ノスタルジア
イタリアの中部地方の山間には、不可思議な町、あるいは村が存在する。それはまさに「存在」そのものだ。 アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジー」が描くのは、幻想の「水」を辿る旅であり、タルコフスキー自身の、故郷ロシアへの郷愁が、主人公アンドレイ・ゴルチャコフの心象風景として表われていると思います。 ゴルチャコフは呟く。「この風景は、どこかモスクワに似ている」と。霧の漂う丘陵地帯。白い馬。佇む女たち。 そこには、動くことを止めた時が、うずくまっている。 かと思うと、深い谷底から生えてきた角のような台地に、ひしめきあって建つ、赤っぽい石造りの建物。 周囲を濃い緑の山々に囲まれた一握りの台地は、霧の切れる一瞬、幻想ではなかったかと、私は目を疑ってしまう。 しかし、確かに実在する土地なのだ。「ノスタルジア」の旅は、こうして、幻想の中でスタートする--------。 イタリアで、ロシアの詩人ゴルチャコフは、恋人のエウジェニアとともに温泉地を訪れ、世紀末の世を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ることに執着する老人ドメニコと出会う。 エウジェニアは、ロシアへのノスタルジアにとり憑かれたゴルチャコフの、果てしない思案に耐え切れず、別の恋人のもとへ去ってしまう。 そして、ドメニコは焼身自殺し、残されたゴルチャコフは、ドメニコの遺志を継いで、ひとりで温泉を渡り切った時、力尽きてしまうのだった--------。 タルコフスキーにとって「水」は、地上で最も美しく、謎めいた物質なのだろう。だから、ドメニコは俗世の人間に狂人扱いされながらも、水=温泉を渡ろうとする。 俗世間の人々から、このように狂人扱いされているドメニコは、世紀末の世界を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ろうとする。 「水」は、禊に使われるように、ここでもある種の力を持っている。 そして、「水」はあの世とこの世の間の川。ドメニコは、その川の渡し守なのだ。 また、この「水」は、母胎の中の羊水でもあり、世紀末を世界の始まりに戻そうとすることは、胎内への回帰等、胎を持たない男の発想であり、そんなことでもたつくゴルチャコフに嫌気がさして去ってゆくエウジェニアは、中性的な魅力にあふれている。 この映画の中で、特に印象的だった場面は、水溜まりの向こうに横たわるゴルチャコフ。雨が降っている。屋根のない柱廊。 廃墟と化し、屋内であり、屋外でもある奇妙な建物、映画全体を支配する幻を、この建物に感じてしまいました。
暗くなるまで待って
このテレンス・ヤング監督の「暗くなるまで待って」は、もともと芝居だった作品で、舞台がほぼアパートの中だけに限定され、緻密な脚本の妙と役者の演技で魅せる渋いサスペンスものですね。 ハリウッド製の派手なスリラーに比べると地味に思えるかも知れないが、精密に計算し尽くされた脚本は、お見事の一言。 だんだんと緊張感が高まっていき、最後には息をつかせぬ迫力で、我々観る者を釘付けにする。 CGもエロもグロも血みどろもなし。 これこそ美しき職人技だなと思います。 主人公のスージーは盲目で、彼女の夫が麻薬入りの人形をたまたま預かってしまうことから、ギャングたちの抗争に巻き込まれてしまう。 要するに、彼女のアパート内に貴重な麻薬入りの人形があり、それを手に入れたいギャングたちが、あの手この手でスージーを騙すというお話なんですね。 スージーを演じるのはオードリー・ヘプバーン、彼女を騙そうとするこわもてのギャングたちは三人。 スージーの夫は、最初と最後に出てくるだけで、彼女の力にはなれない。 彼女のヘルパーになるのは、小さな女の子一人だけ。 まず最初に、盲目のスージーの無力さが強く印象づけられる。 すぐ目の前に落ちているものを拾うことさえできず、灰皿の中で紙がくすぶっているだけでパニックになり、警察に電話して「部屋の中で何かが燃えてる! 助けて!」と叫ばなければならない。 あまりにもか弱い存在だ。それからおもむろに、このスージーを脅すためにアブナイ男三人が登場する。 この三人の使い方も実にうまい。 ロートとトールマンとカーリノの三人だが、最初はトールマンがメインになってスージーに接し、ロートは脇に回る。 トールマンは、ギャングの一味だが、どこか侠気がある男で、実際にスージーの立場に同情し、手を引こうとする。 すると不気味で残酷な男ロートが前面に踊り出して、終盤の容赦ない恐怖を盛り上げていく。 ラストのロート対スージーの対決は、様々なアイディアを盛り込んだ直接的なアクションで見せるが、前半のトールマン対スージーは心理戦だ。 トールマンの嘘にあっさりと騙されてしまうスージーだが、その後で少女グローリーとの連携がうまく活用される。 あの「電話のベルを二度鳴らす」という仕掛けで、スージーが真相に気づくくだりは、非常に巧いと思います。 そして、有名なあのラスト。絶対絶命を悟ったスージーは、無我夢中でアパート中の電灯を壊して回る。 暗闇が、彼女を守る最後の砦となるのだ。 アメリカでこの映画が上映された時、このシーンでは、映画館中の電灯が消え、実際に客席が真っ暗闇になったそうだ。 心憎い趣向である。そういう状態でこの映画を観たら迫力は倍増だろう。 冷酷な殺し屋ロートが、盲目のスージーを容赦なく襲うクライマックスに盛り込まれた、サスペンスを盛り上げるためのアイディアの量は、半端ないものがある。 マッチとガソリン、ステッキ、そして冷蔵庫。 あらゆる小道具大道具が、驚くべき展開を担う。 そして、追い詰められるスージーの絶望の演技と、名優アラン・アーキン演じるロートのサディスティックな凄み。 今観るとそこまで強烈なことは何もしていないにもかかわらず、もの凄く、非常に残虐でサディスティックな印象を醸し出す。 もちろん、それは華奢なヘプバーンの恐怖に打ち震える演技の見事さにもよるものだが、それまでの伏線がガッチリ効いているからでもある。 リアリティという意味で言えば、ギャング三人が盲目の女性一人を相手に、あそこまで手の込んだ芝居を打つだろうかとか、スージーがああまで懸命に人形を守る理由がないなど、突っ込みどころはあるが、これはリアルな犯罪映画というより、パズラーに近い人工的なエンターテインメントなんですね。 緻密な設定と伏線が、ジグソーパズルのように噛み合って、サスペンスを醸成する、知的遊戯なのだと思います。 そういう意味において、これは精緻な脚本と演出によって、職人的に作りこまれた、見事に知的なサスペンス映画の傑作であると思います。
将軍たちの夜
このレビューにはネタバレが含まれています
マクベス
ポーランド出身のロマン・ポランスキー監督が、シェイクスピアの名作「マクベス」に挑戦し、イギリスで撮った作品が、この「マクベス」ですね。 「水の中のナイフ」「反撥」「袋小路」「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」等々、ポランスキー監督の映画は、常に悪魔の世界、怪奇と幻想の世界を追い続けていたと思います。 そして、特にこの「マクベス」に、その大いなる、彼の特徴が出ていると思います。 このシェイクスピアの「マクベス」は、様々な形で映画化されていて、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」や、オーソン・ウェルズの「マクベス」などが有名ですね。 このポランスキー版の「マクベス」は、出だしの三人の魔女のシーンから、粘っこい怪奇の世界に、我々観る者を引きずり込んでくれます。 そして、この作品の大きなポイントは、マクベスとマクベス夫人を演じる二人の主役。 マクベスにはジョン・フィンチが、マクベス夫人にはフランセスカ・アニスがそれぞれ扮し、怪奇と幻想の世界の王と女王を見事に演じていると思います。 公開当時、ジョン・フィンチが30歳。フランセス・アニスが26歳。 そしてこの若さこそが、ポランスキー監督にとって、人間の生身の本心を、生々しい肉体から爆発させるのに必要なエネルギーだったのだと思います。 終わりの方の魔女の饗宴、これは、まさにポランスキー監督ならではの怪奇の世界になっていたと思います。 私が特に面白いなと思ったのは、ラストシーン。 ダンカンの二人の遺児のうち、下の方の王子が、魔女の洞窟へ近寄って行くんですね。 これは、マクベスと同じことをやろうとしているわけですね。 シェイクスピアの舞台では、この下の王子は、ドラマの途中でアイルランドへ行ったことになって、姿を現わさないのですが、ポランスキーのこの作品では、この王子がマクベスと同じ道を辿ることを暗示して終わるんですね。 これは、深読みしてみると、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」と全く同じなんですね。 黒澤明監督の「蜘蛛巣城」が1957年。ポランスキー監督の「マクベス」が1971年。 ポランスキー監督が、黒澤明監督の影響を受けていなかったとは言いきれないと思います。 そして、さらに深く見つめるならば、あの下の方の王子は、身体が不自由ですね。 何となく時代の流れからいって、あの王子はやがてリチャード三世になるのではないか、なんてことも想像できるわけですね。 権力への欲望は、あの時代、マクベスならずとも、綿々と流れていることを、ポランスキー監督は語ろうとしいてるのだと思います。 あの時代だけではなく、我々の心と身体にも、それは流れているのだと思います。 そして、あの下の王子が、身体が不自由だという表現の裏には、現代の我々の心が歪んでいるという意図が、含まれているのではないでしょうか。
冒険者たち
ロベール・アンリコ監督の「冒険者たち」は、私がこよなく愛する映画の一本で、冒険アクションの形をとりながら、青春のロマンを甘悲しくも、切なく謳い上げた傑作で、主演のアラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラが最高に素晴らしく、また、レティシアに扮した、当時、新人の女優ジョアンナ・シムカスが、何とも言えず、瑞々しい新鮮さを出して、私を魅了したのです。 マヌー(アラン・ドロン)とローランド(リノ・ヴァンチュラ)は、仲の良い相棒で、いつも何か大きい事をやらかそうと夢見ている。 ある日、偶然、知り合ったレティシアに、二人は行為を抱いた。 やがて、三人は、アフリカの海底に眠っている財宝を探しに、冒険に出発するが、争いに巻き込まれて、レティシアは流れ弾に当たって死んでしまう。 深い悲しみのうちに二人は、彼女を美しい珊瑚礁の砂の中に葬るのだった。 やがて、ある孤島で、マヌーも殺され、ひとりぼっちになったローランドは、手榴弾で相手を皆殺しにしてしまう。 孤島に再び静寂が訪れた時、若者たちの死を悼むかのように、潮騒はいつまでも鳴りやまなかった--------。 男たちのレティシアに対する思慕の情、男同士の友情、そして何か大きなものを夢見る彼らの心情が、フランソワ・ド・ルーベの魅惑的な音楽にのって、美しく表現され、ロベール・アンリコ監督の最高傑作となったのです。
チザム
この映画「チザム」は、西部劇の王者ジョン・ウェインが「勇気ある追跡」でアカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞後の初めての作品で、当時62歳のジョン・ウェインはすこぶる元気がいい。 西部史に名高いリンカーン郡戦争の中、ニューメキシコの広大な原野に牧畜王国を築き上げ、冒険と波乱の生涯を送ったチザム(ジョン・ウェイン)の実録の映画化作品だ。 チザムの親友のジェームズ・ペッパーにベン・ジョンソン、彼らと対立する黒幕の親分ローレンス・フィーにフォレスト・タッカー、連邦保安官パット・ギャレットにグレン・コーベット、無法者ビリー・ザ・キッドにジョフリー・デュエルという配役で、西部劇ファンとしては嬉しくなる顔ぶれだ。 この映画は銃撃戦やスタンピードという牛の大暴走などの見せ場も多く、西部開拓史上に名高い人物たち、特に、後に宿命の対決をすることになる無法者ビリー・ザ・キッドと名保安官パット・ギャレットの若き日の姿(といってもビリー・ザ・キッドは21歳でその生涯を閉じた)が、描かれているのも興味深い。 しかも、ビリー・ザ・キッドと言えば、左ききのガンマンとして有名だが、この映画では史上初めて右ききで登場してくる。 彼の写真が実は裏焼きだったので、ずっと左ききだとされてきたが、右ききが本当だったのだ。 かつて二挺拳銃のジョニー・マック・ブラウンをはじめ、ロバート・テイラー、オーディー・マーフィー、ポール・ニューマンと、歴代の左ききのビリーはみな魅力的だったが、それだけに、この映画の右ききのジョフリー・デュエルが扮しているビリーが少し見劣りするのは仕方がないだろうと思う。 この映画は実録とは謳っているが、実説とはかなり違っているものの、とにかく、牛の大暴走場面あり、ガン・プレイあり----と、西部劇ならではの見せ場を次々と盛り込むサービスぶりで、かなり爽快感が味わえるのは確かだ。 ベテランのアンドリュー・V・マクラグレン監督が悠々たるタッチで西部劇の楽しさ、面白さを詰め込んだ作品になっていると思う。
ミクロの決死圏
東西冷戦時代に、その両陣営で研究を競う、物質ミクロ化技術の秘密を握るチェコの科学者が、鉄のカーテンから亡命するが、途中で撃たれ、脳に重傷を負ってしまう。 そこで、西側陣営の軍部は、治療のために情報部員や医師たちを、原子力潜水艇プロテウスに乗り込ませ、この潜航艇ごとミクロ化し、血管注射で科学者の体内へ送り込むことに-------。 この映画「ミクロの決死圏」の監督は、1950年代から1980年代までの長きに渡り、ディズニー製作の傑作SF「海底二万哩」、実験的な映像表現を試みた「絞殺魔」、戦争大作「トラ・トラ・トラ!」のアメリカ側監督、南部の人種差別を描いた問題作「マンディンゴ」など多種多様な作品を発表した、稀代の職人監督・リチャード・フライシャー。 この映画のミクロ化した人間が、人体に潜入し治療を行なうというアイディアは、我が日本の手塚治虫の漫画作品「吸血魔団」をベースにしていると思われますが、タイム・リミットを生かしたサスペンスやスパイとの攻防戦など、手に汗握る展開も見事ですが、何より素晴らしいのは、L・B・アボットによる特殊効果ですね。 「眼下の敵」での海上砲撃戦から、「タワーリング・インフェルノ」の高層ビル火災まで、ミニチュア模型や光学合成を駆使したL・B・アボットの特殊撮影は、現在の水準から見れば、ローテクニックではあるものの、その豊かなイマジネーションは普遍性があり、実に見事な出来栄えだと思います。 とにかく、一時間たつと縮小効果が薄れ、元のサイズに戻ってしまうという、緊迫したスリリングな状況の中、心臓を通過したりとか、異物排除のために白血球が襲い掛かり、心拍の衝撃で潜水艇が大揺れしたりする、体内のスペクタクル・シークエンスは、ほとんど前衛的とも思える程の強烈な美術イメージに貫かれていて、見事としか言いようがありません。 そして、クルーの一人が敵のスパイで、妨害工作をするなどのエピソードも盛り込まれ、観ていて全く飽きさせませんね。 美術監督のデール・ヘネシーによる白血球や血管、巨大な模型で作られた心臓などのセットも実によく出来ていて、非常に印象的でした。 そして、何と言ってもラクウェル・ウェルチの身体にぴったりあったウェット・スーツ姿は、私を含めた男性映画ファンを大いに喜ばせてくれたと思います。 なお、この映画は1966年度の第39回アカデミー賞の美術監督賞・装置賞(カラー)と特殊視覚効果賞を受賞していますね。
サムライ
この映画「サムライ」は、サムライの孤独な死と寡黙なプロの殺し屋の死を鮮やかにオーバーラップして描いた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールの秀作だと思います。 この映画は、フランス映画史において"ヌーベルバーグ"と言われた、新しい波の革新的な動きがあり、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォーら、この運動の担い手たちに多大な影響を与え、また、暗黒映画と言われる、"フィルム・ノワール"の名匠として、伝説的な監督になった、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、ゴァン・マクレオの原作を映画化した作品で、主演がハリウッドに渡って、実質的に失敗し、失意の内にフランスに帰国したアラン・ドロンが、「太陽がいっぱい」「地下室のメロディー」以来のはまり役で復活を遂げた記念碑的な作品ですね。 共演は当時、アラン・ドロンの夫人であったナタリー・ドロン、フランスの名優フランソワ・ペリエが脇を固め、撮影を「太陽がいっぱい」の名手アンリ・ドカエと、映画好きにはたまらないメンバーが集結しています。 主人公の一匹狼の殺し屋ジェフ・コステロ(アラン・ドロン)は、まるで日本の"サムライ"でもあるかのように、死地へ赴くこの男の胸中は、1本の刀に命を懸ける武士の心情の持ち主です。 彼は、寒々として空虚なアパートを出て、今日も孤独な仕事へと向かいます。 今回の殺しの仕事は、クラブ"マルテ"の経営者を殺す事で、そのアリバイ工作を情婦(ナタリー・ドロン)に任せ、その仕事はうまくいったかに見えましたが、逃走の際にピアニストのヴァレリー(カティ・ロジェ)に顔を見られてしまいます。 ジェフをかばったヴァレリーの証言に不審を抱いた警部(フランソワ・ペリエ)は、ジェフに尾行をつけます。 一方、依頼人もジェフを狙い、消そうとしますが失敗。 そして、ジェフのもとに新たな殺人の依頼が来ますが、何とその標的はジェフをかばったはずのヴァレリーだった----、という展開になっていきます。 この映画の題名の「サムライ」は、もちろん日本の武士道に由来しているのですが、常に死と直面し、最後には自ら進んで死地へと赴く、この映画の主人公に"武士道と共通の精神"を見出して、監督のメルヴィル監督が命名したものだと言われています。 クールでストイックで、己の価値観とスタイルを持つ、孤独な一匹狼の殺しのプロフエッショナルの寡黙な男を、ソフト帽にトレンチ姿のアラン・ドロンがその鋭利な刃物を思わせる、静かで厳しい中にもゾッとするような美しさをたたえて好演していると思います。 そして、メルヴィル監督のスタイリッシュでクールなハードボイルド・タッチの演出スタイルが、この映画の全編に横溢していて、1カット、1カットがまさに一枚の絵画を見るようで、観る者の感覚を痺れさすような、陶酔的な心持ちへと誘ってくれます。 サムライの孤独な死と、寡黙なプロの殺し屋の死を、鮮やかにオーバーラップさせて、ピーンと張り詰めた緊張感のある映像で、クールにスタイリッシュに描いた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールの秀作だと思います。
カイロの紫のバラ
この映画「カイロの紫のバラ」は、人間の孤独な心を優しく、温かいまなざしで見つめる人間凝視の秀作だと思います。 この映画は、ウッディ・アレン監督自身が、自作の中で好きな6本の内の1本として挙げていて、1985年度のゴールデングローブ賞の最優秀脚本賞、ニューヨーク映画批評家協会の最優秀脚本賞、カンヌ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞、英国アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀オリジナル脚本賞、フランスのセザール賞の最優秀外国映画賞を受賞している秀作ですね。 映画の舞台は、1930年台の経済不況下のアメリカ・ニュージャージー。 失業中の夫に代わって、ウエートレスをして働くセシリア(ミア・ファロー)にとって唯一の心の支えとなり、淋しい心を癒してくれるのは映画館へ行って、今上映されている「カイロの紫のバラ」という映画を何回も繰り返し観る事でした。 フレッド・アステアの歌う永遠の名曲"ヘヴン"が流れるなか、セシリアが劇場の前でうっとりとした顔でポスターを見つめるという印象的なシーンから映画は始まります。 名画はその冒頭のシーンとラストシーンがいつも素晴らしく、映画ファンの心を虜にし、映画という虚構の世界でひと時の夢を与えてくれます。 1930年台といえば、ハリウッドがまさに"夢の工場"とも言われたミュージカル映画の黄金時代でしたが、当時のアメリカの人々は、大恐慌時代を経て、未だに苦しい生活を強いられており、そういう厳しい現実の生活から逃避出来る唯一の場所は、娯楽としての映画でした。 スティーヴン・スピルバーク監督が、「映画を観るという行為は現実の生活から離れ、ひと時の夢に酔う究極の逃避である」と語った事がありますが、この映画を観るという行為は、いつの時代になっても、究極の逃避であり、特に我々映画ファンと言うのは、元々淋しがり屋で孤独ですので、常に映画という虚構の世界に我が身を置いて、ヒーロー、ヒロインと同じ気持ちになって、厳しい現実の自分から逃避しているのかもしれません。 セシリアは、今日も現実から逃れるようにして、「カイロの紫のバラ」という映画を観ていましたが、これが5回目である事に気付いた映画のヒーロー、トム・バクスター(ジェフ・ダニエルズ)は、劇の途中でスクリーンの中から飛び出して来て、映画の進行は止まり大騒ぎになりますが、そんな事はお構いなしに、映画のヒーロー、トムは何とセシリアに恋をしてしまうという奇想天外なお伽噺の世界が描かれていきます。 困惑した映画会社は、トムを演じるスターのギル・シェパード(ジェフ・ダニエルズ・二役)を動員してトムを映画の中へ連れ戻そうとしますが、そのギルもセシリアを愛してしまい、彼女と駆け落ちしようと言いだします。 全てを捨てて約束の場所で待つセシリア。だがヒーローはその場所へやって来ません。 ヒーローが心変わりしたのか、それとも単なる口先だけの約束だったのか、それとも周囲の陰謀で来る事が出来なかったのか--------。 再びいつもの孤独な生活へと戻っていくセシリア。紫色の夢が破れ、現実の厳しい生活が待っています。 こんなセシリアに対してウッディ・アレン監督は、素敵なラストシーンを用意しています。 哀れなセシリアをほんのひと時、映画の夢の世界に酔わせ微笑みを与えます。 まさしくウッディ・アレン流の優しいダンディズムが遺憾なく発揮されていますね。 傷心のセシリアが観ている映画は、ミュージカル映画の最高傑作と言われる「トップ・ハット」で、彼女は哀しみに沈みながら、映画の中で繰り広げられるフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの華麗な歌とダンスに魅せられて、再び幸福で豊かな気持ちになっていきます。 まさしくこの映画は、主人公のセシリアが映画の魔法の力で、再び生きる希望、勇気を見い出していく、"彼女の人生の再生のドラマ"であると思います。 そして、セシリアを演じるミア・ファローの思わず抱きしめたくなるような、儚い乙女心は実に切なく、人間の孤独感を見事に表現していたと思います。 また、彼女の孤独な心を優しく温かいまなざしで見つめるウッディ・アレン監督の人間凝視の奥深い演出は素晴らしく、彼の最高傑作だと思います。 我々映画ファンは、映画という虚構の世界に憧れ、夢を馳せながら、映画によって自分自身と現実を認識し、映画という魔法の力で明日への生きる活力、希望、勇気を見い出していけるのだと思います。 この映画を深い感動と静かな余韻の中で観終えて思う事は、ウッディ・アレン監督が、この映画で描いた、"悲観と楽観の間をたゆたう絶妙なバランス"は、我々映画ファンに"虚構の世界を楽しく遊ぶ、人生の豊かさを感じさせてくれ、そして、その豊かさの中にこそ本当の人生というものがある"のだという事を教えてくれているように思います。
バルカン超特急
コールガール
この映画「コールガール」は、屈折した人生を送る女と私立探偵の男の心のふれ合いを中心にコールガールの生態や大都会の断面を鋭く捉えた秀作だと思います。 この映画「コールガール」の主演女優のジェーン・フォンダは、1960年代後半にヴェトナム反戦運動に目覚め、自分自身でFTAという反戦グループを設立し、その反戦運動の同士でもあった、ドナルド・サザーランドとタッグを組んでこの映画に出演した、いわば、1970年代を象徴する女優だと言えます。 監督は、当時、デビュー作のライザ・ミネリ主演の「くちづけ」を撮り、後に「大統領の陰謀」という社会派の政治サスペンス映画の秀作を、そして「推定無罪」というサスペンス・ミステリーを撮ったアラン・J・パクラで、当時、バリバリの反戦女優でラディカルなイメージだったジェーン・フォンダから最高の演技を引き出し、この一作を契機に演技派女優へと開眼させていったのです。 ペンシルヴァニアにある研究所の科学者グルマンが、謎の消息を絶って数カ月。彼の上司ケーブルは、警察の捜査がはかどらないのでグルマンの幼友達で警官のクルートに依頼します。 そして、私立探偵になったクルートは、ニューヨークで生計を立てて、舞台女優を目指しているというコールガールのブリー(ジェーン・フォンダ)に宛てて、グルマンが書いたという猥褻な手紙を手掛かりに捜査を始めます。 クルートはブリーに捜査の協力を求めますが、警察への恨みを持つ彼女は、冷たく彼を追い返したりします。 そこで、クルートはブリーと同じアパートの一室を借り、彼女を監視する中で、ブリーの心が和らぎ、やがて彼女の協力でクルートの捜査線上に、意外な人物が浮かび上がって来て------。 この映画の邦題から受ける印象は、何かアメリカのコールガールの生態でも描く風俗映画のような感じですが、ところが、この映画は大都会ニューヨークに渦巻く甘美な情事の謎を、ハードボイルド・タッチで解明していくミステリー仕立てになっています。 そして、この映画の最大の見どころは、私立探偵となったクルートが丹念に謎を解いていく過程と、彼と舞台女優志願のコールガール、ブリーとの人間的な反目と結びつきに、このドラマの面白さが秘められていて、それと併せて、ニューヨークという砂漠のような荒涼とした大都市に住む人間の"無限地獄のような孤独や不安定な心理"に焦点を絞って描いた、優れた心理ドラマになっているのです。 そして、このジェーン・ファンダが演じるブリーという女性の、大都会の中で他人との深い関わり合いを持つ事を極力嫌うヒロイン像というのは、人間同士のコミュニケーションが希薄になっている現代社会の在り方を象徴する人物像になっていて、華やかできらびやかに見える大都市生活の裏側に潜む感情を、醒めた眼で冷ややかに見つめるアラン・J・パクラ監督の演出のうまさに引きずり込まれてしまいます。 また、ブリーという女性の全てを受け止める男の役を静かな抑えた演技で好演するドナルド・サザーランドのうまさにも唸らされます。 ニューヨークのハーレムでの現地ロケを敢行し、大都会の裏側の生々しい生態をリアルに映像化したゴードン・ウィリスの撮影が、我々観る者の心に冷え冷えとした臨場感を持たせる効果を与えてくれます。 尚、主演のジェーン・フォンダは、1971年度の第44回アカデミー賞で、最優秀主演女優賞、同年のゴールデン・グローブ賞の最優秀主演女優賞(ドラマ部門)、ニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀主演女優賞、全米批評家協会賞の最優秀主演女優賞を受賞と、その年の映画賞を総なめにしています。
ザ・ドライバー
この映画「ザ・ドライバー」は、凄まじいカーアクションと刑事対ドライバーの虚々実々の駆け引きをクールに描き、アクション映画の原点を示した作品だと思います。 このクールで戦慄的な我々映画ファンを痺れさせる「ザ・ドライバー」は、チャールズ・ブロンソンとジェームズ・コバーン主演の「ストリート・ファイター」という小味なアクション映画を撮った、ウォルター・ヒル監督の第二回監督作品です。 銀行ギャングや強盗の逃走を請け負う、プロのゲッタウェイ・ドライバーのドラマですが、とにかく凄まじいカーアクションと、刑事対ドライバーの虚々実々の闘いに焦点を絞り、余計なものは一切描かれず、いわば、"アクション映画の原点"に戻ったような作り方であり、ムダな場面が目障りだった前作の「ストリート・ファイター」よりも、ずっと面白く出来ていると思う。 ロサンゼルスの街の地図を性格に頭に刻み込んだゲッタウェイ・ドライバー(ライアン・オニール)は、その鮮やかなハンドルさばきで、追跡してくるパトカーをまいて夜の闇に消えてしまう。 なんべんもそんな彼にキリキリ舞いをさせられた刑事(ブールース・ダーン)たちは、なんとかしてドライバーを逮捕しようと考えて、卑怯な罠を仕掛けるが、その罠にもかからないのだ。 まるで、マシーンのように冷徹なドライバー。 うす汚い人間性をむき出しにして、ドライバーの逮捕に執念を燃やす刑事。 この二人のコントラストにも迫力があり、彼らの闘いがドラマティックな興趣を盛り上げていると思う。 それまでの甘い二枚目からイメージ・チェンジしたライアン・オニールの好演も素晴らしいが、それ以上に印象的なのは刑事役のブルース・ダーンの怪演だ。 そして、フランスの演技派女優のイザベル・アジャーニがドライバーに近づく女ギャンブラーに扮している。 普通のドラマ設定なら、彼女とドライバーの間に恋愛感情が生じ、そのあげくベッドシーン-------となるはずなのだが、そういう余計なものを一切省いたところが、この作品の良さだろうと思う。 ロサンゼルスの素晴らしい夜景の中で展開される追いつ追われつのカー・チェイスは、凄い見せ場になっていて、アクション映画の魅力をたっぷりと堪能しました。
怒りの山河
この映画「怒りの山河」は、アメリカン・ニューシネマのヒーロー、ピーター・フォンダによる壮絶な復讐バイオレンスの傑作だ。 故郷に帰った男が、地元開発者の不埒な悪行三昧に、怒りを爆発させて殴り込む。 B級映画の帝王にして、名プロデューサーのロジャー・コーマンが1973年の「ウォーキング・トール」のヒットに便乗して、当時、新進気鋭の才気あふれるジョナサン・デミを起用して作った作品だ。 クエンティン・タランティーノ監督もリスペクトする低予算映画ながら、痛快なグラインドハウス映画になっている。 都会で結婚生活に失敗したトミー・ハンター(ピーター・フォンダ)は、5歳の息子ディランを連れてアーカンソー州の農場に戻るが、石炭採掘業者の強欲社長フィリップ・ケリーが、悪徳議員と組んで強引に土地開発を行なう。 立ち退きに応じないハンター家は、執拗な嫌がらせを受け、訴訟を起こしていた弟のスコット・グレンが、妊娠中の妻と事故を装って殺されてしまう。 怒りに燃えたトミーは、工事車両を爆破するなどの暴れっぷりで、子連れバイク・チェイスも披露する。 だが、保安官も抱き込んだ攻撃はエスカレートし、一家を逮捕して有利な判決を下そうとした判事を暗殺。ついに、放火された家で馬を救おうとした父も死亡。 堪忍袋の緒が切れたトミーが、昔の恋人リン・ローリイに息子を預け、武装した荒くれどもが警備する社長宅に弓矢で殴り込む銃撃戦には、アクション映画ファンの血が燃える。 ピーター・フォンダ初監督作の「さすらいのカウボーイ」でも組んだボブ・ディランの名曲「ミスター・タンブリンマン」のモデルのブルース・ラングホーンの音楽も印象的な作品であった。
激流
この映画「激流」は、ほぼ全編が本物の川でロケーション撮影されたということだ。 本当にどうやって撮影したんだろうと思ってしまうような迫力あるシーンの連続。 荒々しい水しぶき。全てを飲み込むかのように襲いかかる激流。 ダイナミックな自然描写に目を瞠るばかり。 激流を下るシーンの迫力とメリル・ストリープの頑張りに度肝を抜かれてしまいます。 メリル・ストリープ扮するゲイルは、元急流の川下りのガイドをしていた、川下りの名人という設定ですが、それにしても逞しい。 仕事一筋の夫との仲は冷え切っていて、息子のロークは父のことをよく思っていない。 ロークの誕生祝いに川下りにやってきたものの、夫との関係は修復しがたく---------。 そんな伏線を後半上手く生かしているのも実にいいんですね 頼るべき存在であるはずの夫は頼りにならず、幼い息子と2人で本性を現した、ケヴィン・ベーコンらの悪漢に立ち向かうゲイル。 とにかくメリル・ストリープが、往年の透明感溢れる美しさはどこへやら、太い腕を剥き出しにして、「エイリアン」のリプリーに引けを取らない活躍で頑張る、頑張る。 恐れ入りますの一言。 不敵な面構えのウェイドを、主役を食ってしまう程の存在感を身に付けたケヴィン・ベーコンが、これまた憎らしいくらい、うまく演じている。 息子役の少年も可愛いし、巧い。 「ジュラシック・パーク」でティムを演じた子。 夫であるトムが、少し影が薄いのが残念な気がします。 演じるデヴィッド・ストラザーンは、オールマイティな役者で、作品ごとにガラッとイメージが変わる役柄の幅が広い俳優。 もう少し活躍の場があっても良かったのではないかと思いますね。 激流下りという本筋に、アメリカ映画お決まりの夫婦の崩壊というテーマも描かれているわけですが、本筋にうまく練りこまれていて、サスペンス要素を盛り上げていて実に素晴らしい。 惜しむらくは、心理的なやり取りがもう少し描かれていれば、夫の存在も生きてきて、より一層、この映画に深みが増したのではないかと思いますね。
アンタッチャブル
悪法で名高い「禁酒法」ですが、正しくは「酒類製造・販売・運搬等を禁止するという法律」という名称です。 つまり、お酒を造ること、売ること、運ぶことだけが禁止された法律であって、お酒を飲むこと自体は、禁止されていなかったということがわかります。 また、施行されるまでに1年の猶予があったため、人々はお酒の買いだめに走りました。 施行後、家でお酒が見つかっても「買いだめしておいた分です」と言えば、罪に問われなかったというのですから、ザル法もいいところです。 お酒の密輸入と密造で大儲けしたのは、ギャングたちだけだったのです。 この天下の悪法の施工時代に、世にもデカイ顏をしてシカゴの街でのさばっていたのが、暗黒街の帝王、アル・カポネです。 彼がネタになっているギャング映画は、それこそ星の数ほどあるのではないかと思われるくらい、凄い人気です。 このパラマウント映画創立75周年記念映画として製作された、ハリウッド大作「アンタッチャブル」では、ロバート・デ・ニーロがアル・カポネを演じています。 役作りのために、逆ダイエットをして太ったというエピソードはあまりにも有名です。 そして、首を傾けてしゃべる、独特の姿も強烈なインパクトがあります。 映像の魔術師、ブライアン・デ・パルマが監督をしているので、事実なんてどこへやら、徹底した娯楽アクション・ギャング映画に仕上がっています。 こういうのはあざとくて嫌いだという人もいるかも知れません。だが、それはハリウッドメジャー大作映画の宿命ともいえるものですが、私は大好きですね。 有名な駅の階段のベビーカーのシーンは、ハラハラ、ドキドキの連続で、ブライアン・デ・パルマ監督の楽しそうに撮っている顏が想像できますね。 そして、何と言っても魅力的なのは、当時、とても輝いていた主演のケヴィン・コスナーです。 絵に描いたような正義の味方。あまりにも嘘っぽくてため息が出そうですが、これぞまさに娯楽映画なんですね。 事実に基づいているとは言っても、彼の演じるエリオット・ネスは、映画のヒーローであり、架空の人物だくらいに思わないと駄目ですね。 史実と違うからおかしいじゃないかと決めつけるのは、ちょっと筋違いだと思いますね。 とにかく、カッコいいんですね。 それから、思わず注目してしまったのは、殺し屋のニッテイ(ビリー・ドラゴ)です。 とても陰険な顔つきの風貌で、目つきがとても怖いんですね。 もちろん、ショー・コネリー扮するジム・マローンも最高ですね。その年のアカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞しただけのことはありますね。 このジム・マローンは、FBIのリーダー的存在で、エリオットのみならず、観ている我々もグイグイ引っ張ってくれます。 ジェームズ・ボンド役を卒業した後の、ショーン・コネリーの演技に対する取り組みと研鑽が、一気に花開いたという感じですね。 今回、あらためて観直してみて、この作品はギャング映画の最高峰のひとつだと思いましたね。 エンニオ・モリコーネの音楽も素晴らしくて、この人の書くスコアは、映画の雰囲気にほんとにぴったりで、哀愁のあるメロディーを聞いているだけで感動してしまいます。
魚が出てきた日
この映画「魚が出てきた日」は、「その男ゾルバ」「エレクトラ」等で知られるギリシャ出身のマイケル・カコヤニス監督の問題作ですね。 この映画の冒頭、スペインのフラメンコダンサーが登場して「原爆が落ちるのはスペインだけとは限らない」みたいな歌を唄います。 そして、舞台はギリシャの貧しい島に移り、その上空で爆撃機がトラブルを起こし、トム・コートネイとコリン・ブレイクリーのパイロットは、積荷の核爆弾2基、高濃度の放射性物質を閉じ込めた金属製の箱をパラシュートで落下させ、自分たちもその後を追って飛び降りるのです。 この件は、1966年1月17日、スペインのパロマレスという村の上空で、4基の核爆弾を搭載した米軍のB-52が事故を起こしたが、爆弾はパラシュートで落としたため、事無きを得たという事件が、実際に発生していたんですね。 この1年後に、その事件をいち早く頂戴して、近未来を舞台にSFブラックコメディに仕立てたのが、この「魚が出てきた日」なんですね。 二人のパイロットは、当局と連絡を取ろうと右往左往。 違うルートで墜落の情報を得た当局の連中は、ホテル業者を装って島に乗り込み、開発という触れ込みで、島の一部を買い取り、爆弾と金属の箱探し。 どうにか2基の爆弾は回収出来たが、最もヤバイ金属の箱がどうしても見つからない。 では、その箱はというと、貧乏な羊飼いの夫婦がこの箱を発見し、お宝に違いないと思い、こっそりと家に持ち帰り、あらゆる手を尽くして開けようとしていたのだ--------。 真っ赤に日焼けし、パンツ一枚の姿でお腹を空かして、うろうろする二人のパイロット。 ド派手なリゾートファッションに身を包み、その状況をエンジョイするホテル業者に化けた兵士たち。 そんな彼らの出現に、島の未来を確信して浮かれまくる村人たち。 新しいリゾート地登場という情報を得て、徒党を組んで詰めかける観光客-----そんな様子が過剰過ぎるほどデフォルメされたマイケル・カコヤニス監督の演出で描かれていきます。 一応、舞台が近未来なので、衣装も未来仕様だが、今見るとシルク・ドゥ・ソレイユっぽいサーカス風で、派手過ぎて滑稽なくらいだ。 こういう描写が長いので正直、観ていて疲れるのだが、羊飼いがひょんなことから金属の箱を開ける方法を見つけたあたりから、そういう疲れが吹き飛ぶような展開が待っている。 とりわけ、原発事故が継続中の今の日本では、この展開はあまりにも怖すぎますね。
アルカトラズからの脱出
「アルカトラズからの脱出」を監督したドン・シーゲルは、この映画を撮る25年前に、実際にアルカトラズ刑務所を取材したそうです。 もちろん、この映画のためではなく、その頃、彼は「第十一号監房の暴動」という映画を撮っていたからなんですね。 サンクエンティンやフォルサムといった悪名高い刑務所も同じ時期に訪れ、なんとも憂鬱な気分にさせられたそうです。 この「アルカトラズからの脱出」は、1960年に起こった実際の事件を下敷きにしています。 当時、この島からの脱出は不可能とされていました。 警備が厳しく、海流が速く、水温が低いという三条件が揃っていたからです。 その刑務所に、クリント・イーストウッド扮するフランク・モリスという犯罪者が移送されて来ます。 ドン・シーゲル監督は、例によって、彼の素性や背後関係を明かしません。 モリスが脱獄の名人であり、それだからこそ、この島へ送られてきたという事実にのみ照明を当てるのです。 あとは刑務所内部の描写です。果たして、どんな囚人がいるのか? パトリック・マクグーハン扮する所長は、どんな性格なのか? 刑務所はどうやって囚人の人格を破壊するのか? 道具の調達はどうやって行なうのか? --------。 ドン・シーゲル監督は、実に無駄なく、こうした細部を語っていきます。 その語りに従えば、観ている私は、モリスの内部に導かれていきます。 と言うより、モリスとともに、脱獄のプランを真剣に練り始めるんですね。 誰を味方につけるか。時期はいつを選ぶか。監視の目はどう欺くか。 相棒選びだけは、やや説得力を欠きますが、他は文句なしに渋い。 ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドの名コンビは、コンビを組むのは、この作品が最後となりましたが、隠れた佳作だと思いますね。
悲しみの青春
ヴィットリオ・デ・シーカ監督の抑制のきいた演出が、長い歳月を経た、ある時代への青春追想の哀歌を静かに謳いあげた「悲しみの青春」。 抑えに抑えて、だが、切なさあふれるばかりの青春追想のエレジーである、「ふたりの女」「ひまわり」の名匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督が描いた「悲しみの青春」。 原作は、ユダヤ系のイタリア人作家ジョルジョ・バッサーニの小説「フィンツィ・コンティーニ家の庭」で、その原作は、ヒロインのミコルに捧げられているから、これは明らかにバッサーニ自身の物語であろう。 最初に字幕が出る"フェルラーラにて、一九三八年---四三年"。北イタリアのエミリア地方のフェルラーラは、中世の城壁に囲まれた"美しい墓"のような町だ。 その町の中に、さらに孤立するかのように、果てしなく続く堀をめぐらせて、フィンツィ・コンティーニ家の広大な庭と屋敷がある。 青年ジョルジョ(リーノ・カプリッキオ)にとって、コンティーニ家の庭は、幼い頃から憧憬であり恐れであり、光であり、触れ得ざるものであった。 彼は十年かかって、やっとこの庭に立ち入ることを許されたのだった。 それは、コンティーニ家の娘ミコル(ドミニク・サンダ)の、ほとんど気まぐれといっていい"招待"によるものだった。 夏の終わり、というより、むしろ秋色濃い日であった。 町のテニス・クラブの若いメンバーたちと、はじめてミコルに呼ばれて、彼はコンティーニ家のコートでテニスに興じるのだった。 そして、その日から、ミコルとの交際が復活した。 彼女は、昔と変わらぬ好意を見せるのだった。そして、昔の思い出を懐かしむのだった。 二人は幼馴染であった。といってもミコルは、町の学校に通学しなかった。 自宅研修生として、年に何度か、試験の時に学校に姿を現わすだけだった。 馬車に乗ってやって来る、この小さな王女さまへの憧れ。 教会での出会い。じっと自分に注がれた彼女の視線を、あの胸のときめきを、今もジョルジョは忘れない。 そうした幼い日の回想の断片が、透明な美しさでよぎるほどに、ジョルジョは、ミコルへの愛の想いを切なくかきたてられるのだった。 親しみを込めて、まるで恋人のように振る舞いながら、だが彼女はジョルジョの求愛をはぐらかし拒絶する。 そして、ついに彼は見てしまうのだ。 ミコルが、彼女の弟アルベルトの親友であり、ジョルジョの心の友ともなったマルナーテ(ファビオ・テスティ)と結ばれた現場を。 こんなふうに荒筋だけを追っていくと、ありふれた青春の失恋のドラマになってしまう。 だが、コンティーニ家も、そしてジョルジョの一家もユダヤ人である。 その宿命の重みが、一九三八---四三年という時代と相まって、哀絶の調べを奏でるのだ。 同じユダヤ人だが、コンティーニ家は"特別"であった。 ジョルジョの家も、かなり裕福だが、大地主コンティーニ家はケタ外れのブルジョワであり、同時にその貴族性のゆえに、彼らは町のユダヤ人社会からも孤絶した、別世界の"異人種"だったのだ。 ユダヤ人の自意識を持つジョルジョが、ミコルに強く惹かれたのは、彼女がユダヤ人らしからぬユダヤ人であったからだろう。 けれどミコルは、ジョルジョが自分と同じ運命共同体であることを、本能的に察知していたのだ。 ユダヤ人の現在と未来に忍び寄る"死の影"を予知して、だから、彼女が愛したのは過去、いとしく甘美で神聖な、幼い日の幻影だけであったのだ。 次第に吹き荒れるナチズムの嵐は、ユダヤ人家族から平和を幸福を、人権を財産を、そして愛を青春を、奪っていくのだ。 はじめはテニス・クラブや図書館からの追放といった差別は、やがて強制逮捕となっていく。 もはや、コンティーニ家の人々といえども例外ではなかった。 ミコルと近親相姦の匂いさえ漂わせた、病的な弟アルベルト(ヘルムート・バーガー)は、高熱にあえいで病死し、彼女が絶望的な愛を結んだコミュニストのマルナーテ青年は、ソ連戦線に召集されて戦死してしまう。 そして、両親と引き離されたミコル。息子たちと妻を逃がしたジョルジョの父。彼らの行く手に待っているのは、収容所であり、死であった-------。 昂まる悲痛のメロディは、やがて、あの光と影の青春の庭、テニス・コートの白い若者たちの優しさに溶け込んで、かき消える。 ヴィットリオ・デ・シーカ監督の抑制のきいた演出が、数十年の歳月を経た、ある"時代"への青春の哀歌を静かに謳いあげるのです。
民衆の敵
かつてのハリウッドの大スターであるスティーヴ・マックィーンが、ただのアクション・スターではなかった事を証明する映画が、あのイプセンの戯曲の映画化である「民衆の敵」だと思います。 このイプセンの戯曲のテーマは、政治にはごまかしや変節がつきもので、民衆は耳に痛い事実より、快く響く嘘を好むという、人類不変の真理であり、その風潮に逆らう者は、変人、奇人、あるいは民衆の敵との烙印を押されるという事実です。 この硬派の社会劇を、スティーヴ・マックィーンは、自分の主宰するソーラ・プロで映画化したんですね。 スターとなって以後の彼は、当時、精力的に新作に出演していたが、「タワーリング・インフェルノ」以後、パタリと出演作が途絶えましたね。 そして、5年ぶりに公開された「トム・ホーン」では、痛々しく痩せていました。 実は、この間に、この映画「民衆の敵」の製作・主演、そして公開と、癌との闘病に全力を尽くしていたんですね。 この「民衆の敵」での彼は、痛々しいほど、熱演していると思います。 髭もじゃの扮装は、予備知識なしに観たら、とうてい彼とは分かりにくいし、静の演技に終始しながら、気迫のこもる様も実に見事です。 妻役にスウェーデンの実力派ビビ・アンデルソンを迎えている事でも、この映画への並々ならぬ打ち込みようが分かります。 だが、当初、この映画はすぐには公開されませんでした。 製作後7年の日本での公開が、世界で初めてでした。 その理由とし考えられるのは、まず、余りにも演劇的で映画的な魅力に欠けるからという事だろうと思います。 第二に考えられるのは、アクション・スターのイメージが強いスティーヴ・マックィーンの室内劇など、商売にならないという配給・興行側の判断でしょう。 彼は確かに絶大な興行価値を持ったスターだったが、それも「荒野の七人」や「大脱走」のような、身の軽いアクションをポーカーフェイスでこなしたからで、観客はそんなスティーヴ・マックィーンしか求めていないとの判断であろう。 俳優が、ある役柄で目立つ演技をすると、同じキャラクターしか回ってこなくなるのは、常識といってよく、心ある役者は、そんなマンネリ打破に四苦八苦するものです。 そんな作られたイメージ、大多数が信じている虚像を壊すべきだというのが、この「民衆の敵」のテーマである事を思うと、スティーヴ・マックィーンは、この作品に、自分自身の虚像打破を賭けていたのではないかと思われます。 そして、その実像が人々の目から、隠されたまま終わるという、この作品のストーリー通りの結末になったのは、実に痛ましい限りという他はありません。
恋
この映画「恋」は、1971年にカンヌ国際映画祭でグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞した秀作だ。 原題は「The Go-Between」と言って、「とりもち」という意味らしい。 監督は赤狩りでハリウッドを追われ、ヨーロッパでしか映画を撮れなくなったジョセフ・ロージーだ。 そして、「ドクトル・ジバゴ」「ダーリング」のジュリー・クリスティと「まぼろしの市街戦」「フィクサー」のアラン・ベイツという二人の演技派俳優が、恋人たちを演じている。 「恋」は、ロバート・マリガン監督の名作「おもいでの夏」と同じように、中年男の回想から始まる。 だが、それはとても苦い思い出だ。 彼は12歳の時、寄宿学校で一緒の友人の家でひと夏を過ごさないかと誘われる。 彼には母親しかおらず、貧しく夏服の着替えさえままならないが、友人の招きに応じるんですね。 友人の家は大きな屋敷で、広大な土地を持つ大金持ち。 彼は友人と二人で少年らしく遊び回る。 しかし、次第に上流階級の人々の欺瞞にも気付いていくのだった。 貧しくて夏服を持っていない彼を人々はからかい、彼は深く傷つく。 そんな彼を救ってくれたのが、友人の姉(ジュリー・クリスティ)であった。 彼女は主人公の少年を連れて、夏服を買いにいくのだった。 その時からずっと年上の美しい彼女に、彼は強い憧れを抱く。 だから、彼女に頼まれたことを忠実に守ろうとするんですね。 彼女が「絶対に秘密よ」と言えば、誰にも喋らない。 だが、そのことが次第に彼を苦しめ、追い詰めていく。 彼はある日、友人の家族たちと一緒に、一家が所有する土地にある川に泳ぎに行き、ひとりの小作人(アラン・ベイツ)と出会う。 男臭さを発散する小作人を、友人の姉はことさら無視し、上流社会の貴婦人らしく、身分の違いを思い知らせようとする態度にさえ見える。 だが、主人公の少年は知っているのだ。 彼は友人の姉から小作人への手紙を頼まれ、何度もとりもちをする。 彼は小作人のところで話をし、納屋で遊んでいる時の方が、上流階級の人々といるより気楽で好きだったのだが、次第に二人の秘密の重さに耐えられなくなり「もう手紙は預からない」と宣言するのだった。 やがて、悲劇が訪れる。友人の母親に追求され小作人の納屋に母親を案内した彼は、そこで大人の恋が現実にどのようなことを行なうのかを目撃するのだった。 身分違いの恋に落ちた男が、その当時の社会でどんな決着をつけなければならないか、彼は12歳で思い知らされるのだ。 その夏、彼は人生の苦さを知り、社会の欺瞞を学び、男と女の抑えようのない情熱が生む悲劇を目撃する。 そして、別れの悲しみを味わい、悔恨が疼かせる痛みを覚えるのだ。 だから、夏が過ぎ、秋の服を身に着ける時、少年はもう数か月前のような牧歌的で無邪気な世界には戻れなくなっている。 誰にも、そんな夏があったのではないだろうか。
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