バグダッド・カフェ
この映画を知らない人でも、多分、主題歌である「Calling You」は耳にしたことがあるのではないでしょうか。 私もこの曲を聴いて、ああ、この映画の主題歌だったのかとびっくりしました。 この映画は「バグダッド」なんていうのがタイトルに入っているので、中近東が舞台の暗そうな映画かなと思っていたのですが、とんでもない、舞台はアメリカ。 砂漠のハイウェイで、とある夫婦が喧嘩をするシーンから、この映画は始まります。 太った奥さんの方が、怒って車から降りてしまい、歩き出します。 夫は奥さんの身を案じて、コーヒーの入ったポットを道に置いていきます。 それを拾って帰るのが、「バグダッド・カフェ」という店の主人。 砂漠の1本道沿いにある、このお店がこの映画の舞台となります。 ここは、ガソリンスタンドとモーテルとカフェを細々と経営している埃だらけの汚い店で、女主人のブレンダという黒人女性は、夫がポットを拾ってきたのを知り、あった場所に戻してこいと、ガミガミ怒りだします。 ブレンダは、いつもあまりにうるさいので、夫はとうとう家出をしてしまいます。 夫と喧嘩して車から降りたのは、ジャスミンというドイツ人の女性。 彼女は太っていて、とても無口。 反対に、ブレンダは怒りっぽくて、いつでも大声で不平不満をわめきちらしているんですね。 夫に出て行かれてからは、益々、それがひどくなり、誰にでも当たり散らすのですが、夫がいないので、仕方なく町に買い出しに行っている留守に、ジャスミンが店を綺麗に掃除するんですね。 このあたりから、様子がどんどん変わっていくんですね。 まず、目を見張るのが、「色」ですね。 砂漠を表現するために、黄色、赤、青などのフィルターをかけたような色の画面が出てきます。 短いショットの多用もあり、観ている者の目にも焼き付くんですね。 そして、セリフの少なさも、この映画の特徴の一つで、特にジャスミンは、ほんとにしゃべらないんですね。 ドイツ人だからという、わけがあるからでしょうけれど、話せばけっこう上手に英語をしゃべるのに、ブレンダのように饒舌ではありません。 だから最後まで、ジャスミンはミステリアスな存在なんですね。 セリフではなく、映像で語らせることに成功している映画だと思いますね。 とにかく、「誰かに必要だと思われること」は、どんなに素晴らしいことかを教えてくれる映画なんですね。 最初は暗い表情の登場人物たちが、ジャスミンの登場、そして彼女の色々な行動が進むにつれて、生き生きとしてくるんですね。 特に、ブレンダの変化は驚くばかり。 ラスト近くになると、そこはまるでラスベガスのような陽気さになっているんですね。 こんな素敵な映画を作った、パーシー・アドロン監督に感謝したい気持ちになりました。 心の底から感動した名作です。
コーマ
ジュヌビエーブ・ビュジョルドの健気な頑張りが楽しめる医学ミステリーの映画化「コーマ」 この映画「コーマ」の原作は、ロビン・クックの医学ミステリーで、脚色と監督はアクション小説を書き、SF小説も書き、医学ミステリーも書くベストセラー作家で医学博士でもある才人マイケル・クライトン。 ヒロインは、ボストン記念病院に勤める若い外科医(ジュヌビエーブ・ビュジョルド)で、高校時代からの親友が簡単な手術なのに麻酔から醒めず、コーマ(昏睡)の状態のまま、死んでしまいます。 そして、次の日にも若いスポーツマンが、手術の原因不明の失敗でコーマに陥り、ジェファースン研究所という、植物人間の療養施設に送られます。 これらの事に不審の念を抱き、過去にコーマの患者が意外に多いのを知って、原因究明に乗り出す女医のジュヌビエーブ・ビュジョルド。 越権行為だと怒られたりしながら、それでも調査を続けると、命を狙われて夜更けの病院内を必死で逃げ回ったり、換気口の長い梯子をよじ登ったり、果ては救急車の屋根に腹ばいになって逃走したりと、まるで女ジェームズ・ボンドといった大活躍をするので、楽しくてしかたありません。 しかも、このビュジョルドさん、小柄な体に思い込んだら命がけ、というヒステリックな目つきをして脅えながら走り回ったりするので、もうその健気で必死の頑張りには手に汗を握ってハラハラしながら、応援したくなってきます。 彼女がほとんど出ずっぱりのひとり舞台なので、おかげで他の俳優さんたちは、演技のしどころがなくなって、気の毒になってきます。 彼女には同じ病院に勤める外科医の恋人(マイケル・ダグラス)がいて、彼女の引き立て役的な存在です。 そして、外科部長になるリチャード・ウィドマークがなかなかいい味を出していて、老優、衰えず、さすがの存在感を示しています。 マイケル・クライトン監督の演出は、前半部分がかなり単調でラブシーンもどことなくぎこちない感じですが、さすがにスリラーとしての場面では冴えた演出をしています。 ビュジョルドに情報を提供しようとした機械室の職員が、電流で殺されるシーンは、はったりが効いていて、なかなか凄まじいものがあります。 その犯人に追いかけられて、夜更けの病院内を逃げ回ったあげく、ビュジョルドが必死の反撃をするシークエンスが特に素晴らしい。 それが三分の二あたりまで進んだところで、次にジェファースン研究所へ入り込むシークエンスは、コーマの患者をワイア・ロープで吊って、宙に寝かしてある病室がSF的風景で非常に面白いのですが、ここでの追いかけ回されるサスペンスは今一の感があります。 そこで、最後に真相がわかって、ボストン記念病院でのクライマックスになるわけですが、そこのサスペンスの演出もやはり今一なので、映画全体として尻すぼみの感じがします。 もし仮に、ヒッチコック先生だったら、もっとうまく演出するのになあ---などと無いものねだりをしながら観ていました。 しかし、病院内をビュジョルドが逃げ回る場面では、拳銃を持った相手を彼女が死人の応援でやっつけるというところは新手の手法で、一見の価値がありましたので、このようにもっと映画の細部にまで気を使って、小味なスリラーに徹すれば良かったのに、マイケル・クライトン監督のはったり性が邪魔をしたような気がして残念でなりません。
トラフィック
この映画「トラフィック」は、スティーヴン・ソダーバーグ監督の渾身の社会派群像劇の秀作だと思います。 この映画「トラフィック」は、アメリカとメキシコの間に横たわる巨大な麻薬コネクション、"トラフィック"の凄まじい実態と、それを巡る様々な人間模様をスティーヴン・ソダーバーグ監督が、迫真のドキュメンタリー・タッチで描いた社会派群像劇の秀作です。 もともと1989年にイギリスのBBC放送が、テレビシリーズとして放送していた物から、麻薬というものに絡めとられた、それぞれ立場の異なる人々の物語というテーマをもとにして再構築された映画で、ストーリーは三つのパートから構成されていて、無数の人々の生々しい人生が交錯していく群像劇の形式で撮られています。 メキシコのティファナで、アメリカとの国境警備を行なう警官ハビエル(ベニチオ・デル・トロ)が、麻薬組織の権力と金に翻弄される姿と、彼の相棒が汚職を暴露しようとして殺されるというパートは、黄色がかった色彩で描かれ、アメリカのオハイオ州で麻薬取締連邦最高責任者に任命されたロバート(マイケル・ダグラス)が、優等生だと思っていた娘が麻薬に溺れている事実を知って愕然となるパートは、青く灰色がかった色彩で描き、そして、アメリカのサンディエゴで裕福に暮らしていた妊娠中のヘレーナ(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)が夫が突然逮捕され、実は麻薬王だと知らされ、現在の安定した生活を守るために、自らも悪の組織に身を染めていくというパートは、コントラストの強烈な映像で描くという凝った映像で撮っています。 映画を観る者に、これらの出来事があたかも目の前で現実に起こっているかのような感覚を与えるため、撮影はオール・ロケで行なったそうで、ソダーバーグ監督自身も撮影を行ない、特にメキシコのパートでは、手持ちカメラを縦横に駆使して、ドキュメンタリー・タッチのような生々しさを見事に表現していたと思います。 麻薬を売って儲ける者、それを取り締まる者、そして、それを買う者、使用する者と、それぞれの各々の物語が、どれをとっても立派な一つの社会派ドラマを作れるだけの内容を持っていながら、ソダーバーグ監督は、敢えて、麻薬に侵された社会の断片として描く事として抑制し、登場人物たちは、わずかにすれ違うだけという演出を行ない、本来の群像劇の持つダイナミックでドラマティックな仕掛けを封印し、描写もセンティメンタル的な情緒に陥る事もなく、あくまで、淡々と語り掛けながら、リアルな生態を活写していきます。 そして、登場人物たちは、紛れもなく麻薬というもので繋がっていて、そこから、その断片を繋ぎ合わせていくのは我々、観る者に委ねられており、ソダーバーグ監督が仕掛けたドラマを紡いでいく事に、まるでゲーム感覚のようなワクワクするようなサスペンスフルな面白さを感じると同時に、何かのっぴきならない混沌とした状況に投げこまれたような、苛立ちと、もどかしさを感じさせられ、そして更に、一歩進んでこのリアルで、問題の根の深い社会問題に否応なしに、参加させられてしまうのです。 住んでいる国も地域も環境も異なる人間たちが、一本の線で繋がった時に、初めて明らかになる"麻薬社会の巨大で厳しい全貌"----、観ていて、この"麻薬を巡るシステム"が抱える問題の根深さ、深刻さというものを肌で感じて、身震いするほどの戦慄を覚え、愕然とした気持ちにさせられます。 この麻薬の世界に関わる人間たちは、皆一様に、自分ひとりの力ではもはやどうしようもない、大きな何かに翻弄されていて、そのような状況に立ち至った人間は、どのような価値観と生きる知恵とで、どのような行動をとるのか。 このような、"普遍性というものへのアプローチ"が、この「トラフィック」という映画に、何か深遠で奥行きのあるものをもたらしているような気がします。 人間の尊厳というものが、もろくも破壊される様子をその細部に至るまで、こんなに丹念に粘り強く描き切った映画は今まであまり観た事がありませんし、しかし、だからこそ、この映画の中の厳しい現実から目を背けさせないだけの、圧倒的ともいえる求心力が生まれ得たのだと思います。 いずれにしても、この映画には優れた社会性とエンターテインメント性が見事に同居しており、完璧ともいえるバランスで描かれていると思います。 一般的に、ある何かの問題を多角的に描こうとしても、いずれかの要素に偏ってしまいがちですが、この映画は様々な要素がわれ先にと前へ出てくるのではなく、各々の要素が慎み深く並立し、その綱渡り的なバランス感覚の良さには唸らされます。 ソダーバーグ監督の手持ちカメラを多用し、場所や登場人物のキャラクターによって色調や画質を変化させるという、大胆で斬新な手法によって、この映画の持つ複雑な人間模様を見事に描き出していたと思います。 尚、この映画は2000年の第73回アカデミー賞の最優秀監督賞、最優秀助演男優賞(ベニチオ・デル・トロ)、最優秀脚色賞、最優秀編集賞を受賞し、同年のゴールデン・グローブ賞の最優秀助演男優賞を、同年のニューヨーク映画批評家協会の最優秀作品賞・監督賞・助演男優賞を、同年のLA映画批評家協会の最優秀助演男優賞を、そして、2001年のベルリン国際映画祭の銀熊賞(男優賞)をベニチオ・デル・トロが受賞していますね。
白い恐怖
この映画「白い恐怖」は、フロイトの精神分析学をストーリーに大胆に導入し、人間の罪の意識をキーワードに、実験的映像で心の内面を抉った作品だと思います。 人間には多かれ少なかれ、幼児体験によって、自らを無意識に規制することが、ままあるような気がします。 このアルフレッド・ヒッチコック監督、イングリッド・バーグマン、グレゴリー・ペック主演の「白い恐怖」は、原題の「SPELLBOUND(呪文で綴られた)」が示すように、そんな幼児体験によって、無意識に"罪の意識"に縛られた男が、愛する者の協力によって、それを克服していく愛の物語になっていると思います。 とある精神病院に、新院長のエドワード(グレゴリー・ペック)が赴任してきます。 女医のコンスタンス(イングリッド・バーグマン)は、彼に次第に惹かれていくが、実は彼が本物のエドワードではなく、記憶喪失者であることがわかってきます。 やがて、彼に本物のエドワード殺しの容疑がかかるが、無実を信じるコンスタンスは、彼の記憶を甦らせようと、一緒に逃亡しながら、精神分析を駆使して真実を究明していくのだった----------。 1944年のこの作品「白い恐怖」は、アルフレッド・ヒッチコック監督が、以前から興味を抱いていたという、フロイトの精神分析学をストーリーに大胆に導入した、初めての心理学映画になっていると思います。 以後、彼の作品には、「サイコ」「マーニー」など、同系統の作品がしばしば登場することになりますが、特に精神分析学が"謎解きの鍵"となる心理サスペンスという点で、「マーニー」の先駆的作品になっていると思います。 しかし、当時としては斬新に見えたであろう、このストーリー展開も今の時点で見ると、正直、少し陳腐なものに見えてしまいます。 「濡れ衣を着せられた者の逃避行」だとか、「追われながら追う」と言ったヒッチコック作品の典型的なスタイルをとってはいるものの、フロイトの精神分析や夢判断を露骨に導入し過ぎているため、謎解きが定石通りであまりにも呆気ないのです。 このことは、後の「マーニー」にも言えることで、つまり、論理では説明不可能な人間の心理を多く見ている、我々現代人にとって、この作品のストーリー展開は、あまりにも物足りないのです。 ストーリー的な難点はまだあります。 グレゴリー・ペック扮するエドワードが、自分の正体がバレて、逃亡する時、イングリッド・バーグマン扮するコンスタンスに置き手紙を書きますが、「君に迷惑をかけたくない」と言っているわりには、ちゃんと自分の居場所を明記しているのは、ちょっとむしが良すぎるのではないかという気がします。 また、その置き手紙を病院の者が発見しても、気にせずバーグマンに渡すのも、何か間が抜けているように思います。 このような、いくつかのストーリー上の問題点があることで、この作品が現代の私を含む多くのヒッチコック映画の愛好者にとって、彼のフィルモグラフィーの中で、あまり重要な作品ではないのではないか?----------と。 だが、答えはNO! だと断言できます。 この作品は、ヒッチコック自身を語る上で、実に重要な作品の一つだからです。 この「白い恐怖」のキー・ワードは、「人間の罪の意識」だと思います。 実際、作品の中にも、精神科医エドワードの著書名、あるいは、バーグマンやペックのセリフの中などに「罪の意識」という言葉が、頻繁に出てきます。 このことから考えると、それはそのままヒッチコック自身の問題でもあったのではないか? 実際、彼は幼少の頃を振り返って、「幼い時から、悪いことをして罰せられることが一番の恐怖だった」と語っています。 厳しい戒律を重んじるイエズス会の学校で学んだヒッチコックは、そんな「罪に対する恐怖」を生涯持ち続けながら、"抑制と規律"の中に生きて来たのではないだろうか。 そして、それは多分、死ぬまで続いたのだろう。 だからこそ、このような映画を作って、自らを慰めたのだと思います。 このことを暗示するように、作品の中に次のようなバーグマンのセリフがあります。 「人はしたことのない事に罪の意識を、子供の時の空想を、現実と混同する事がよくあります----、それが大人になっても罪の意識として残る事があるのです----」と。 つまり、この作品は、そんなヒッチコック監督自身の内に秘めた「心の叫び」と「願望」が、色濃く出たものであり(以降、彼は後の作品でその傾向を露骨に表現するようになります)、自らサイコセラピーを楽しんだ作品なのだと思います。 バーグマンが、ペックに自分の恋心を素直に打ち明け、初めてキスをするシーンで、突然、幾重にも続いた扉が次々と開かれる映像へとオーバーラップします。 これは深読みをすると、ヒッチコック監督自身も、バーグマンが扮する女性のような、知的でクールなブロンド女性に、自分の心の扉を開いてもらいたかったのではないかと思えるのです。 スクリーンの向こう側で、安堵の表情を浮かべるヒッチコック監督の姿が見えてきそうです。 また、この作品に関して、あまりにも有名なのは、夢のシーンのイメージ・デザインをシュール・レアリスムの鬼才サルバドール・ダリが担当していることです。 これに関しては、ヒッチコック監督のたっての希望で、ダリが起用されたにもかかわらず、出来上がった作品が、余りにも極端で複雑過ぎたために、20分ほどあったシーンを、たったの1分20秒にまでカットしてしまったという逸話が残っていることです。
エクソシスト2
このジョン・ブアマン監督の映画「エクソシスト2」は、全世界で"オカルト映画"ブームを巻き起こした、ウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」の続編にあたる作品です。 だが、この映画は、あまりにも観念的で難解だったために、興行的にコケてしまい、一部の本当の映画好きの間で、もはや"カルト的な傑作"として認知されている作品なのです。 主役のリチャード・バートン扮するラモント神父が、悪魔祓いに失敗する冒頭から、凝った画面に引き込まれて、途中、何度も思わず"うまい"と口走り、映画を観終えた時には、心の中で拍手を送っていました。 さすがにジョン・ブアマン監督だけあって、「未来惑星ザルドス」で華麗なイメージの遊びを見せてくれた鬼才の名に相応しい出来になっていると思います。 とにかく、"知的で哲学的な大人のための怪奇映画"を作り上げていると思うのです。 エクソシズムに熱心なラモント神父は、私淑する先輩のメリン神父(マックス・フォン・シドー)の死の真相を調べる仕事を、枢機卿から命じられます。 そこで、今は精神分析の治療を受けているリーガン(リンダ・ブレア)に、ラモント神父は接触し、シンクロナイザーという催眠面接装置の力を借りて、悪霊に憑かれた時の記憶を探り出そうとするのです。 それによって、メリン神父が若い頃、アフリカでコクモという少年の悪魔祓いに成功したことがわかります。 この少年は、襲来するいなごの大群と、ひとりで闘える超能力の持ち主なので、悪霊に狙われたのです。 その辺から、素晴らしい映像美が展開して、まるでダリの絵をジグソー・パズルにしたものを、きっちりと組み上げていくような感じで、映画はクライマックスに最高の盛り上がりをみせるのです。 画面が互いに共鳴し合って、異様な興奮を醸し出す構成は、複雑だけれども、決して難解ではありません。 原題が「エクソシストⅡ ヘラティック」で、"異教徒、異端者"のことで、つまり、人の心の中の"正統と異端の闘い"が、この映画のテーマなのです。 だから、悪霊すなわち異端なる者が潜んでいるのは、リーガンの心の中だけではないのです。 母親の女優が海外ロケーション中に、リーガンの面倒を見ているキティ・ウィン扮するシャロンにも、ルイーズ・フレッチャー扮する精神科医のタスキン博士にも、そして、ラモント神父の中にも、異端が潜んでいるのです。 むろん、この映画の中心は、ラモント神父で、全ては彼が異端を乗り越えて、正統に達するまでの"心象風景"を描いていると言ってもいいのです。 特に、ラモント神父が、悪霊に導かれて、成人したコクモを探し歩く場面は圧巻で、いなごの仮面を被った超能力者を演じるジェームズ・アール・ジョーンズも実にいいムードを醸し出しているのです。 そして、それが虚像で、実像に一転する脚本のうまさ--------。 「エクソシスト」の原作者、ウィリアム・ピーター・ブラッティの名が、クレジットに現われないことでもわかるように、これは全く異質な映画で、「エクソシスト2」は、まさに傑作なのです。
アメリカン・ビューティー
この映画「アメリカン・ビューティ」は、壊れゆくアメリカの家庭を通して、現代社会の閉塞感と悲劇性をシニカルなブラック・ユーモアで描いたサム・メンデス監督の秀作だと思います。 この映画は、20世紀が終わろうとしていた時に製作された、アメリカ社会やアメリカの家庭が抱えている闇や閉塞感、アメリカン・ドリームというものの終焉をシニカルに、なおかつ喜劇的に見つめたアイロニーに満ちた刺激的な作品です。 監督は演劇畑の舞台監督出身のサム・メンデスで、彼の映画監督としてのデビュー作で、撮影は今や「明日に向って撃て!」、「ロード・トゥ・パーディション」と本作で3度のアカデミー賞最優秀監督賞に輝く、伝説のカメラマンのコンラッド・L・ホール。 ごく普通の平凡なアメリカ市民として、ありきたりの普通の生活を送る事が、いかにストレスに満ち溢れているのかを、中産階級の家庭を中心に描いていて、リストラという厳しい現実にさらされる中年サラリーマンのレスター(ケヴィン・スペイシー)、何の取柄もない夫にうんざりしながら、自分の理想とするお洒落な生活を夢見て躍起になる妻キャロリン(アネット・ベニング)、カッコ悪くダサイ父親を嫌って、まともに口も聞かない娘ジェーン(ソーラ・バーチ)。 レスターは娘の親友の美少女に、キャロリンは人生の成功に、ジェーンは胸の豊かな美人にと、それぞれの"ビューティ"を求めてもがいています。 この映画は人間の果てしない欲望や挫折を垣間見せながら、最も醜悪な部分を暴き出し、日常生活の中で抱える様々な歪みに容赦のない光を当てていきます。 果たして、現代に生きる人間は真の幸福をつかむ事が出来るのであろうか? と----。 この映画の題名の"アメリカン・ビューティ"は、赤い薔薇の品種の一つで、"現代人の美意識や幸福感の象徴"として、ファンタジックに暗示して付けられています。 そしてこの映画は、物欲にまみれ、世間的な体裁だけを繕う哀れな現代人の生態をシニカルでブラックなユーモアで笑い飛ばしています。 そしてドラマの背後から、表面的な生態とはうらはらに、"どこまでも孤独な現代人の心の闇"が浮かび上がって来ます。 この映画は喜劇であると同時に悲劇であるという側面も持っています。 ビデオカメラに凝っている、この主人公一家の隣人のビデオカメラに凝る青年がとらえた、"風に舞うビニール袋"という印象的な映像があります。 青年はこの不可思議な映像に"美"を感じています。 つまり、青年は周囲に振り回されない独自の"美意識"を持っています。 そして、このビニール袋というのは、周囲に振り回されるだけの"空虚な現代人の心そのもの"を象徴的に暗示しているのだと思います。 やがて、世間的な体裁という殻を破って、ありのままの自分を曝け出す事こそが真の幸福であるというテーマが浮かび上がって来るという演出上の仕掛けになっています。 ジェーンは窓越しに裸になり、青年はビデオカメラを通して裸の彼女を見つめます。 また、レスターはジェーンの親友の前で裸になり、彼女も裸になってレスターを見つめます。 このような行為を通して、初めて人間同士の空虚な心が満たされていくという、深いテーマに根差したショットが映し出されていきます。 "アメリカン・ドリームの崩壊"を描いたこの映画は、"夢というものを見失ったレスターという男の再生のドラマ"でもあると思います。 映画のラストで銃に倒れたレスターの表情には、どこか穏やかで静かな微笑みがたたえられていて、この主人公の死は、"人間としての真の再生"を象徴的に暗示しているのだと思います。 このありふれた"中年の危機"を、喜劇的なアンチ・ヒーロー像を通して、"中年の再生"に変えたケヴィン・スペイシーのユーモアとペーソスを滲ませた絶妙の演技は、彼の役者人生の中で新境地を開いたと思います。 妻キャロリン役のアネット・ベニングのどちらかというと少々過激なオーバーアクトも、この映画の中ではケヴィン・スペイシーの抑制された演技と良いコントラストになっていたと思います。 登場人物の全てが演劇的にデフォルメされて描かれているのは、やはりサム・メンデス監督が舞台出身のせいで、計算された思惑通りの見事な演出効果を上げていたと思います。 なお、死者の回想形式で語られるこの映画は、私の大好きな名匠・ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」をどうしても思い出します。 サム・メンデス監督はアカデミー賞の授賞式での受賞スピーチで、ビリー・ワイルダー監督への感謝の気持ちを述べていた事からも、この映画はビリー・ワイルダー監督へのリスペクトとオマージュを捧げたものだと思います。 イギリス人であるサム・メンデス監督は、現代のアメリカ人が迷走している様を、"冷徹で容赦のない客観的な視線"で描き切っています。 アメリカにとって異国人ならではの距離感の保ち方は、同じく異国人であるビリー・ワイルダー監督のスタンスに良く似ていると思います。 そして、そこから生まれるシニカルな笑いというものは、正しくビリー・ワイルダー監督の描く映画の魅力と一致します。 また、"アメリカン・ドリームの閉塞感と悲劇性"という、この映画の重要なテーマは古くから何度となく取り上げられてきた題材ですが、この映画はそこに、"ロリータ"や"ストーカー"や"ゲイ"といった、より現代的でアクチュアルな要素を散りばめるという、こうしたアレンジの巧妙さがこの"映画としての完成度の高さ"に繋がったのだと思います。 なお、この映画は1999年度の第72回アカデミー賞で最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀主演男優賞、最優秀オリジナル脚本賞、最優秀撮影賞を受賞し、同年のゴールデン・グローブ賞で最優秀作品賞(ドラマ部門)、最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞し、英国アカデミー賞で最優秀作品賞、最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞、最優秀撮影賞、最優秀編集賞、最優秀作曲賞をそれぞれ受賞しています。
レベッカ
この映画「レベッカ」は、ハリウッドの大製作者デイヴィッド・O・セルズニックと契約したアルフレッド・ヒッチコック監督が、アメリカに渡って最初に手掛けた作品であり、1940年度の第13回アカデミー賞で、最優秀作品賞と最優秀撮影賞(白黒)を受賞して、アメリカ映画界へ華々しい登場となった作品ですね。 イギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリアが1938年に書いたゴシック・ロマン小説の映画化で、女性が結婚して得る幸福の意味を追った小説ですね。 アルフレッド・ヒッチコック監督は、原作の持つ雰囲気描写を映像に置き替えながらも、内容の上ではヒロインの心理的不安、そして殊に、映画の後半に見られる謎解きと裁判のサスペンスに興味を移し替えてまとめあげていると思います。 この映画は一人称による原作の持ち味をそのまま使って進行しているため、ジョーン・フォンテーンが扮するヒロインの「私」で話が進むのも実にユニークですね。 金持ちの未亡人の秘書をしていたアメリカ娘のマリアンは、モンテカルロのホテルで、どこか翳のある金持ち貴族のマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と出会い、彼の二度目の妻としてイギリスの荘園マンダレイにやって来ます。 この映画のタイトルの「レベッカ」とは、今は亡き前妻の名前。 画面には一度も登場しないのですが、イギリスのコーンウォールの海岸に立つ由緒あるマンダレイ荘のあらゆるものに、美しかったというレベッカの痕跡が残っていて、その最たる存在が、レベッカの身の回りの世話をしていた召使いのダンバース夫人(ジュディス・アンダーソン)だった。 主人公の「私」は、決して心から打ち解けようとしない夫や、いつも自分を見張っているような黒づくめのダンバース夫人、そしてレベッカの痕跡などに小さな不安を抱きつつ、マンダレイの女主人としての務めを果たそうとするのですが、その一方、孤独で贅沢など知らずに生きてきた「私」にとって、ここでの生活は何から何まで新鮮で、夫への愛も揺るぎないものだった。 それにしても、この"ゴシック・ミステリー"は、描写のほとんどに"チラッとした不安"を誘う仕掛けが埋め込まれていて、観る側も、主人公の「私」と全く同じ条件に置かれているだけに、その一つひとつに落ち着かない気分にさせられてしまいます。 閉じられた部屋。窓をよぎる影。揺れる白いカーテン。レベッカの頭文字のRが浮き彫りになったアドレス帳。黒い犬。 そして、レベッカの呪縛に取り憑かれたような夫の不可解な振る舞い--------。 二階のフロアの壁に飾られている、夫がお気に入りだと言う、美しい女性の全身像の絵も何やらいわくありげだ。 そして、これらの妖しい雰囲気を醸し出すモノクロの映像がまた絶妙で神秘的なんですね。 そういえば、今やすっかり荒れ果てたマンダレイ荘の外門を、カメラがゆっくりとすり抜けて中へと入っていく冒頭のシーンからして、既に怪しい雰囲気でしたね。 そして、仮装パーティーを開くことにした「私」が、ダンバース夫人に勧められ、二階の絵の女性とそっくりのドレスで装い、夫に激怒される場面の身の置きどころの無さ--------。 絵の女性はレベッカだったのだ。 映画の後半、ヨットで転覆死したというレベッカの死の真相が、二転三転するくだりも、実にスリリングですね。 「レベッカ」は、幾つもの謎や不安については確かにミステリアスだが、終わってみるとイギリスで玉の輿に乗ったアメリカ娘が、夫を絶対の愛で信じ続けるという、かなり通俗的なメロドラマになっていて、「私」というヒロインよりも、好き勝手に生きた"レベッカの真実"の方が、ずっとインパクトがあるのですが、ヒッチコック監督の巧みな語り口が、通俗性を絶妙にカモフラージュしているのだと思います。
ボーン・アイデンティティー
嵐の海で救助された男の背中には、銃弾の痕が。 その男は、記憶が全くなく、皮膚の下に埋め込まれたマイクロチップに、スイスの銀行口座が記されていた。 そこで彼は、ジェイソン・ボーンという自分の名前を知り、数種のパスポート、多額の現金を発見する。 そして、驚く間もなく、何者かに命を狙われるのだ。 その後、マリーという女性を道連れに、逃避行を続けながら、自分の過去を探る事になるのだが--------。 「バイオハザード」や「ロング・キス・グッドナイト」などは皆、特殊な能力を持った人物が、記憶を無くすという設定の物語だった。 これらの作品が、"主人公は何者か?”を一番の謎とするのに対して、この「ボーン・アイデンティティー」では、主人公のジェイソン・ボーンが、実はCIAのエージェントだという事を我々観る者は、最初から知っている。 なぜ追われているのか、執拗に命を狙われる理由さえも、物語の途中で察しがついてしまうのだが、記憶は無くしても、身体が覚えている語学力や戦闘能力を駆使して、活躍する様が実に痛快だ。 それまで、繊細で知的な役柄が多かったマット・デイモンが、逞しく生まれ変わり、非常に魅力的だ。 無駄のない動きで相手を倒し、切れ味のいいアクションを披露する。 とはいえ、知性派の名に恥じず、ただ銃をぶっ放すだけではなく、様々な小道具を使って、追っ手を振り切るのだ。 無線を奪って、情報を収集し、ビルの内部の地図を見ながら、逃走経路を練り、電話のリダイヤルで敵の正体を探るのだ。 銃を使うのを本能的に避けるこの作戦は、単に頭脳戦というだけではなく、主人公の性格付けにも通じている。 記憶を無くした上、命を狙われる。 その不安は想像して余りあるが、マット・デイモンのどこか頼りなげなルックスが、この役柄にぴったりマッチすると思う。 あの幼い顔で、バッタバッタと敵を投げ倒し、激しいカーチェイスやビルの絶壁からダイブまでも披露してくれるから、サービス満点だ。 パリの街の複雑な路地や石畳で繰り広げられるカーチェイスの主役は、小回りが効く、真っ赤なミニ・クーパー。 実際のスピードを考えると、逃げ切れるかは疑問なのだが、この車は劇中のマスコットのような存在だ。 ヒロインを演じるのは、「ラン・ローラ・ラン」で鮮烈な印象を残したドイツ人の女優フランカ・ポテンテ。 彼女が演じるマリーもまた、欧州を放浪しながら、自分自身を探している人間なのだ。 この女優は、中性的な雰囲気でとても好演なのだが、惜しむらくは、マリー自身の役の設定に、もうひとひねり欲しかったような気がします。 いくらなんでも、素人すぎるので、足手まといの感は否めない。 だから、最後まで行動を共にできず、途中でボーンと離れなければならないのだ。 しかし、逃避行の合間に見せる、二人の短いラブシーンは、とても秀逸で、ボーンが彼女を変装させる為に、バスルームでマリーの髪を切る場面は、非常に印象深いものがある。 そして、主人公は次第に、自分が恐ろしい陰謀に加担していたことを知る事になる。 かつては、非情な任務をこなし、優秀なエージェントだった彼が、追われる事になる原因は、その根本に潜む彼の性格にあるのだ。 自分自身を認識し、その可能性を知るのは、人間の普遍的な願いだ。 主人公ボーンは、記憶を失った事で、半ば強引に、"自分探しの旅"をする羽目になるが、その中で彼が持つ、本来の人間らしさが、ボーンを生まれ変わらせようとするのだ。 かつての自分を知ってなお、変わろうとするひたむきさ。 ここに、この映画が従来のアクション映画と一線を画す魅力があるのだと思う。
八つ墓村
野村芳太郎監督の松竹映画「八つ墓村」は、さすがに今の目で観ると、それほど怖くはありませんね。 有名な落武者の虐殺シーンは、特撮が古いので、首が飛んだり、手がちぎれたりと派手ではあるけれども、ケバケバしくチープな印象です。 それから、これも有名な、山崎努が猟銃と日本刀を持って、頭に懐中電灯を二本差して、村人を殺して回る場面は、確かに怖いが、ホラー的な怖さではなく凄絶と言うべきだろう。 あの二本の懐中電灯は、やはり「鬼」の角に擬してあるのだろう。 桜吹雪の中を走って、人間を殺しに来る鬼。 恐ろしくも美しい場面です。 しかし、唯一背中が総毛立つような怖さを感じたのは、終盤の、あの鍾乳洞の中を、主人公が延々追いかけられるシーンですね。 暗い、どこまでも続く鍾乳洞の中を、すすり泣くような、あるいは、忍び笑うような声を漏らしながら、どこまでも、どこまでも追いかけてくる鬼女。 これは怖かったですね。楳図かずおのホラー漫画の原型的シチュエーションの一つのような気がします。 メークは、やはり安っぽいのだが、あの状況そのものに悪夢的な怖さがありますね。 子供の頃に、もしこの場面を観たとしたら、やっぱりトラウマになるだろう。 あの場面は、いっそメークを変えないで、例えば金目にするだけぐらいで良かったと思う。 その方が、余計に怖い場面になっただろう。 この映画の話題は色々あるのだが、金田一耕助を渥美清が演じていることもその一つ。 横溝正史原作での金田一=石坂浩二というイメージが定着しているうえに、渥美清は「寅さん」のイメージが強過ぎるので、抵抗を感じる人が多いだろう。 私は寅さん映画の大ファンなのでどうかなと思ったが、別にそれほど違和感はありませんでしたね。 石坂浩二ほどの華はないが、実直でホッとできる金田一という感じでしたね。 なんでも、横溝正史によれば、この渥美清の金田一が、実は一番原作者のイメージに近いということだ。 この映画のミステリとしての構造に目を向けると、原作との最大の違いにして、最も論議を呼ぶポイントは、はっきりしていますね。 あくまで、ミステリ小説の範疇内で勝負した原作小説を映画化するにあたって、脚本の橋本忍と野村芳太郎監督は、これを本物の祟りの物語にしてしまいましたね。 この映画は、もはやミステリではなくホラーというか、ミステリの衣をまとった怪談話になりましたね。 従って、原作の緻密な謎解き部分は、全く骨抜きにされてしまっています。 映画の終盤での金田一の謎解きは、謎解きの名に値しませんね。 ほぼ独断で、犯人を指摘し、あとは犯人の出自に人々の注意を促し、この事件の超自然的な側面を強調するのみですからね。 当然、この部分は原作にはありません。 従って、この映画がミステリ・ファンに評判が悪いのは、当然と言えば当然なのだと思う。 金田一耕助が出てくるとはいえ、これはミステリではなく怪談話なんですね。 一方で、怪談風の奇譚として見れば、それなりに楽しめると思う。 確かにチープな特撮による、グロテスクな演出や鍾乳洞の場面がやたら長いなど、ゆるい部分は多々あります。 だが、寡黙でシャイな主人公を演じる萩原健一が、それでも放つ華、それから豪華な女優陣、つまり小川真由美、山本陽子、中野良子らの艶やかな競演は見ものです。 それから、山崎努の「鬼」の凄絶な存在感は言うまでもありません。 だが、極端な言い方をすれば、桜吹雪の中をやって来る山崎努の「鬼」と、鍾乳洞の中を亡霊のように走る「鬼女」のインパクト、この二つが、ほぼ全ての映画なのだ。 反面、それだけで十分といえば十分だ。 この映画のケバケバしい装飾部分を、どんどん取り除いていけば、その核には、極めて日本的な、"血や縁や怨念"と切り離せない原型的な恐怖が存在します。 この恐怖の感覚は、日本人にとって、どこか懐かしいもののような気すらしてくるんですね。
2010年
我々映画ファンを魅了したSF映画の傑作「2001年宇宙の旅」の続篇が、この映画「2010年」だ。 厳密に言えば、続篇というより解決篇だろう。 スタンリー・キューブリック監督による前作は、物語性を極度に排し、素晴らしい映像のシンフォニーで、独自の宇宙哲学を伝えたものだった。 何より、真理の判断を観る者自身のイマジネーションに委ねたところが、我々の興味を嫌が上にもかき立てたのだ。 それに対して、この娯楽職人監督のピーター・ハイアムズが撮ったこの作品は、よりわかりやすく、全ての謎を具体的に解いてみせる。 胎児となって宇宙へ消えた乗組員は? 叛乱を起こしたコンピュータは? 地球や月にあった石板の謎は? ----------。 ロイ・シャイダー扮するアメリカの科学者たちが、ソ連の宇宙船に同乗し、謎の解明のために木星へと向かう。 前作のあまりにも壮大なスペクタクルと興奮に対決するには、ピーター・ハイアムズ監督としては、この手でいくしか方法がなかったのだろうと思う。 しかし、米ソの関係悪化が、宇宙船の乗組員にまで影響を及ぼし、石板の異変が起きるあたりは、作者のテーマと思想が露出して、我々の前作に対するイメージまで、否定してしまう不満もある。 しかし、「スターウォーズ/帝国の逆襲」や「レイダース」でアカデミー特殊効果賞を受賞したスタッフによる特撮は、実に見事だ。 宇宙船のドッキングや、木星を覆う石板のスペクタクルにも目を見張らされる。 まあ、前作との比較はさておいて、この作品はこの作品なりに、ドラマチックな宇宙サスペンスとして楽しめばいい娯楽作品なのだ。
激突!
「激突 !」を再見すると、少し誇張して言えば、ここにスティーヴン・スピルバーグ監督の全てが、すでに顔をのぞかせているのがわかりますね。 デビュー作に表現者の生涯の全部が表れると言われますが、奇しくも日本での初登場となった「激突 !」の中に、スピルバーグの本質は、全て花開いていると思います。 普通車に乗って出張中の平凡なサラリーマンが、巨大なタンクローリーに執拗に追われる。 初めは気にもしていなかったのが、相手は「大」で、こちらは「小」、だんだん怖くなってくる。 次第に生命の危機さえ感じて、逃げて逃げまくる。 タンクローリーが地獄の底までつけまわしてくる。 最後にサラリーマンは、必死の覚悟でタンクローリー車に戦いを挑む。 「小」が「大」と戦う。そして、タンクローリーは谷底へ落ちていくのだった--------。 単純なストーリーだ。セリフはほとんどないし、だいいちセリフなんか必要がない。 映像が全てを語って余りある。 追いかけられる理由が全くない。 だから、不安が増してきて、いつか恐怖におののいて逃げまどう。 アメリカ西部の荒野を背景に繰り広げられるカーチェイス映画であり、延々と走り続けるという意味では、アメリカ映画お得意のロードムービーの伝統も引き継いでいるが、"不気味な不安と恐怖"が次第に高まっていくサスペンスが、実に見事だ。 私は、この映画を観ながら、フランツ・カフカの小説「変身」が脳裏をよぎった。 ある朝、主人公のザムザが目覚めると、大きな虫に変身していたという、有名な短篇小説だ。 主人公がなぜ虫になってしまったのか、その他、全ての「なぜ」に説明がないまま、彼はよりによって家族に殺されてしまう。 現代人の存在の根源的な不安を先取りした不条理を描いていた小説だった。 内容は違うが、この「激突 !」も何がなんだかわからないままに、追いかけられる。 これまた不条理。タンクローリーの運転手の顔は一度も映画に出てこない。 この映画の成功の大きな要素は、実はここにあるのだが、アイディアはスピルバーグの天才性を示していると思います。 相手がいかなる魂胆を持って追いかけてくるのか、想像することさえ拒否している。 いや、あらゆる想像が可能だ。だから不安が増す。 主人公の不安と恐怖は、現代という時代を象徴している。 現代は社会が肥大化し、機械文明が巨大化し、人間が機械を制御することが困難な時代だ。 いや、機械に人間が振り回されていると言ってもいいと思う。 なんとも恐ろしい。そんな不安と恐怖は、例えてみれば、理由もわからずにタンクローリーに追いかけられているサラリーマンの男に似ている。 現代に生きる人々は、いつ何どき同質の不安と恐怖に陥れられるかもしれない。 ある日、突然、虎になっていたという中島敦の「山月記」をも想起させますね。 そんな時代に我々は生活しているのだと思います。 日常の隣に、底なしの暗闇が我々を飲み込もうと待ち構えているようでもある。 だからこそ、この「激突 !」にリアリティを感じてしまうんですね。 とにかく、スピルバーグの不安と恐怖の雰囲気づくりが見事だ。 「第三の男」で見せたキャロル・リード監督の鮮やかなサスペンス描写に匹敵すると思います。 スピルバーグの演出のうまさに舌を巻いて観ているうちに、すっかり私は画面の中に吸い込まれるが、スピルバーグ演出の基本はリアリズムだと私は考えています。 スピルバーグは、大冒険活劇が得意であり、科学的ファンタジーの世界やら、恐竜時代を豊かな想像力で再現するなど、誰もが到達できなかった映像世界を切り開いた映画作家には違いありません。 だが、スピルバーグの出発はリアリズムだ。 初め、気楽にタンクローリーを追い抜き、また追い抜かされる遊びをやっていたサラリーマンに恐怖が生まれる。 そこに至る描写には種も仕掛けもない。 つまり、ファンタスティックなものが入り込む余地がないリアリズムだ。 ドライブインのシーンでの多少思わせぶりな演出を除くと、全編に嘘がない。 スタジオで撮ったテレビ・ドラマではなく、ほとんどが自動車の実写を含むロケで撮っているが、後にスピルバーグがSFXやCG技術を駆使して、いわば「作り物」の世界を、いかに本物らしくどのように大袈裟に作り上げて、観る者を喜ばすかに全知全能を傾けることになるのとは、全く違っている。 これが、スピルバーグの出発なのだ。 「激突 !」が追われる者の不安と恐怖を描く、すなわち不条理を押し付けるだけの映画だったならば、この映画の価値はさほど大きくなかっただろう。 原題がDuel=決闘とあるように、追い詰められたサラリーマンは、逃げまどいながらも、その不条理=悪と「決闘」する決意をし、土壇場で男気を出すのだ。 リアリズムから離れるとすれば、このラストだけだ。 不条理なものに対しては、己は例え小の虫であっても、不退転の決意で敢然と戦う。 この正義の心をはっきりと打ち出したところに、アメリカ的な理想主義があり、ヒューマニストであるスピルバーグのスピルバーグたる所以があると思います。 ヒューマニストとしてのスピルバーグは、早くもその第一歩の時点で、はっきりとその顔をのぞかせていて、この勇気と上昇的な気分がなければ、世界中でこれほどまでに支持される代表的な映画人にはなれなかったに違いありません。
日本のいちばん長い日
岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」は、ポツダム宣言が発表された1945年7月26日から、8月15日の敗戦まで、日本の指導部と軍の中枢部では、どんなドラマが繰り広げられていたかという、"終戦秘話"をドキュメンタリータッチで描いた作品ですね。 この映画は当初、「人間の條件」「切腹」の小林正樹監督で撮影される予定だったものが中止になり、「こういう作品をつくるべきだ」と怒った岡本喜八監督が、東宝の重役に抗議したのが、この映画を引き受けるきっかけになったという逸話が残っており、いかにも岡本喜八監督らしい"戦中派"の思いの詰まった映画になっていると思います。 ポツダム宣言受諾、降伏を決めた8月14日の御前会議後に、徹底抗戦を主張して、昭和天皇の「玉音放送」の録音盤を奪おうとした陸軍の青年将校らの動きを軸に、幾つかの物語が並行して描かれていきます。 もし彼らの反乱が成功していたら、日本は焦土と化していたかもしれないし、国が分裂していたかもしれません。 それほどシリアスなテーマなのですが、決して重苦しい映画ではありません。 「独立愚連隊」など、娯楽アクション戦争映画の快作を生み出した、岡本監督らしいセンスが発揮されているからだと思います。 この映画は、東宝創立35周年記念映画として公開され、後のいわゆる"8.15"ものの記念すべき第1作目となった作品ですが、公開当時は「庶民が出てこない」などの批評が多かったという事ですが、今の時点であらためて観直してみると、"戦中派"の岡本監督の"反戦のメッセージ"が随所に込められているのが、よくわかります。 そして、この映画の見どころの一つはやはり、何といっても豪華なオールスターの競演ですね。 軍人としての信を苦悩の中に貫く阿南陸相を、鬼気迫る演技で示した三船敏郎を筆頭に、鈴木貫太郎首相役の笠智衆の、飄々とした中に見せる貫禄、狂信的な軍人を演じた天本英世の怪演、玉音盤を奪取しようと、一途な狂気に突っ走る畑中少佐を演じた黒沢年男の熱気----、いずれもが光っていたと思います。 そして、特に印象に残るのは、阿南陸相が切腹する前、共に死ぬという部下を押しとどめて言う言葉です。 「死ぬより生き残るほうが、ずっと勇気がいることだぞ----。生き残った人々が二度とこのような惨めな日を迎えないような日本に、何としても再建してもらいたい」 危急存亡の時、指導者の決断の遅れが、いかに悲惨な事態を招いてしまうか。 現在にも通じる教訓が、含まれていると思います。 この映画は、"庶民の戦争"を描いた、岡本喜八監督の自伝的な作品「肉弾」と併せて観て見ると、"戦中派"の岡本監督の反戦への強い思いがわかると思います。
マニトウ
"B級ホラー映画だが見せ場が多く、ワクワクする楽しさに満ちた異色作 「マニトウ」" この映画の題名の「マニトウ」というのは、インディアンの言葉で精霊という事らしいのですが、この映画の場合は、"呪術師の悪霊"の事を指しています。 四百年前に死んだ"ミスカマカス"というインディアンの霊が、サンフランシスコに住む若い女性(スーザン・ストラスバーグ)の体を借りて、現代に再生しようとします。 この女性の首すじに出来たおできが、みるみるうちに大きくなり、その中に何か胎児のようなものがいるというので、主治医は頭を抱え込んでしまいます。 なにしろメスで切開しようとすると、その医師の手が意志に反して、自分の左手首を切ってしまうし、レーザーを使おうとすれば、機械が勝手に動いて、手術室を滅茶苦茶にしてしまうというように、とにかく破天荒でとんでもない展開になっていきます。 この映画の監督、脚本のウィリアム・ガードラーは、この映画の完成直後に、29歳の若さで事故死してしまったそうですが、これも何かこの映画の祟りではないかと当時、真面目に語られていたというエピソードが残っています。 このウィリアム・ガードラー監督は、この映画を撮る前に、「アニマル大戦争」や「グリズリー」などの恐怖映画を撮っていて、よほどこの手の恐怖映画が好きだったのだろうと思います。 映画のストーリーを運ぶ場面の演出は未熟な感じがしますが、しかし、恐怖シーンの演出はホラー映画ファンが見たがりそうなものを、これでもか、これでもかと一所懸命に見せようとしているところは、おーやってる、やってるという感じがして、非常に好感が持てます。 "ミスカマカス"が呼び起こした北風の霊が、病院内部を吹き荒れて、ナースの首がちぎれ飛ぶところのはったりの効いた演出は、恐怖を通り越して思わず笑ってしまうほど、観ていて微笑ましいくらいです。 若い女性役のスーザン・ストラスバーグは、かのアクターズ・スタジオの創設者の一人で、メソッド演技の指導者として有名なリー・ストラスバーグの娘さんで、この映画では文字通り、体当たりの熱演を披露しています。 この女性には、往年の人気スターで「お熱いのがお好き」や「手錠のままの脱獄」で有名なトニー・カーティスの恋人がいて、中年の女性客を専門に、タロウ・カードのインチキ占い師をやっていますが、これがまた、トニー・カーティスのどこか女たらしで安っぽい感じのキャラクターが、この役にぴったりのはまり役で、それを嬉々として演じている姿は、我々映画ファンを大いに楽しませてくれます。 この調子のいい男が、恋人の危機にだんだん真剣になって来て、悪霊と戦う気になっていくというプロセスが、この映画の見どころの一つにもなっています。 トニー・カーティスのインチキ占い師は、旧知の女霊媒師のステラ・スティーヴンスの助けを借りて、悪霊の正体を突き止め、現役のインディアン呪術師のマイケル・アンサラを病院へ連れて行って、"ミスカマカス"を霊界へ追い返そうとします。 しかし、これがうまくいかなくて、背中一杯に膨れた瘤から、ぬめぬめと肌を光らせた不気味な悪霊が誕生して来ます。 この悪霊の魔力で、廊下が氷詰めになるあたりのセットは実にチャチで笑ってしまいますが、大トカゲに化身したりの大サービスで、お話自体はだんだん馬鹿々々しく、しかし、俄然、面白くなって来ます。 どんな物にも霊があるから、病院中のコンピュータを総動員して、そのエネルギーで悪霊を倒そうという事になります。 そして、最後には何と、宇宙空間に飛び出した四百年前のインディアンの霊と、コンピュータの霊との対決になるという、もうとにかく、何が何でも話を盛り上げようとする精神に満ち溢れていて、特殊撮影が少々お粗末でも、大目に見てやりたくなってしまう程の不思議なエネルギーがこの映画にはあります。
不毛地帯
現在の日本映画で、ほとんど製作されなくなった社会派映画。 かつては、山本薩夫監督や、熊井啓監督など、数多くの気骨のある映画監督がいたものでしたが、現在の日本映画の衰退、凋落傾向の中、そのような気骨のある映画監督が全くいなくなりましたね。 今回、感想を書かれている、山本薩夫監督の「不毛地帯」は、そんな社会派映画の1本ですね。 この東宝映画「不毛地帯」は、昭和34年当時、二次防の第一次FX選定をめぐるロッキード対グラマンの"黒い商戦"を素材にした山崎豊子の原作の映画化作品ですね。 この映画は、その相当部分が主人公の元大本営参謀であった、壱岐正(仲代達矢)のシベリア抑留11年の描写に当てられています。 そして、この主人公の壱岐正のモデルは、元伊藤忠相談役の瀬島龍三氏であったのは言うまでもありません。 「白い巨塔」「華麗なる一族」に続くこの山崎豊子の原作は、高度経済成長下の熾烈な経済競争で荒廃してしまった"日本の精神的不毛地帯"と、厳しい自然と、全く自由を奪われた強制収容所という"シベリアの不毛地帯"を重ね合わせ、この二つの不毛地帯を、幼年学校以来、軍人精神をたたきこまれた主人公の壱岐正が、如何に生きていくか、その"人間的苦悩"に焦点を絞って描いている小説だと思います。 この映画の監督は社会派の作品を得意とする山本薩夫。 「戦争と人間」三部作、「華麗なる一族」「金環蝕」とその作風はある意味、一貫している監督です。 原作ではシベリアでの飢えと拷問の監獄、それに続く悲惨な収容所生活に多くのページを割いており、ソルジェニーツィンの「収容所群島」を連想させますが、この映画では、シベリアの部分はほとんどカットされており、ソ連内務省の取り調べも、天皇の戦争責任にポイントをおくためのものになっているように思います。 また、安保闘争をこの映画と切り離せない社会的背景とみて、原作にはないのを山本監督は意識的かつ重点的に付け加えています。 更に、自衛隊反対の自己の主張を壱岐の娘、直子(秋吉久美子)の口から繰り返し語らせているのです。 そして、当時、社会の関心が集中していた"ロッキード事件"を意識して、その徹底糾明のためのキャンペーン映画として作られており、山本監督は、それを抉るために彼の"政治的立場"に沿って、人間関係を明快に整理しているようにも思います。 原作者の山崎豊子は、「作者としては、どこまでも主人公、壱岐正が、その黒い翼の商戦の中で如何に苦悩し、傷つき、血を流したか、主人公の人間像、心の襞を克明に映像化してほしかった。この点、山本監督は、イデオロギー的な立場で、主人公を結論づけ、描いておられる。そこが小説と映画との根本的な相違であるといえる」と強い不満を語っていましたが、もっともな事だと思います。 山本監督は、「『金環蝕』も『不毛地帯』も、そのストーリーこそ違うものの、いずれも、本質的には日本の保守政治の構造が生んだ事件であり、今回のロッキード事件とその点で共通していると言える。私が『不毛地帯』を撮るにあたり、こうした保守政治の体質にいかに迫るかが、私にとって大きな課題となった」と、この映画「不毛地帯」の製作意図を語っており、このようにこの映画が、"政治的な意図"を持った映画である事を、我々映画を観る者は、よく認識しておく必要があると思います。 当時のロッキード事件というものと関連させて、なるほどと思わせる場面が多く、迫力もあり、映画的に面白く撮っているだけに、我々観る者が映像と現実をそのままゴッチャにしてしまう危険性もはらんでいるようにも思います。 ただ、山本監督は、「私は、映画はわかりやすく、面白いものでなければいけないと、常々考えている。健全な娯楽性の中に、その機能を生かせば、今度のような、いわば政治の陰の部分まで描き出せる」とも語っており、三時間という長さを全く退屈させない腕前はさすがで、その政治的な思想性は別にしても、これだけの社会派ドラマを撮れる監督が、現在の日本映画界に全くいなくなった現状を考えると、本当に凄い映画監督だったんだなとあらためて痛感させられます。 シベリア抑留の苛酷な体験もいつか薄れ、新鋭戦闘機に魅せられて、いつの間にか熾烈な商戦の渦中に巻き込まれ、作戦以上の策略を尽した結果が、心ならずも戦友の川又空将補(丹波哲郎)を死に追い込み、家族からも心が離反されてゆく、"旧職業軍人の業"といったものが切ない哀しみを持って、胸にしみて そして、自衛隊に入った旧軍人制服組の、警察出身で政治的な貝塚官房長(小沢栄太郎)に対する憎しみも非常にうまく描かれていたと思います。
ショコラ
この映画「ショコラ」は、ラッセ・ハルストレム監督が描いた、美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界ですね。 悠々と広がる、のどかな田園風景と小川のせせらぎに囲まれた丘の上にたたずむ小さな村。 カメラがその村に近づいていくと、"Once upon a time----"のナレーションが重なって来て、この夢のような、美しく不思議なおとぎ話の世界が幕を開けます。 「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「ギルバート・グレイプ」の名匠、ラッセ・ハルストレム監督が奏でる心優しく、ハートウォーミングな素敵な映画「ショコラ」。 この物語の舞台は、フランスのある架空の村、ランクスネ。 この村に住む人々は、昔からの伝統と戒律を守り、穏やかで静かな日々の暮らしを送っています。 すると北風の吹く、とある日に真っ赤なコートに身を包んだ母娘がこの村へとやって来ます。 母のヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と娘のアヌーク(ブィクトワール・ティヴィソル)は、閉店したパン屋を借りて、そこにチョコレート・ショップを開店します。 チョコレートの効果を知り尽くしたヴィアンヌは、村のお客それぞれにぴったりと合ったチョコレートを勧めていき、昔からの厳しい戒律に縛られた村人たちは、最初はよそから来たこの母娘に警戒心を抱きますが、次第にヴィアンヌの作るチョコレートの虜になっていきます。 とにかく、この映画に出て来るチョコレートのおいしそうな事。 人間の快楽を解放してくれる力のメタファーとして出て来るチョコレートは、何とも言葉では言い表せないような"ファンタジックな説得力"を持っています。 村人の恋愛を取り持ったり、親子の仲を改善したり、暴力的な夫に虐げられていた女性を自立させたりと、ヴィアンヌの作るチョコレートは、まるで魔法の薬のような、夢のような効果を生み出します。 このように全てが、幸せの内に物事が運んでいき、村の人々にポジティヴな生きる勇気を与えていきます。 これらのシークェンスで、人間を見つめるラッセ・ハルストレム監督の優しいまなざしを感じて、我々、観る者の心を和ませ、豊な気持ちにさせてくれます。 そして、この映画で描かれている"伝統と変化の衝突"は、実は大昔から人間の歴史を通じて繰り返されて来た、ある種の真実であり、リアリティに深く根差していると思います。 だから、このような相克に戸惑い、苦悩する村人たちの姿に共感出来るのだと思います。 登場する村人の一人一人の表情には、豊かな人間性が溢れ出ていて、我々の生活空間の中でも、とても身近な存在のように思えて来ます。 ラッセ・ハルストレム監督が描くこのようなコミュニティは、時代や国境をも越えたところで、人間同士の心の触れ合いの機微といったものを感じさせてくれます。 この「ショコラ」という映画で、ラッセ・ハルストレム監督が訴えたかったテーマというのは、多分、風のようにこの村にやって来た、この主役の母娘が、閉鎖的な村に吹き込んだ自由でおおらかな空気の恩恵を、彼女たち自身が被るところにあるような気がします。 人は何を排除するかではなく、何を受け入れるかが大切なんですよ----という"寛容で慈悲"の精神が、村をそして、村人たちを変えていきます。 当然、その結果として、チョコレートで人々に愛を分け与えてきた、この母娘は、村人たちに受け入れられ、彼女たち自身も優しい愛に包まれていきます。 そして、この映画の中で印象的で忘れられないのが、ジプシーのルー(ジョニー・デップ)が、チョコレート・ショップの壊れた戸を修理する場面です。 戸が修理された事で、いつも吹き込んでいた風がやみます。 それは、北風と共に旅を続けていた、この母娘の旅の終わりというものを象徴的に暗示しています。 遂に訪れた安住の地。やがて春が訪れ、この映画は静かに幕を下ろします。 この詩的な余韻を漂わせたラストには、本当に心が癒される思いがしました。 ヴィアンヌを演じたジュリエット・ビノシュ、ルーを演じたジョニー・デップ、二人共、肩の力が抜けた自然体の演技を示していて、この"美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界"に、すんなりと溶け込んでいて、とても素晴らしかったと思います。 そして、何といってもチョコレートのスウィートで、カカオの効いたビターな"ラッセ・ハルストレム節"を存分に、楽しく味わえた至福の時を持てた事の喜び。 本当に映画って素晴らしいなとあらためて感じました。
三匹の侍
"反権力の颯爽とした三人の浪人を描きながら、他方で生きるために権力に使われる冴えない浪人をニヒリズムの視点で描いた「三匹の侍」" 時代劇のヒーローに浪人がいる。権力体制からはじき出され、自分の腕っぷしだけで生きなければならない。 野良犬、虫ケラと蔑まれても、武士の誇りは捨てない。 一匹狼だから権力への遠慮はない。 むしろ、権力悪に対しては、人一倍強い怒りを持っている。 時代劇では、この浪人は、しばしば、宮仕えの武士以上の爽快なヒーローになるものだ。 戦前の傑作、山上伊太郎脚本、マキノ正博監督の「浪人街」三部作、戦後の黒澤明監督の映画史に残る大傑作「七人の侍」、そして「用心棒」「椿三十郎」。 時代劇は、浪人を常に魅力的に描き続けてきたと思う。 食うや食わずの痩せ浪人が、思いもよらない剣さばきを見せる。薄汚れた野良犬が、牙をむき出し、強大な権力に闘いを挑んでゆく。 「他人のことなんか知っちゃいない」と、うそぶいていた素浪人が、何を血迷ったか、飢えた農民のために、剣を抜く。 1962年からフジテレビで放映が始まった五社英雄演出の「三匹の侍」は、この浪人たちの魅力を思う存分見せつけた人気シリーズだった。六〇年安保闘争の後の「敗北の季節」に、裏街道を行かざるを得なかった誇り高き男たちのゲリラ的な戦いは、当時の時代の気分といったものによく合ったのかもしれません。 丹波哲郎の柴左近は、身を崩しながらも、まっとうな武士以上に誇り高く、義侠心に富んでいる。 長門勇の桜京十郎は、ユーモラスな明るい性格ながら、槍にかけては天下無双。 平幹二朗の桔梗鋭之助は、机龍之助や眠狂四郎と同じニヒリズムを湛えながらも、最後には、他の二人に引きずられるようにして、反権力の剣を抜く。 三人三様のキャラクターが、この物語を豊かに盛り上げる。無論、この三人が、黒澤明監督の「用心棒」の三船敏郎のイメージを踏襲していることは、言うまでもないだろう。 三船敏郎の魅力を、三分したと言えばいいだろうか。 今更ながら「用心棒」の先駆性に舌を巻いてしまうが、「三匹の侍」は、その面白さを受けて、浪人たちの闘いをさらに縦横無尽に広げていると思う。 三人の薄汚れ具合は、三船敏郎以上と言ってもいいだろう。 1964年に松竹で作られた「三匹の侍」は、テレビでの好評を受けての映画化作品だ。 監督は、テレビ版で演出の冴えを見せた五社英雄。 これが映画初監督になる。製作は、丹波哲郎のさむらいプロ。白黒映画だ。 薄汚れた浪人の物語にカラーは似合わない。吹きさらしの街道を往く素浪人をとらえるには、白黒の映像しかない。 凶作と重税で追いつめられ、ついに悪代官(石黒達也)に対して立ち上がった農民たち(藤原鎌足ら)のために、三人の浪人が義の闘いを敢行する物語だ。 浪人もの映画の定型どおりといえばそれまでだが、定型ならではのカタルシスがあり、上質のエンターテインメント作品に仕上がっていると思う。 農民が悪代官と真正面からぶつかって勝てるわけがない。そこで農民たちは、代官の娘(桑野みゆき)を人質に取って、村はずれの水車小屋にたてこもる。 そこに、丹波哲郎の紫左近が通りかかり、農民たちの闘いに関わらざるを得なくなる。 浪人が弱い農民たちに助太刀する。これもまた、「七人の侍」を踏まえていることは言うまでもない。 しかも、農民の先頭に立つのが、黒澤映画の名脇役、藤原鎌足とくれば、この映画が黒澤明監督へのオマージュになっていることは明らかだ。 水車小屋で、農民たちが自分たちも腹を空かせているのに、流れ者の島左近に、粟粥を振るまうところがホロリとさせる。 ここも「七人の侍」を思い出させる。この一宿一飯の恩義から、丹波哲郎の島左近は、彼らのために闘う決意をする。 めしという、生きる基本が闘いのモチーフになっているのが泣かせる。 三人の中では、長門勇の桜京十郎が面白い。彼だけは武士ではない。農民の出身だ。 「七人の侍」における三船敏郎の菊千代と同じ設定だ。 自分も水呑み百姓の子供だった。だから、農民たちの苦しみがわかるのだ。 得意の槍を振り回して、悪代官一派に切り込んでいく。 対する悪代官は狡猾で、三人の浪人を倒すために他の浪人を使う。 この戦法も皮肉が利いている。毒を以て毒を制す。 悪代官に雇われた浪人もまた、やむを得ざる闘いに駆り出されるのだ。 浪人といっても格好よく一匹狼で生き通せるわけではない。やむにやまれず悪代官という権力に尻尾を振る。 この映画の無類の面白さは、一方で、反権力の颯爽とした三人の浪人を描きながら、他方で、生きるために権力に使われる、冴えない浪人を描いているところにあると思う。 三人が代官や藩の侍たち(青木義朗たち)と斬り結ぶ最後の死闘は、浪人者にふさわしく、烈風吹きすさぶ荒れ野で行なわれる。三人をスーパー・ヒーローに仕立てることなく、息も絶え絶え、疲労困憊しての死闘を行なわせる殺陣が、実に迫力があって素晴らしい。 五社英雄監督の演出は、ケレン味たっぷりで、特に、剣を振る時の烈音というべき、豪快に空を斬る音を意識的に多用して、迫力を増していると思う。 この映画、実は、最後がほろ苦い。悪代官に刃向かった農民の代表三人は、殺される。 その無念を晴らすために、三人の浪人が決死の覚悟で敵を斬り倒す。 それなのに、最後の最後で、農民たちは、後に続かない。 そこが「七人の侍」と大きく違っている。 農民という大衆は、ついに腕のたつ浪人という自由人と共闘しないのだ。 権力と闘おうとしない無名の農民たちは、確かに卑屈かもしれない。臆病かもしれない。 しかし、彼らのほうが、浪人たちよりも遥かに、権力の強大さを知っていることも確かだ。 ついに立ち上がらない農民たちに絶望し、三人が砂塵の中を去ってゆくラストがほろ苦い。 「七人の侍」や「用心棒」に似ていながら、時代が後だけに「三匹の侍」のほうが、ニヒリズムはより深くなっていると思う。
ブラニガン
この映画「ブラニガン」は、ジョン・ウェイン主演の刑事ものでも、いささか無理した感じの前作の「マックQ」より、かなりいい。 シカゴ警察の警部補ブラニガン(ジョン・ウェイン)が、起訴まで持ち込んで逃げられた悪党ラーキン(ジョン・ヴァーノン)を追って、ロンドンに乗り込み大活躍するという痛快編だ。 ブラニガンは悪党を追ってロンドンへと飛び、出迎えたスコットランド・ヤードの婦人警官サッチャー(ジュディ・ギースン)が、ロンドン滞在中のブラニガンのお守り役で、ヤードの長官スワン卿(リチャード・アッテンボロー)と話し合っている時、ラーキンが誘拐されたとの報告が入る。 そこへブラニガンを消すための殺し屋や、ラーキンの弁護士らが加わって、事件は佳境へ入って行く。 この映画の面白さは、強いアメリカの象徴であるジョン・ウェインと、誇り高く、洗練されたイギリス紳士の象徴としてのリチャード・アッテンボローとの対比における、やりとりの妙にあるのだと思う。 それとともに、ジョン・ウェインの行くところで、なぜか西部劇調になるというのは、誰しも思いつくところだが、この映画ではパブでの大乱闘という見せ場もたっぷり堪能でき、入ろうとする客が何度となくパンチを食らって転げ出し、フラフラになったあげく、喧嘩の一味として連行されるという、ユーモアたっぷりの場面も用意されている。 また、悪党の車を追うため、居合わせた男の新車を挑発してのカー・チェイスとなり、開きかけたブリッジを飛び越えるなどの"定石"も効かせて、大いに楽しませてくれる。
スローターハウス5
この映画「スローターハウス5」は、現代アメリカ文学を代表するカート・ヴォネガット・ジュニアが、1969年に発表した彼の戦争中の体験に基づく、半自伝的なSF小説の映画化作品だ。 そして、この作品は、人生の不条理、戦争の残酷さが、時にはアイロニーを込めて、ファンタスティックに描かれているのです。 このジグソー・パズルのような複雑な構成の原作を、「明日に向って撃て!」「スティング」の名匠ジョージ・ロイ・ヒル監督が、類まれなる卓抜した演出で映像化した傑作だと思う。 原作の小説は私の愛読書の1冊ですが、この原作小説は、複雑な構成をとっていますが、映画もまたその構成に沿い、過去、現在、未来や場所を超えて自在に飛び交っていると思う。 第二次世界大戦に出征し、戦後は実業家として成功、一見平凡な生活を送るビリー・ピルグリム(マイケル・サックス)。 だが彼は、時空を超えて自由に過去・現在・未来を行き来できる超能力を持っていた。 しかも、彼が常に立ち戻るのは、第二次世界大戦中に、遭遇したドレスデンの無差別攻撃。 そこでの悲痛な体験が彼の人生を決定したのだ。 子供の頃、父親からプールに突き落とされ、無抵抗主義ゆえに水の中に沈んだビリー・ピルグリム。 若い日に見た野外劇場の踊子。ベルギー戦線でドイツ軍の捕虜となり、屠殺場(スローターハウス)へ移送される途中、凍傷にかかったアメリカ兵の足を踏み、それが原因で彼を死なせ、これを目撃したラザロ(ロン・リーブマン)につきまとわれることになる。その後、ドレスデンの収容所が連合軍の空襲を受け、町は一変したが、彼は助かったのだった--------。 戦後、事業家の娘ヴァレンシア(シャロン・ガンズ)と結婚し、家まで贈られて優雅な生活を送り、中産階級の一員として大成功したのだった。 ヴェトナム戦争に出征した息子が、立派な兵士となり、ビリーは冷ややかに見つめるのだった。 飛行機が山に激突し、ビリーは重傷を負い、妻は半狂乱の末、車の衝突で死んでしまう。 そして、ビリーもラザロに射殺され、二百億後年のかなたのトラルファマドア星で、若き日に野外劇場で見た女モンタナ(ヴァレリー・ペリン)と戯れている。 時間的な配列を追えば、このようになりますが、これを、時空を飛躍する悩みをタイプに打ち続ける彼を現時点に据え、大胆に配列しているのです。 むろんその核になっているのは、戦場での悲痛な体験であり、その体験を重く背負った主人公の姿なのだ。 だが、未来における彼は、光明の中にいる。 そのあたりに、過去に取り憑かれながら、光明の未来を追うジョージ・ロイ・ヒル監督の共通の主題が見い出されるような気がします。 また、この映画の音楽はバッハの「ブランデンブルク協奏曲」などをグレン・グールドの編曲により使用していて、実に素晴らしかったと思う。
戦う幌馬車
「戦う幌馬車」という西部劇の主演は、御大ジョン・ウェインとカーク・ダグラスという重量級俳優の魅力的な顔合わせです。 監督がバート・ケネディなので、内容的にはシリアス寄りではなく、コメディ寄りの痛快アクション西部劇になっています。 結論から言うと、この映画はとても面白かったのですが、ラストは主人公にとって残念な成り行きになっています。 思わず「オーシャンと11人の仲間」を思い出しました。 冒頭、主人公のトウ・ジャクソン(ジョン・ウェイン)が刑務所帰りという設定で登場するので、一瞬ビックリしました。 ジョン・ウェインが西部劇の悪役をやるわけがないからです。実は、無実の罪で刑務所送りになっていたのです。 そして、その無実の罪に追いやった敵をやっつけに来た、というストーリーでした。一種の復讐劇と言ってもいいかもしれません。 トウの標的は、自分を騙して牧場を奪ったうえに、牧場から出た金を独り占めしているピアースという男です。 トウは、ピアースが鉄製の装甲車のような馬車で運ぶ金を奪う計画をたて、仲間を集めます。 金庫破りの特異なローマックス(カーク・ダグラス)、古い馴染みのリーバイ、運び屋のフレッチャー、爆破が得意なビーリーの4人。 それぞれ特技を持った仲間が協力して、数十人の護衛のついた戦車のような馬車の襲撃作戦を決行するのです。 現金輸送車ならぬ砂金輸送馬車、この馬車の外観がかなり凄いです。 真っ黒で、上部には丸い砲台のようなものが付いていて、機関銃が据え付けてあるのです。 この不気味な馬車が、護衛を引き連れて荒野を疾走するシーンは迫力満点です。 トウとその仲間5人が、いかにして鉄の馬車を襲撃して金を奪うのかが、この映画の最大の醍醐味であり、見せ場であり面白いところです。 爆破が専門のビリーは、若いくせにアル中で、運び屋の老人は、まるで孫のような若い奥さんがいる乱暴者、とまあこんな風に仲間もそれぞれ個性的で観ていて飽きません。 バート・ケネディ監督の映画は、以前に「夕陽に立つ保安官」を観ました。あれほどコメディ色は強くないですが、ジョン・ウェインとカーク・ダグラスが見せる絶妙の間合いの可笑しいセリフは得難いもので、観ていて微笑ましく癒されました。 内容を全く知らずに観て、面白くて大正解でした。西部劇はやっぱりアクション映画の原点だなと、あらためて思わせられた1本でした。
哀れなるものたち
エマ・ストーンの演技に大きく期待しすぎてしまった。 エマ・ストーンは本作で2度目のアカデミー賞主演女優賞をとるのではという評判を聞いて、エマ・ストーンの「体は大人の女性、脳みそは赤ちゃん」の演技がすごそうだ、と、ここに注目ポイントを置いてしまった。 映画館で、その期待していた演技を見た瞬間これは脳みそが子供というよりはまるで障害者の演技みたいだ・・と感じてしまい、集中できなくなってしまった。 自分の期待が変なところに集中してしまったのが良くなかった。でも正直に言うと最初の印象は、期待していたほどの演技ではなくてがっかり・・という印象だった。 冒頭の見せ場は脳が子供というふるまいと、性に目覚めるシーンだと思うが女性として見ると女性の自由が性一辺倒に描かれるというのはやはり疑問に思った。 この2点で冒頭はあまり楽しめなかったが、世界に冒険に出て成長していくベラを見ていくうちに楽しめるようになってきた。 魚眼レンズのような撮影の仕方に何か意味があるのかわからなかったが、広角レンズで撮影された広い視野の映像は圧巻だったし、独特な世界観はすごく楽しめたし好きな映像でした。
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