夜の大捜査線
この映画「夜の大捜査線」は、南部の強烈な人種偏見と闘いながら、鋭い人間描写と緊迫感に満ちた演出で描いた社会派サスペンス映画の傑作だと思います。 1958年のスタンリー・クレイマー監督の「手錠のままの脱獄」でジドニー・ポワチエは、トニー・カーティスと手錠で繋がれた脱獄犯を演じていました。 それが、この1967年のノーマン・ジュイソン監督の「夜の大捜査線」では、頭のかたい保守反動的な、人種差別主義者の田舎町の白人署長ギレスピー(ロッド・スタイガー)をリードする敏腕エリート刑事に扮しています。 この映画の原作は、MWA新人賞を受賞したジョン・ボールの「夜の熱気の中で」。 主人公の黒人刑事バージル・ティッヴス(シドニー・ポワチエ)が、フィラデルフィアから南部の田舎町にやって来て、乗り換えのため駅で待っていたところ、黒人という理由だけで殺人の容疑者となった彼は、人種的な偏見と差別意識の強い、地元の白人たちと闘いながら、てきぱきとこの殺人事件を解決に導いていきます。 偏見のかたまりだった白人署長との間にも、友情が芽生え始めるが---------。 1958年から1967年に至る9年の間に、アメリカ社会ではどのような動きがあったのか。 公民権法が成立したのが1960年。 1963年のジョン・F・ケネディ大統領の暗殺をはさみ、キング牧師らをリーダーとする人種差別反対の集会やデモ、あるいは暴動が相次いで起こる。 そして、1964年にヴェトナム戦争が開始され、1965年には急進的な運動家であったマルコムXが射殺されている。 この映画の原題通り、まさしくアメリカ全体が"in the heat of the night"の真っ只中にあったのだ。 この映画で描かれている、黒人が白人を小気味よくやっつけるというモチーフは、そうした時代背景をリアルに反映していると思います。 もっとも、現実には、小気味よくやっつけきれないために、こういう映画を観てリベラルな観客、特に黒人は溜飲を下げていたのかも知れません。 この映画の撮影は、イリノイ州やテネシー州を中心に、全てロケーションで行われたそうで、泥沼状の河と広大な綿畑しかない南部の田舎町が広がっている世界だ。 そして、白人が黒人に対して抱いているイメージを執拗になぞるように、名手ハスケル・ウェクスラーのカメラは風景を映していきます。 この南部の風景自体が、この映画の主人公と言ってもいいかもしれないほどです。 そして、この綿畑を舞台にしたシーンで、ティッブス刑事が、彼を茫然と眺める黒人の小作人を横目に、綿畑を自動車でさっそうと駆け抜けていく。 バックに流れるのは、レイ・チャールズの歌。 そして、その時、運転席に座る白人署長の表情は、複雑で釈然としていないように見える。 時代の変遷、つまり、「過去」と「未来」の間に位置する「現在」の浮遊感といったものを、実に見事に表現した映像だと思います。 仕立てのいいスーツをビシッと着こなし、眼光鋭いシドニー・ポワチエ扮するティッヴス刑事が登場する最初のシーンは、カッコ良すぎるくらいカッコいい。 そのカッコいい刑事が、殺人犯に間違えられるところからこの物語は始まるわけですが、どんなエリートにせよ、なにしろ黒人なんだから犯人に決まっているという偏見の描き方が、異様なくらいにしつこい。 これくらい、しつこく描かなくては、"無意識下の差別"を抉りだせないという、ノーマン・ジュイソン監督の演出の意図が感じられます。 例えば、前半で登場する白人のチンピラ(スコット・ウィルソン)は、経済的にも精神的にも、社会の最底辺にいる人間であるはずなのに、それでも黒人よりは偉いと思い込んでいる。 あるいは、黒人刑事という理由だけで彼を平手打ちにし、殴り返されると、なぜ射殺しないと、白人署長に詰め寄る資本家の表情。 そして、気のいい奴の鈍感さこそが、差別の温床なのだということを十二分に表現する白人警官(ウォーレン・オーツ)の平々凡々たる顔。 この映画は、黒人映画のようなふりをしながら、実は"白人社会の惨めさ"をこそ描いた映画なのだと思います。 センチメンタルで進歩的な理想主義者にとっては、この映画のテーマは、非常にわかりやすいと思います。 娯楽作品としても非常に良くできていると思います。 レイ・チャールズの心の底から絞り出すような、哀切で魂を揺さぶるようなブルースが流れ、黒人と白人は和解できるかもしれないという予感が漂う、駅でのティッヴス刑事と白人署長の別れのラスト・シーンは、何度観ても目頭が熱くなってしまいます。 この映画の実質的な真の意味での主人公は、シドニー・ポワチエではないと思います。 彼を受け入れる白人署長を熟練のメソッド演技で、人間の内面の生々しい感情の揺れを迫真の演技で示したロッド・スタイガーだと思います。(因みに、アカデミー賞では、ロッド・スタイガーが最優秀主演男優賞を受賞) 地元のミシシッピーの田舎町で生まれ育った多くの者と同様に、人種差別主義者であるこの白人署長のギレスピーは、当初、黒人のティッヴス刑事を受け入れることなどできなかった。 しかし、その後、彼の言動に接していくうちに、次第に友情が芽生え、信頼が醸成されていく。 このあたりの微妙な内面の変化を、ロッド・スタイガーは、その表情やしぐさから、見事に表現していて、その巧さに唸らされてしまいます。 それにしても、結局これは、例えノーマン・ジュイソン監督が、ロック・カルチャーを通して黒人の文化や時代感覚に鋭敏だったとしても、白人による黒人映画なんだと気付いたのは、黒人監督のスパイク・リーの出現以後だ。 その後のスパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」で描かれた黒人社会の実情は、1967年当時とあまり変わっていません。 綿畑が都市の路地裏に移行しただけだと思います。 そして、スパイク・リー監督は、黒人と白人の和解などというものが、幻想に過ぎなかったということを暴露したのです。 もちろん、「夜の大捜査線」は、今の時点で観ても感動する。 ただ、その感動は、少しだけ居心地の悪い感動なのだ。
戒厳令(1973・フランス・イタリア)
この映画「戒厳令」は、ラテン・アメリカの某国のファシズム的な警察国家の闇を衝いた、コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督の実録政治映画の問題作ですね。 ギリシャの軍事独裁政権の実態を暴いた「Z」、ソ連のスターリニズムを痛烈に批判した「告白」に次いで、社会派の俊英コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督が撮ったのが、ラテン・アメリカの某国を題材にとり、背後にアメリカの力を負いながら、ファシズム的な警察国家体制を敷いている国の実態を生々しく描いたのが、この映画「戒厳令」なのです。 この作品は、コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督お得意の実録ものであり、1970年8月10日にモンテヴィデオで誘拐され、銃弾を頭部に受けて殺されたイタリア系アメリカ人、ダン・アンソニー・ミトリオーネをモデルにしています。 ガヴラス監督は、当時の新聞、公式文書など、ありとあらゆる資料を調べつくし、ミトリオーネという男が受け取っていた月給の金額まで知るほどだったということですが、そういう正確な事実を基にしたという強みが、この映画にはあると思います。 トップシーンの戒厳令下の街頭の場面が、まず非常に冷酷で薄気味悪いムードを湛えており、一種クールな魅力を画面に与えていますが、南米のチリに長期ロケーションをした効果があって、現地での生々しい臨場感を観ている我々に感じさせます。 そして、この映画は、ガヴラス的演出で、フラッシュ・ショットによる回想シーンなどを随所に挿入し、時を自由に前後させながら展開していきます。 「Z」「告白」ともに、政治映画でありながら、ガヴラス監督の手にかかると、面白すぎるくらい面白くなりますが、ここではその映画的な技巧の円熟味は、ますます冴えていると思います。 主人公のフィリップ・マイケル・サントーレ(イヴ・モンタン)の死が、まず冒頭に出て、その葬儀のシーンあたりから、回想で彼の生前に遡り、革命派が誘拐するプロセスが歯切れよく描かれてくるあたりで、映画は観ている我々を否応なしにその世界に引きずり込んでしまいます。 この革命派の尋問につれて、サントーレという人物像が、次第に浮き彫りにされてきます。 彼はイヴ・モンタンが扮していることからもわかるように、実に風格のある人物であり、外見は良きアメリカ人であり、愛する家族を持つ良きパパなのです。 このように、サントーレという人物を、決して悪玉仕立てにしていないところに、ガヴラス監督の狙いもあったのであり、彼がアメリカから南米へ派遣されて、警察国家の陰の指導者となり、反乱分子に残酷な拷問をかけたりさせる、裏の張本人であるということが、実に感じのいい男だけに、観る者を余計に慄然とさせる効果を持っていると思うのです。 警察学校かなにかで、人体を使って拷問の実習をするシーンなど、かなりな残酷描写です。 こういう教育を受けた連中は、いつか、いとも冷酷で人間的な血の通わぬ非情な警官に育っていくのだろうと思います。 そのよき例が、秘密警察の隊長ロペスで、レナート・サルヴァトーリの何とも言えぬ凄みには圧倒されます。 一種、怪物的な魅力すら漂ってきて、脇役一筋で、地味なレナート・サルヴァトーリが、いつの間にこれほどの重量感のある俳優になっていたのだろうと驚いてしまいます。 このロペスの率いる秘密警察が、革命派の青年たちの居場所を突きとめ、追い詰め、逮捕するあたりの何とも言えない恐ろしさは、観ている我々を心の底から震撼させます。 街頭を革命派の青年が歩き、さりげなく警察官が追いつめていく、その画面にミキス・テオドラキスのクールな曲がかぶさるあたりは、どこか金属的な感じさえするムードで満たされます。 そして、この間、国会では多くの議論が交わされますが、誘拐した革命派グループの再三にわたるコミュニケにもかかわらず、結局、サントーレの生命を救うための動きは全くなく、革命派も彼を殺害する以外に方法がなくなってしまうのです。 国家とか組織とかが、個人などをまるっきり無視して通りすぎる冷酷さが、痛いほど画面の中から迫ってきます。 そして、ラストシーンでは、サントーレの死後、彼の後任として空港に到着したアメリカ高官の姿。 それをじっと見つめている、革命派の青年たちの表情の数々を映し出して、この映画は終わります。 ガヴラス監督式のスリルとサスペンスに満ちた面白さは確かにありますが、しかし、彼の最高作である「Z」の大衆講談的な面白さからはいつか飛翔して、生の実感を込めた不気味さが、ひたひたと我々の胸に押し寄せてくる思いがするのです。
ランボー
この映画「ランボー」は、ヴェトナム戦争を経験したアメリカの抱える内部矛盾を描いた傑作だと思います。 映画「ランボー」はデヴィッド・マレルの小説「一人だけの軍隊」の映画化で原題を"FIRST BLOOD"といい、"ランボーシリーズ"の記念すべき第1作目の作品となっていますね。 シルヴェスター・スタローン演じるランボーは、かつてヴェトナムで戦った特殊部隊グリーン・ベレーの生き残りで、ヴェトナム帰りの彼が地方の小都市をひたすら暗く絶望的な表情で、まるで浮浪者のように歩いているシーンから映画は始まります。 これから何かが起きそうな予感を漂わせた鮮やかな冒頭シーンで、これから始まる映画的世界への期待と興奮でワクワクさせる見事なテッド・コッチェフ監督の演出です。 死線を越えてようやく帰ったアメリカなのに、故郷は彼を歓迎してはくれず、ヴェトナム時代の戦友を訪ねてこの小都市へやって来たのだが、その戦友も戦争後遺症ですでに死んでいました。 虚脱状態でこの町を歩いている時、ランボーは保安官から浮浪者として留置される事になります。 そして、この留置された時のエピソードがこの映画の中で非常に重要な意味を持つ事になります。 終始無言のランボー、保安官助手たちはそんな彼に暴行を加えます。 初めはじっと耐えていますが、彼のヒゲを剃ろうと持ち出した剃刀を見た時、彼は突然、暴れ出し、数人の署員を全部叩きのめして脱走します。 ランボーの脳裏にヴェトナムの血の記憶と共に戦闘意識が甦るこのシーンは、寡黙で生気を失っていたランボーが、かつての特殊部隊員としての血に目覚め、戦う男として復活する鮮やかなシーンを実にうまく演じています。 山林へ逃げ込んだ彼は、保安官や軍隊を相手にたった一人で戦います。 それまでだったら、スティーヴ・マックィーンがぴったりだったような役柄をスタローンは「ロッキー」以上にシェイプアップした肉体で演じ切ります。 "肉体の躍動こそ俳優の基本"である事をスタローンはあらためて教えてくれます。 このランボーが近くの山林へ立てこもり、彼を逮捕にやって来る警官を特殊な戦闘能力を身に付けたランボーは、次々と鮮やかな方法で殺していきます。 そこへ、ヴェトナム戦争時の上司のリチャード・クレンナ演じるトラウトマン大佐が現われ、保安官に、「お前のかなう相手じゃない、ランボーは。グリーンベレーの精鋭だった。ゲリラの名人、殺人の天才だ」と語り、ここでランボーの正体が明らかになり、我々観る者は納得するという映画的な仕掛けになっています。 このようにして、山林の中はランボーによる陰惨な殺しの場面となっていきますが、スタローンの寡黙で暗く、厳しくハードな表情には鬼気迫る凄みがあり、「ロッキー」のアメリカン・ドリームを基調とした楽天的な根性に対して、「ランボー」のスタローンは、いわば陰画的な色彩を帯びた人物像をうまく体現しています。 そして、遂に町を火の海と化してしまい、壊滅状態に陥らせますが、説得に来たトラウトマン大佐を前にして彼は、「ヴェトナム時代には、まだ友情もあった。だが、戦争が終わった今の俺は何だ。誰にも相手にされない。全くの孤独だ。あれは一体、何のためにやったんだ」と内なる心の叫びを声に出して言います。 この映画の原題名の"FIRST BLOOD"というのは、"最初に見た血の記憶"という含みと共に、"仕掛ける"という意味もあります。 今回の事件を本当に仕掛けたのは、一体誰なのか? 保安官の指示に従わなかったランボーか、彼を痛めつけた保安官たちか。 この映画には、3人の主要人物が登場します。 極限まで鍛えられた肉体で戦い続けるランボー。 戦う事のみを教えられた彼は、社会的な順応が出来ません。 次に、その彼を追う保安官。 自分たちの町の平和を守るための行動ですが、よそ者を排除するという行為にアメリカ人の心の奥底に潜む保守性がまざまざと見え隠れします。 保安官は、州警察の指揮をも拒否し、「ここは俺たちの町だ!」と叫びます。 この保安官のキャラクターは、任命採用される警察官ではなく、住民たちの選挙で選ばれた保安官であるという事が、重要な鍵になります。 つまり、保安官というのは住民の象徴になっているのだと思います。 そして、もう一人がランボーを特殊部隊グリーン・ベレーの戦闘員に育て上げた元上司のトラウトマン大佐。 ランボーの戦い方を得意気に見抜き、強さを語る、鼻持ちならない男。 彼こそ戦争を仕掛けた男かもしれません。 映画を観終えた後に思うのは、テッド・コッチェフ監督が描きたかったのは、権力に対する抗議の戦いというものではなく、ヴェトナム戦争を経験したアメリカが当時抱えていた内部矛盾のその姿ではないでしょうか。 この映画の3つの人間像はその象徴であるような気がします。 ヴェトナム戦争の後遺症としての深い傷が、当時のアメリカには根強く残っていて、この映画「ランボー」は、派手なアクションの背後に、意味じくもこの事を映し出し、我々観る者に強い衝撃を与えたのだと思います。 そして、ラストの解決は、一見甘いようにも見えますが、戦争のプロによる平和恢復というところに、"もの凄い皮肉と不安"があるような気がしてなりません。
午後の曳航
三島由紀夫の小説「午後の曳航」の映画化作品を先に観てから、その後で原作の小説を読んでみました。 そのことにより、映画と原作の小説について、いろいろと面白いことに気が付きました。 ルイス・ジョン・カルリーノ監督の「午後の曳航」は、映画それ自体としての出来栄えは、かなり良い作品だと思いました。 英国のデヴォンの港をメインにした撮影がとても美しく、雄大な海や白い崖と緑の野、そして落ち着いた古風な港町。 そして、それらとは対照的な少年たちの反抗的な行動、満たされない未亡人の生活、彼女と一人息子の生活の中に、不意に飛び込んできた海の男によって惑乱された母と子の関係、そして最後には少年たちによって、憧れの人から普通の人になり下がった海の男は処刑される--------。 このストーリーは、一歩間違えば、ひと昔前の港町を舞台にしたメロドラマになりかねないのですが、それを救ったのが、ごく控え目な、激しさを抑制したルイス・ジョン・カルリーノ監督の演出と、美しい自然の悪魔祓いにも似た作用だったと思います。 そして、海の男の英雄ぶりの失墜に対する少年たちの断罪こそ、原作者・三島由紀夫の観念に実に忠実なのですが、映画の表現としては、カルリーノ監督独自の解釈が表われていたのではないかと思います。 カルリーノ監督が、三島文学の愛好者であり理解者であることは、映画の中のいたるところによく表われていましたが、映画作家としての彼は、三島に忠実である以上に自分自身に忠実であったからこそ、そういう結果を生んだのだと思います。 それから、私は三島由紀夫の原作を読んで、やはり三島文学の忠実な映画化は、もともと無理だったのだということをつくづく感じました。 少年たちの秘密結社の行動は、確かに三島の小説の核心をなしているとは思いますが、それを三島の非現実的な理想主義的観念論で押し通すことは、はなから映画では浮き上がる恐れがある以上、これは、過去の例で言えば、リンゼイ・アンダーソン監督の「もしも---」に似た感じになるのも当然だったのではないかと思います。 海の男の凡俗化、堕落を処罰するという完全主義は、三島文学の信奉者でないかぎり、観る人を納得させることは難しいのではないかと思います。 むしろ、嫉妬からだと見るほうが、わかりがいいように思います。 いずれにしろ、三島の原作は、派手な言葉の洪水に満ちています。 絢爛という言葉が、まさにふさわしい小説なのです。 映画では、これはバッサリ切らなければなりませんが、切っただけでは通俗的なロマンスものになってしまいます。 映画は映画で独自の工夫というものをしなければなりません。 この点、脚色もしているカルリーノ監督は、なかなか巧みにアレンジしていると思います。 言葉と同じ価値のものは、あっさりと捨て去り、彼はそこに視覚的な世界を繰り広げてみせたのです。 彼も、三島の凝りに凝ったディテール描写の魔術をよく理解していたに違いないし、それを映画でも尊重していますが、もともと映画はそれを時間をかけずに一挙に映し出す特性を持っている以上、時間をかける三島の筆致を映画で踏襲することは、初めから無理なのだと思います。 そのため、カルリーノ監督はそういうことよりも、かなり質は違っても、街の風景や港の光景、特に海の景観の描写に重きを置いたのだと思います。 したがって、ここには、刺戟の強い三島の描写とは別の静かな情感にあふれた光景が表われています。 これが、原作に忠実な映画化かどうかには疑念があるかも知れませんが、少なくとも原作に忠実な映画作家の、映画に忠実な映画化であることは確かであると思います。
高校教師
この映画「高校教師」は、陰鬱で、言いようもなく、暗い炎が燃え盛る愛のドラマだと思います。 なんという苦さ、なんという虚無感だろう。 この映画は、イタリアの叙情派のヴァレリオ・ズルリーニ監督の、いわば"心情的"な自伝映画なのだと思います。 イタリアのリミニの町へ、高校の臨時教師としてやって来た、37歳のダニエレ・ドミニチ(アラン・ドロン)は、成熟した19歳の美しい女生徒ヴァニーナ(ソニア・ペトローヴァ)を、本当に愛したのだろうか。 寡黙で拒否的な、謎めいたこの教え子に「君の痛みや、どうにもならない憂鬱を見ていられないんだ」と近づく彼の、それは恋慕というより"自己愛"ではなかったのか。 彼が生徒の前で口にする、イタリアの詩人や文豪、ペトラルカやマンゾーニやレオパルディの作品には、たとえ恋の憧れを謳おうとも、"厭世の影"が色濃く漂うんですね。 そして、その翳りは、そのままダニエレのものなのだ。 暗い暗い絶望感でもあるのだ。 かつて従妹の少女リビアを、初恋の16歳で自殺に追いやってしまった彼は、その青春の打撃を、悔恨を、罪の意識を、今も引きずるかのように見える。 だがその背後に、いや底に深く根差すのは、彼の名門の家系なのだ。 エル・アラメインの英雄として戦死した大佐の亡父と、ラストの葬儀に凝然と凍り付く横顔を見せる母、そして彼が学んだ神学も含めて、全て偽善と虚偽の権勢による重圧への、反抗と憎悪の果ての絶望こそが、今のダニエレ・ドミニチを無限の虚無感に沈ませるのだと思います。 遠い日、彼が亡き少女リビアに捧げたという詩集「静寂の最初の夜」は、むしろ彼の"若気の至り"ではなかったのか。 "死こそ静けさの初めての夜-----"と謳った、あの若気の情熱への追慕を、今ダニエレは、美しい教え子ヴァニーナの上に重ねるのだ。 金髪のなまめいた女装の男が「彼女は危険よ。たくさんの過去と、少しの現在と、未来はゼロの女よ」と囁いた、ヴァニーナの上に--------。 彼の中で燃え盛る暗い情熱の炎は、死への志向だ。 彼はヴァニーナを、"愛"ではなく"死"への道連れに選びとりながら、だがなお彼は、自ら死に踏み切れず、自動車事故という形で「静寂の最初の夜」を勝ち取るのだ。 そして、ダニエレと妻モニカ(レア・マッサリ)、かつて人の妻であった彼女と、彼女を盗んだ彼とは、互いの傷口を指でえぐりあうようにして、"罪の共犯意識"を嗜虐的に確かめ合う------。 自分を淫らに貶めることで、逆にダニエレの愛をモニカは求めるのだけれど、彼にはもはや愛はなくなっているのだ。 いや、最初から愛はなかったのかも知れない。 ヴァニーナが、実は"娼婦"であったことは、観ている者にとって大したショックではない。 むしろショックは、これほど気分を出して官能場面を描きながら、その実、ズルリーニ監督は、本当に"愛をこめて"女を描いてはいないことだ。 夏の時期以外は、パタリと寂れてしまうこのアドリア海に面した北イタリアの海水浴の町リミニ。 シーザーが「ルビコンを渡った」そのルビコンの"小川"を少し北に持つ、閉鎖的な救いがたいリミニの町の、荒涼たる冬の風景に、トランペットとサックスのけだるく哀切な響きが高鳴っていく------。 この映画は、かつて女を恋した、あるいは愛そうとした情熱も、今は"失われた幻想"となったズルリーニ監督の、これはエゴイスティックな男の映画なのだと思います。
バラキ
この「バラキ」は、ノン・フィクションの映画化としては実証性が希薄で、ギャング映画としては事実に足を引っ張られて、フィクション化が不徹底な作品だと思います。 この映画「バラキ」は、監督が007シリーズの初期の監督を務めたテレンス・ヤング、製作がイタリアの大プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス、音楽がリズ・オルトラーニという、映画好きにとっては、この名前を聞いただけで、ワクワクするようなメンバーによる作品ですね。 そして、主演のチャールズ・ブロンソンと監督のテレンス・ヤングのコンビとしては、「夜の訪問者」、「レッド・サン」に続く3度目の作品になりますね。 この映画の原作は、「セルピコ」の原作者としても有名なピーター・マーズの大ベストセラー小説の「マフィア/恐怖のシンジケート」で、映画化に当たっては、当時、関係者が獄中で存命中であり、彼の指示で暗殺等の危険性もあった為、関係者の死後、製作されたといういわくつきの作品なんですね。 マフィアの準幹部だったバラキ(チャールズ・ブロンソン)が、組織に欺かれ、復讐のためにマフィアの組織、コーザ・ノストラの内情をFBIの係官にぶちまけるが----という内容ですが、当時、同時期に公開されていた「ゴッドファーザー」と同様に、残虐な場面が話題を呼び、一度足を踏み入れたら抜けられない、血のファミリーの怖さを描いた実録物として評判になった作品でもあるんですね。 このピーター・マーズの原作は、ジョセフ・バラキ、映画の中ではバラチと発音していましたが、彼の告白をもとにしたノン・フィクション・ルポルタージュとも言うべきもので、バラキがどんな人間であったのかも、よく観察して表現していたと思います。 私は、この原作を先に読んでから、映画を観たのですが、テレンス・ヤング監督の映画の方は、一応、事件の起こった日時などが画面に出て来て、実話的な感じを出そうとしているようなのですが、脚色も演出も、完全なギャング映画のスタイルになっていて、実話の映画化といった実証性に乏しかったような気がします。 それでいて、登場する人物には、一応、実在の人物らしい似せ方もしようとしています。 つまり、ノン・フィクションとしての興味と、ギャング映画的な面白さとをいっしょくたに、まぜこぜにしてしまったような映画になっているとの印象を受けました。 だから、ノン・フィクションの映画化としては、実証性が希薄だし、ギャング映画としては、事実に足を引っ張られてフィクション化が不徹底になっているのだと思います。 娯楽映画の職人監督のテレンス・ヤングとしては、あまりにも欲張りすぎて、かえって中途半端な映画になってしまったという気がします。 そのような、この映画の欠点は、主人公バラキの描写に、はっきりと表れています。 実話の映画化としては、映画のバラキは朴訥な好人物でありすぎるし、ギャング映画の主人公としては、粒が小さくて、アクの強い魅力にも乏しい気がします。 ブロンソン自身も演じていて、やりにくかったんじゃないかという気さえしてきます。 これを劇映画のつもりで観る人は、恐らく、劇中の人間関係の複雑さにちょっとついていけない感じを受けるのではないかと思います。 さいわい、私は原作を先に読んでいたので、人間関係はよくわかりましたが、その代わり、人物の描写がかなり平板でチャチだったのに不満を覚えました。 例えば、国外逃亡していたバラキのボスのヴィトー・ジェノベーゼ(リノ・ヴァンチュラ)が、ニューヨークに帰って来た時、波止場で出迎えの連中に対して、すぐ麻薬の話を始めますが、そういうところが、いかにも通俗的なギャング映画のようで、安っぽい感じがしましたね。
プロメテウス
この映画は、リドリー・スコット監督の映画で、人類誕生の瞬間と、ポスターに書いてありますが、「エイリアン」の最初の物語なんですね。 エイリアンが出てくる、出てこないとかいう以前に、構造が全くあの映画と同じなんですね。 ある意味、焼き直しと言ってもいいと思います。 プロローグは、とある宇宙人が太古の地球と思しき場所で、有機生命体を生みだそうとしているところから始まる。 時代は下って、21世紀の地球。時代も場所も全く異なる地球上の様々な場所から、共通性を有する壁画が発見される。 それは“人類の創造主”から宇宙への招待状ではないかと、そう考えた科学者たちは、莫大な富を持つ資本家によって創られた宇宙船プロメテウス号に乗って地球を旅立つ--------。 ここからがエイリアンと同じ流れになって、目指す惑星が近づき、乗組員は長い眠りから目覚める。 惑星に降り立った彼らは、異星人の遺跡と思われる場所の奥深くへ侵入する。 そこで未知の恐るべき生命体に遭遇。 その生命体は、人間の体内へも入り込み、急速な成長を遂げる。 乗組員の中には、密命を帯びたアンドロイド(マイケル・ファスベンダー)もいる。 クライマックスで最後に立ち向かうのは、やはりヒロイン。 だから、観ていたら強烈な既視感に捉われますね。 この作品ではノオミ・ラパス、シャーリーズ・セロンのWヒロイン。 それで、その人類起源の謎は解けたのかというと、なぜその創造主がそういう試みをしたのかが分からないまま。 実は、そこがこの作品のラストとも結びつき、続編の可能性を匂わせていますね。 この作品は観た後に、お互い確認をしあいたくなる映画ですね。 おそらく、この一本だけでオフ会とかも可能なのではと思います。 ただ、その前に「エイリアン」シリーズを全部とは言わなくても、一作目だけでも、もう一回観ておいた方が10倍は楽しめると思いますね。
評決
第55回アカデミー賞で、この映画「評決」は、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞にノミネートされていましたが、何一つ受賞出来ませんでした。 特に、過去5回も主演男優賞にノミネートされながら、一度も受賞した事のないポール・ニューマンが、今回はきっと受賞するだろうとの下馬評が高かったのに、その力演も空しく、「ガンジー」で一世一代の名演技を披露したベン・キングスレーに敗れ去りました。 ポール・ニューマンが主演するこの「評決」を、オスカーが無視した背景として、彼が人権擁護に積極的な民主党員であり、1968年には同党のコネティカット州の代表に選ばれ、当時のカーター大統領の時代には国連軍縮特別総会の米国代表候補にされたという、反戦運動家としての政治的キャリアが災いしたとも言われています。 「核問題は全ての事より大切なんだ。非合法移民、インフレ、失業、レイオフの問題よりもだ。だって核の問題で読み違いをおかしたら、他の問題など吹き飛んでしまう」と、ある雑誌のインタビューに答えて、自分の政治的な信条をはっきりと表明するような彼は、華やかで、当時の保守的なハリウッドのアカデミー賞の会員にソッポを向かれ、アメリカ国内の既成の権力に対して反抗的な内容の「評決」が、同じ性格のコスタ・ガブラス監督、ジャック・レモン主演の「ミッシング」と同じ冷遇を受けたのは、アカデミー賞の限界を示すものだと言えるのかも知れません。 この映画「評決」は、陪審制下の"法廷もの"であり、また"医療ミス"を題材にした、弁護士出身のジョン・リードの原作の映画化作品です。 かつてはエリート弁護士でしたが、陪審員を買収した上司を内部告発しようとして失脚した、負け犬でアル中で女にも弱い弁護士のギャルヴィン(ポール・ニューマン)を立ち直らせたものは何なのか? 落魄したうつろな自分をそこに見るような、生命維持装置に繋がれた悲惨な患者の姿なのか? 真実を追求しようとせず、金だけで解決しようとする安易な法曹界への反発なのか? 支配階級であるWASPへの憎悪なのか? それとも謎の女ローラ(シャーロット・ランプリング)への愛情なのか? --------。 この映画は、自らを失っていた弁護士ギャルヴィンの"人間としての自己回復、魂の再生のドラマ"を静かに、しかし、熱く描いていくのです。 酒と人いきれにすえたような暗いパブ、その片隅で弾けるピンボールの虚しい響き、悲惨な状態で長期療養病院に横たわる植物人間と化した患者の姿、厚味のある色調のボストンの街並み、寒々しい法律事務所の雑然とした室内、重々しく緊張感に満ちた法廷----、これらを静かに、厳しく映していくポーランド生まれのアンドレイ・バートユウィアクのカメラには深い情感があり、デービッド・マメットの脚本には濃密な味わいがあります。 監督のニューヨーク派の名匠シドニー・ルメットは、「十二人の怒れる男」「狼たちの午後」「ネットワーク」で三度もアカデミー賞の監督賞の候補になりましたが、受賞しないままです。 ギャルヴィンの相棒に扮するジャック・ウォーデン、ギャルヴィンの法廷での強敵となる、被告側の弁護士コンキャノン役の名優ジェームズ・メイスンの演技は、共に白熱した演技を示しています。 そして、コンキャノンのスパイとして、ギャルヴィンを誘惑するローラを演じるシャーロット・ランプリングは、「愛の嵐」以上に神秘的な妖しい魅力を発散させています。 挫けそうになるギャルヴィンを叱咤する彼女の姿には、スパイではなく本当の愛がのぞいているように感じます。 この映画のラストで彼女がベッドからかける電話、それを取り上げようとしないギャルヴィンの思いは、複雑で切ない余情を感じさせてくれます。 法廷のシーンで自己の人間としての復権を賭け、絶望的に不利な状況の中で、ギャルヴィンが陪審員に向かって静かに訴えかける言葉------。 「正義を与えるためではなく、正義を我がものにする機会を与えるために法廷があるのです」 「法とは、法律書でもなければ、法律専門家でもなく、法廷でもありません。そういうものは、正しくありたいという私たちの願望のただの象徴にすぎないのです」 「金持ちは常に勝ち、貧しい者は無力。正義はあるのか? 私たちは自分の信念を疑い、法律を疑う。しかし正義を信じようとするなら、自分を信じることです。正義は、私たちの心の中にあるのです。あなたが今感じていることこそ正義なのです。」
殺人捜査
アカデミー最優秀外国語映画賞、カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作のエリオ・ペトリ監督の「殺人捜査」を久し振りに観直しました。 ローマ市警の鬼と言われているエリート警察官が、情婦を殺害し、現場にわざわざ数多くの証拠を残していきます。 だが、誰も彼の犯罪とは気がつかないのです。 やがて、遂に彼は自白するのですが、上司はそれを認めようとしません。 殺人事件そのものを、闇の中へ葬り去ろうとするのです。 この映画は、凄まじいサスペンスに満ちた人間ドラマです。 いわば、現代版ドストエフスキーの「罪と罰」とも言えます。 この映画を観て、私が感じる一番のポイントは、有能なエリート警察官が、権力というものと自分の才能をオーバーラップしてしまう怖さです。 警察権力というのは、民主主義の国においては、国民から警察官が預かって代行しているはずなんですね。 それをえてして間違う警察官がいる。 組織を第一に考えるところから始まる勘違いですね。 制服が優秀なのではなく、その中の人間が優秀であるはずなんです。 映画のラストで、事件の処理をするのに、ブラインドを下ろして、全てを隠してしまう恐ろしさ。 権力というものの怖さをまざまざと、我々に語っています。 この映画でエリート警察官を演じているのがジャン・マリア・ボロンテ。 「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」にも出演していた、イタリア映画界屈指の名優です。 監督のエリオ・ペトリは、批評家から脚本家になり、さらに記録映画を経験して、映画監督になった人ですが、現実の不安の中に人間の真実を探ろうとする作風で、これまでも「悪い奴ほど手が白い」や「怪奇な恋の物語」など、独特の乾いたタッチの名作を発表し続けてきた監督なんですね。 音楽は、「夕陽のガンマン」などの映画音楽界の巨匠エンニオ・モリコーネ。 イタリア映画ならではの、社会派ドラマの秀作で、映画史に残る一篇だと思います。
死霊のはらわた
サム・ライミ監督のホラー映画は、ほぼ無条件に楽しめる。 笑えて、頭が切れて、遊びが多いからだ。 特に、この「死霊のはらわた」は、文句なしに楽しめる傑作だ。 話自体は、類型を出ない。森の小屋で週末を過ごそうとした五人の若者が、悪霊に取り憑かれ、恐怖の一夜を送るという展開は、チープなホラー映画の典型だ。 だが、当時22歳の青年だったサム・ライミ監督は、直球をストライクゾーンにズバリと投げ込んでくる。 しかも彼は、釣り球を使わない。 ストライク、ストライク、ストライクで三球三振。 そんな感じの描写がスピーディーに続くので、観ていて全く退屈しない。 大袈裟な流血の場面を前にしても、嫌な気分に陥ったり、気が沈んだりすることはない。 むしろ、けらけらと笑って、次の場面を待ち構える。 ただし、サム・ライミ監督は、ホラー映画の文法をしっかり押さえる。 前進移動と後退移動の着実な切り返し。 そして、あまりにも有名なシェイキー・カムを多用したPOV撮影。 霧や泥や雷の効果的な活用。死霊の正体を映し出さない節度。 かくて「死霊のはらわた」は、低予算ホラー映画のエポックメイキングな作品になったのだ。 製作費は三十七万五千ドル。これで興行収入が三千万ドル以上なのだから、サム・ライミ監督としては、してやったりだろう。 危機を次々と切り抜ける、主役のアッシュに扮したのは、自主映画時代からサム・ライミ監督の盟友だったブルース・キャンベル。 そして、映画ファンとしては、編集助手として親友のジョエル・コーエンの名前がクレジットされているのも、ニヤリとしてしまいますね。
パララックス・ビュー
この「大統領の陰謀」「ペリカン文書」を撮った、社会派のサスペンス映画を得意とするアラン・J・パクラ監督の「パララックス・ビュー」は、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件を思わせる、政治サスペンス映画の秀作だ。 「ダラスの熱い日」のような進歩派のメッセージ映画に終わらず、観ていてハラハラさせられる娯楽映画になっているのが面白い。 シアトルで、進歩派の上院議員が何者かに暗殺される。 事件は「狂人の単独犯」で処理されるが、その後も、事件の目撃者が、次々に不可解な死を遂げる。 女性ジャーナリスト(ポーラ・プレンティス)から、「あの事件は組織的な暗殺だった」と告げられた地方紙の記者(ウォーレン・ベイティ)は、はじめは信用しないが、彼女がその後、何者かに殺されるに至って、ブンヤ根性をかきたてられ、事件を再調査していく。 そして、進歩派の政治家ばかりを狙う、影の暗殺集団があることをつきとめる。 それは、プロの殺し屋の組織ではなく、進歩派にいじけた反発を抱く、プア・ホワイトたちを教育して、暗殺者に仕立てあげていく殺人教習所だった。 その組織の中核にまでウォーレン・ベイティが入り込んだ時、すでに影の手は彼自身にも及んでいた-------。 アメリカ進歩派のプア・ホワイトへの偏見。 それに対抗するプア・ホワイトの進歩派への、いじけたコンプレックス。 アメリカ社会のどうしようもない亀裂をうかがわせる。 製作者側は、もちろん主演のウォーレン・ベイティ、監督のアラン・J・パクラとも進歩派。 パクラ監督は、この後、ウォーターゲイト・スキャンダルを暴いた「大統領の陰謀」を監督することになる。 この映画は、間違いもなく、ジョン・F・ケネディ大統領を殺したのは、中西部のプア・ホワイト、それを操った保守反動どもだと言いたかったのだと思う。
小間使の日記
ルイス・ブニュエル監督の「小間使の日記」は、最もブニュエル監督らしく、また最も彼の作品と異なっているように思える。 淡々としたストーリーのなかに、彼独特のエロティシズムと死の匂いがある。 フランスのノルマンディー地方の、あるブルジョワ家庭の小間使・セレスティーヌに扮する、フランスを代表する名女優ジャンヌ・モローは、決して好感の持てない女を、怪しげなエロティシズムを漂わせつつ演じている。 一地方のブルジョワ家庭を、小間使の目を通して描いているのだが、そこには様々なアブノーマルな世界が展開していく。 冷感症でセックスを拒んでいる女主人。 彼女は、小間使のセレスティーヌが、香水をつけているだけでも、いらついて注意する。 そういった、普通の小間使ではない、世慣れた女をジャンヌ・モローは好演しているといっていい。 夫人からセックスを拒まれている、ミシェル・ピッコリ扮する夫のモンティユは、精力を持て余し、それを狩りに出る事で癒している。 当然のように、セレスティーヌにも言い寄るのだが、相手にされない。 モンティユの舅のラブールは、靴フェティシストで、セレスティーヌに自分のコレクションの靴を履かせたりして興奮するといった有様だ。 とにかく、変な人がいっぱいなのだが、これがブニュエル監督の手にかかると、実に芸術的でエロティシズムを感じさせるのだ。 この作品で重要なのは、セレスティーヌともう一人の、ジョルジュ・ジェレ扮する下男のジョゼフだろう。 二人ははじめから憎み合っているのだが、それはどこか近親憎悪に近い。 確かに二人とも、ただ従順に主人に仕えていないところは、よく似ている。 この映画で、一つだけ、セレスティーヌが女の意地を見せるシーンがある。 ジョゼフが、村の少女を強姦して殺害した時だ。 彼女は、自分の肉体をジョゼフに与えてまでも、彼から殺人の証拠を摑もうとする。 森の中で殺害された少女の足に、蝸牛が這うシーンには寒気がする。 痛々しく、鮮烈なシーンとして忘れられない。 しかし、そこには一つの、少女へのブニュエル監督のメタファーも感じられた。 どこかで人間を愛せないでいる人たち、セレスティーヌと、ジョゼフはまさにそんな人間だった。
鬼火
このフランス映画「鬼火」は、ルイ・マル監督、モーリス・ロネ主演にて、自殺を決意した男の、死に至るまでの二日間の行動を描いた、厭世感あふれる秀作だ。 アル中患者として療養所で暮らすアラン・ルロワ(モーリス・ロネ)は、かつて社交界の花形だったが、今は死にとり憑かれている。 その彼が、人生の最期を締めくくるためにパリの旧友を訪れる-------。 ひと言で言って、フランス映画というのは、非常に感覚的だ。 まず、感覚に訴えてくる。 自殺しようとする男の感覚が、思考よりも何よりも、最初に観る側に伝わってくるのだ。 死への傾斜、物憂い、痺れるような感覚と、それを通して見た世界の相、その頼りなさ、確かにつかめるもののない、何とも言えない不安-----それらが、頭で考えるより先に、いち早くこちらのものとなってくる。 いつの間にか、観客(私)は、死を前にした男の主体に加わって、その半分麻痺した感覚において世界を見、それと親しく接している。 この目で見る世界は、何かよそよそしく、物憂く、そして非情だ。 多くの人々と接しながら、却って孤独の淵へと沈み込んでいく気分が、世界との別れを、抵抗なく感じさせてしまう。 まさにこれは、別れの物語だ。 死に傾斜していく男が、そのどんよりとした意識の中で、この世界とそこに住む人々に別れを告げていく。 人びとは、それぞれに生きている。 しかし、男の目に、彼らの生は耐え難い不純さとして映るのだ。 女たちは彼に優しい。しかし、男は彼女らを恐れる。 女たちもまた、彼のもとを去って行ってしまう。 「あなたには野生はない。あなたにあるのは心よ」。 ソランジュの答えが、彼のもとを去ったすべての女たちの彼への答えであり、また、よそよそしかったこの世界のそれでもあった。 この時、彼はまさに別れを告げるのだ。最も"生きる"ために--------。
マックQ
この映画「マックQ」は、西部劇の大スター、ジョン・ウェインと西部劇の大御所ジョン・スタージェス監督が初めてコンビを組んだ爽快な刑事アクション映画。 この映画「マックQ」は、西部劇の大スターのジョン・ウェイン初の刑事役で、ウィンチェスター銃と馬を、特製ピストルと新型車に変えて大活躍する刑事アクションで、監督が、これまた、「OK牧場の決闘」や「荒野の七人」の西部劇映画の大御所ジョン・スタージェス監督で、意外な事に初めてコンビを組んだ作品です。 映画の舞台は大都市シアトル。中年の刑事ボイルが何者かに散弾銃で射殺されるという事件が起こります。 ボイルの友人の警部補ロン・マックQ(ジョン・ウェイン)は、激怒して自分の手で犯人を捕まえようと決心します。 このマックQを演じる、我らがジョン・ウェインは、黒のブレザーにポロシャツというラフな姿が結構さまになっていて、動きにやはり、敏捷性を欠くのが唯一の弱点ですが、しかし、そんな事はどうでもいいというばかりの貫禄、これは大したものです。 波止場を逃走する殺し屋を、ジャンパー・スタイルのマックQが背後から狙い撃ちして、一発で仕留める場面など、ジョン・ウェインがやるとさまになるし、やはり非常にカッコいいですね。 とにかく、西部男だろうと、刑事だろうと、そんな事には一切お構いなしに、あくまでもジョン・ウェインの持ち味をひたすら貫いているところに、感動すら覚えてしまいます。 そして、麻薬王のサンチャゴという男に目星をつけたマックQは、レストランのトイレの中で彼をこてんぱんに痛めつけて半殺しの目にあわせます。 この事が上司に知れて、マックQはこの事件から手を引けと命じられたため、彼は警官バッジや拳銃を上司に返して一介の市民となり、私立探偵の肩書を得て単独で捜査を続行する事になります。 意外な人物が犯人だったという事になるのですが、とにかく、警察、麻薬ギャング、犯人一味、それにマックQが入り乱れて繰り広げる、相当入り組んだ複雑な筋立てを、さすが百戦錬磨のジョン・スタージェス監督は、手際よく、うまく演出していると思います。 考えてみれば、ふつう、このようなアクション映画は、展開にスピード感を強調して演出するのが定石なのですが、ジョン・スタージェス監督の演出は、逆にゆうゆうたる描き方で、おおらかな雰囲気の楽しさを盛り上げてくれます。 しかし、そうは言っても、スタージェス監督はアクション映画としての面白さのツボも十分心得ているから、映画好きとしてはたまりません。 追いつ追われつのカー・アクション場面も、ダイナミックな迫力があるし、強奪した麻薬をクリーニング屋のトラックに積んで、ハイウェイを突っ走るギャングたち。 近道をぶっ飛ばして彼らを追走するマックQ。 そして、この映画の最大の見せ場とも言える、ラストの海辺における銃撃戦。 2台の車に分乗したサンチャゴと武装した手下どもは、マックQをどこまでも追跡します。 この3台の車がしぶきをあげて海辺を疾走する光景は、映像的に観てもなかなかスリリングで迫力があるし、何よりも非常に美しいのです。 やがてボストン・バッグから高性能マシンガン、イングラムを取り出したマックQは、車もろとも手下どもをやっつけ、最後は、サンチャゴの胸に銃弾をぶち込むのですが、このクライマックス・シーンは、格調高いタッチで西部劇的な爽快感、カタルシスを表現したところは、やはりジョン・スタージェス監督とジョン・ウェイン主演だからこそ成し得たのだと思います。
ヒンデンブルグ
この映画の題名にもなっている「ヒンデンブルグ」とは、飛行船の名前で、もともとはドイツ・ワイマール共和国の大統領の名前で、彼の名にちなんで命名されたものだ。 このヒンデンブルグ号は、第二次世界大戦の直前にナチス・ドイツがその国力を全世界に対して誇示するために作った飛行船なのだが、1937年5月、ドイツのフランクフルトからアメリカのニュージャージー州レークハーストに着陸寸前のヒンデンブルグ号が大爆発し、炎上した事件は、謎の大惨事として、全く原因がわからないまま今日に至っている。 そして、この歴史的な大事件をマイケル・ムーニーが一冊の本にまとめ、「ウエスト・サイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」等のミュージカル映画の傑作や、その一方で「私は死にたくない」や「砲艦サンパブロ」等の社会派ドラマも数多く撮っているロバート・ワイズ監督が映画化したのが、この映画「ヒンデンブルグ」だ。 この大事故は多くの謎に包まれていただけに、空想をはたらかせる余地があるわけで、この映画では反ナチの若い乗務員の犯行という仮説を立てて、物語を構築している。 主演は「パットン大戦車軍団」のジョージ・C・スコット、「奇跡の人」のアン・バンクロフトで、当局の命令で警戒に当たるため、この飛行船に乗り込んだジョージ・C・スコットと、カメラマンというふれこみのゲシュタポのロイ・シネスの対立を軸として、盛り上げられていくサスペンスを、ヒンデンブルグ号の壮大な飛行場面に融合させたロバート・ワイズ監督の演出のうまさは、さすがだ。 ミニチュアと船体の部分的なセットと船内のセットをうまく織り交ぜて、巨大さをよく表現しているのも成功している。 銀灰色に輝く巨体が、ゆうゆうと雲間に消えていく光景は、SF的にロマンさえ感じさせてくれる。 そして、いよいよ事故が起きる寸前から、画面がそれまでのカラーから、さあっと白黒の画面になって、物凄い臨場感が生まれてくるのだ。 もともと、この爆発の模様をしっかりと撮った当時のニュース・フィルムが現存していて、それを実際に入れて再編集したわけだが、ここにロバート・ワイズ監督の大きな意図があったように思う。 あの白黒のニュース・フィルムを入れることによって、時間と空間を見事に合致させ、一つの核を作って、観ている者を、あの大爆発の現場に誘おうと、ロバート・ワイズ監督はしたのだと思う。 そして、彼の計算は見事に当たって、観ている者は目もくらむスペクタクルを目のあたりにすることが出来たのだ。 やはり、ロバート・ワイズ監督は、オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」の編集を手がけた人だけに、編集のテクニックは抜群なわけだ。 そして、映画全体を通してロバート・ワイズ監督が言いたかった事は、科学の急速な進歩で数多くのメカが作り出され、世界は繁栄しているけれど、その繁栄をまた破壊するのも全て人間の行なう事。 その"人間の業の哀しさ"が、ラストの大爆発のシーンに的確に表現されていたのではないかと思うのです。
ペーパー・ムーン
1970年代のアメリカ映画の映画史的な流れとして、過去を取り上げた、いわゆるノスタルジックな映画が流行しました。 過去を取り上げるだけなら、そんなに珍しい事ではありませんが、色彩から衣装、音楽の使い方に至るまで細心の神経と注意をはらい、ノスタルジックな郷愁をかきたて、気分を盛り上げていくような映画が数多く製作されました。 それは、一面では現実からの逃避という側面もありますが、良質の優れた映画には、過ぎ去ったものをもう一度見直そうとする真摯な精神が満ち溢れていたのではないかと思います。 映画批評家出身のピーター・ボグダノヴィッチ監督は、1968年の「殺人者はライフルを持っている!」で鮮烈なデビューを飾った後、1971年のノスタルジア映画の最高峰とも言われる名作の「ラスト・ショー」を撮り、まさに監督としての絶頂期の1973年にこの「ペーパー・ムーン」を撮りました。 その頃、フランシス・フォード・コッポラ監督、ウィリアム・フリードキン監督という当時の新進気鋭の監督たちと、「ディレクターズ・カンパニー」という独立した映画会社を設立し、その第1回作品としてこの「ペーパー・ムーン」が製作された事はあまりにも有名です。 特にピーター・ボグダノヴィッチ監督は過去へのノスタルジック物が大好きで、「ラスト・ショー」で1950年代を描いた後、今度は「ペーパー・ムーン」で1930年代を描きましたが、この映画は白黒スタンダード映画で男と少女という設定はチャップリンの名作「キッド」へのオマージュを捧げた映画になっているのは明らかです。 そして、映画批評家出身で映画オタクでもあるピーター・ボグダノヴィッチ監督が、"古き良き時代の映画よもう一度"という夢を託した映画でもあると思います。 だからといって、古色蒼然と撮っている訳ではなく、カメラ・ワークや編集の仕方は、いわゆる当時のアメリカン・ニューシネマ以後のアメリカ映画の新しさをもっていて、ピーター・ボグダノヴィッチ監督は、非常に斬新で凝った映像作りをしていると思います。 この映画は1930年代のアメリカの不況時代の中西部を舞台に、ライアン・オニール演じる詐欺師の男モーゼとテイタム・オニール演じるアディという少女の心の交流を描く映画で、映画の題名の"ペーパー・ムーン"というのは、当時の有名なヒット・ナンバーの題名となっています。 この映画の実質的な主人公は、母親が他界して孤児となった9歳の少女アディで母親の葬儀に突然現れた詐欺師のモーゼと一緒に、聖書を使って人の善意につけ込む怪しい商売をしながら旅を続ける事になるという、アメリカ映画お得意のロード・ムービーという形をとりながら描かれていきます。 そしてアディはモーゼよりも一枚も二枚も上手をいく天才的な悪知恵を働かせて、モーゼの窮地を救ったりというエピソードが描かれていきます。 当時は未曾有の大恐慌の時代で、子供にとってもサバイバルが大きな問題で、このような悪い時代を軽妙な詐欺で乗り切ろうとする、"シニカルでユーモアたっぷりな設定"が大変うまく生かされ、二人はいい加減な日々を逞しく生きながらも、やがて親子のような絆を作り上げていきます。 カーニバルのアトラクションとして展示されている"ペーパー・ムーン(紙でできた月の模型)でも、信じれば本物の月のように見えるように、いい加減な人生の中にもひとかけらの真実が宿るという事もあるんだよ"という事を映画の作り手たちは、我々観客の心に語りかけて来ているような気がします。 ピーダー・ボグダノヴィッチ監督が、映画の中で1930年代を再現しようとする凝り方は異常なくらい、凝りに凝っていて、映画のロケ地であるカンザス州の田舎町は、南部と中部を中心に8000キロのロケハンをしたあげくに探し出したところだと言われていますし、衣装についても、1930年代の映画でビング・クロスビー、ロバート・テーラー、ジェイムズ・キャグニーなどが着用した撮影用の服もそのまま再使用されたとの事です。 そして、クラシック・カーのラジオやホテルの古いラジオから流れてくるビング・クロスビーの歌やトミー・ドーシー楽団のスウィングなど1930年代のヒット・ミュージックが映画をノスタルジックに楽しく、ワクワクさせてくれます。 この映画の大成功の要因はやはり、撮影当時9歳だったテイタム・オニールのキャスティングにあり、一見すると少年のような容姿ですが、そんな彼女がモーゼが入れ込むグラマーな芸人に対して、ひとりの女としてライバル心を燃やすところの心理描写を実にうまく演じていて、まさに舌を巻く程という形容がぴったりとするくらいの天才的な演技力を示しています。 そして、テイタム・オニールはこの映画の演技で、1973年度第46回アカデミー賞で最優秀助演女優賞を受賞し、同年の第31回ゴールデン・グローブ賞で有望若手女優賞を受賞しています。 テイタム・オニールの9歳でのアカデミー賞の最優秀助演女優賞の受賞は、アカデミー史上最年少での受賞であり、それまでの「奇跡の人」でヘレン・ケラーを演じて16歳で同賞を受賞していたパティ・デュークの記録を破る画期的なものでした。
審判
この映画「審判」は、不条理な世界を描き続けたフランツ・カフカの同名小説の初めての映画化で、「市民ケーン」のオーソン・ウェルズが監督としてメガホン取っています。 ある朝、突然、何の理由も説明されないまま、当局によって"有罪"を宣告された、銀行の副部長ヨーゼフ・K(アンソニー・パーキンス)。 だが検察官も刑事も彼の罪状を知らず、身柄を拘束する必要もないと言い放ちます。自由の身のまま、一挙手一投足を監視され、次第に疲弊していくヨーゼフ・K。 そして、呼び出された法廷は大群衆がひしめき合う廃墟となった劇場で、とても裁判官とは思えぬ下品な司直が無意味なおしゃべりをするばかり。 ヨーゼフ・Kが雇った弁護士の仕事は一向に進展せず、いつまで待っても無罪を勝ち取れません。そのため彼は、裁判の全貌を知ろうとあがきますが、その機構も、審理の過程も、罪状さえもわからないまま追い詰められていきます。 更に、伯父の勧めでとある高名な弁護士を訪ねたKは、それから現実なのか空想なのかわからない奇妙な人間たちの間を往復した揚げ句に--------。 この映画を観ていると、巨大な社会の中の一個人の運命が、何か目には見えない、遥か天空の全く無縁の場所で左右されていて、本人の意志などまるで無意味なんだと思い知らされるような気がします。 そこで犠牲者たるべきKが、共感を呼ぶ存在かというと、そうて゛もないというところが面白いのです。 逮捕される前、彼は銀行の副部長の地位に安住し、自分が拘束されているとは考えもせず、優秀な男だと自惚れていたのです。 そして、逮捕後は、裁判からも自分を縛ろうとする弁護士からも解放されたいと願うくせに、会社の歯車のひとつである事には、やっぱり抵抗を感じていないのです。 この愚かしいまでの"無感覚"に、同情は不要だと思いますが、Kの犯した罪がまさにそれだ、という解釈も出来るような気がします。 つまり、自分が"自由な一個人"だと呑気に思い込んだ罪なのです。 とにかく、この映画を観ている間中、何もかもが歪んだ世界で、主人公のヨーゼフ・Kが、まさに小突き回される姿には戦慄を覚えずにはいられませんでした。
戦略大作戦
この映画「戦略大作戦」は、戦争アクションに、金の延べ棒奪取作戦をプラスしたところが新味の、戦争冒険アクション映画の痛快娯楽作だ。 監督は「荒鷲の要塞」のアクション映画を得意とするブライアン・G・ハットン。 この映画は、戦場の中での戦闘アクションだけでなく、計画犯罪ものの持つ面白さも盛り込んで、二倍楽しんでいただきましょうという趣向だ。 この着想はなかなか面白い。とにかく、人をくった話が展開するのだ。 そして、この映画には当時、大きな反響を呼んでいた、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」の影響を大いに受けていると思う。 朝鮮動乱のアメリカ野戦外科病院を舞台に、そこに勤務する軍医たちの奇妙奇天烈な行動を描いた反戦コメディで、ブラック・ユーモアのタッチを含んで描いていた映画だった。 この「戦略大作戦」の中心人物たちは、ロバート・アルドリッチ監督の「特攻大作戦」のような無頼漢のならず者たちではない。しかし、女のことばかり考えている露骨さは「M★A★S★H」的であり、金が手に入ると聞けば、軍規もそっちのけで行動をし始めるのだ。 従来の戦争冒険アクション映画では、敵の要塞を破壊するとか、重要人物をやっつけるとか、軍の作戦に結びついた事柄が目的になっていたと思う。 だが、この映画は、莫大な金塊をいただこうという、全く個人的な欲望が目的なのだ。 そのチャッカリ屋の代表選手が、クリント・イーストウッド扮するケリーで、テリー・サヴァラスその他の面々を仲間に入れるのだが、「M★A★S★H」のドナルド・サザーランドも加わっており、部隊長が留守の間に勝手に戦車隊を出動させ、作戦本部にあった敵地の地図まで無断で持ち出し、おまけに、自分たちの行動を援護させるために砲兵まで抱き込んで、大砲をぶっ放させるのだから、「M★A★S★H」以上のデタラメさだ。 こうした図々しくも大胆不敵、無軌道もいいとこのイーストウッド・グループの作戦は、数人が密かに敵地へ潜入するなんてものではなく、堂々と敵の陣地を爆破して進み、工兵隊まで動員して橋をかけるなど、普通の戦闘と同じことになってしまう。 その上、これを司令部のおめでたい将軍が、正式の奇襲作戦だと思い込み、「よくやったぞ、勲章だ! 」と喜ぶのだから、いよいよあきれかえったお話なのだ。 デタラメと言えば、これくらいデタラメな戦争映画もないだろう。 しかし、この映画は、そういうデタラメなところが見どころなので、これに腹を立てるような人には、最初から関係のない喜劇なのだ。 それにしても、自分たちが命を捨て、血を流して戦った第二次世界大戦を、こなにふうに笑って笑って、笑い飛ばせるユーモア精神は、たいしたものだと思う。 そして、こんなふうに戦争を捉えて描くと、戦争というものが、いかに馬鹿々々しいものであるか、ということがかえって、くっきりと浮かび上がってくるのだ。
オルカ
この映画「オルカ」は、リチャード・ハリスの船長が、シャチの一種のオルカとの死闘を展開する物語ですが、往年のグレゴリー・ペックが主演して巨大な鯨と死闘を繰り広げた「白鯨」のような文芸大作ではなく、「ジョーズ」の大ヒット以来、一大ブームとなった"動物パニック"物の系譜に連なる、海洋パニック・ロマンとも言える、"スパック・ロマン"と銘打たれた、ショッキングなスペクタクル作品だ。 この作品は、当然、「ジョーズ」の大ヒットの影響を受けて作られた映画ですが、白い海の猛獣オルカが人間に次々と復讐していく凄いスペクタクルが見どころで、しかも、このオルカは声によって交信出来る上に、知能が大変優れているので、海岸沿いの送油管を壊して丘の上の石油貯蔵所を爆発させるなど、頭脳的な作戦をたてて襲ったりするのです。 リチャード・ハリスの船長が、メスのオルカを捕まえようとして死なせ、その死体を甲板に吊るすと、腹から胎児がはみ出してくるというショッキングなシーンがあり、それを夫のオルカが甲板にいるリチャード・ハリスの姿をじっと哀しげな目で見つめ、その姿を目に焼き付けるクローズアップが、この後に展開するオルカの"壮絶な復讐"の重要な伏線になるのです。 この映画の見どころは、この凄まじいオルカの襲撃のスペクタクルとともに、オルカの母子を殺された復讐に燃える哀しい感情表現が、実に鮮やかに画面の中で描かれていることだと思います。 どこまでも追いかけて復讐しようとするオルカに対して、リチャード・ハリスが「お前は何者だ!」と叫びます。 突きつめて考えてみると、このオルカというのは、"人間の原罪意識の象徴"なのだと思います。 原罪意識、人間が積み重ねてきた数々の罪。 その罪の意識が生み出した"恐怖感の象徴"こそ、オルカだと思うのです。 映画の中で、オルカの目が何度も何度も大写しになります。 その目は、時に怒りに燃え、復讐に燃え、時には哀しみの涙さえたたえていました。 そして、何よりも自分の母子に対する愛の心が、その目の中に鮮烈に表現されていたと思います。 マイケル・アンダーソン監督が一番表現したかったのは、生きとし生けるものが持っているはずの感情、心そのものだったように思います。 この映画を単なる"動物パニックもの"から一線を画した、優れたドラマにしたのは、酔っ払い運転手による交通事故のため、愛する妻と子を亡くした過去を持つリチャード・ハリスが、そういう過去のトラウマを引きずりながらも、オルカとの闘いをしなければならなくなる執念の男を、哀しみをたたえて熱演しているのと、海洋学者に扮したシャーロット・ランプリングの知的な奥深い演技によるものだと思います。
マラソン マン
この映画「マラソンマン」は、1970年代を代表するサスペンス映画の傑作です。 何しろ監督が「真夜中のカーボーイ」のジョン・シュレシンジャー、原作・脚色が「大統領の陰謀」のウィリアム・ゴールドマン、撮影が「明日に向って撃て!」のコンラッド・L・ホール、主演が「レインマン」のダスティン・ホフマン、共演が「探偵スルース」のローレンス・オリヴィエ、「オール・ザット・ジャズ」のロイ・シャイダー、「ローリング・サンダー」のウィリアム・ディヴェイン、「ブラック・サンデー」のマルト・ケラーというように、超一級のスタッフ、役者が勢揃いしていて、もうこれだけで、映画的興味をそそられ、しかも、サスペンス映画ときてますから、映画好きにとってはたまらない映画です。 とにかく、1970年代のサスペンス映画というのは、冷静に考えてみると大風呂敷を広げた、壮大なホラ話であるのにもかかわらず、思わず背筋を正してジッと見入ってしまうものがほとんどなのです。 作品が作り手たちの思惑を超えて一人歩きし、"メッセージ性を持った社会派映画"などと高く評価されたり、1977年の「ブラック・サンデー」のように、政治色が強いと解釈され、上映禁止の憂き目を見たという事実など興味深いものがあります。 ジョン・シュレシンジャー監督が手掛けた、この「マラソンマン」も、そんな"壮大なホラ話"の一本であり、現代ニューヨークの超高層ビルの間隙をぬって、ナチスの残党が暗躍するという、大時代的な"怪奇探偵小説"の世界をサスペンス映画として展開してみせた作品です。 しかし、映画の中でナチスの残党に「この国(アメリカ)は豊かだ。だが近頃では神にも見捨てられてしまった」などと言わせているあたりが、一筋縄ではいかないところです。 しかも、マッカーシーの赤狩りで父親を失くした青年を主人公に据え、ナチスの残党と一騎打ちをさせるという設定が、かなり屈折しているなと思います。 そしてまた、そのようなところが、いいようのない翳りと、いかがわしさを、この映画に醸し出し、作品の魅力になっているような気がします。 名門コロンビア大学で専制政治という歴史学を専攻するベーブ(ダスティン・ホフマン)は、アベベに憧れ、セントラル・パークをマラソンするのが日課という生活を送っています。 一方、彼の兄シーラ(ロイ・シャイダー)は、アメリカ政府の諜報員で、ナチスの生き残りであるクリスチャン・ゼル(ローレンス・オリヴィエ)に接近し、味方のふりをして戦犯の逃亡先を探っていました。 このゼルは、第二次世界大戦中に捕虜たちから大量のダイヤモンドを賄賂として受け取っていて、終戦を迎え、ウルグアイにその身を隠したが、あらかじめニューヨークの銀行にダイヤを保管しておき、時折、兄のクラウスとシーラを運び屋にして、闇のルートで売りさばいていたのです。 ところが、クラウスが事故死したため、ゼルがダイヤの安否を確認するためアメリカにやって来ます。 その後、正体を見破られたシーラは致命傷を負わされ、ベーブのもとで絶命します。 更に、物語は密売の秘密を知っていると誤解されたベーブが、ゼルとその一味に捕らえられ、映画史に名高い、"過酷な拷問"を受けてしまいます。 この拷問シーンは、本当に痛い、ヒリヒリするほどの痛さを主人公のベーブと一緒になって、感じてしまいます。 そして、命からがら脱出したベーブは、ただ一人、兄の仇討ちを開始する事になります--------。 主演のダスティン・ホフマンは出世作の「卒業」でも、元中距離走の選手という青年を演じていて、あの時は炎天下、愛する女性を取り戻すために走ったのですが、この作品のクライマックスでは、深夜、濡れた舗道の上を絶望的なまでに、延々と疾走する事になります。 悪魔から逃れるために--------。 そんな彼の姿を捉えた、撮影の名カメラマン、コンラッド・L・ホールによる撮影は異様なほど美しく、我々観る者を圧倒してしまいます。 名優ローレンス・オリヴィエは後年、自身の出演作の中で最もこの作品が好きだと語っていましたが、ほとんど完璧とも言える演技を示していて、さすが1900年代の最高のシェークスピア役者だと言われるだけあって、その深くて味わいのある演技は最高です。 ダスティン・ホフマンが最高の役者だと賞讃し、彼と共演する事を夢見て、遂にその実現を果たした、ローレンス・オリヴィエという役者----、本当に凄い、凄すぎる本物の役者です。
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