のコミュニケーションが希薄になっている現代社会の在り方を象徴する人物像になっていて、華やかできらびやかに見える大都市生活の裏側に潜む感情を、醒めた眼で冷ややかに見つめるアラン・J・パクラ監督の演出のうまさに引きずり込まれてしまいます。 また、ブリーという女性の全てを受け止める男の役を静かな抑えた演技で好演するドナルド・サザーランドのうまさにも唸らされます。 ニューヨークのハーレムでの現地ロケを敢行し、大都会の裏側の生々しい生態をリアルに映像化したゴードン・ウィリスの撮影が、我々観る者の心に冷え冷えとした臨場感を持たせる効果を与えてくれます。 尚、主演のジェーン・フォンダは、1971年度の第44回アカデミー賞で、最優秀主演女優賞、同年のゴールデン・グローブ賞の最優秀主演女優賞(ドラマ部門)、ニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀主演女優賞、全米批評家協会賞の最優秀主演女優賞を受賞と、その年の映画賞を総なめにしています。
ザ・ドライバー
この映画「ザ・ドライバー」は、凄まじいカーアクションと刑事対ドライバーの虚々実々の駆け引きをクールに描き、アクション映画の原点を示した作品だと思います。 このクールで戦慄的な我々映画ファンを痺れさせる「ザ・ドライバー」は、チャールズ・ブロンソンとジェームズ・コバーン主演の「ストリート・ファイター」という小味なアクション映画を撮った、ウォルター・ヒル監督の第二回監督作品です。 銀行ギャングや強盗の逃走を請け負う、プロのゲッタウェイ・ドライバーのドラマですが、とにかく凄まじいカーアクションと、刑事対ドライバーの虚々実々の闘いに焦点を絞り、余計なものは一切描かれず、いわば、"アクション映画の原点"に戻ったような作り方であり、ムダな場面が目障りだった前作の「ストリート・ファイター」よりも、ずっと面白く出来ていると思う。 ロサンゼルスの街の地図を性格に頭に刻み込んだゲッタウェイ・ドライバー(ライアン・オニール)は、その鮮やかなハンドルさばきで、追跡してくるパトカーをまいて夜の闇に消えてしまう。 なんべんもそんな彼にキリキリ舞いをさせられた刑事(ブールース・ダーン)たちは、なんとかしてドライバーを逮捕しようと考えて、卑怯な罠を仕掛けるが、その罠にもかからないのだ。 まるで、マシーンのように冷徹なドライバー。 うす汚い人間性をむき出しにして、ドライバーの逮捕に執念を燃やす刑事。 この二人のコントラストにも迫力があり、彼らの闘いがドラマティックな興趣を盛り上げていると思う。 それまでの甘い二枚目からイメージ・チェンジしたライアン・オニールの好演も素晴らしいが、それ以上に印象的なのは刑事役のブルース・ダーンの怪演だ。 そして、フランスの演技派女優のイザベル・アジャーニがドライバーに近づく女ギャンブラーに扮している。 普通のドラマ設定なら、彼女とドライバーの間に恋愛感情が生じ、そのあげくベッドシーン-------となるはずなのだが、そういう余計なものを一切省いたところが、この作品の良さだろうと思う。 ロサンゼルスの素晴らしい夜景の中で展開される追いつ追われつのカー・チェイスは、凄い見せ場になっていて、アクション映画の魅力をたっぷりと堪能しました。
怒りの山河
この映画「怒りの山河」は、アメリカン・ニューシネマのヒーロー、ピーター・フォンダによる壮絶な復讐バイオレンスの傑作だ。 故郷に帰った男が、地元開発者の不埒な悪行三昧に、怒りを爆発させて殴り込む。 B級映画の帝王にして、名プロデューサーのロジャー・コーマンが1973年の「ウォーキング・トール」のヒットに便乗して、当時、新進気鋭の才気あふれるジョナサン・デミを起用して作った作品だ。 クエンティン・タランティーノ監督もリスペクトする低予算映画ながら、痛快なグラインドハウス映画になっている。 都会で結婚生活に失敗したトミー・ハンター(ピーター・フォンダ)は、5歳の息子ディランを連れてアーカンソー州の農場に戻るが、石炭採掘業者の強欲社長フィリップ・ケリーが、悪徳議員と組んで強引に土地開発を行なう。 立ち退きに応じないハンター家は、執拗な嫌がらせを受け、訴訟を起こしていた弟のスコット・グレンが、妊娠中の妻と事故を装って殺されてしまう。 怒りに燃えたトミーは、工事車両を爆破するなどの暴れっぷりで、子連れバイク・チェイスも披露する。 だが、保安官も抱き込んだ攻撃はエスカレートし、一家を逮捕して有利な判決を下そうとした判事を暗殺。ついに、放火された家で馬を救おうとした父も死亡。 堪忍袋の緒が切れたトミーが、昔の恋人リン・ローリイに息子を預け、武装した荒くれどもが警備する社長宅に弓矢で殴り込む銃撃戦には、アクション映画ファンの血が燃える。 ピーター・フォンダ初監督作の「さすらいのカウボーイ」でも組んだボブ・ディランの名曲「ミスター・タンブリンマン」のモデルのブルース・ラングホーンの音楽も印象的な作品であった。
激流
この映画「激流」は、ほぼ全編が本物の川でロケーション撮影されたということだ。 本当にどうやって撮影したんだろうと思ってしまうような迫力あるシーンの連続。 荒々しい水しぶき。全てを飲み込むかのように襲いかかる激流。 ダイナミックな自然描写に目を瞠るばかり。 激流を下るシーンの迫力とメリル・ストリープの頑張りに度肝を抜かれてしまいます。 メリル・ストリープ扮するゲイルは、元急流の川下りのガイドをしていた、川下りの名人という設定ですが、それにしても逞しい。 仕事一筋の夫との仲は冷え切っていて、息子のロークは父のことをよく思っていない。 ロークの誕生祝いに川下りにやってきたものの、夫との関係は修復しがたく---------。 そんな伏線を後半上手く生かしているのも実にいいんですね 頼るべき存在であるはずの夫は頼りにならず、幼い息子と2人で本性を現した、ケヴィン・ベーコンらの悪漢に立ち向かうゲイル。 とにかくメリル・ストリープが、往年の透明感溢れる美しさはどこへやら、太い腕を剥き出しにして、「エイリアン」のリプリーに引けを取らない活躍で頑張る、頑張る。 恐れ入りますの一言。 不敵な面構えのウェイドを、主役を食ってしまう程の存在感を身に付けたケヴィン・ベーコンが、これまた憎らしいくらい、うまく演じている。 息子役の少年も可愛いし、巧い。 「ジュラシック・パーク」でティムを演じた子。 夫であるトムが、少し影が薄いのが残念な気がします。 演じるデヴィッド・ストラザーンは、オールマイティな役者で、作品ごとにガラッとイメージが変わる役柄の幅が広い俳優。 もう少し活躍の場があっても良かったのではないかと思いますね。 激流下りという本筋に、アメリカ映画お決まりの夫婦の崩壊というテーマも描かれているわけですが、本筋にうまく練りこまれていて、サスペンス要素を盛り上げていて実に素晴らしい。 惜しむらくは、心理的なやり取りがもう少し描かれていれば、夫の存在も生きてきて、より一層、この映画に深みが増したのではないかと思いますね。
アンタッチャブル
悪法で名高い「禁酒法」ですが、正しくは「酒類製造・販売・運搬等を禁止するという法律」という名称です。 つまり、お酒を造ること、売ること、運ぶことだけが禁止された法律であって、お酒を飲むこと自体は、禁止されていなかったということがわかります。 また、施行されるまでに1年の猶予があったため、人々はお酒の買いだめに走りました。 施行後、家でお酒が見つかっても「買いだめしておいた分です」と言えば、罪に問われなかったというのですから、ザル法もいいところです。 お酒の密輸入と密造で大儲けしたのは、ギャングたちだけだったのです。 この天下の悪法の施工時代に、世にもデカイ顏をしてシカゴの街でのさばっていたのが、暗黒街の帝王、アル・カポネです。 彼がネタになっているギャング映画は、それこそ星の数ほどあるのではないかと思われるくらい、凄い人気です。 このパラマウント映画創立75周年記念映画として製作された、ハリウッド大作「アンタッチャブル」では、ロバート・デ・ニーロがアル・カポネを演じています。 役作りのために、逆ダイエットをして太ったというエピソードはあまりにも有名です。 そして、首を傾けてしゃべる、独特の姿も強烈なインパクトがあります。 映像の魔術師、ブライアン・デ・パルマが監督をしているので、事実なんてどこへやら、徹底した娯楽アクション・ギャング映画に仕上がっています。 こういうのはあざとくて嫌いだという人もいるかも知れません。だが、それはハリウッドメジャー大作映画の宿命ともいえるものですが、私は大好きですね。 有名な駅の階段のベビーカーのシーンは、ハラハラ、ドキドキの連続で、ブライアン・デ・パルマ監督の楽しそうに撮っている顏が想像できますね。 そして、何と言っても魅力的なのは、当時、とても輝いていた主演のケヴィン・コスナーです。 絵に描いたような正義の味方。あまりにも嘘っぽくてため息が出そうですが、これぞまさに娯楽映画なんですね。 事実に基づいているとは言っても、彼の演じるエリオット・ネスは、映画のヒーローであり、架空の人物だくらいに思わないと駄目ですね。 史実と違うからおかしいじゃないかと決めつけるのは、ちょっと筋違いだと思いますね。 とにかく、カッコいいんですね。 それから、思わず注目してしまったのは、殺し屋のニッテイ(ビリー・ドラゴ)です。 とても陰険な顔つきの風貌で、目つきがとても怖いんですね。 もちろん、ショー・コネリー扮するジム・マローンも最高ですね。その年のアカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞しただけのことはありますね。 このジム・マローンは、FBIのリーダー的存在で、エリオットのみならず、観ている我々もグイグイ引っ張ってくれます。 ジェームズ・ボンド役を卒業した後の、ショーン・コネリーの演技に対する取り組みと研鑽が、一気に花開いたという感じですね。 今回、あらためて観直してみて、この作品はギャング映画の最高峰のひとつだと思いましたね。 エンニオ・モリコーネの音楽も素晴らしくて、この人の書くスコアは、映画の雰囲気にほんとにぴったりで、哀愁のあるメロディーを聞いているだけで感動してしまいます。
魚が出てきた日
この映画「魚が出てきた日」は、「その男ゾルバ」「エレクトラ」等で知られるギリシャ出身のマイケル・カコヤニス監督の問題作ですね。 この映画の冒頭、スペインのフラメンコダンサーが登場して「原爆が落ちるのはスペインだけとは限らない」みたいな歌を唄います。 そして、舞台はギリシャの貧しい島に移り、その上空で爆撃機がトラブルを起こし、トム・コートネイとコリン・ブレイクリーのパイロットは、積荷の核爆弾2基、高濃度の放射性物質を閉じ込めた金属製の箱をパラシュートで落下させ、自分たちもその後を追って飛び降りるのです。 この件は、1966年1月17日、スペインのパロマレスという村の上空で、4基の核爆弾を搭載した米軍のB-52が事故を起こしたが、爆弾はパラシュートで落としたため、事無きを得たという事件が、実際に発生していたんですね。 この1年後に、その事件をいち早く頂戴して、近未来を舞台にSFブラックコメディに仕立てたのが、この「魚が出てきた日」なんですね。 二人のパイロットは、当局と連絡を取ろうと右往左往。 違うルートで墜落の情報を得た当局の連中は、ホテル業者を装って島に乗り込み、開発という触れ込みで、島の一部を買い取り、爆弾と金属の箱探し。 どうにか2基の爆弾は回収出来たが、最もヤバイ金属の箱がどうしても見つからない。 では、その箱はというと、貧乏な羊飼いの夫婦がこの箱を発見し、お宝に違いないと思い、こっそりと家に持ち帰り、あらゆる手を尽くして開けようとしていたのだ--------。 真っ赤に日焼けし、パンツ一枚の姿でお腹を空かして、うろうろする二人のパイロット。 ド派手なリゾートファッションに身を包み、その状況をエンジョイするホテル業者に化けた兵士たち。 そんな彼らの出現に、島の未来を確信して浮かれまくる村人たち。 新しいリゾート地登場という情報を得て、徒党を組んで詰めかける観光客-----そんな様子が過剰過ぎるほどデフォルメされたマイケル・カコヤニス監督の演出で描かれていきます。 一応、舞台が近未来なので、衣装も未来仕様だが、今見るとシルク・ドゥ・ソレイユっぽいサーカス風で、派手過ぎて滑稽なくらいだ。 こういう描写が長いので正直、観ていて疲れるのだが、羊飼いがひょんなことから金属の箱を開ける方法を見つけたあたりから、そういう疲れが吹き飛ぶような展開が待っている。 とりわけ、原発事故が継続中の今の日本では、この展開はあまりにも怖すぎますね。
アルカトラズからの脱出
「アルカトラズからの脱出」を監督したドン・シーゲルは、この映画を撮る25年前に、実際にアルカトラズ刑務所を取材したそうです。 もちろん、この映画のためではなく、その頃、彼は「第十一号監房の暴動」という映画を撮っていたからなんですね。 サンクエンティンやフォルサムといった悪名高い刑務所も同じ時期に訪れ、なんとも憂鬱な気分にさせられたそうです。 この「アルカトラズからの脱出」は、1960年に起こった実際の事件を下敷きにしています。 当時、この島からの脱出は不可能とされていました。 警備が厳しく、海流が速く、水温が低いという三条件が揃っていたからです。 その刑務所に、クリント・イーストウッド扮するフランク・モリスという犯罪者が移送されて来ます。 ドン・シーゲル監督は、例によって、彼の素性や背後関係を明かしません。 モリスが脱獄の名人であり、それだからこそ、この島へ送られてきたという事実にのみ照明を当てるのです。 あとは刑務所内部の描写です。果たして、どんな囚人がいるのか? パトリック・マクグーハン扮する所長は、どんな性格なのか? 刑務所はどうやって囚人の人格を破壊するのか? 道具の調達はどうやって行なうのか? --------。 ドン・シーゲル監督は、実に無駄なく、こうした細部を語っていきます。 その語りに従えば、観ている私は、モリスの内部に導かれていきます。 と言うより、モリスとともに、脱獄のプランを真剣に練り始めるんですね。 誰を味方につけるか。時期はいつを選ぶか。監視の目はどう欺くか。 相棒選びだけは、やや説得力を欠きますが、他は文句なしに渋い。 ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドの名コンビは、コンビを組むのは、この作品が最後となりましたが、隠れた佳作だと思いますね。
悲しみの青春
ヴィットリオ・デ・シーカ監督の抑制のきいた演出が、長い歳月を経た、ある時代への青春追想の哀歌を静かに謳いあげた「悲しみの青春」。 抑えに抑えて、だが、切なさあふれるばかりの青春追想のエレジーである、「ふたりの女」「ひまわり」の名匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督が描いた「悲しみの青春」。 原作は、ユダヤ系のイタリア人作家ジョルジョ・バッサーニの小説「フィンツィ・コンティーニ家の庭」で、その原作は、ヒロインのミコルに捧げられているから、これは明らかにバッサーニ自身の物語であろう。 最初に字幕が出る"フェルラーラにて、一九三八年---四三年"。北イタリアのエミリア地方のフェルラーラは、中世の城壁に囲まれた"美しい墓"のような町だ。 その町の中に、さらに孤立するかのように、果てしなく続く堀をめぐらせて、フィンツィ・コンティーニ家の広大な庭と屋敷がある。 青年ジョルジョ(リーノ・カプリッキオ)にとって、コンティーニ家の庭は、幼い頃から憧憬であり恐れであり、光であり、触れ得ざるものであった。 彼は十年かかって、やっとこの庭に立ち入ることを許されたのだった。 それは、コンティーニ家の娘ミコル(ドミニク・サンダ)の、ほとんど気まぐれといっていい"招待"によるものだった。 夏の終わり、というより、むしろ秋色濃い日であった。 町のテニス・クラブの若いメンバーたちと、はじめてミコルに呼ばれて、彼はコンティーニ家のコートでテニスに興じるのだった。 そして、その日から、ミコルとの交際が復活した。 彼女は、昔と変わらぬ好意を見せるのだった。そして、昔の思い出を懐かしむのだった。 二人は幼馴染であった。といってもミコルは、町の学校に通学しなかった。 自宅研修生として、年に何度か、試験の時に学校に姿を現わすだけだった。 馬車に乗ってやって来る、この小さな王女さまへの憧れ。 教会での出会い。じっと自分に注がれた彼女の視線を、あの胸のときめきを、今もジョルジョは忘れない。 そうした幼い日の回想の断片が、透明な美しさでよぎるほどに、ジョルジョは、ミコルへの愛の想いを切なくかきたてられるのだった。 親しみを込めて、まるで恋人のように振る舞いながら、だが彼女はジョルジョの求愛をはぐらかし拒絶する。 そして、ついに彼は見てしまうのだ。 ミコルが、彼女の弟アルベルトの親友であり、ジョルジョの心の友ともなったマルナーテ(ファビオ・テスティ)と結ばれた現場を。 こんなふうに荒筋だけを追っていくと、ありふれた青春の失恋のドラマになってしまう。 だが、コンティーニ家も、そしてジョルジョの一家もユダヤ人である。 その宿命の重みが、一九三八---四三年という時代と相まって、哀絶の調べを奏でるのだ。 同じユダヤ人だが、コンティーニ家は"特別"であった。 ジョルジョの家も、かなり裕福だが、大地主コンティーニ家はケタ外れのブルジョワであり、同時にその貴族性のゆえに、彼らは町のユダヤ人社会からも孤絶した、別世界の"異人種"だったのだ。 ユダヤ人の自意識を持つジョルジョが、ミコルに強く惹かれたのは、彼女がユダヤ人らしからぬユダヤ人であったからだろう。 けれどミコルは、ジョルジョが自分と同じ運命共同体であることを、本能的に察知していたのだ。 ユダヤ人の現在と未来に忍び寄る"死の影"を予知して、だから、彼女が愛したのは過去、いとしく甘美で神聖な、幼い日の幻影だけであったのだ。 次第に吹き荒れるナチズムの嵐は、ユダヤ人家族から平和を幸福を、人権を財産を、そして愛を青春を、奪っていくのだ。 はじめはテニス・クラブや図書館からの追放といった差別は、やがて強制逮捕となっていく。 もはや、コンティーニ家の人々といえども例外ではなかった。 ミコルと近親相姦の匂いさえ漂わせた、病的な弟アルベルト(ヘルムート・バーガー)は、高熱にあえいで病死し、彼女が絶望的な愛を結んだコミュニストのマルナーテ青年は、ソ連戦線に召集されて戦死してしまう。 そして、両親と引き離されたミコル。息子たちと妻を逃がしたジョルジョの父。彼らの行く手に待っているのは、収容所であり、死であった-------。 昂まる悲痛のメロディは、やがて、あの光と影の青春の庭、テニス・コートの白い若者たちの優しさに溶け込んで、かき消える。 ヴィットリオ・デ・シーカ監督の抑制のきいた演出が、数十年の歳月を経た、ある"時代"への青春の哀歌を静かに謳いあげるのです。
民衆の敵
かつてのハリウッドの大スターであるスティーヴ・マックィーンが、ただのアクション・スターではなかった事を証明する映画が、あのイプセンの戯曲の映画化である「民衆の敵」だと思います。 このイプセンの戯曲のテーマは、政治にはごまかしや変節がつきもので、民衆は耳に痛い事実より、快く響く嘘を好むという、人類不変の真理であり、その風潮に逆らう者は、変人、奇人、あるいは民衆の敵との烙印を押されるという事実です。 この硬派の社会劇を、スティーヴ・マックィーンは、自分の主宰するソーラ・プロで映画化したんですね。 スターとなって以後の彼は、当時、精力的に新作に出演していたが、「タワーリング・インフェルノ」以後、パタリと出演作が途絶えましたね。 そして、5年ぶりに公開された「トム・ホーン」では、痛々しく痩せていました。 実は、この間に、この映画「民衆の敵」の製作・主演、そして公開と、癌との闘病に全力を尽くしていたんですね。 この「民衆の敵」での彼は、痛々しいほど、熱演していると思います。 髭もじゃの扮装は、予備知識なしに観たら、とうてい彼とは分かりにくいし、静の演技に終始しながら、気迫のこもる様も実に見事です。 妻役にスウェーデンの実力派ビビ・アンデルソンを迎えている事でも、この映画への並々ならぬ打ち込みようが分かります。 だが、当初、この映画はすぐには公開されませんでした。 製作後7年の日本での公開が、世界で初めてでした。 その理由とし考えられるのは、まず、余りにも演劇的で映画的な魅力に欠けるからという事だろうと思います。 第二に考えられるのは、アクション・スターのイメージが強いスティーヴ・マックィーンの室内劇など、商売にならないという配給・興行側の判断でしょう。 彼は確かに絶大な興行価値を持ったスターだったが、それも「荒野の七人」や「大脱走」のような、身の軽いアクションをポーカーフェイスでこなしたからで、観客はそんなスティーヴ・マックィーンしか求めていないとの判断であろう。 俳優が、ある役柄で目立つ演技をすると、同じキャラクターしか回ってこなくなるのは、常識といってよく、心ある役者は、そんなマンネリ打破に四苦八苦するものです。 そんな作られたイメージ、大多数が信じている虚像を壊すべきだというのが、この「民衆の敵」のテーマである事を思うと、スティーヴ・マックィーンは、この作品に、自分自身の虚像打破を賭けていたのではないかと思われます。 そして、その実像が人々の目から、隠されたまま終わるという、この作品のストーリー通りの結末になったのは、実に痛ましい限りという他はありません。
恋
この映画「恋」は、1971年にカンヌ国際映画祭でグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞した秀作だ。 原題は「The Go-Between」と言って、「とりもち」という意味らしい。 監督は赤狩りでハリウッドを追われ、ヨーロッパでしか映画を撮れなくなったジョセフ・ロージーだ。 そして、「ドクトル・ジバゴ」「ダーリング」のジュリー・クリスティと「まぼろしの市街戦」「フィクサー」のアラン・ベイツという二人の演技派俳優が、恋人たちを演じている。 「恋」は、ロバート・マリガン監督の名作「おもいでの夏」と同じように、中年男の回想から始まる。 だが、それはとても苦い思い出だ。 彼は12歳の時、寄宿学校で一緒の友人の家でひと夏を過ごさないかと誘われる。 彼には母親しかおらず、貧しく夏服の着替えさえままならないが、友人の招きに応じるんですね。 友人の家は大きな屋敷で、広大な土地を持つ大金持ち。 彼は友人と二人で少年らしく遊び回る。 しかし、次第に上流階級の人々の欺瞞にも気付いていくのだった。 貧しくて夏服を持っていない彼を人々はからかい、彼は深く傷つく。 そんな彼を救ってくれたのが、友人の姉(ジュリー・クリスティ)であった。 彼女は主人公の少年を連れて、夏服を買いにいくのだった。 その時からずっと年上の美しい彼女に、彼は強い憧れを抱く。 だから、彼女に頼まれたことを忠実に守ろうとするんですね。 彼女が「絶対に秘密よ」と言えば、誰にも喋らない。 だが、そのことが次第に彼を苦しめ、追い詰めていく。 彼はある日、友人の家族たちと一緒に、一家が所有する土地にある川に泳ぎに行き、ひとりの小作人(アラン・ベイツ)と出会う。 男臭さを発散する小作人を、友人の姉はことさら無視し、上流社会の貴婦人らしく、身分の違いを思い知らせようとする態度にさえ見える。 だが、主人公の少年は知っているのだ。 彼は友人の姉から小作人への手紙を頼まれ、何度もとりもちをする。 彼は小作人のところで話をし、納屋で遊んでいる時の方が、上流階級の人々といるより気楽で好きだったのだが、次第に二人の秘密の重さに耐えられなくなり「もう手紙は預からない」と宣言するのだった。 やがて、悲劇が訪れる。友人の母親に追求され小作人の納屋に母親を案内した彼は、そこで大人の恋が現実にどのようなことを行なうのかを目撃するのだった。 身分違いの恋に落ちた男が、その当時の社会でどんな決着をつけなければならないか、彼は12歳で思い知らされるのだ。 その夏、彼は人生の苦さを知り、社会の欺瞞を学び、男と女の抑えようのない情熱が生む悲劇を目撃する。 そして、別れの悲しみを味わい、悔恨が疼かせる痛みを覚えるのだ。 だから、夏が過ぎ、秋の服を身に着ける時、少年はもう数か月前のような牧歌的で無邪気な世界には戻れなくなっている。 誰にも、そんな夏があったのではないだろうか。
雨の訪問者
この映画は、「太陽がいっぱい」の名匠ルネ・クレマン監督がチャールズ・ブロンソン主演で描いた、クールなタッチのサスペンス映画ですね。 この映画は、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの共演で話題となり、ブロンソンが共演者のドロンを食って、大ブレークのきっかけとなった「さらば友よ」の原作者で脚本も書いた、フランスの有名な推理小説家のセバスチャン・ジヤプリゾが、ブロンソンを大いに気に入り、彼のために脚本を書きあげ、「太陽がいっぱい」「パリは霧にぬれて」の名匠ルネ・クレマンが監督をした、ブロンソンのスター作りの基礎ともなった記念すべき作品ですね。 マルセイユに近い地中海に面した小さな避暑地。 ある雨の夜、夫の留守中に妻のメリー(マルレーヌ・ジョベール)は、ストッキングで覆面をした男に襲われますが、必死の反撃をして、逆に相手を猟銃で射殺して、その死体を崖から投げ捨ててしまいます。 そして、翌日、夫の友人の結婚式に出席したメリーは、ひげをはやした見知らぬ男から声をかけられます。 彼は軍の公金を横領して逃げた男を追っているアメリカの陸軍大佐ハリー・トップス(チャールズ・ブロンソン)と名乗り、不敵にもメリーに近づいて来るのです。 そして、彼女の知らない秘密を次々と暴いていくのです-----------。 「禁じられた遊び」で世界的な名声を確立したルネ・クレマン監督の、最も得意とするジャンルにサスペンス映画がありますが、代表作の「太陽がいっぱい」やこの映画などで見せるクールな緊張感溢れる映像と息詰まるサスペンスを、巧みな話術で盛り上げていく手法には、素晴らしいものがありますね。 自分をじわりじわりと追いつめて来る男に、いつしか心魅かれてしまう微妙でデリケートな女心。 サスペンス・ドラマの中にもメロドラマの要素を見事に融合させて、最後まで我々観る者を画面にくぎ付けにして、緊張感を持続させて引っ張っていく、ルネ・クレマン監督の演出のうまさに陶酔させられてしまいます。 ルネ・クレマン監督から特別に依頼された、フランシス・レイの哀歓ただよう、情緒たっぷりな、心の琴線を震わせるテーマ曲が、いつまでも脳裏に焼き付いて離れません。
さすらいのカウボーイ
この映画「さすらいのカウボーイ」は、詩的なイメージと西部劇独自の素朴さで、人生のさすらいの意味を見つめた佳作だと思います。 この映画「さすらいのカウボーイ」は、詩的なイメージと、西部劇独自の素朴さを持った、公開当時のキャッチコピーで言うところの、"ニューウエスタン"で、「イージー・ライダー」で、アメリカ・ニューシネマの寵児とったピーター・フォンダが、初めて監督し、同時に主演も兼ねた意欲作ですね。 この映画は、いわば、"人間の情念"が、そのまま映像になった西部劇であり、映画で描かれる、その全てが素朴で、シンプルで、そして純粋なのです。 素朴さやシンプルさだけでは、映像は詩になる事が出来ないと思うし、その素朴さやシンプルさが純粋に結晶した時に、初めて映画は詩の心を持つ事が出来るのだと思います。 そして、「さすらいのカウボーイ」はまさに、そのような稀有な映画なのです。 主人公のピーター・フォンダは、おのれの心のおもむくままに西部をさすらい、人生をさすらっていきます。 そして、ふと、7年前に出て来た家に帰りたくなると、まるで風のように、妻と子供のいるささやかな農場へ戻って行きます。 いや、それは、正確には、戻るとか、帰るといった行為ではなく、それは、この主人公の人生のさすらいの中のほんのひとコマに過ぎないものであり、さすらう者には、方向といった概念はないのですから、行くとか迎えるといった言葉は全くあてはまらない事になります。 だから、彼は、妻が7年ぶりの彼を納屋には入れるものの、家の中に入れようとしなかった時も黙って、それに従うし、妻が迎え入れてくれれば、ごく自然にベッドをともにするのです。 さすらい人の生きる姿勢とは、まさに、このようなものなんだという、監督のピーター・フォンダの思想がよく表現されていると思います。 これは、さすらい人の仲間のウォーレン・オーツが危機に陥った時も、やはり同じ姿勢なのです。 フォンダは、ただ黙々とオーツのもとにおもむき、そして、死ぬのです。 そこには、正義感などというものはなく、勇気というほど、おおげさなものもありません。 あるのは、西部の空や野や森を自由にさまよい、飛翔する"西部男の純粋な魂"だけがあるのです。 このように、"ニュー・ウエスタン"と言われた西部劇は、多様な顔を持って我々の前に現われ、昔ながらの西部劇の枠から解き放とうとしていたのかも知れません。
脱走山脈
この映画「脱走山脈」は、私の大好きな映画の1本で、第二次世界大戦の最中に、1頭の象を連れてアルプス山脈を越えて行く、一兵士のスリル満点の冒険を描いた作品です。 第二次世界大戦中に、実際にドイツ軍の捕虜生活を送ったイギリス兵トム・ライトのオリジナル・ストーリーを、トムとこの映画の製作者で監督でもあるマイケル・ウィナーが共同で企画して、映画化したと言われています。 そして、マイケル・ウィナー監督がハリウッドに行く前の、イギリス時代に連発した数々の秀作のうちの1本なのです。 第二次世界大戦末期、戦争嫌いのブルックス(オリバー・リード)と、戦争が面白くてたまらず捕虜になっても脱走のチャンスを狙うバッキー(マイケル・J・ポラード)という、二人の連合軍兵士が、ミュンヘン郊外の捕虜収容所に入れられていました。 ブルックスは、収容所内の動物園でルーシーという名の象の飼育係をやらされていましたが、飼育をしていくうちに、次第にルーシーに愛情を感じ始めていました。 やがて、連合軍の爆撃が始まり、バッキーはその混乱に乗じて、念願の脱走を図ろうとしますが、一方のブルックスはルーシーの安否が心配で脱走どころではないという心境でした。 そして、園長の命令で象のルーシーをオーストリアへ運ぶ事になり、ブルックスの130キロに及ぶ、アルプスを越えてのスリルに満ちた、ルーシーを連れての脱走劇が始まるのです。 この映画の主演は「明日に賭ける」でもマイケル・ウィナー監督とコンビを組んだ「三銃士」のオリバー・リードで、共演は「俺たちに明日はない」で見せたオトボケ演技が印象に残っているクセ者俳優のマイケル・J・ポラード。 この二人の対照的な個性のぶつかり合いが、この映画の魅力の大きな要素になっていると思います。 また、この映画の音楽を担当したのが、私の一番好きな映画音楽家のフランシス・レイで、この映画でもダイナミックな中にも、彼独特の哀愁を帯びた繊細なタッチのリリカルなメロディーを提供していて、彼の音楽を聴くだけでも、この映画を観る価値があるくらいです。 戦場にいるのは、ただ運命に強制されているだけで、現時点での本当の生き甲斐は、1頭のインド象のルーシーを救い出す事だけにある、という心優しい男ブルックス。 彼と対照的なのが、バッキー。彼が戦うのは国とか家族とかのためではなく、戦う事そのものに生き甲斐を感じるという男。 マイケル・ウィナー監督の、英雄ではなく、特異な状況に置かれた人間を描くという意図が、この二人の人間像によく表れていると思います。
悪魔の追跡 4Kデジタル・リマスター版
終わり良ければ総て良し、とすんなり行かないのが、ジャック・スターレット監督の「悪魔の追跡」だ。 それは、この映画の持つ不気味な余韻が、観終えてもなお、ずっと尾を引くからだ。 恐怖映画も様々あるが、この映画ほど、その気色の悪さが持続する作品は、そうざらにはないだろう。 物語は、バイク工場を共同で経営するピーター・フォンダとウォーレン・オーツの仲のいい男二人が、それぞれの奥さんに扮するララ・パーカーとロレッタ・スウィットと、それに劇中での愛犬ジンジャーを連れて、バス、トイレ、キッチン、それにテレビまで備えたキャンピング・カーでレジャー旅行へ出かける、と言うのが事の発端だ。 その四人が、途中の川辺で旅の一夜を楽しんでいた時、彼らは"悪魔族"みたいな連中の怪しげな儀式を目撃する。 それは、一人の若い女が、さながら生贄のごとく殺害されるという、何ともおぞましい光景だった。 だが、その望き見を連中に悟られた四人は、執拗で激しい追跡を受けることになる。 そして、ここに「悪魔の追跡」が始まることになる--------。 さらには、彼ら夫婦が立ち寄った町の図書館で、「他言はするな」との連中の警告を無視して"悪魔族"について調べたり、地元の警察にあの殺害現場の調査を依頼するなどしたため、怒った彼らに徹底的に追われる羽目になってしまう。 不気味なのは、その警察の中にも一味とおぼしき奴がいたり、逃げてたどり着き、ホッと一安心したのも束の間、キャンプ場の客もどこか怪しかったりと、観ているこちら側も気の休まることがない。 かくて、そんな手を変え品を変えての、恐怖場面が連続することになるのだが、愛犬のジンジャーがキャンピング・カーの中でなぜか突然、怯えるように、唸り声をあげ出す場面あたりから、ジャック・スターレット監督のショック演出が冴えてくる。 中でも、狭い車内で突然ガラガラヘビに襲われる場面など、結構、怖い。 例えば、キッチンの戸棚を開けると、いきなりそこからヘビが飛び出す場面とか、やっと一匹やっつけたかと思ったら、さらにもう一匹残っていて、シャーツと牙を剥く場面は、劇中の人間ならずとも、観ている、こちらの方もビビるほどだ。 これは、もうかれこれ46年も前の作品ながら、その"後味"の悪さから、観た後、いつまでも、記憶の底にくすぶり続けるそんな逸品だ。
ゴジラ対ヘドラ
東京湾で船を襲う怪物が出現した。 そんな時、町の生物学者の山内博士(矢野明)たちは、海岸で大きなおたまじゃくし形の不思議な生き物を発見する。 しかし、それがヘドラの最初の形だった。 やがて巨大化し、陸上に上がり飛行するヘドラ。 ヘドラの出す硫酸ミストに住民は次々とやられていく。 そこへゴジラが出現し、ヘドラと対決する。 富士の裾野で踊りながらヘドラに殺されていく若者たち(柴俊夫ら)。 山内博士は電極版を使ってヘドラを乾燥させることを提案する。 果たしてヘドラを倒すことはできるのか? --------。 なんとも不思議なゴジラ映画だ。 ヘドラはヘドロから生まれた怪獣。他のゴジラ映画と違い、社会派とでも言うべきなのだろうか? ヘドラはヘドロを食い、工場の排ガスを吸って大きくなっていく。 海を泳ぐだけの第1期、陸上歩行も可能な第2期、飛行も可能になった第3期、直立しゴジラと対峙する第4期。 徐々に大きくなっていく様には、ゾッとするような恐怖感がある。 その姿は、実に醜悪で無気味だ。 そして最後には、ゴジラよりも巨大になるのだ。 この映画には、公開当時、深刻な社会問題だった、公害問題に対する作者の怒りが反映されている。 またオープニング曲の「美しい空を返せ! 海を返せ! コバルト、カドミウムがどうしたこうした」といった、サイケデリック調の歌も1970年代っぽくて凄い。 このように書いてくると、この映画が面白そうな気がしてくるけれど、はっきり言って、映画としては、あまり面白くない。 "町の科学者が出てきて、怪獣を倒すヒントを見つけ、それで怪獣を倒す"という、従来のゴジラ映画の骨格は、確かに継承している。 しかし、ゴジラとヘドラの対決になっても音楽もほとんどなく、映画的なクライマックスに持っていこうとしていない。 つまり全然盛り上がらないのだ。 出てくる自衛隊も数人だけだし。戦っている迫力がないのだ。 襲われた街は、テレビのニュースで出てくるだけだし、パニックシーンとか都市の崩壊とか、画的な見せ場がほとんどないのだ。 もっとも演出力の問題というより、それ以前に予算がなかったのかも知れない。 出演者はノースターだし、柴俊夫が出演しているが、無名時代の別名での出演だ。 特撮シーンはとにかくチャチすぎる。 ヘドラとゴジラは、ナイトシーンでの対決が多いのだが、これが実に暗いのだ。 お金がなくて、周りの風景やバックを作るとこまで予算がまわらなかったから、暗くしてごまかそうという、感じがしてならない。 そして飛行するヘドラを追いかけるため、ゴジラは後ろを向いて放射能をはき、その勢いで空を飛ぶという掟破りもするのだ。 いくらなんでも、それはないだろうと思う。 監督はこれが第1回監督の坂野義光。劇場用作品で監督したのはこれ1本だけらしく、あと分かっているのはこの後、あの封印された怪作「ノストラダムスの大予言」の脚本を舛田利雄と共同で書いたというだけ。 でも「ノストラダムスの大予言」も書いているという事は、公害問題や環境問題に関心のある人だったのかも知れない。 あらためて、21世紀の今観直してみると、公害問題こそ聞かなくなったが、今人類が直面している"地球温暖化問題"と結び付けると実に恐い気がしてくる。 傑作なのか駄作なのか、実に判断に迷う作品だ。 ゴジラ映画としてのスペクタクル、ドラマ的な面白さは、ほとんどない。 極端に言えばATGのアート系のような作品だ。 確かに、この作品は、核の恐怖を描いた、第1作目の「ゴジラ」の路線に戻った作品だという気もする。 やっぱり、なんと言っても、第1作目の「ゴジラ」は、まず映画として圧倒的に面白かった。 でもこの作品は、映画的な盛り上がりは一切なく、ある意味、つまらない。
市子
ドント・ウォーリー・ダーリン
夜ごとの夢
首
賛否両論ある映画だが、個人的にはとても楽しめた。 たけしの大河ドラマなどに対するアンチテーゼにも感じた。 歴史なんて、そんな小綺麗なもんじゃねーだろ!って感じで、「アウトレイジ」にも通ずるクセの強い登場人物たちの泥臭い人間関係が展開されていく。 合戦シーンも迫力はあるが、そこがメインではなく、武将たちの人間性(非情で暴力的だったり、狡猾なふるまいだったり、臆病だったり)がコミカルに描かれた群像劇だった。 そんなたけし流アレンジに乗れるか乗れないかで、本作の評価は分かれると思う。 個人的には、このいかにもたけしらしい演出、登場人物たちのやりとりが最後まで楽しかった。 また、男色文化がしっかり描かれているのも面白い。 あくまでたけし流解釈の本能寺の変なので、史実は…とか、時代考証が…とかの批判はお門違いだと思う。 あと、たけし(秀吉)の演技がダメとか、秀吉が老けすぎとかの意見もあるけど、そこはたけしワールドの時代劇なので、自分は気にならなかったかな。 真面目な時代劇ならノイズになるかもだけど…。 あとひとつ感じたのは、本能寺の変、信長、秀吉、家康くらいは日本人なら知ってると思うけど、その他の歴史的登場人物(架空の人物は除く)やその関係性、登場する合戦やその後の歴史的流れに詳しい人だとさらに楽しめると思った。 自分は、荒木村重や高松城の水攻めなど、けっこう知らないことが多かった…。
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