2010年
我々映画ファンを魅了したSF映画の傑作「2001年宇宙の旅」の続篇が、この映画「2010年」だ。 厳密に言えば、続篇というより解決篇だろう。 スタンリー・キューブリック監督による前作は、物語性を極度に排し、素晴らしい映像のシンフォニーで、独自の宇宙哲学を伝えたものだった。 何より、真理の判断を観る者自身のイマジネーションに委ねたところが、我々の興味を嫌が上にもかき立てたのだ。 それに対して、この娯楽職人監督のピーター・ハイアムズが撮ったこの作品は、よりわかりやすく、全ての謎を具体的に解いてみせる。 胎児となって宇宙へ消えた乗組員は? 叛乱を起こしたコンピュータは? 地球や月にあった石板の謎は? ----------。 ロイ・シャイダー扮するアメリカの科学者たちが、ソ連の宇宙船に同乗し、謎の解明のために木星へと向かう。 前作のあまりにも壮大なスペクタクルと興奮に対決するには、ピーター・ハイアムズ監督としては、この手でいくしか方法がなかったのだろうと思う。 しかし、米ソの関係悪化が、宇宙船の乗組員にまで影響を及ぼし、石板の異変が起きるあたりは、作者のテーマと思想が露出して、我々の前作に対するイメージまで、否定してしまう不満もある。 しかし、「スターウォーズ/帝国の逆襲」や「レイダース」でアカデミー特殊効果賞を受賞したスタッフによる特撮は、実に見事だ。 宇宙船のドッキングや、木星を覆う石板のスペクタクルにも目を見張らされる。 まあ、前作との比較はさておいて、この作品はこの作品なりに、ドラマチックな宇宙サスペンスとして楽しめばいい娯楽作品なのだ。
激突!
「激突 !」を再見すると、少し誇張して言えば、ここにスティーヴン・スピルバーグ監督の全てが、すでに顔をのぞかせているのがわかりますね。 デビュー作に表現者の生涯の全部が表れると言われますが、奇しくも日本での初登場となった「激突 !」の中に、スピルバーグの本質は、全て花開いていると思います。 普通車に乗って出張中の平凡なサラリーマンが、巨大なタンクローリーに執拗に追われる。 初めは気にもしていなかったのが、相手は「大」で、こちらは「小」、だんだん怖くなってくる。 次第に生命の危機さえ感じて、逃げて逃げまくる。 タンクローリーが地獄の底までつけまわしてくる。 最後にサラリーマンは、必死の覚悟でタンクローリー車に戦いを挑む。 「小」が「大」と戦う。そして、タンクローリーは谷底へ落ちていくのだった--------。 単純なストーリーだ。セリフはほとんどないし、だいいちセリフなんか必要がない。 映像が全てを語って余りある。 追いかけられる理由が全くない。 だから、不安が増してきて、いつか恐怖におののいて逃げまどう。 アメリカ西部の荒野を背景に繰り広げられるカーチェイス映画であり、延々と走り続けるという意味では、アメリカ映画お得意のロードムービーの伝統も引き継いでいるが、"不気味な不安と恐怖"が次第に高まっていくサスペンスが、実に見事だ。 私は、この映画を観ながら、フランツ・カフカの小説「変身」が脳裏をよぎった。 ある朝、主人公のザムザが目覚めると、大きな虫に変身していたという、有名な短篇小説だ。 主人公がなぜ虫になってしまったのか、その他、全ての「なぜ」に説明がないまま、彼はよりによって家族に殺されてしまう。 現代人の存在の根源的な不安を先取りした不条理を描いていた小説だった。 内容は違うが、この「激突 !」も何がなんだかわからないままに、追いかけられる。 これまた不条理。タンクローリーの運転手の顔は一度も映画に出てこない。 この映画の成功の大きな要素は、実はここにあるのだが、アイディアはスピルバーグの天才性を示していると思います。 相手がいかなる魂胆を持って追いかけてくるのか、想像することさえ拒否している。 いや、あらゆる想像が可能だ。だから不安が増す。 主人公の不安と恐怖は、現代という時代を象徴している。 現代は社会が肥大化し、機械文明が巨大化し、人間が機械を制御することが困難な時代だ。 いや、機械に人間が振り回されていると言ってもいいと思う。 なんとも恐ろしい。そんな不安と恐怖は、例えてみれば、理由もわからずにタンクローリーに追いかけられているサラリーマンの男に似ている。 現代に生きる人々は、いつ何どき同質の不安と恐怖に陥れられるかもしれない。 ある日、突然、虎になっていたという中島敦の「山月記」をも想起させますね。 そんな時代に我々は生活しているのだと思います。 日常の隣に、底なしの暗闇が我々を飲み込もうと待ち構えているようでもある。 だからこそ、この「激突 !」にリアリティを感じてしまうんですね。 とにかく、スピルバーグの不安と恐怖の雰囲気づくりが見事だ。 「第三の男」で見せたキャロル・リード監督の鮮やかなサスペンス描写に匹敵すると思います。 スピルバーグの演出のうまさに舌を巻いて観ているうちに、すっかり私は画面の中に吸い込まれるが、スピルバーグ演出の基本はリアリズムだと私は考えています。 スピルバーグは、大冒険活劇が得意であり、科学的ファンタジーの世界やら、恐竜時代を豊かな想像力で再現するなど、誰もが到達できなかった映像世界を切り開いた映画作家には違いありません。 だが、スピルバーグの出発はリアリズムだ。 初め、気楽にタンクローリーを追い抜き、また追い抜かされる遊びをやっていたサラリーマンに恐怖が生まれる。 そこに至る描写には種も仕掛けもない。 つまり、ファンタスティックなものが入り込む余地がないリアリズムだ。 ドライブインのシーンでの多少思わせぶりな演出を除くと、全編に嘘がない。 スタジオで撮ったテレビ・ドラマではなく、ほとんどが自動車の実写を含むロケで撮っているが、後にスピルバーグがSFXやCG技術を駆使して、いわば「作り物」の世界を、いかに本物らしくどのように大袈裟に作り上げて、観る者を喜ばすかに全知全能を傾けることになるのとは、全く違っている。 これが、スピルバーグの出発なのだ。 「激突 !」が追われる者の不安と恐怖を描く、すなわち不条理を押し付けるだけの映画だったならば、この映画の価値はさほど大きくなかっただろう。 原題がDuel=決闘とあるように、追い詰められたサラリーマンは、逃げまどいながらも、その不条理=悪と「決闘」する決意をし、土壇場で男気を出すのだ。 リアリズムから離れるとすれば、このラストだけだ。 不条理なものに対しては、己は例え小の虫であっても、不退転の決意で敢然と戦う。 この正義の心をはっきりと打ち出したところに、アメリカ的な理想主義があり、ヒューマニストであるスピルバーグのスピルバーグたる所以があると思います。 ヒューマニストとしてのスピルバーグは、早くもその第一歩の時点で、はっきりとその顔をのぞかせていて、この勇気と上昇的な気分がなければ、世界中でこれほどまでに支持される代表的な映画人にはなれなかったに違いありません。
日本のいちばん長い日
岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」は、ポツダム宣言が発表された1945年7月26日から、8月15日の敗戦まで、日本の指導部と軍の中枢部では、どんなドラマが繰り広げられていたかという、"終戦秘話"をドキュメンタリータッチで描いた作品ですね。 この映画は当初、「人間の條件」「切腹」の小林正樹監督で撮影される予定だったものが中止になり、「こういう作品をつくるべきだ」と怒った岡本喜八監督が、東宝の重役に抗議したのが、この映画を引き受けるきっかけになったという逸話が残っており、いかにも岡本喜八監督らしい"戦中派"の思いの詰まった映画になっていると思います。 ポツダム宣言受諾、降伏を決めた8月14日の御前会議後に、徹底抗戦を主張して、昭和天皇の「玉音放送」の録音盤を奪おうとした陸軍の青年将校らの動きを軸に、幾つかの物語が並行して描かれていきます。 もし彼らの反乱が成功していたら、日本は焦土と化していたかもしれないし、国が分裂していたかもしれません。 それほどシリアスなテーマなのですが、決して重苦しい映画ではありません。 「独立愚連隊」など、娯楽アクション戦争映画の快作を生み出した、岡本監督らしいセンスが発揮されているからだと思います。 この映画は、東宝創立35周年記念映画として公開され、後のいわゆる"8.15"ものの記念すべき第1作目となった作品ですが、公開当時は「庶民が出てこない」などの批評が多かったという事ですが、今の時点であらためて観直してみると、"戦中派"の岡本監督の"反戦のメッセージ"が随所に込められているのが、よくわかります。 そして、この映画の見どころの一つはやはり、何といっても豪華なオールスターの競演ですね。 軍人としての信を苦悩の中に貫く阿南陸相を、鬼気迫る演技で示した三船敏郎を筆頭に、鈴木貫太郎首相役の笠智衆の、飄々とした中に見せる貫禄、狂信的な軍人を演じた天本英世の怪演、玉音盤を奪取しようと、一途な狂気に突っ走る畑中少佐を演じた黒沢年男の熱気----、いずれもが光っていたと思います。 そして、特に印象に残るのは、阿南陸相が切腹する前、共に死ぬという部下を押しとどめて言う言葉です。 「死ぬより生き残るほうが、ずっと勇気がいることだぞ----。生き残った人々が二度とこのような惨めな日を迎えないような日本に、何としても再建してもらいたい」 危急存亡の時、指導者の決断の遅れが、いかに悲惨な事態を招いてしまうか。 現在にも通じる教訓が、含まれていると思います。 この映画は、"庶民の戦争"を描いた、岡本喜八監督の自伝的な作品「肉弾」と併せて観て見ると、"戦中派"の岡本監督の反戦への強い思いがわかると思います。
マニトウ
"B級ホラー映画だが見せ場が多く、ワクワクする楽しさに満ちた異色作 「マニトウ」" この映画の題名の「マニトウ」というのは、インディアンの言葉で精霊という事らしいのですが、この映画の場合は、"呪術師の悪霊"の事を指しています。 四百年前に死んだ"ミスカマカス"というインディアンの霊が、サンフランシスコに住む若い女性(スーザン・ストラスバーグ)の体を借りて、現代に再生しようとします。 この女性の首すじに出来たおできが、みるみるうちに大きくなり、その中に何か胎児のようなものがいるというので、主治医は頭を抱え込んでしまいます。 なにしろメスで切開しようとすると、その医師の手が意志に反して、自分の左手首を切ってしまうし、レーザーを使おうとすれば、機械が勝手に動いて、手術室を滅茶苦茶にしてしまうというように、とにかく破天荒でとんでもない展開になっていきます。 この映画の監督、脚本のウィリアム・ガードラーは、この映画の完成直後に、29歳の若さで事故死してしまったそうですが、これも何かこの映画の祟りではないかと当時、真面目に語られていたというエピソードが残っています。 このウィリアム・ガードラー監督は、この映画を撮る前に、「アニマル大戦争」や「グリズリー」などの恐怖映画を撮っていて、よほどこの手の恐怖映画が好きだったのだろうと思います。 映画のストーリーを運ぶ場面の演出は未熟な感じがしますが、しかし、恐怖シーンの演出はホラー映画ファンが見たがりそうなものを、これでもか、これでもかと一所懸命に見せようとしているところは、おーやってる、やってるという感じがして、非常に好感が持てます。 "ミスカマカス"が呼び起こした北風の霊が、病院内部を吹き荒れて、ナースの首がちぎれ飛ぶところのはったりの効いた演出は、恐怖を通り越して思わず笑ってしまうほど、観ていて微笑ましいくらいです。 若い女性役のスーザン・ストラスバーグは、かのアクターズ・スタジオの創設者の一人で、メソッド演技の指導者として有名なリー・ストラスバーグの娘さんで、この映画では文字通り、体当たりの熱演を披露しています。 この女性には、往年の人気スターで「お熱いのがお好き」や「手錠のままの脱獄」で有名なトニー・カーティスの恋人がいて、中年の女性客を専門に、タロウ・カードのインチキ占い師をやっていますが、これがまた、トニー・カーティスのどこか女たらしで安っぽい感じのキャラクターが、この役にぴったりのはまり役で、それを嬉々として演じている姿は、我々映画ファンを大いに楽しませてくれます。 この調子のいい男が、恋人の危機にだんだん真剣になって来て、悪霊と戦う気になっていくというプロセスが、この映画の見どころの一つにもなっています。 トニー・カーティスのインチキ占い師は、旧知の女霊媒師のステラ・スティーヴンスの助けを借りて、悪霊の正体を突き止め、現役のインディアン呪術師のマイケル・アンサラを病院へ連れて行って、"ミスカマカス"を霊界へ追い返そうとします。 しかし、これがうまくいかなくて、背中一杯に膨れた瘤から、ぬめぬめと肌を光らせた不気味な悪霊が誕生して来ます。 この悪霊の魔力で、廊下が氷詰めになるあたりのセットは実にチャチで笑ってしまいますが、大トカゲに化身したりの大サービスで、お話自体はだんだん馬鹿々々しく、しかし、俄然、面白くなって来ます。 どんな物にも霊があるから、病院中のコンピュータを総動員して、そのエネルギーで悪霊を倒そうという事になります。 そして、最後には何と、宇宙空間に飛び出した四百年前のインディアンの霊と、コンピュータの霊との対決になるという、もうとにかく、何が何でも話を盛り上げようとする精神に満ち溢れていて、特殊撮影が少々お粗末でも、大目に見てやりたくなってしまう程の不思議なエネルギーがこの映画にはあります。
不毛地帯
現在の日本映画で、ほとんど製作されなくなった社会派映画。 かつては、山本薩夫監督や、熊井啓監督など、数多くの気骨のある映画監督がいたものでしたが、現在の日本映画の衰退、凋落傾向の中、そのような気骨のある映画監督が全くいなくなりましたね。 今回、感想を書かれている、山本薩夫監督の「不毛地帯」は、そんな社会派映画の1本ですね。 この東宝映画「不毛地帯」は、昭和34年当時、二次防の第一次FX選定をめぐるロッキード対グラマンの"黒い商戦"を素材にした山崎豊子の原作の映画化作品ですね。 この映画は、その相当部分が主人公の元大本営参謀であった、壱岐正(仲代達矢)のシベリア抑留11年の描写に当てられています。 そして、この主人公の壱岐正のモデルは、元伊藤忠相談役の瀬島龍三氏であったのは言うまでもありません。 「白い巨塔」「華麗なる一族」に続くこの山崎豊子の原作は、高度経済成長下の熾烈な経済競争で荒廃してしまった"日本の精神的不毛地帯"と、厳しい自然と、全く自由を奪われた強制収容所という"シベリアの不毛地帯"を重ね合わせ、この二つの不毛地帯を、幼年学校以来、軍人精神をたたきこまれた主人公の壱岐正が、如何に生きていくか、その"人間的苦悩"に焦点を絞って描いている小説だと思います。 この映画の監督は社会派の作品を得意とする山本薩夫。 「戦争と人間」三部作、「華麗なる一族」「金環蝕」とその作風はある意味、一貫している監督です。 原作ではシベリアでの飢えと拷問の監獄、それに続く悲惨な収容所生活に多くのページを割いており、ソルジェニーツィンの「収容所群島」を連想させますが、この映画では、シベリアの部分はほとんどカットされており、ソ連内務省の取り調べも、天皇の戦争責任にポイントをおくためのものになっているように思います。 また、安保闘争をこの映画と切り離せない社会的背景とみて、原作にはないのを山本監督は意識的かつ重点的に付け加えています。 更に、自衛隊反対の自己の主張を壱岐の娘、直子(秋吉久美子)の口から繰り返し語らせているのです。 そして、当時、社会の関心が集中していた"ロッキード事件"を意識して、その徹底糾明のためのキャンペーン映画として作られており、山本監督は、それを抉るために彼の"政治的立場"に沿って、人間関係を明快に整理しているようにも思います。 原作者の山崎豊子は、「作者としては、どこまでも主人公、壱岐正が、その黒い翼の商戦の中で如何に苦悩し、傷つき、血を流したか、主人公の人間像、心の襞を克明に映像化してほしかった。この点、山本監督は、イデオロギー的な立場で、主人公を結論づけ、描いておられる。そこが小説と映画との根本的な相違であるといえる」と強い不満を語っていましたが、もっともな事だと思います。 山本監督は、「『金環蝕』も『不毛地帯』も、そのストーリーこそ違うものの、いずれも、本質的には日本の保守政治の構造が生んだ事件であり、今回のロッキード事件とその点で共通していると言える。私が『不毛地帯』を撮るにあたり、こうした保守政治の体質にいかに迫るかが、私にとって大きな課題となった」と、この映画「不毛地帯」の製作意図を語っており、このようにこの映画が、"政治的な意図"を持った映画である事を、我々映画を観る者は、よく認識しておく必要があると思います。 当時のロッキード事件というものと関連させて、なるほどと思わせる場面が多く、迫力もあり、映画的に面白く撮っているだけに、我々観る者が映像と現実をそのままゴッチャにしてしまう危険性もはらんでいるようにも思います。 ただ、山本監督は、「私は、映画はわかりやすく、面白いものでなければいけないと、常々考えている。健全な娯楽性の中に、その機能を生かせば、今度のような、いわば政治の陰の部分まで描き出せる」とも語っており、三時間という長さを全く退屈させない腕前はさすがで、その政治的な思想性は別にしても、これだけの社会派ドラマを撮れる監督が、現在の日本映画界に全くいなくなった現状を考えると、本当に凄い映画監督だったんだなとあらためて痛感させられます。 シベリア抑留の苛酷な体験もいつか薄れ、新鋭戦闘機に魅せられて、いつの間にか熾烈な商戦の渦中に巻き込まれ、作戦以上の策略を尽した結果が、心ならずも戦友の川又空将補(丹波哲郎)を死に追い込み、家族からも心が離反されてゆく、"旧職業軍人の業"といったものが切ない哀しみを持って、胸にしみて そして、自衛隊に入った旧軍人制服組の、警察出身で政治的な貝塚官房長(小沢栄太郎)に対する憎しみも非常にうまく描かれていたと思います。
ショコラ
この映画「ショコラ」は、ラッセ・ハルストレム監督が描いた、美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界ですね。 悠々と広がる、のどかな田園風景と小川のせせらぎに囲まれた丘の上にたたずむ小さな村。 カメラがその村に近づいていくと、"Once upon a time----"のナレーションが重なって来て、この夢のような、美しく不思議なおとぎ話の世界が幕を開けます。 「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「ギルバート・グレイプ」の名匠、ラッセ・ハルストレム監督が奏でる心優しく、ハートウォーミングな素敵な映画「ショコラ」。 この物語の舞台は、フランスのある架空の村、ランクスネ。 この村に住む人々は、昔からの伝統と戒律を守り、穏やかで静かな日々の暮らしを送っています。 すると北風の吹く、とある日に真っ赤なコートに身を包んだ母娘がこの村へとやって来ます。 母のヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と娘のアヌーク(ブィクトワール・ティヴィソル)は、閉店したパン屋を借りて、そこにチョコレート・ショップを開店します。 チョコレートの効果を知り尽くしたヴィアンヌは、村のお客それぞれにぴったりと合ったチョコレートを勧めていき、昔からの厳しい戒律に縛られた村人たちは、最初はよそから来たこの母娘に警戒心を抱きますが、次第にヴィアンヌの作るチョコレートの虜になっていきます。 とにかく、この映画に出て来るチョコレートのおいしそうな事。 人間の快楽を解放してくれる力のメタファーとして出て来るチョコレートは、何とも言葉では言い表せないような"ファンタジックな説得力"を持っています。 村人の恋愛を取り持ったり、親子の仲を改善したり、暴力的な夫に虐げられていた女性を自立させたりと、ヴィアンヌの作るチョコレートは、まるで魔法の薬のような、夢のような効果を生み出します。 このように全てが、幸せの内に物事が運んでいき、村の人々にポジティヴな生きる勇気を与えていきます。 これらのシークェンスで、人間を見つめるラッセ・ハルストレム監督の優しいまなざしを感じて、我々、観る者の心を和ませ、豊な気持ちにさせてくれます。 そして、この映画で描かれている"伝統と変化の衝突"は、実は大昔から人間の歴史を通じて繰り返されて来た、ある種の真実であり、リアリティに深く根差していると思います。 だから、このような相克に戸惑い、苦悩する村人たちの姿に共感出来るのだと思います。 登場する村人の一人一人の表情には、豊かな人間性が溢れ出ていて、我々の生活空間の中でも、とても身近な存在のように思えて来ます。 ラッセ・ハルストレム監督が描くこのようなコミュニティは、時代や国境をも越えたところで、人間同士の心の触れ合いの機微といったものを感じさせてくれます。 この「ショコラ」という映画で、ラッセ・ハルストレム監督が訴えたかったテーマというのは、多分、風のようにこの村にやって来た、この主役の母娘が、閉鎖的な村に吹き込んだ自由でおおらかな空気の恩恵を、彼女たち自身が被るところにあるような気がします。 人は何を排除するかではなく、何を受け入れるかが大切なんですよ----という"寛容で慈悲"の精神が、村をそして、村人たちを変えていきます。 当然、その結果として、チョコレートで人々に愛を分け与えてきた、この母娘は、村人たちに受け入れられ、彼女たち自身も優しい愛に包まれていきます。 そして、この映画の中で印象的で忘れられないのが、ジプシーのルー(ジョニー・デップ)が、チョコレート・ショップの壊れた戸を修理する場面です。 戸が修理された事で、いつも吹き込んでいた風がやみます。 それは、北風と共に旅を続けていた、この母娘の旅の終わりというものを象徴的に暗示しています。 遂に訪れた安住の地。やがて春が訪れ、この映画は静かに幕を下ろします。 この詩的な余韻を漂わせたラストには、本当に心が癒される思いがしました。 ヴィアンヌを演じたジュリエット・ビノシュ、ルーを演じたジョニー・デップ、二人共、肩の力が抜けた自然体の演技を示していて、この"美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界"に、すんなりと溶け込んでいて、とても素晴らしかったと思います。 そして、何といってもチョコレートのスウィートで、カカオの効いたビターな"ラッセ・ハルストレム節"を存分に、楽しく味わえた至福の時を持てた事の喜び。 本当に映画って素晴らしいなとあらためて感じました。
三匹の侍
"反権力の颯爽とした三人の浪人を描きながら、他方で生きるために権力に使われる冴えない浪人をニヒリズムの視点で描いた「三匹の侍」" 時代劇のヒーローに浪人がいる。権力体制からはじき出され、自分の腕っぷしだけで生きなければならない。 野良犬、虫ケラと蔑まれても、武士の誇りは捨てない。 一匹狼だから権力への遠慮はない。 むしろ、権力悪に対しては、人一倍強い怒りを持っている。 時代劇では、この浪人は、しばしば、宮仕えの武士以上の爽快なヒーローになるものだ。 戦前の傑作、山上伊太郎脚本、マキノ正博監督の「浪人街」三部作、戦後の黒澤明監督の映画史に残る大傑作「七人の侍」、そして「用心棒」「椿三十郎」。 時代劇は、浪人を常に魅力的に描き続けてきたと思う。 食うや食わずの痩せ浪人が、思いもよらない剣さばきを見せる。薄汚れた野良犬が、牙をむき出し、強大な権力に闘いを挑んでゆく。 「他人のことなんか知っちゃいない」と、うそぶいていた素浪人が、何を血迷ったか、飢えた農民のために、剣を抜く。 1962年からフジテレビで放映が始まった五社英雄演出の「三匹の侍」は、この浪人たちの魅力を思う存分見せつけた人気シリーズだった。六〇年安保闘争の後の「敗北の季節」に、裏街道を行かざるを得なかった誇り高き男たちのゲリラ的な戦いは、当時の時代の気分といったものによく合ったのかもしれません。 丹波哲郎の柴左近は、身を崩しながらも、まっとうな武士以上に誇り高く、義侠心に富んでいる。 長門勇の桜京十郎は、ユーモラスな明るい性格ながら、槍にかけては天下無双。 平幹二朗の桔梗鋭之助は、机龍之助や眠狂四郎と同じニヒリズムを湛えながらも、最後には、他の二人に引きずられるようにして、反権力の剣を抜く。 三人三様のキャラクターが、この物語を豊かに盛り上げる。無論、この三人が、黒澤明監督の「用心棒」の三船敏郎のイメージを踏襲していることは、言うまでもないだろう。 三船敏郎の魅力を、三分したと言えばいいだろうか。 今更ながら「用心棒」の先駆性に舌を巻いてしまうが、「三匹の侍」は、その面白さを受けて、浪人たちの闘いをさらに縦横無尽に広げていると思う。 三人の薄汚れ具合は、三船敏郎以上と言ってもいいだろう。 1964年に松竹で作られた「三匹の侍」は、テレビでの好評を受けての映画化作品だ。 監督は、テレビ版で演出の冴えを見せた五社英雄。 これが映画初監督になる。製作は、丹波哲郎のさむらいプロ。白黒映画だ。 薄汚れた浪人の物語にカラーは似合わない。吹きさらしの街道を往く素浪人をとらえるには、白黒の映像しかない。 凶作と重税で追いつめられ、ついに悪代官(石黒達也)に対して立ち上がった農民たち(藤原鎌足ら)のために、三人の浪人が義の闘いを敢行する物語だ。 浪人もの映画の定型どおりといえばそれまでだが、定型ならではのカタルシスがあり、上質のエンターテインメント作品に仕上がっていると思う。 農民が悪代官と真正面からぶつかって勝てるわけがない。そこで農民たちは、代官の娘(桑野みゆき)を人質に取って、村はずれの水車小屋にたてこもる。 そこに、丹波哲郎の紫左近が通りかかり、農民たちの闘いに関わらざるを得なくなる。 浪人が弱い農民たちに助太刀する。これもまた、「七人の侍」を踏まえていることは言うまでもない。 しかも、農民の先頭に立つのが、黒澤映画の名脇役、藤原鎌足とくれば、この映画が黒澤明監督へのオマージュになっていることは明らかだ。 水車小屋で、農民たちが自分たちも腹を空かせているのに、流れ者の島左近に、粟粥を振るまうところがホロリとさせる。 ここも「七人の侍」を思い出させる。この一宿一飯の恩義から、丹波哲郎の島左近は、彼らのために闘う決意をする。 めしという、生きる基本が闘いのモチーフになっているのが泣かせる。 三人の中では、長門勇の桜京十郎が面白い。彼だけは武士ではない。農民の出身だ。 「七人の侍」における三船敏郎の菊千代と同じ設定だ。 自分も水呑み百姓の子供だった。だから、農民たちの苦しみがわかるのだ。 得意の槍を振り回して、悪代官一派に切り込んでいく。 対する悪代官は狡猾で、三人の浪人を倒すために他の浪人を使う。 この戦法も皮肉が利いている。毒を以て毒を制す。 悪代官に雇われた浪人もまた、やむを得ざる闘いに駆り出されるのだ。 浪人といっても格好よく一匹狼で生き通せるわけではない。やむにやまれず悪代官という権力に尻尾を振る。 この映画の無類の面白さは、一方で、反権力の颯爽とした三人の浪人を描きながら、他方で、生きるために権力に使われる、冴えない浪人を描いているところにあると思う。 三人が代官や藩の侍たち(青木義朗たち)と斬り結ぶ最後の死闘は、浪人者にふさわしく、烈風吹きすさぶ荒れ野で行なわれる。三人をスーパー・ヒーローに仕立てることなく、息も絶え絶え、疲労困憊しての死闘を行なわせる殺陣が、実に迫力があって素晴らしい。 五社英雄監督の演出は、ケレン味たっぷりで、特に、剣を振る時の烈音というべき、豪快に空を斬る音を意識的に多用して、迫力を増していると思う。 この映画、実は、最後がほろ苦い。悪代官に刃向かった農民の代表三人は、殺される。 その無念を晴らすために、三人の浪人が決死の覚悟で敵を斬り倒す。 それなのに、最後の最後で、農民たちは、後に続かない。 そこが「七人の侍」と大きく違っている。 農民という大衆は、ついに腕のたつ浪人という自由人と共闘しないのだ。 権力と闘おうとしない無名の農民たちは、確かに卑屈かもしれない。臆病かもしれない。 しかし、彼らのほうが、浪人たちよりも遥かに、権力の強大さを知っていることも確かだ。 ついに立ち上がらない農民たちに絶望し、三人が砂塵の中を去ってゆくラストがほろ苦い。 「七人の侍」や「用心棒」に似ていながら、時代が後だけに「三匹の侍」のほうが、ニヒリズムはより深くなっていると思う。
ブラニガン
この映画「ブラニガン」は、ジョン・ウェイン主演の刑事ものでも、いささか無理した感じの前作の「マックQ」より、かなりいい。 シカゴ警察の警部補ブラニガン(ジョン・ウェイン)が、起訴まで持ち込んで逃げられた悪党ラーキン(ジョン・ヴァーノン)を追って、ロンドンに乗り込み大活躍するという痛快編だ。 ブラニガンは悪党を追ってロンドンへと飛び、出迎えたスコットランド・ヤードの婦人警官サッチャー(ジュディ・ギースン)が、ロンドン滞在中のブラニガンのお守り役で、ヤードの長官スワン卿(リチャード・アッテンボロー)と話し合っている時、ラーキンが誘拐されたとの報告が入る。 そこへブラニガンを消すための殺し屋や、ラーキンの弁護士らが加わって、事件は佳境へ入って行く。 この映画の面白さは、強いアメリカの象徴であるジョン・ウェインと、誇り高く、洗練されたイギリス紳士の象徴としてのリチャード・アッテンボローとの対比における、やりとりの妙にあるのだと思う。 それとともに、ジョン・ウェインの行くところで、なぜか西部劇調になるというのは、誰しも思いつくところだが、この映画ではパブでの大乱闘という見せ場もたっぷり堪能でき、入ろうとする客が何度となくパンチを食らって転げ出し、フラフラになったあげく、喧嘩の一味として連行されるという、ユーモアたっぷりの場面も用意されている。 また、悪党の車を追うため、居合わせた男の新車を挑発してのカー・チェイスとなり、開きかけたブリッジを飛び越えるなどの"定石"も効かせて、大いに楽しませてくれる。
スローターハウス5
この映画「スローターハウス5」は、現代アメリカ文学を代表するカート・ヴォネガット・ジュニアが、1969年に発表した彼の戦争中の体験に基づく、半自伝的なSF小説の映画化作品だ。 そして、この作品は、人生の不条理、戦争の残酷さが、時にはアイロニーを込めて、ファンタスティックに描かれているのです。 このジグソー・パズルのような複雑な構成の原作を、「明日に向って撃て!」「スティング」の名匠ジョージ・ロイ・ヒル監督が、類まれなる卓抜した演出で映像化した傑作だと思う。 原作の小説は私の愛読書の1冊ですが、この原作小説は、複雑な構成をとっていますが、映画もまたその構成に沿い、過去、現在、未来や場所を超えて自在に飛び交っていると思う。 第二次世界大戦に出征し、戦後は実業家として成功、一見平凡な生活を送るビリー・ピルグリム(マイケル・サックス)。 だが彼は、時空を超えて自由に過去・現在・未来を行き来できる超能力を持っていた。 しかも、彼が常に立ち戻るのは、第二次世界大戦中に、遭遇したドレスデンの無差別攻撃。 そこでの悲痛な体験が彼の人生を決定したのだ。 子供の頃、父親からプールに突き落とされ、無抵抗主義ゆえに水の中に沈んだビリー・ピルグリム。 若い日に見た野外劇場の踊子。ベルギー戦線でドイツ軍の捕虜となり、屠殺場(スローターハウス)へ移送される途中、凍傷にかかったアメリカ兵の足を踏み、それが原因で彼を死なせ、これを目撃したラザロ(ロン・リーブマン)につきまとわれることになる。その後、ドレスデンの収容所が連合軍の空襲を受け、町は一変したが、彼は助かったのだった--------。 戦後、事業家の娘ヴァレンシア(シャロン・ガンズ)と結婚し、家まで贈られて優雅な生活を送り、中産階級の一員として大成功したのだった。 ヴェトナム戦争に出征した息子が、立派な兵士となり、ビリーは冷ややかに見つめるのだった。 飛行機が山に激突し、ビリーは重傷を負い、妻は半狂乱の末、車の衝突で死んでしまう。 そして、ビリーもラザロに射殺され、二百億後年のかなたのトラルファマドア星で、若き日に野外劇場で見た女モンタナ(ヴァレリー・ペリン)と戯れている。 時間的な配列を追えば、このようになりますが、これを、時空を飛躍する悩みをタイプに打ち続ける彼を現時点に据え、大胆に配列しているのです。 むろんその核になっているのは、戦場での悲痛な体験であり、その体験を重く背負った主人公の姿なのだ。 だが、未来における彼は、光明の中にいる。 そのあたりに、過去に取り憑かれながら、光明の未来を追うジョージ・ロイ・ヒル監督の共通の主題が見い出されるような気がします。 また、この映画の音楽はバッハの「ブランデンブルク協奏曲」などをグレン・グールドの編曲により使用していて、実に素晴らしかったと思う。
戦う幌馬車
「戦う幌馬車」という西部劇の主演は、御大ジョン・ウェインとカーク・ダグラスという重量級俳優の魅力的な顔合わせです。 監督がバート・ケネディなので、内容的にはシリアス寄りではなく、コメディ寄りの痛快アクション西部劇になっています。 結論から言うと、この映画はとても面白かったのですが、ラストは主人公にとって残念な成り行きになっています。 思わず「オーシャンと11人の仲間」を思い出しました。 冒頭、主人公のトウ・ジャクソン(ジョン・ウェイン)が刑務所帰りという設定で登場するので、一瞬ビックリしました。 ジョン・ウェインが西部劇の悪役をやるわけがないからです。実は、無実の罪で刑務所送りになっていたのです。 そして、その無実の罪に追いやった敵をやっつけに来た、というストーリーでした。一種の復讐劇と言ってもいいかもしれません。 トウの標的は、自分を騙して牧場を奪ったうえに、牧場から出た金を独り占めしているピアースという男です。 トウは、ピアースが鉄製の装甲車のような馬車で運ぶ金を奪う計画をたて、仲間を集めます。 金庫破りの特異なローマックス(カーク・ダグラス)、古い馴染みのリーバイ、運び屋のフレッチャー、爆破が得意なビーリーの4人。 それぞれ特技を持った仲間が協力して、数十人の護衛のついた戦車のような馬車の襲撃作戦を決行するのです。 現金輸送車ならぬ砂金輸送馬車、この馬車の外観がかなり凄いです。 真っ黒で、上部には丸い砲台のようなものが付いていて、機関銃が据え付けてあるのです。 この不気味な馬車が、護衛を引き連れて荒野を疾走するシーンは迫力満点です。 トウとその仲間5人が、いかにして鉄の馬車を襲撃して金を奪うのかが、この映画の最大の醍醐味であり、見せ場であり面白いところです。 爆破が専門のビリーは、若いくせにアル中で、運び屋の老人は、まるで孫のような若い奥さんがいる乱暴者、とまあこんな風に仲間もそれぞれ個性的で観ていて飽きません。 バート・ケネディ監督の映画は、以前に「夕陽に立つ保安官」を観ました。あれほどコメディ色は強くないですが、ジョン・ウェインとカーク・ダグラスが見せる絶妙の間合いの可笑しいセリフは得難いもので、観ていて微笑ましく癒されました。 内容を全く知らずに観て、面白くて大正解でした。西部劇はやっぱりアクション映画の原点だなと、あらためて思わせられた1本でした。
哀れなるものたち
エマ・ストーンの演技に大きく期待しすぎてしまった。 エマ・ストーンは本作で2度目のアカデミー賞主演女優賞をとるのではという評判を聞いて、エマ・ストーンの「体は大人の女性、脳みそは赤ちゃん」の演技がすごそうだ、と、ここに注目ポイントを置いてしまった。 映画館で、その期待していた演技を見た瞬間これは脳みそが子供というよりはまるで障害者の演技みたいだ・・と感じてしまい、集中できなくなってしまった。 自分の期待が変なところに集中してしまったのが良くなかった。でも正直に言うと最初の印象は、期待していたほどの演技ではなくてがっかり・・という印象だった。 冒頭の見せ場は脳が子供というふるまいと、性に目覚めるシーンだと思うが女性として見ると女性の自由が性一辺倒に描かれるというのはやはり疑問に思った。 この2点で冒頭はあまり楽しめなかったが、世界に冒険に出て成長していくベラを見ていくうちに楽しめるようになってきた。 魚眼レンズのような撮影の仕方に何か意味があるのかわからなかったが、広角レンズで撮影された広い視野の映像は圧巻だったし、独特な世界観はすごく楽しめたし好きな映像でした。
ミッシング
"国家に翻弄される人間の尊厳を賭けた、孤独な叫びを描いた社会派映画の秀作「ミッシング」" 1982年のアメリカ映画「ミッシング」は、ギリシャの政治家ランブリスキ暗殺事件を描いた「Z」、チェコの"スランスキー事件"の恐るべき実態に迫り、スターリニズムの内幕を暴いた「告白」、ウルグアイでのアメリカ人暗殺事件を描いた「戒厳令」のイヴ・モンタン主演の"政治三部作"を撮ったギリシャ出身の政治色の強い社会派映画の俊英コスタ・ガヴラス監督の作品で、彼がアメリカ映画界で初めて撮った映画です。 この映画は、1982年の第55回アカデミー賞の最優秀脚色賞を受賞し、同年の英国アカデミー賞の最優秀脚本賞、最優秀編集賞を受賞し、また第35回カンヌ国際映画祭で最高賞のグランプリとジャック・レモンが最優秀主演男優賞を受賞しています。 監督のコスタ・ガヴラスは、この映画の製作意図について「この物語で最も素晴らしいのは、この国がいかに自己を批判する能力を持ち合わせているかを示している点だ。 これはアメリカ人が作った。それもラディカルな人たちではない、相当保守的な人たちだ。彼らがこの映画の後ろ盾なのだ。このこと自体、アメリカという国の民主主義と自由主義の最大の証拠だ。」と語っています。 映画は、1973年9月のチリの人民連合のアジェンデ政権が軍事クーデターで崩壊した時に、ひとりのアメリカ青年が突然、失踪します。 政治的な理由で逮捕されたのか、あるいは何かの事件に巻き込まれて殺害されたのか。 このチリのクーデターを描いた映画として、1975年の「サンチャゴに雨が降る」(エルビオ・ソトー監督)がありましたが、この映画はアジェンデ大統領と民衆の抵抗をアジェンデ側から描いていました。 当時のチリのアジェンデ政権は、国民の民主的な選挙によって成立した初めての社会主義政権でしたが、アメリカのCIAは選挙に関与し、影響を与えようとしますが失敗し、遂に軍部による軍事クーデターに直接介入するという手段をとり、クーデターを成就させます。 背景は全く同じですが、「ミッシング」はクーデターに巻き込まれたアメリカ人を描くことで、アメリカの国家的な政治的陰謀を告発する内容になっています。 アメリカ人青年のチャールズ・ホーマン(ジョン・シェア)と妻のベス(シシー・スペイセク)は南米のある都市で暮らしています。 もちろんチリのサンチャゴですが、映画では特定していません。 チャールズは、そこで小説を書いたり翻訳をしたり、近所の子供たちに絵を教えたりしていました。 ところが、軍事クーデターが起こった後、チャールズが突然、失踪し、姿が見えなくなります。 この物語の前半のハイライトともいえる、戦車が出動し、外出者は無差別に銃殺されるクーデターの生々しい緊迫感が、ヒリヒリするようなタッチで迫力満点の映像で描かれていきます。 コスタ・ガヴラス監督の緊迫したドキュメンタリータッチの演出が冴え渡ります。 やがて、チャールズの父親のエドワード(ジャック・レモン)が、息子の失踪の知らせを受け、ニューヨークからやって来ます。 エドワードとベスは、チャールズの行方を捜すべくアメリカ大使館へ行きますが、"息子さんは潜伏しているのではないか"という返事しか返ってきません。 これには何か秘密があるに違いないと感じた二人は、病院や政治犯が収容されたスタジアムへ行き、目撃者の話を聞いていくうちに、失踪の真相を次第に知っていきます。 クーデターの内情を知りすぎたチャールズは、アメリカ大使館の了解あるいは画策のもと、軍事政権によって抹殺されたと思われます。 行方を捜すという、ひとつの目的でエドワードとベスは、行動を共にしているだけで、最初、この二人は全く気持ちが繋がっていませんでした。 しかし、困難な調査を共に続けていくうちに、"互いに深まっていく世代を超えた共感と和解"のプロセスをコスタ・ガヴラス監督は丹念に情感を込めて描いていて、この映画を"奥行きのある見事な人間ドラマ"に仕立てていると思います。 クーデターの背後にある不気味なアメリカの影。 巨大な政治的な陰謀。人民のためという正義の名を借りたファシズムの実態。人間のエゴイズム。 二人の目の前に"現代の厳しい現実"が次々と立ち塞がって来ます。 特に、虚しい捜索を続ける中、サッカー・スタジアムに無造作に山積みされた死体の山を見た時、クーデターの悲惨さを垣間見たエドワードの心境に変化が訪れます。 当初、エドワードは、息子や息子の嫁をあまり良く思っていませんでした。 彼には実業家としての地位や財力もあり、アメリカ政府を信じる一般の常識的な国民でした。 しかし、必死になって夫を探すベスと接することによって、本当の息子の真の姿を知るようになります。 それと同時に"国家の利益"を名目に、息子を抹殺した"国家権力"への激しい怒りを爆発させていくことになります。 監督のコスタ・ガヴラスの"国家権力とは何のためのものなのか。 果たして国民ひとりひとりを守るための存在なのか。 いや、国家そのもののための権力の行使ではないのか"という、激しい怒りにも似た厳しいメッセージが伝わってくるようです。 エドワードを演じた名優ジャック・レモンの、体の奥底からほとばしり出るような、魂を揺さぶる演技には唸らされます。 「息子の生死だけでも知りたい!」と全身全霊を込めてふりしぼるように言うジャック・レモンの目に、いつの間にか涙がじっとたまっています。 カンヌで絶賛された、彼の演技を通り越した、生の人間の悲痛な心の叫びがひしひしと伝わって来ます。 共演のシシー・スペイセクも、義父のエドワードにそっと寄り添う演技で、静かな中にも心の内側には激しい怒りと哀しみを秘めた、ひとりの女性の表情を見事に表現しています。 そして、エドワードが映画のラストシーンで空港に送りに来た、アメリカ大使館員に対して、「アメリカは君たちを許しておくほど甘くはないぞ」と告訴する意思を告げたのに対して、アメリカ領事が「それはあなたの自由(free)です」と答えるのを強く制して、「いや、それは私の権利(right)なのだ」ときっぱりと言うシーンは、アメリカの良心を示していて、このシーンにこそコスタ・ガヴラス監督の最も伝えたかったテーマがあるのだと感じました。 この映画が、ニューヨークで公開される直前に、まともに糾弾された形のアメリカ国務省は、この映画の内容は事実無根であるとして長文の声明文を発表したそうです。 これに対して、コスタ・ガブラス監督は「ここに描かれていることはフィクションではない」と正式に反論し、また、弁護士であり、この映画の原作の作者でもあるトマス・ハウザーは、そのあとがきの中で「私はチャールズ・ホーマンの死をめぐる事件の、公平かつ正確な再構成であると確信している」と書いています。
約束
映像派詩人、日本のクロード・ルルーシュと言える、斎藤耕一監督の名を否応なく高めたのが、この映画「約束」だ。 この後に続く「旅の重さ」「津軽じょんがら節」と並んで、まさに油の乗り切った、最も充実していた時期の作品で、斎藤耕一監督らしい、流麗な映像テクニックで押し切る1時間28分は、自信に満ち溢れている。 青春の儚さとか、人間の危うさといった、彼独特のテーマをセリフを極力抑え、舞台設定やその背景を上手に利用して、フォトジェニックに語っていく。 フランス映画、それもクロード・ルルーシュ監督の「男と女」をイメージさせるような演出方法は、1972年当時の日本映画では、恐らく斬新極まりないものだったろう。 アメリカ映画では、ニューシネマが一巡した頃だ。 旧態依然とした映像表現に固執する日本映画の中で、斎藤耕一監督の映画は、その殻を打ち破るような画期的なものだったに違いない。 この映画は、始まって10分ほどはセリフがない。 日本海に沿って北上する列車、車内の点描。 海の景色、浜辺の波、空を飛ぶ鳥。 子供が遊び、ブランコが揺れている。 人物抜きの映像だけで見せるショットが多い。 派手なアクションや奇抜なストーリーだけを追う姿勢はない。 セリフで状況と心理を説明する、近年のTVドラマの対極にある。 まさに映像派詩人の名に相応しい叙情が醸し出される。 萩原健一と岸恵子、この組み合わせも意外だし、その舞台が冬の日本海沿岸を北上する急行列車となれば、それだけで何か日本映画離れした雰囲気を期待させる。 役の設定は、萩原健一がひと仕事片づけようというチンピラの男で、岸恵子が肉親の墓参りのために仮釈放された女囚で、次の朝までに刑務所へ戻らなければならない。 列車の中で、偶然乗り合わせた男は、向かいの席に保護司と黙りこくったまま座る女に、ある種の母性を感じ、やがて愛情であることを自覚する。 そして、列車を降りた後にも続く、男の若く一途な愛情表現に、女も次第に心を動かされ、感情が高まっていく。 そこに、女の愛に破れた過去や、殺人を犯して刑事に追われる男の身の上が絡まってくる。 男の心情にほだされた女は、刑期を終える二年後の再会を「約束」する。 だが、刑務所に女を見送った直後、男は強盗犯として逮捕される--------。 約束の日の、約束の場所で、いつまでも待ち続ける女の表情は虚ろだ。 小さなすれ違いだが、二人にとっては決定的に切なく、哀しい。 GSのテンプターズから、俳優に転向して間もない頃の萩原健一のキャラクターを、実に上手く活かしていると思う。 女に向ける、がむしゃらな好意に満ちたナイーヴな優しさが印象的だ。 ベテラン女優の岸恵子の方も、萩原健一を巧みにリードして、男から一方的に押し付けられる好意に、ひと筋の灯りを見い出す、寂しい女の姿を演じて、実に素晴らしい。 陰影に凝ったライティングや、望遠レンズで引きつけたクローズアップショットの多用など、斎藤耕一監督ならではの映像テクニックが、思う存分発揮されていると思う。 クロード・ルルーシュ監督の影響を受けたと思われるショットも数多くあり、流麗な映像感覚で見せることが日本映画でも出来るのだ、ということを証明した作品だと思う。
セルピコ
この「セルピコ」はご承知のように、ニューヨーク派の名匠シドニー・ルメット監督の作品で、アル・パチーノは、アカデミー賞で主演男優賞の受賞はできなかったものの、ゴールデン・グローブ賞のドラマ部門の主演男優賞を受賞しましたね。 私はアカデミー会員という、いわば、映画界の身内で投票するアカデミー賞よりも、各国の外国特派員の記者たちの投票で選ばれるゴールデン・グローブ賞の方が、より映画ファンの目線で選ばれ、映画ファンの気持ちに、より近い結果になっていると思っています。 この「セルピコ」が公開された1974年頃のアメリカでは、クリント・イーストウッド主演の「ダーティ・ハリー」あたりから、警官ものの映画が、ブルース・リー(李小龍)の「燃えよドラゴン」のカンフー映画と共に流行となっていましたが、この警官ものは、ジーン・ハックマン主演の「フレンチ・コネクション」のような派手なアクションを売り物にする、ショッキングな実録タッチのサスペンスものと、ジョージ・C・スコット主演の「センチュリアン」のような、社会派警官の苦悩を描くものとの二つの系統に分かれていたように思います。 この「セルピコ」は、当然、後者の社会派警官の苦悩を描く系統に属する作品になっています。 ニューヨーク市警察の汚職を内部告発した、実在の警官をモデルにしているこの映画は、アメリカ社会の腐敗をリアルに描いて、とても迫真性のある映画になっていると思います。 しかし、このような映画が製作され、また率直に新聞を通して世論に訴えるところに、アメリカの伝統的な自由が生きており、忖度と腐敗だらけの、どこかの東洋の島国と違って、腐敗を腐敗に終わらせない社会の根強い復元力を感じさせます。 かのワシントン・ポスト紙の記者であったボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインによる、ウォーターゲート事件の新聞キャンペーンもその一つの例とみるべきでしょう。 1971年2月、ブルッキング・サウスの麻薬担当刑事のセルピコは、麻薬犯を逮捕しようとして、犯人に戸口から顔面を直撃されて倒れます。 同行の二人の刑事は、意識的にか支援をためらったのです。 セルピコが撃たれたとの報に、警察の同僚と上層部が、すぐに警官相互の殺しではないかと思ったほど、セルピコは警察内部で恨みを買っており、孤立していたのです。 というのは、その前年の4月25日、ニューヨークタイムズ紙の第一面は「ニューヨーク市警の汚職数百万ドルに及ぶ」との大見出しを掲げ、その後、連日にわたって、関連の暴露記事で強力な論陣を展開しました。 この報道は、セルピコの告発に基づいた調査結果であり、それだけに、彼は警察内部では異端者として忌避される存在になっていたのです。 当時のニューヨークのリンゼイ市長は、世論に応えるため、5人の委員からなる調査委員会を設ける事を宣言し、その調査が進んでいましたが、一方、セルピコは、最も危険な麻薬担当への転出を上司に強いられていたのです。 瀕死のベッドから、画面は彼が11年前に希望に燃えて、警察学校を卒業する場面へとフラッシュバックします。 正義感の強い仕事熱心な彼が、同僚たちが不感症になっている収賄、さぼり、暴行などの汚れた環境の中で、外見的な変貌と内面的な苦しみを重ねてゆく推移が、早いテンポで描かれます。 人間的に一般市民との繋がりを深めようとすればするほど、職場である警察の閉鎖社会からは次第に遊離していくのだった。 そして、裸のつき合いを持つヒッピー的な友人の間から現れた優しい恋人も、彼の人間性には魅せられ、愛しながらも、余りの潔癖さとその苦悩を見るに耐えかねて、別れていってしまいます。 組織の全部が狂ってしまったその内部からの、外部に向かっての社会的な告発が、それに至るまで、どのように深刻な人間的な苦悩を踏むものであるか、そして、内部告発に踏み切らせるものは、その組織の上層部の硬直化した問題処理の態度に起因している事を、セルピコは強く訴えているのです。 しかし、組織の内部での真剣な解決への努力と内省の苦しみを欠いた、安易な内部告発は、むしろ、うとましい一種の卑劣感が伴うものであり、社会に強く訴える力は、到底、持ちうべくもありません。 やむにやまれぬ正義感に立って、しかも、あらゆる内部解決の努力を払った、最後の手段としての苦悩の告発であり、一方においてはそれと並行して、あくまでも、その組織内にあって忠実勇敢に、日常の職務執行に献身するセルピコのような姿にこそ、我々は心を打たれるのだ。 それにしても、いかなる形であれ、内部告発者の末路は暗いものがあります。 その後、セルピコは不具の身を人知れず、スイスで過ごしたと言われています。
クイルズ
精神病院と監獄でその人生の大半を過ごした作家、マルキ・ド・サド。 サディズムの語源となった、この反骨精神に溢れた男の晩年を描いた、フィリップ・カウフマン監督の「クイルズ」。 その退廃的で卑猥な内容から、発禁処分を受けながら、権力に屈することなく、挑発的な作品を世に送り出す。 禁じられれば禁じられるほど、書くことへの執念が燃える。 周囲の人間を少しずつ虜にしていくサド侯爵。 だが、遂に彼を監視する目的で、精神病院の責任者が新たに送り込まれ、彼は窮地に立たされる。 サドの書くことへの執念は、果たしてどのような結末を迎えるのか?-------。 これだけ主役、脇役ともに芸達者が揃う映画も珍しい。 特に、主役のサド侯爵を演じるジェフリー・ラッシュは凄い。 本当は、観る前はちょっとミスキャストかなと思っていたのだが。 退廃的で猥褻なサド侯爵を演じるなら、ジェフリー・ラッシュは、確かに上手い俳優だが、色気が足りない感じがして、もうちょっと艶のあるタイプの俳優の方がいいのでは?と。 しかし、あにはからんや、観てみたら、イイんだな、これが!! あの鬼気迫る感じは、まさにラッシュならでは。色気も意外とあったりするのだ。 ペンと紙を奪われ、書くことを禁じられたサドは、まずはワインと鶏肉の骨を使ってシーツに書く。 それも禁じられれば、自らの指を傷つけ、その血で自分の衣服に書く。 衣服を奪われれば、獄中の狂人と小間使いのマドレーヌを使って、口伝えで文章を伝える。 そして、それが原因で恐ろしい事件が起き、拷問の末、遂に地下牢に全裸でつながれれば、自らの排泄物で壁に書く。 まさに凄まじいまでの情念なのだ。 18~19世紀に言論の自由を謳うのは、かくも命懸けのことだったのだ。 サドの言動に戸惑いながらも、彼に惹かれずにはいられない若き神父は、ミイラとりがミイラになってしまうのだけど、この徐々にサドを理解して傾倒していく様子が少し弱かったような気がする。 マルキ・ド・サドを心のどこかで理解しながら、愛するマドレーヌが非業の死を遂げて、悲しみと怒りで凄まじい行動をとり、遂には発狂する。 彼がこうなるプロセスを、もう少しじわじわと描くことが出来れば、ラストがもっと効果的だったはずだ。 サディズムの定義は、他者に苦痛を与えることで性的な快感を得ることだ。 その生涯で27年以上も牢獄暮らしをした、サド侯爵の本名は、ドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。 代表作は「ジュスティーヌ」「ソドムの百二十日」など。 「ソドムの百二十日」は、イタリアの鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督によって映画化されたが、まことに凄まじい作品だった。 美徳を知りたければ、まず悪徳を知ることだとはサドの名言。 言論の自由が、この作品の最大のテーマだが、かなり挑発的で見応えのある映画だ。
イルカの日
マイク・ニコルズ監督の「イルカの日」は、フランスの作家ロベール・メルルのベストセラーSF小説の映画化で、脚本を「卒業」「キャッチ22」の才人バック・ヘンリー、音楽をフランソワ・トリュフォー監督映画でお馴染みのジョルジュ・ドルリューという魅力的なスタッフが結集しています。 イルカの言語能力の開発によって、人とイルカという異種間のコミュニケーションに到達しようとする海洋生物学者(反骨の名優ジョージ・C・スコット)の科学的な努力が、南海の澄み切った自然の中で、次第に博士とイルカとの純粋な交流が愛情となって育まれていく前半部が、特に素晴らしかったと思います。 マイク・ニコルズ監督の、人間とイルカに向ける優しい眼差しと瑞々しい感覚にあふれる演出と、また、この映画を担当したジョルジュ・ドルリューの哀愁を帯びて、我々、映画を観る者の心の琴線をふるわせる、繊細でリリカルなメロディのテーマ曲が全編に流れ、映画音楽の持つ力の素晴らしさに、しばし映画的魅惑の世界に誘い込まれてしまいます。 特に、アルファ(愛称ファー)とビーという名前の2頭のイルカの演技が素晴らしく、水槽の中を2頭が揃って泳いでいるシーンや水槽の仕切りを飛び越えようとする、あまりにも美しく心を洗われるような流麗な映像は、この映画の白眉とも言える程、鮮烈で見事なシーンだったと思います。 しかし、このイルカを大統領暗殺計画に使おうとする政治的な陰謀が展開する後半は、文明に毒された醜悪な人間との対比で、イルカの純粋無垢な美しさが我々、観る者の胸を打つものの、SF仕立ての安易な冒険物のストーリーに堕してしまったのは、返す返すも残念でなりません。 どうも、製作者側の意図する、動物映画と政治サスペンス映画とSF映画と人間ドラマ映画の観点を全て詰め込もうとするあまり、それぞれが全て中途半端になったように思います。 SFや政治サスペンスという原作の小説の呪縛から解き放たれて、陸と海の、それぞれの哺乳動物の代表である人とイルカのナイーヴな愛情の交流に絞れば、ラストの博士夫妻とイルカたちとの悲しくも切ない別れのシーンがあまりにも素晴らしく、余韻を残すものだっただけに、もっとこの映画の感動が高まったであろうと惜しまれてなりません。
アトランティック・シティ
この映画「アトランティック・シティ」はヌーヴェル・ヴァーグの旗手ルイ・マル監督が老残のギャングの失われた夢、過去へのノスタルジーを描いた名作だ。 近代化の波が押し寄せ、古き良き時代は過去のものとなりつつあるカジノの街、アトランティック・シティ。 この映画「アトランティック・シティ」は、ここに生きる老ギャングの飄々とした姿を描いた、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの旗手で、「死刑台のエレベーター」「鬼火」のルイ・マル監督がアメリカへ渡って、「プリティ・ベビー」の次に撮った作品で、彼のアメリカ時代の最高傑作と評価の高い作品です。 この映画の舞台となっているのは、賭博が合法化されて以来、急速に変貌しつつあるギャンブル都市アトランティック・シティ。一攫千金を夢見てこの街にやって来る者が絶えません。 ある麻薬事件を契機にして、老残のギャング、ロウ(バート・ランカスター)と、プロのディーラーを目指すサリー(スーザン・サランドン)とが、このドラマの核となります。 まず、映画のファースト・シーンは、同じビルの隣の部屋から、窓越しに台所で裸になって身体を洗っているサリーを覗いているロウの姿を捉えます。 冒頭のこのショットで、我々観る者は、あらかじめ古き良き時代の伝説の中に、自分の身を浸して生きているかのように見えるロウの、胡散臭さを否応なく了解させられるのです。 べっとりとまとわりつくような、その胡散臭さを受け入れられるかどうかが、この映画に魅了されるかどうかの分岐点になるような気がします。 あっさりと殺されてしまうサリーの別れた夫デイブや、ロウの愛人とおぼしきグレースなどのユニークなキャラクターを絡ませながらも、この映画の真の主人公は、ゆっくりと退廃していく"アトランティック・シティ"そのものなのだと思います。 ドラマとしては、ある種、汗臭いことこの上ないのに、画面は淡いトーンの色彩で統一されていて、何度も観返してみると、ルイ・マル監督はどの登場人物にも、常に一定の距離を置いて描き、ひとつの街全体が静かに崩れていく様子を見つめたかったのかも知れません。 幼児性と、それゆえの小狡さを持ったロウのキャラクターを、名優のバート・ランカスターは余裕たっぷりに、若い女とのささやかな触れ合いをユーモラスに、かつ哀歓を漂わせながら演じて見せ、彼のいつもながらの、渋くて味わい深い、演技のうまさに圧倒されてしまいます。 彼の夢は、あまりにもナイーヴなのですが、それはもはやこの世界の中では、"失われた夢"、"過去へのノスタルジー"にしかすぎないのです。 そして、ルイ・マル監督の演出のうまさに驚いたのは、この映画のラストで、解体されつつある老朽化したビルに、カメラがさりげなくパンするあたりの、どこまでも計算の行き届いた、鮮烈で象徴的なエンディングです。 なお、この映画は1980年度の第35回ヴェネチア国際映画祭で最優秀作品賞に相当する金獅子賞を、1981年度のNY映画批評家協会賞の最優秀主演男優賞・脚本賞を、同年の全米映画批評家協会賞の最優秀作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞を、LA映画批評家協会賞の最優秀作品賞・主演男優賞・脚本賞を、英国アカデミー賞の最優秀監督賞・主演男優賞を受賞しています。
SAYURI
ロブ・マーシャル監督の「SAYURI」は、貧しい漁村から口減らしのために売られた少女が、花街で一番の芸者になるという、女の一代記。 日本を舞台にした作品だが、原作も映画化したのもアメリカ人。 「ラスト・サムライ」と同様、ハリウッド製和風ファンタジーといったところだ。 とはいえ、「ラスト・サムライ」ほど違和感を感じなかった。 日本人キャラが、みんな英語で会話するのも、中国人女優の芸者姿も、心配したほど気にならなかった。 しかし、観終わった後の感想はというと、「それで?」と言うしかない。 さゆりの生き様や芸者の世界のしきたりを描くことで、一体何を伝えたかったのだろうか。 千代が花街に売られてきて、さゆりという芸者になり、ライバルの初桃と壮絶な置屋の後継者争いをするところは、絢爛な世界の裏の女のドロドロとした姿を描いていて、退屈しない。 初桃を演じたコン・リーは、憎まれ役を見事に演じている。 ところがコン・リーが姿を消すと、火が消えたように画面が寂しくなり、映画も失速していく。 残念ながら、主役のチャン・ツィイーのさゆりに、まわりを圧倒するような存在感がないのだ。 不思議な瞳を持つという設定も生かされていないし、男を虜にする美しさと芸と色気も十分に描かれていなかった気がする。 そのために、彼女の一途な恋愛も「あ、そう。」という感じでしか観ることができなかった。 製作のスティーヴン・スピルバーグは、原作に惚れ込んで映画化を決めたと言われているが、一体この話のどこに魅力を感じたのだろうか、と思ってしまう。 「ラスト・サムライ」では、サムライをインディアンの部族のように描きながらも、武士道という独特の美学を描いていた。 しかし、残念ながら「芸者は娼婦ではない」のが事実であったとしても、芸者は武士のような、ある種の美学を体現する存在ではないのだ。 芸者の世界には詳しくないので、色々と勉強になったが、千代が神社にお参りするシーンで、どう見ても伏見稲荷という鳥居をくぐって、お賽銭を投げて鈴を鳴らすところで「ゴーン」と鐘の音がしたのには、ずっこけてしまった。 というわけなので、どこまで考証が確かなものかも、正直いってよくわからない。 着物の着方がまことに雑で、興醒めしたが、映像はとても美しく、退屈はしなかった。 しかし、面白かったかと聞かれるとそれほどでもなく、つまらなかったのかと言えば、それほどでもないという微妙な感じの作品でしたね。 日本の俳優陣では、渡辺謙が達者な英語を披露して、さすがという感じで、また、桃井かおりもいい味を出していましたが、役所広司だけは英語も全くダメ、演技もダメでしたね。 これでは、役所広司は今後、ハリウッド映画からのオファーは来ませんね。
HERO
英雄・秦の皇帝の命を狙う刺客を次々と倒した功績で、皇帝への謁見を許された無名という男。 賢明なる皇帝が、刺客たちとの戦いを語る彼の話が真実ではないことに気がついた時、その男は10歩の距離までに迫っていた。 美しい色彩設計、端正な構図、羅生門的な物語構成。 それらがこの作品の品格を高めていることは、間違いない。 しかし、様式にこだわり抜いて見せたこの作品は、そこに足を引きずられたのか、アクションのリズムを刻まない。 ジェット・リー、トニー・レオン、マギー・チャン、チャン・ツィイー、ドニー・イェンという、これだけのアジアの大スターを揃え、これだけのスケールの作品でありながら、最後まで血沸き肉躍ることのない、このアクション娯楽大作は、その一点において作品のあるべき姿を見失っているのではないかと思う。 様式の中に閉じ込められた夢幻的なアクション・シークエンスは、それが生気のないプラスティックのディスプレイのように、自らを閉じ込めたショーケースという枠組みを、突き破りはしない。 窮屈な型に閉じ込められて、物語は最後まで躍動する瞬間を得ることがない。 つまり、様式がアクションのリズムを殺しているのだ。 もちろん、私怨を超えて安定した国家を築く大義を語るのが、この作品のテーマなので怒りや哀しみを押し殺した"枠組み"に納まることを選ぶ「英雄」たちが、そういう窮屈なショーケースの中でしか、その美しくも超絶的なアクションを披露出来ないのは物語的な必然なのかも知れない。 ただ、物語のテーマに忠実であることで、この映画はそれ以上の何かになる可能性を自ら放棄しているのだと思う。 優等生であるが故の、面白味のなさを感じるのだ。 監督のチャン・イーモウは、それまでどんなジャンルの映画でも器用に、巧みな手腕を発揮してきた人だが、この作品でまた、これまでとは違う"武侠映画"というジャンルに挑戦して、一応の成功を収めていると思う。 大地を揺るがす秦の大軍、唸る矢、芸術的な振り付けを施されて宙に舞う剣士たち。 それにしても、それらのシーンが美術館の展示品であるかのようにダイナミズムを欠いているのが、実に惜しいと思う。 そして、この監督が枠に閉じ込めコントロールする発想でしか、アクション映画を撮れないのであれば、彼の体質に合っていない、このジャンルではなく、もっと小味な人間ドラマの路線でいった方がいいように思う。
ある愛の詩
この映画「ある愛の詩」は、「愛とは決して後悔しないこと」という主人公オリヴァーの名セリフで、公開当時、一世を風靡し、アメリカでも日本でも大ヒットした、爽やかで美しい純愛ドラマですね。 お話自体はなんてことはない。 大学生のオリヴァー(ライアン・オニール)と女子大生ジェニー(アリ・マッグロー)が愛し合う。 男は名門の富豪(レイ・ミランド)の跡取り息子で、女はイタリア移民の菓子職人の娘。 だから、青年の親の反対にあうのだが、彼は家を捨て、家からの経済援助を捨てて、貧しい結婚生活にとびこむ。 そして、二人で力を合わせて苦労の末、オリヴァーは大学院を出て一流の法律事務所に就職、さあ、これから幸せにという時、ジェニーは白血病で死んでしまう-------。 身分違いの恋の障害といい、死が二人を分かつ悲劇性といい、なんと古風なまでのシンプルさ。 だが、それでいて決してべとつかない。 甘さに嫌味がないんですね。 職人監督アーサー・ヒラーが見せる展開は、生き生きと新鮮です。 当時はやりのヴェトナム反戦と学園紛争の代わりに、アイスホッケーとバッハ。 そして、フランシス・レイの音楽。 その流麗で哀切の旋律が、あふれる"愛の優しさ"を謳いあげます。 よく考えてみると、この映画は本当は"夢物語"なんですね。 ヒロインは現代のシンデレラであり、オリヴァーは王子さまなのだ。 だが、嘘を現実だと思わせるこの映画のうまさ。 父と子の断絶に、当時の若い観客は共感し、愛し合う二人の姿に酔ったのかも知れません。 こんな風に勇気を持ちたい、こんな風に愛し愛されてみたいという、若い世代の叫びにも似た憧れなのだろうと思います。 最後にオリヴァーが、ジェニーを抱きしめる病室の場面では、訳知りの大人でさえ、心の底からこみあげてくる嗚咽を止めることさえできなくなってしまうでしょう。 それにしても、「愛とは決して後悔しないこと」、普遍的ないい言葉です。
↓↓みんなが読んでいる人気記事↓↓
→【2024年】動画配信サービスおすすめランキングに注意!人気を無料や利用者数、売上で比較!徹底版
→【すぐわかる】動画配信サービスおすすめランキング【忙しいあなたへ】人気を無料や利用者数、売上で比較!簡易版
→映画のレビューを書くと、あなたの好みの映画が見つかります!
✅映画解説 ✅口コミ ✅映画の豆知識・トリビア ✅ネタバレありなし考察 ✅どの配信サービスで見られるか 映画に関するあれこれが、この1サイトでぜーんぶ出来ます。