スコルピオ
この俊英マイケル・ウィナー監督の「スコルピオ」は、バート・ランカスター、アラン・ドロンの二大スターに演技派のポール・スコフィールドが絡む、ストリーリーよりも役者の魅力で見せるスパイ映画の佳作だ。 殺し屋スコルピオ(アラン・ドロン)は、親友のベテランCIA情報部員クロス(バート・ランカスター)から、中東の某国首相の暗殺を依頼される。ところが、クロスは二重スパイだった------。 そして、勝手に引退を決め込んだクロスの暗殺を、CIAから依頼されたのは、彼の元相棒のスコルピオだった------。 友情や愛情さえも押しつぶしていく非情なスパイ戦を、マイケル・ウィナー監督が硬質なタッチで描いていく。 このようなストーリーは、スパイ映画としては定番のプロットで、この映画が公開された1970年代にしても、新鮮味には乏しかったのではないかと思う。 だが、逃げるベテランのバート・ランカスターと、それを追う現役バリバリのアラン・ドロンという顔合わせは、両者が初共演したルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」より遥かにスリリングで魅力的だ。 非情な組織に翻弄される男の悲哀を、ランカスターとドロンの二人の俳優が、それぞれにいい感じのムードを醸し出していて、実に素晴らしい。 初めてこの映画を観た時は、よくある話をキャスティングで見せる映画だと感じたが、観直してみると、それほど単純ではないことに気づく。 無骨顔の熱いヤツと、二枚目でクールなヤツという風貌だけで分けず、行動力や頭のキレが互角で似たタイプの二人が、相手の出方を予測しながら行動する、"丁々発止の心理戦"がスリリングで、ビターなラストも実に印象的だ。 この映画には昨今のスパイ物にはない、翳りや悲哀、漢涙を搾り取られる快感があるのだ。 1970年代の男気映画の基本テイストが、そこには紛れもなくあるのだ。
凍える牙
乃南アサの直木賞受賞作「凍える牙」といえば、過去に何度かテレビドラマ化され、小説だけでなくドラマで作品の魅力に触れた人も多いだろう。 原作者の乃南アサ自身が、「誰よりも『凍える牙』を理解していることが感じられた」とコメントしている通り、難事件に切り込む様子や主人公となる女刑事の職場での葛藤を描くと同時に、事件の鍵を握るウルフドッグの闇夜を駆け抜ける姿が脳裏に焼き付いて離れない。 車内で不可解な人体発火事件が発生、ベテランながら出世の道が険しいサンギル刑事(ソン・ガンホ)は、新人女性刑事ウニョン(イ・ナヨン)とコンビを組まされ、難事件に挑み始める。 遺体に残った獣に噛まれた跡や、腰に締めたベルトの発火装置で、他殺と判断したサンギルだったが、被害者周辺を洗ううちに、更なる連続殺人事件が発生する。 狼と犬の交配種であるウルフドッグが、噛み殺す現場を唯一目撃したウニョンは、署内の圧力にも屈せず、ウルフドッグの調教主を割り出そうとするのだったが--------。 「悲夢(ヒム)」のイ・ナヨンが、男性社会のしかも警察という組織の中に蔓延する、セクハラやパワハラを受け、上司が真相究明を諦める中、最後まで事件に喰らいつく芯の強いウニョンを、凛とした美しさで好演している。 働く女性であれば、一度は体験があるであろう、苦々しい場面が度々描かれるからこそ、殺人鬼に変貌させられた、ウルフドッグの孤独な瞳に共鳴していくウニョンの気持ちに寄り添えるのではないだろうか。 一方、ウニョンの上司であるベテラン刑事サンギルを、名優ソン・ガンホが、中年の悲哀を漂わせながら飄々と演じ、ちぐはぐコンビぶりを発揮する。 刑事魂と出世欲の間で葛藤する姿もまた、男ならではの孤独な闘いを映し出す。 組織の中に波紋を巻き起こし、真相の追及に没頭するウニョンを次第に受け入れ、サンギルが上司として、刑事として一皮剥けるまでのドラマも映画版ならではの見どころだろう。 人間に調教されたウルフドッグの謎、そして事件があぶり出す社会の闇に迫るアクションシーンも圧巻だが、更なる犯行を重ねるかもしれないウルフドッグを、単身バイクで追いかけるウニョンの真夜中の疾走は、切ないまでに美しかった。 追う者と追われる者、もしくは人間と動物の垣根を越えた”孤独な魂の共鳴”が、サスペンスにとどまらない余韻を残す作品だ。
アガサ/愛の失踪事件
「アガサ 愛の失踪事件」のラストには、思わず声を上げてしまった。 惚れ惚れするような別離の映像なのだ。 この映画は、ミステリーの女王、アガサ・クリスティ本人をヒロインとした作品だ。 アガサ・クリスティは、1926年に11日間、姿を消した事件がある。 その間、彼女は何をしたのか、また、何のために。 この件は、遂に明らかにされないまま、彼女は世を去った。 この映画は、その謎を推理し、想像し、ある一つの愛のサスペンスを構築する。 ミステリーの女王を素材にして、ミステリーを創り上げようというのだ。 脚本は、キャサリン・タイナン。彼女は、当時の新聞を読み漁り、関係者を尋ねて、謎のパズルを、女性のアングルから解いたのだ。 アガサという女性の謎を追って、女性が物語を創っただけに、全編から滲み出る、ひたむきな女の哀しみが、たまらなく胸を打つ。 アガサ・クリスティを演じるのが、ヴァネッサ・レッドグレーブ。 彼女の作品を愛しているコラムニストが、ダスティン・ホフマン。 彼女が、土壇場の行動に走ろうとする時、身をもって助けるのが彼なのだ。 彼と彼女の間に、密やかな愛の感情が通い合う。 二人の手の動き、目のさばき。内に抑えた愛の表現が、実に心に沁みるのだ。 そして、全てが終わったラスト。迎えに来た人々に連れられ、アガサは、駅のホームに立つ。その反対側のホームに彼。 二人の目が合った瞬間、ホームの間に列車が入って来る。 激しい抱擁をするでもない。しとどな涙を流すのでもない。 だが、これ程までに観る者の胸を締め付ける、美しい"別れ"は、めったい見られない。 アガサ失踪事件の謎に挑戦したこの映画。 その謎の本質を、女の哀しみに絞り込んで、それ故に、観る者の胸を震わせる、愛の映像に昇華したのだ。
第9地区
監督、キャストとも無名でありながら、アカデミー賞で作品賞など4部門でノミネートされた「第9地区」。 この映画「第9地区」は、人によってはB級SFコメディー、他の人には気味の悪いグロテスクなホラー、私にとってはSFに名を借りた"政治寓話"なのです。 エイリアンを「難民」として描いた異色のSF映画で、その設定の妙が光っている。 受賞こそならなかったが、独創性なら、その年の作品賞に輝いた「ハート・ロッカー」に勝るとも劣らないと思う。 巨大な宇宙船が南アフリカのヨハネスブルクの上空に停止した。中にいた異形の宇宙人は衰えきって、戦うどころじゃない。 宇宙人は地上に移され、隔離されたコロニーに閉じ込められた。そして、その状態が20年も続き、宇宙人の強制退去が開始される。 宇宙船は「インデペンデンス・デイ」にそっくりだし、巨大化した虫のような宇宙人は「エイリアン」の末裔。 でもこの宇宙人、この映画では姿形は薄気味悪くても、中身はアメリカ先住民のように力なき民なのです。 この後は、強制退去の先頭に立った主人公が、ふとした偶然からエイリアンに変身して人類に立ち向かうことになるのです。 古くは、アーサー・ペン監督の「小さな巨人」、最近だと「アバター」でお馴染みの展開になるのです。 この映画は、先住民を追い払う先頭に立ったはずの主人公が、先住民とともに戦う「アバター」の親戚みたいなものだ。 「アバター」のパンドラ星は美しかったし、ナヴィ族だって慣れてみると結構、綺麗だったんですが、パンドラ星を巨大なスラムに、ナヴィ族を「エイリアン」のグロテスクな化け物に入れ替えると、この映画になると思うのです。 もちろんこれは、一見、B級SFコメディーのように見えますが、舞台が南アフリカなので、かつての"アパルトヘイト"を念頭に置いて、人種差別や移民迫害を、このように被差別者をエイリアンに置き換えて、痛烈に諷刺した社会派映画なのだ。 言葉も姿も異なる人たちには、ある種の恐怖を抱くのが普通ですが、普通の感情で暮らすなら、他者の排除に終わってしまいます。 そんな事やって大丈夫なのという思いが欧米圏では切迫しているので、この「第9地区」がアカデミー賞の候補にもなったのだと思う。 助けられ、難民として隔離された彼らは、野蛮で不潔な「下級住民」として、人類から蔑視されるようになる。 果たして人類とエイリアンは共存できるのか? ------。 物語は後半、ある事件をきっかけにエイリアンと人類の戦いに発展する。 そして、ニール・ブロムカンプ監督は、ニュースやインタビューの映像を織り込んで、ドキュメンタリータッチに仕上げている。 おかげで、突拍子もない物語が、不思議と臨場感にあふれ、手に汗握る場面も多くあり、ラストシーンにはほろりとさせられた。 何だかつかみどころのない感じもするけれど、作り手たちの発想力に素直に脱帽させられた。 SFはSFでも、「スターシップ・トゥルーパーズ」のような、メイン・ストリームから外れたところで、私が偏愛するカルト映画の貴重な1本になったのです。
ひとり狼
大映映画「ひとり狼」は、村上元三の原作を池広一夫監督、市川雷蔵主演で映画化した、正統派股旅映画の佳作だ。 博奕も剣の腕も凄い、人斬り伊三蔵(市川雷蔵)は、行き倒れの博徒の子として生まれ、拾われた武家の家でその娘と恋に落ち、ついに女に裏切られ、婿である武士を傷つけ、凶状持ちとして逐電し、ヤクザになったという暗い過去を持っている。 しかし、いったんヤクザに身を落とした彼は、全ての目的と欲望を捨て、義理人情というよりは、あらゆる様式にはめこんだ、非人間的な完璧なヤクザになりきろうとする。 風のように人を斬り、風のように去っていく人斬り伊三蔵の道中姿は、旅人の本質である虚無的な姿勢を、これまでになく美しく本格的に捉えていると思う。 加藤泰監督の「沓掛時次郎・遊侠一匹」や山下耕作監督の「関の弥太っぺ」が、同じ本格的なヤクザを描きながら、彼の心の底に眠る静かな情感を、ロマンチシズムの中で、巧みに描き出したのとは違い、この「ひとり狼」は、あくまでも非情に硬質に主人公を流れさせる。 それは後に登場する「木枯し紋次郎」の世界に似て、冷たく研ぎ澄まされた、テロリスト的なアウトローの孤独な姿を描いている。 既成のあらゆるものを信じなくなった一人の男が、儀礼的な儀式のみにすがることによって、自己を守っていく姿は、混乱した状況の中における一つの生き方なのかもしれない。 情も捨て、信奉も捨てて、流れることにのみ行動の意味を把握しようとする、永久流転の”ひとり狼”は、かつてのビートとかヒッピーとか言われたような時代風俗者たちとは違い、永久に自己を大切にしようとする楽天主義者なのかもしれない。 だが、これが時代劇映画、しかも股旅ものとなると、東洋的無常感が介入して、先覚的な行為者の姿に見えてくるのは、それが虚構の世界であるだけの理由だろうか。 いずれにせよ、この映画は過去の「沓掛時次郎・遊侠一匹」や「関の弥太っぺ」のように、情感に潜り込もうとすることなく、一見つかみどころのない混乱した状況を、冷たく様式化し、風景にのみ生きようとする直線的な行為者を描いたことによって、股旅ものの傑作になっていると思う。 そして、この人斬り伊三蔵に扮する市川雷蔵は、折り目正しい、端正な演技で、時代劇スターとしての貫禄を示し、下層アウトローの庶民的ニヒリズムを見事に演じ、晩年の代表作になったと思う。
やさぐれ刑事(デカ)
この藤本義一原作、渡邊祐介監督、原田芳雄主演の「やさぐれ刑事」は、主人公の原田芳雄扮する刑事が、自分が狙っていた暴力団幹部に妻を寝取られ、コールガールに売りとばされて怒り狂い、警察官としての職務も規律もなげうって復讐の鬼と化してしまう。 そして、ダーティな追跡劇を、北海道から九州までと大がかりに繰り広げるさまを描いた、ハードボイルド刑事アクション映画なのです。 藤本義一の原作小説のハードボイルド色を極力抑えて、活劇としての面白みを強調していると思う。 職務に忠実なあまり、家庭からはみ出し、さらに、妻を奪われてからというもの警察機構からもはみ出した”男の屈折したエネルギー”を、原田芳雄が実に好演して見せているが、映画としてはリアリティの欠如が目立ち、いささか説得力が乏しかったような気がする。 しかし、日本の伝統である任侠映画のパターンに、アメリカ映画の「ダーティハリー」シリーズに代表される豪快なアクションを織り混ぜて、それまでの刑事ものとは一味違った、”アクション娯楽活劇”に仕上げた渡邊祐介監督の演出の手腕は、なかなか冴えていたと思う。
華麗なる賭け
この映画「華麗なる賭け」は、スティーヴ・マックィーンがそれまでのイメージを変え、フェイ・ダナウェイ扮する保険調査員とのギリギリの知恵比べと愛を展開する、粋でお洒落でスタイリッシュな犯罪映画の傑作だと思います。 この映画「華麗なる賭け」は、アクション・スターとして活躍していたスティーヴ・マックィーンが、それまでとうって変わって"退屈しのぎ"に泥棒を楽しむという、優雅でエレガントな頭脳犯を演じて、公開当時、話題になった作品です。 主演のスティーヴ・マックィーンは、汗と泥の土臭い匂いが似合っていたウエスタン・ルックから、オーデコロンと胸元のハンカチが似合う、東部の知的なセレブへと大胆なイメージチェンジを図って勝負に出た作品とも言えます。 監督は、「シンシナティ・キッド」でマックィーンと組み、「アメリカ上陸作戦」「夜の大捜査線」と、立て続けにヒット作を飛ばした、当時、絶好調だったノーマン・ジュイソン。 そして、編集に、後に「帰郷」「チャンス」という名作を監督する事になるハル・アシュビーが参加しています。 マックィーン扮するトーマス・クラウンという男は、独身の大金持ちの紳士。大邸宅に住みポロを楽しみ、チェスで頭を休め、サンドバギーでリフレッシュするというセレブ。 それでもまだ退屈なので、トーマス・クラウンは遂に、銀行強盗の完全犯罪を目論みます。 後に、フェイ・ダナウェイ扮する保険会社の秘密調査員が、「なぜ強盗なんか計画したの?」と聞くと、「金のためじゃない、自分で楽しむためさ」と答えますが、何とも非常にぜいたくな泥棒なのです。 この映画の原作は、ボストンに住む弁護士が書いたもので、1950年にボストンのブリンクス銀行から現金120万ドルが強奪され、犯人がいまだに不明という事件をヒントにしていて、この事件は後に、ウィリアム・フリードキン監督、ピーター・フォーク主演で映画化された「ブリンクス」の、あの強奪事件なのです。 ヒロイン役のフェイ・ダナウェイは当時、演劇界では名前は知られていたそうですが、映画界では新人同様でしたが、それでもマックィーンとチェスを楽しむうちに、お互いにその気になり勝負そっちのけで抱き合うシーンでは、その後の彼女の魅力の片鱗が垣間見られたように思います。 そして、映画の画面は、TVドラマの金字塔的作品の「24」シリーズで多用された、"マルチ・スクリーン"をふんだんに使っていて、溢れる程の過剰な映像表現は、まさに"華麗なる"にふさわしい映像の魅力を発散させています。 音楽を「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」などの小粋で、洒落た感覚の映画音楽を数多く書いてきたミシェル・ルグランが、この映画でも映画音楽の永遠の名曲でもある「風のささやき」という素敵なテーマ曲を作曲していて、我々映画音楽ファンを楽しませてくれます。 この映画は公開当時、評価としては芳しくなかったようですが、興業的には大ヒットを飛ばし、マックィーンはこの利益を、自身の映画プロダクションに注ぎ込んで、次にあのアメリカ映画のアクション映画の歴史を大きく変革させた「ブリット」に主演する事になるのです。 なお、この映画は1968年度の第41回アカデミー賞で、テーマ曲の「風のささやき」が最優秀歌曲賞を受賞し、同年のゴールデン・グローブ賞でも最優秀歌曲賞を受賞していますね。
初恋のきた道
この映画「初恋のきた道」は、世界的名匠チャン・イーモウ監督が描いた、清冽で瑞々しく繊細なタッチの映画史に残る永遠の名作だと思います。 この映画「初恋のきた道」は、中国を代表する世界的な名匠のチャン・イーモウ監督による"しあわせ三部作"の1作目の「あの子を探して」に続く2作目の作品(3作目は「至福のとき」)で、一本の道を通して生まれた"清冽で瑞々しく繊細なタッチ"の映画史に残る初恋の物語です。 物語は父親の葬儀のために故郷の村に帰郷した息子が、その村で長く語り草になっている両親のなれそめを回想するというノスタルジックな展開で描かれていきます。 この映画の中国語の原題は「我的父親母親」で、"私のお父さん、お母さん"という事で主人公の息子の視点からの題名で、日本語題名の「初恋のきた道」は、ヒロインの少女チャオディの視点からの題名になっていて、英語の題名が「The Road Home」という事で、それぞれに味わい深い題名になっていますが、個人的にはやはり「初恋のきた道」が一番好きな題名ですね。 山あいの小さな村へ町からやって来た新任の若い小学校の教師チャンユーと、彼に恋する思いを伝えようとする少女チャオディ。 新校舎の建設現場に、手作りの弁当を運ぶ事で、彼女はその思いを伝えようとします。 そして、次第に彼等は言葉を交わし、心を通わせていきますが、"文化大革命"という大きな時代のうねりの中、彼は政治的な理由で町へ強制連行されます。 この突然の予期せぬ別離によって少女チャオディは、悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れながらも、ただひたすら町へと続く一本道で来る日も来る日も恋する人を待ち続けます。 この若き日の母親役としてチャン・イーモウ監督に抜擢されたのが、この映画がデビュー作となる新星、チャン・ツィイーで純粋無垢で可憐な少女チャオディを鮮烈に演じていて、この映画の魅力の大半は彼女の存在抜きには考えられません。 チャン・ツィイーは、この映画の翌年の「グリーン・デスティニー」(アン・リー監督)で世界的にブレークし、2003年のチャン・イーモウ監督の「HERO(英雄)」でも華麗で鮮やかな演技を披露しています。 チャン・イーモウ監督にとっては、"第二のコン・リー"とでも言うべき存在の女優になっていきます。 チャン・イーモウ監督も、彼女をいかに可憐で魅力的に描こうかと強く意識していて、映画の大部分は彼女のクローズアップで構成され、その瑞々しくもチャーミングな存在感は、映画全体を爽やかに明るく躍動させていると思います。 我々、映画を観る者は彼女が微笑むと、一緒になって微笑み、彼女が涙を流すと、一緒になって涙を流すという、久しく忘れかけていた感情を呼び覚ましてくれます。 彼女はそんな我々映画ファンの心の琴線を震わせるヒロイン像なんですね。 そして、現在のシーンをモノクロで撮影し、過去をカラーで撮影するという映像の手法が、初恋の思い出をより美しくきらめかせ、ロマンティックな効果を与えているように思います。 過ぎ去りし日を描く、カラー撮影の言葉では到底言い表わせないような美しさは、初恋の瞬間のときめき、きらめきを鮮やかに表現していて、ため息がもれる程の映画的な陶酔の世界を味わえます。 誰にとっても思い出とは、いつまでも永遠に美しいままで記憶されるもの、そんなチャン・イーモウ監督の優しい思いが伝わるようで、麗しき映像は郷愁さえも呼び覚ましてくれます。 そして、更には中国の何千年と続く悠久の大地、黄金色の麦畑、純白の雪原を鮮やかにとらえた映像が叙情性を高めてくれます。 正しく、息をのむようなシーンの連続です。 父母への追慕の気持ちは、息子である主人公の人生にも深みをもたらし、父の棺を担いで帰りたいと強情を張る老いた母と、父が去った学校を健気に守り続けた若き日の母が二重に重なった時、"過去と現在が一本の道で繋がり"、感動が一気に頂点に達します。 初恋の延長の上にある、母であるヒロインの長い人生を目のあたりにして、主人公の息子も我々映画を観る者も、一途に人を思う気持ちというものが、信じられないような"力"を生む事を知り、つらく厳しい事も多かっただろうが、それはそれで幸せな人生だったのだろうと心の底から強く感じます。 映画を観終えて思うのは、この映画のようにシンプルな物語からは、純粋な愛の力強さがくっきりと鮮やかに浮き上がってきます。 心が荒みかけているこの時代に、忘れかけていた素直な感動を与えてくれる"愛の賛歌"とも言えるこの「初恋のきた道」をこれからも、心の宝石とすべく、何度も繰り返し観たいと思っています。
龍の忍者
この「龍の忍者」は、東映が協力した香港カンフー・アクション映画で、まず東映スタイルの忍者群の活躍場面が紹介されてから、舞台は中国へ。 隠棲する元伊賀流の忍者・田中浩を慕う、若者コナン・リーが、ユーモラスにカンフーの腕前を発揮するが、田中を父の仇と思い、日本から探しに来た真田広之が現われ、若い二人の対決となり、これに真田の恋人・津島要がちらりと絡む。 監督はユアン・ケイという人物だが、展開のテンポの速さや、場面処理の歯切れの良さは、従来の香港映画とはだいぶ違う。 東映側が相当、手伝っているのがうかがわれる。 真田が田中を襲う場面など、とても香港映画とは思えないタッチだ。 だが、お話そのものは散漫で、なんだかはっきりしないところもあるが、やがて、田中は自分が父の仇ではないことを真田にわからせ、リーと仲良くするように言い残して自殺する。 その光景を見て、真田が田中を殺したものと勘違いしたリーは、真田に決闘を挑み、五重塔のてっぺんで丁々発止と渡り合う。 ここは香港映画らしい、延々と続く、いつもの長丁場だが、さんざん闘ったあげく、二人が和解したところへ、邪教を操る男の一味が現われ、インスタントの祭壇を組み立て、二人に挑戦する。 ブルース・リー(李小龍)の凄味のあるアクションから、ジャッキー・チェン(成龍)のユーモラスなアクションへと、この映画の製作当時、カンフー映画の流れは移っていて、この映画もユーモラスな趣向が主体で、中国の妖術が、日本の刀には通じない、というお笑いもある。 この敵の親玉がやたらと強く、さすがの二人もたじたじになるが、いくら強くても、久米の仙人みたいにお色気には弱いと知り、津島要のお色気攻撃で、骨抜きになったところを、KOするというのがオチになっている。 それにしても、若き日の真田広之の、JACで鍛えた、キレキレのカンフー・アクションは、今観ても凄いの一言に尽きる程、素晴らしい。
ザ・ヤクザ
外国の監督が、日本を舞台にした映画を撮ってもめったに成功しないものだ。 必ず風俗的にチグハグで、ヘンテコなところが出てくるからだ。 だが、この映画「ザ・ヤクザ」は、稀に見る成功作だと言ってもいいと思う。 何しろ監督が「ひとりぼっちの青春」や「追憶」などのシドニー・ポラックだということと、ヤクザ映画(任侠映画)の本家・東映の全面的な協力のおかげで、おかしな失敗をしないですんだと思う。 アメリカで私立探偵をしていたハリー(ロバート・ミッチャム)が、友人のタナー(ブライアン・キース)から、ヤクザの東野(岡田英次)に誘拐された娘を取り戻してくれと頼まれて来日し、終戦の頃に愛し合った英子(岸恵子)と再会する。 彼女の兄だという健(高倉健)は、ヤクザの足を洗い、京都で剣道の師範をしているが、昔、英子がハリーに救われた"義理"を返すために協力を約束する。 ハリーと健は、タナーがつけてよこした若い用心棒のダスティ(リチャード・ジョーダン)も加えて行動を起こし、タナーの娘の奪還に成功する。 その結果、健もハリーも東野一味から狙われることになり、健の兄で全国ヤクザの長老格の五郎(ジェームズ繁田)を苦しい立場に立たせることになる。 シドニー・ポラック監督は、古めかしいフジヤマ・ゲイシャ的なイメージにこだわらず、1970年代当時の日本の自然な風俗の中で、物語を進めていて、安直なアクション映画のタッチではなく、腰を据えたドラマの味を出していると思う。 京都の大学の講師だった五年間に、ヤクザ映画の熱狂的なファンになったというポール・シュレーダーの原作もなかなかうまく出来ており、タナーが東野に密売する銃器の前払金を使い込んで、銃器を渡せなくなったため、娘を誘拐されたことがわかってから、場面は急テンポで緊迫の度を増していく。 そして、東野に脅かされたタナーが、ハリーの暗殺を企てたりしたあげく、ハリーが健と二人で、東野の邸へなぐり込みをかけるクライマックスへと至る。 健さんは日本刀、ミッチャムはショットガンと拳銃で暴れるこの修羅場は、カメラ・アングルにも工夫を凝らした、見応えのある一幕で、岡崎宏三の撮影が光っている。 健はこの乱戦で、東野の子分だった五郎の息子を殺す羽目になったため、指を詰める。 そして、健が実は英子の兄ではなく夫なのに、恩義のために自分たちの関係を隠していたという事情を知ったハリーも、侘びのしるしに指を詰めて健に送る。 "義理"というものが、本家の東映の映画より、合理的によくわかるのが面白い。 健さんも、ミッチャムも好演で、真の友情が生まれる経過がよく出ており、英語と日本語のまぜかたも上手くいっている。 そして、岸恵子もこの二人のバランスに相応しい配役だったと思う。
グロリア
女ハードボイルドの決定版「グロリア」は、タフで泣かせるラブストーリーの傑作ですね。 監督は、"アメリカン・インディーズの父"と呼ばれ、性格俳優としても知られる映画作家のジョン・カサヴェテス。 ハリウッドのシステムを嫌い、独自のゲリラ的な手法での映画作りの姿勢を貫いてきたカサヴェテス監督は、従来の映画には見られなかった、即興的なカメラワークと演技指導で映画に革命を起こした人ですね。 元ヤクザの情婦グロリア(ジーナ・ローランズ)とスペイン人の少年フィル(ジョン・アダムス)の関係は、母子愛的なものだが、二人が心を通わせていく様子は、大人の恋愛以上に絆の強さを感じさせてくれます。 グロリアは元々、子供とは縁のない世界で生きてきた女だ。 それが、同じアパートに住むギャング組織の会計士一家が惨殺された現場に居合わせたお陰で、その家族の少年を預かる羽目になる。 少年の母親の必死の頼みに、グロリアは最初こう言って断る。 「子どもは嫌いなのよ。特にあんたの子はね。」 実に、ハッキリした物言いの女だ。 孤独を引き受けてタフに生きる女は、優しさの安売りなど決してしない。 だが逆に、孤独を知っているからこそ、本当の優しさを心に隠し持っているんですね。 少年の生死を分ける切羽詰まった状況で、グロリアは少年を見捨てられず、彼をかくまってやることになる。 追って来る組織のチンピラどもに立ち向かうグロリアの凄み、これが非常にシビレるほどカッコいい。 「撃ってごらんよ、このパンク!」、ピストルを構えるその足元はハイヒール。スーツはエマニュエル・ウンガロ。 疲れた顔の中年女が、かつてこれほどクールだった事はなかったと思います。 全く、ジーナ・ローランズには痺れてしまいます----------。 安ホテルを泊まり歩く逃避行の中、グロリアと少年の信頼の度は、しだいに深まっていくのだが、グロリアの態度がこれまたクールなのだ。 少年に対して、可哀想な子供扱いは一切なし。 夜、寝る前に、自分のスーツをバスルームに下げてシワを取るようにと少年に言いつけたりする。 一方、少年の方は母親に言いつけられて、それをやるという感じではなく、何か同志のサポートをしているふうに見えてしまう。 一度、グロリアが少年に朝食を作ってやろうとする場面は、私がこの映画の中で最も好きなシーンだ。 フライパンで卵を焼いてはみたが、コゲついてしまい、グチャグチャになってしまう。 すると、いきなりフライパンごとゴミ箱に投げ捨てるグロリア。 結局、朝食はミルクのみ----------。 コワモテの女の優しさが乱暴な形で出るところが、いかにもグロリアらしくて、実にグッとくるのだ。 この映画は、ハードボイルドの衣をまとった「家族の物語」だと言えると思います。 グロリアと少年フィルの関係を通じて、カサヴェテス監督が描こうとしたのは、人種や血縁の壁を超えた、新しい人間関係の可能性と、その温もりだと思います。 彼らの背後には、大都市の"残酷と孤独"が、身も心も引き裂かんと牙をむいて待ち構えている。 そして、その厳しさを描き切ったからこそ、"幻想的なラスト"が、私の心に深い余韻を残したのです。 尚、この作品は、1980年度の第37回ヴェネチア映画祭で、作品賞にあたる金獅子賞を受賞していますね。
ミュージック・オブ・ハート
"ひとりの女性が自立していく姿を音楽を愛する気持ちを通して感動的に描いた「ミュージック・オブ・ハート」" この映画「ミュージック・オブ・ハート」は、「エルム街の悪夢」や「スクリーム」などの大ヒット・ホラー映画を生んだウェス・クレイヴン監督による感動の実話の映画化作品で、ニューヨークのイースト・ハーレムで、恵まれない環境の子供たちにバイオリンを通して生きる希望を与えた、実在の女性教師ロベルタ・ガスパーリの奇跡の物語を描いています。 離婚し二人の子供を女手ひとつで育てるロベルタは、唯一の才能を活かして小学校のバイオリンの教師になります。 犯罪多発地区のイースト・ハーレムで、人種差別や暴力と闘いながら、彼女は音楽の素晴らしさを熱心に指導し、子供たちも失いかけていた希望を取り戻していきます。 だが、教育委員会によってクラスが閉鎖される事になり--------。 この予算削減の影響を受け、閉鎖が決定した音楽教室を存続させるため、ロベルタはチャリティ・コンサートの実現に向けて奔走するのです。 生徒に音楽で夢を与え、自らも人間的に成長していくヒロインを、現代ハリウッド映画界の最高の演技派女優メリル・ストリープが熱演しています。 全体を通して、感動の予感はあるものの、大きな盛り上がりを迎える前に、次へと進んでしまう演出が惜しまれますが、それでもアイザック・スターンやイツァーク・パールマンら天才バイオリニストが多数出演する、音楽の殿堂カーネギーホールでの演奏シーンには思わず目頭が熱くなる程の感動を覚えてしまいます。 そして、子供たちの音楽を誇らしく思う表情と、いつも先生を見やる信頼に満ちた瞳が、爽快な印象を残してくれます。 それにしても、このメリル・ストリープの熱血教師ぶりにはあらためて、びっくりします。 彼女のいつものキャラクターからは想像も出来ないような乱暴な言葉も飛び出しますが、しかし、難しい年頃の子供、しかも、ハーレムの悪ガキを引っ張っていかなければならないのだから、それは必然的な厳しさと言えるのかも知れません。 事実、アメリカ全土に報道されたロベルタ・ガスパーリの授業風景は、思わず目を見張る程の厳しさだったそうです。 私生活でも離婚の痛手を引きずりながら、想像を絶する大変な教育現場をまとめていくロベルタの心の内面は、決して穏かなものではなかったろうと思います。 こうした試練を乗り越えていく彼女の心の支えになったのは、単なる教育理念や使命感ではなく、"無垢に音楽を愛する気持ち"そのものだったのだろうと思います。 この映画を観る前、私はハーレムに住むたくさんの子供たちを中心に据えた物語を予想していたのですが、実際に観てみると、ロベルタ・ガスパーリという一人の女性の成長を見つめる内容の映画でした。 その事により、彼女の人間性ばかりを追いかけた結果、メリル・ストリープの活躍だけがやけに目立ってしまったような気がします。 それでも、女性らしい不安な感情を隠そうともせず、一歩一歩自立していく姿はたまらなく魅力的に描き出されていたと思います。 つまり、この「ミュージック・オブ・ハート」は、まさに、メリル・ストリープによるメリル・ストリープのための映画なのだと思います。
王女メディア
この映画は、女の"怨念"のドラマだ。 もっと遡って、女というもの、母というものの原型を描いていると言ってもいいと思う。 原型だから、いっさいの夾雑物や、現代的な見せかけや、複雑さをはぎとって、女そのものがむき出しになる。 女の恐ろしさと悲しさと、女の愛の業の深さとが、異様な美しさと緊張で、観ている私の胸に迫ってくる。 それほど、息苦しいまでの凄みで、目がくらみ、打ちのめされるような映画だ。 この映画は、「奇跡の丘」や「アポロンの地獄」や「テオレマ」等の問題作を撮ってきた、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の作品だ。 例によって、荒涼たる砂塵に、パゾリーニ的な古代世界が現出する。 ギリシャ悲劇や神話で知られる王女メディアを演じるのは、イタリアの世界的なオペラ歌手のマリア・カラス。 マリア・カラスと言えば、億万長者のオナシスの愛人でもあった、欧州きっての"誇り高き女性"として有名だった人だ。 そのマリア・カラスが、狂おしい愛と、裏切られた女の遺恨と怨念とを、炎と燃やし噴出させるのだ。これは実に見ものだ。 そうしたメディアが、最初に登場するのは、バラバラ殺人の場だ。 兵士たちが旅の若者を捕えて磔にし、締め上げた首をバサリと斬り落とすと、あとは屠殺場みたいに、胴体を八つ裂きにする。 待ち構えていた村人たちは、その血と肉片を手に畑に走り、大地や作物になすりつける。 こうして、神にいけにえを捧げ、豊作を祈るのだ。 この残酷極まりない野蛮な儀式を、眉ひとつ動かさずに司る王女メディアは、だがイアソンと出会ったとたんに、バッタと倒れる。 彼のあまりの美しさに失神したのだ。 この瞬間から彼女は、狂おしい恋の虜になってしまうのだ。 このイアソンを演じるのは、メキシコ・オリンピックの三段跳びで銅メダルを獲得した、イタリア陸上競技界のスター、ジュゼッペ・ジェンティーレだ。 はるばる苦難の旅を続けてやってきたイアソンは、この国の宝物"金毛羊皮"を手に入れたい。 それを知った王女メディアは、神殿から"金毛羊皮"を盗み出し、彼と手をたずさえて逃げるのだ。 そして、逃げる途中の馬車で、彼女は同乗していた実の弟の頭上にナタをふり下ろして殺害し、首、足、手をバラバラに切って、路上に放り捨てる-------。 追っ手がそれをかき集めているうちに、逃げ切ろうというわけだ。 なんとも凄惨で、鬼気迫るショック場面だ。 そして、十年後、コリントス国に移り住み、今はイアソンとの間に二人の子供までできて、平和に暮らすメディアは、思いもかけぬ夫の心変わりにあってしまう。 彼は国王に見こまれて、その娘の婿に迎えられることになってしまうのだ。 嫉妬の鬼と化したメディアは、復讐のために魔力を使う。 彼女は、相手の王女に呪いをかけた結婚衣装を贈り、それを着た王女は、発狂して城壁から飛び降り、父王もまた後を追い、無惨な死をとげるのだった。 それにもまして、底知れぬ恐ろしさに観ている私を引きずりこむのは、メディアが愛する二児を殺す場面だ。 彼女は、子供たちを、静かに優しく、母の愛をこめて、最後の湯浴みをさせる。 自ら手を下す場面は描かれない。けれど、血塗られた短刀と、幼い兄弟の唇の端ににじむ血と、そして青白い半月の静寂と、やがて射しこむ朝日の輝きとが、この凄絶な"子供殺し"の無言の恐怖を、芸術的なイメージに昇華するのだ。 さらに彼女は、わが子の亡骸さえ夫に渡そうとせず、しっかり両わきにかき抱いたまま、館もろとも炎に包まれて、その炎の中から最後の憎悪を夫に投げつけるのだ。 女の執念とは、かくもおぞましい。 そして、何千年たっても変わらず、誰の内にも潜んでいることは、なお悲しい。
クリスマス・キャロル
"人間不滅のテーマであるヒューマニズムと善意の勝利を、ほのぼのと高らかに歌い上げた、ミュージカル映画の傑作「クリスマス・キャロル」" 「オリバー!」に続いて、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの原作「クリスマス・キャロル」が、再び慈愛に満ちたミュージカル映画として作られました。 監督は「ミス・ブロディの青春」「ポセイドン・アドベンチャー」のロナルド・ニーム。 このロナルド・ニーム監督は、「ミス・ブロディの青春」で見せた人間理解の深い、神経の細やかな演出を、今度は19世紀のロンドンを舞台に展開する、大人の童話とでもいったディケンズのミュージカル化に発揮して、古典調に統一された、渋くて格調のある、しかも、大変楽しい作品に仕上げていると思います。 しかし、この作品では、「ドリトル先生不思議な旅」をはじめ映画音楽では優れた仕事の多いレスリー・ブリッカスが、脚本と共に作詞・作曲を一手に引き受けているということを見逃すことができません。 ディケンズの原作を、巧みにミュージカルの見せ場を作って膨らませた脚色が、実に良く出来ているし、その中へはめ込まれている歌曲が、みんな優しさと慈愛に満ちていて、実にいいんですね。 この映画の主人公は、ドケチ根性に徹した街でも悪名高い、高利貸しのスクルージ老人。 クリスマス・イブで、街は陽気に賑わっているのに、彼の事務所では火の気もなく、平常の勤務時間の七時まで、一人の書記クラチットは、働かされているというのが、お話の出だしです。 見るからに因業な老人スクルージに扮するのが、かのサー・ローレンス・オリヴィエに認められ、彼の後継者とまで謳われた名優のアルバート・フィニーで、舞台役者らしく扮装がうまくて、ちょっとわかりません。 アルバート・フィニーは、私の大好きな俳優の内の一人で、特に「ドレッサー」「オリエント急行殺人事件」「火山のもとで」「トム・ジョーンズの華麗な冒険」での名演が忘れられません。 やっと古時計が七時を打って、クラチットは、僅か十五シリングの給料と一日の休暇を貰って解放されます。 街へ出ると、彼の五人の子供の幼い方の二人、脚の悪いティムと妹のキャセイが、高価な人形をいっぱい飾った玩具屋の明るいウィンドーをうらやましそうに覗いている姿が目に付きます。 それから父とその子たちは、クラチットが貰ってきたばかりのお金で、貧しく、つつましいながらも、彼らには年に一度の楽しいクリスマスの買い物をして歩きます。 店で一番安い品を買っても、最も高価なものを買う人よりも楽しく、嬉しそうな彼らの姿が、その歌と共にほのぼのと美しく感動的です。 クラチットを演じるデビッド・コリングスという俳優は、恐らくイギリス劇壇の人なのでしょう、とてもうまい。 とにかく、イギリス出身の役者はサー・ローレンス・オリヴィエを筆頭に、アレック・ギネス、レックス・ハリスン、リチャード・バートン、アルバート・フィニー、ピーター・オトゥール、アラン・ベイツ、トム・コートネイ、アンソニー・ホプキンスなどと、いづれも芸達者な演技派揃いだ。 そして、このティムとキャセイを演じる二人の子役が、また例によって可憐なのだ。 殊に、松葉杖をつく男の子ティム役を演じるリッキー・ボーモン坊やは、後で独唱など聞かせて泣かせます。 このクリスマスの買い物の歌をはじめ、それに続く一つ一つの歌曲が、それの歌われるどの場面でも、ドラマの流れにうまく溶け込み、"ドラマの精神"を分かりやすく表現して、画面を楽しく盛り上げていく点は、確かに脚本・作詞・歌曲の三位一体の妙味だと思います。 スクルージの昔の雇い主フェジウィッグ氏のクリスマス・パーティの歌と踊り「12月25日」、昔の恋人イサベルとの歌「幸福」、クラチットの家でティムがかぼそい声で歌う「すばらしい日」の歌。 そして、スクルージの幻想の中の彼の葬式の時と、フィナーレとの二回、全く別な意味を持って歌い、大勢の人たちが歌って踊って乱舞する「サンキュー・ベリイ・マッチ」など、レスリー・ブリッカスの力量が十分に発揮された素晴らしい見どころ、聞きどころになっています。 そして、この映画のもう一つの見どころは、特殊撮影のうまさ。 映画の大半は、スクルージがクリスマス・イブの夜半に観る幻想的な場面になっています。 まず、七年前に死んだ彼の共同経営者のマーレイの幽霊が現われて、過去・現在・未来のクリスマスの精霊たちが、代わる代わるやって来て、スクルージに"いいもの"を見せてくれるぞといった予告をするのです。 それを見て、お前も今のうちに改心しないと、俺のようになるぞよという、そのマーレイのいでたちがとても面白いのです。 このマーレイに「戦場にかける橋」の名優アレック・ギネスが扮していますが、この幽霊は怖いというより、何となくユーモラスな愛嬌があります。 その登場・退場など、特撮のうまさで実に自然なのです。 下手だったらこう面白くは見られない場面です。 マーレイと一緒に、浮かばれない死霊がいっぱいに駆け回っている天上へ行ったり、未来のクリスマスの地獄の底で、マーレイに出会ったりするところの特撮は、なかなかのものです。 そして、現在のクリスマスの精霊は、ケネス・モアが扮した陽気な快楽主義者。 ここでも、特撮が使われていますが、精霊はスクルージに、人生は一度しかないのだから、それをエンジョイしなければ、後で後悔しても追っつかないという、彼一流の"人生哲学"を教えてくれるのです。 しかし、それよりも、クラチットや、スクルージのたった一人の甥が、いくらスクルージがひどい取り扱いをしても、なお彼らはスクルージに対して温かい愛情や感謝の心を持って、彼のために乾杯をしてくれるということが、老人の頑なな心を感動させ和らげるのです。 未来のクリスマスでは、街の人々が、スクルージの死んだことを知って、これこそ天のお恵みと「サンキュー・ベリイ・マッチ」を乱舞するのですが、当のスクルージは、人々の感謝を素直に自分への感謝と受け取って、一緒になって踊るのが、実に切なく、滑稽です。 この場面では、スクルージから借金をしていて、その取り立てや利子に、利子の重なる厳しさに日頃泣かされている人たちが、たくさん登場しますが、群衆の音頭をとる屋台店のスープ屋のアントン・ロジャースが、これまた芸達者なところを見せてくれます。 こうして、スクルージは、一夜のうちに、過去・現在・未来のクリスマスの自分の姿を見せられている間に、彼の心をコチコチに固めて、誰からも嫌われていた、その守銭奴的な根性が、次第に人間的なものに解きほぐされ、温められていくのです。 彼が幻想の中に見たものは、たぶん彼の一夜の夢であり、また日頃は彼の心の底に閉じ込められていた、もう一つ別な彼であり、また、彼の"呵責の念"の現われであったのかも知れません。 けれど、彼の過去、青春の日を再び目のあたりに見た感慨、恋人イサベルに愛想つかしされた日の心の痛み、現在の隣人たちに人間嫌いの自分のしていること、それに対する彼らの反応。 やがて、その自分が、惨めな死を迎えるのを見ることの恐ろしさ、そうしたものが、彼をいわゆる改心へ導いていく様が、この映画では自然なこととして頷けるのが、実にいいのです。 そして、頷けるばかりではなく、人間は本来、"善なる性"を持っていて、どんな性悪に見えるものでも、その本来の呼び声には、結局は答えていくものなのだといったことを考えさせられ、感じさせられます。 ヒューマニズムは、やはり人間不滅のテーマであり、結局はそれが最後の勝利となるのだというのが、スクルージの中に描かれた"チャールズ・ディケンズの人生哲学、人間観"なのだろうと思います。 しかも、ディケンズは、イギリスの作家だから、そうしたヒューマニズムを生のまま突き出して、私たちに歯の浮くような思いをさせることはしないのです。 得意の苦く辛い諧謔の粉を、とっぷりとまぶして、私たちが、まずそのピリリとした味を噛み締めながら、おもむろに、この歪められ、汚濁した社会の中で、究極的に人間を救うものは何か、それは"人間の善意"なのだという一つの真実につき当たる仕掛けになっているのだと思います。 そして、そこへいくまでの紆余曲折のドラマが、ディケンズの世界のたまらない面白さなのだと思います。
アラベスク
スタンリー・ドーネン監督のロマンティック・コメディ「アラベスク」は、主演が、私が最も好きな男優のグレゴリー・ペックとイタリアの大女優ソフィア・ローレン。 何でもこの映画は、ソフィア・ローレンが、大のグレゴリー・ペックファンで、一度でいいから、ペックと競演したいという夢があり、それが叶った映画という事で有名です。 恐らく、「ローマの休日」のペックを観て、胸キュンとなったのかもしれませんね。 この映画でのソフィア・ローレンの役は、グレゴリー・ペックの前に突然、現われ、彼を翻弄する謎の美女といった役です。 アクション盛りだくさんのサスペンス映画なのですが、ローレン自身が拳銃を振り回したりという、そんなシーンはありません。 監督のスタンリー・ドーネンは、ミュージカル映画の監督として有名ですが、こういう洒落たサスペンス映画も撮っているし、1本だけれどもSFも監督しているんですね。 その中でも、最も有名なのが、「雨に唄えば」と「シャレード」ですね。 言語学者であるデヴィッド・ポロック(グレゴリー・ペック)が、古代アラビアの象形文字の解読を依頼されます。 ところが、引き受けた途端に、彼の身に危険が次々と降りかかり始めます。 ヤズミン(ソフィア・ローレン)という謎のアラブ美女が、彼の味方になってくれるのですが、どうも彼女の言うことは、嘘が多いので、デヴィッドは、彼女に翻弄されてしまいます。 いったい、彼女は味方なのか敵なのか? 最後の最後までわかりません。 そのあたりのスタンリー・ドーネン監督の演出は、なかなかうまいと思いますね。 加えて、この映画は、アクションシーンも実に豊富です。 動物園、水族館、高速道路、そして、ラスト近くは、牧場で西部劇さながらの馬でのチェイスシーンまであるサービスぶり。 もう、本当に嬉しくなってしまいます。 007も真っ青のアクション映画ですよ、これは。 とにかく、主人公が、刑事でもスパイでもなく、大学の言語学の教授というところが、いいですね。 知的でインテリジェンスに溢れたグレゴリー・ペックには、もうドンピシャのはまり役ですね。 素人っぽいドジをしまくりながらも、果敢に敵に立ち向かい、象形文字の謎を解明しようとする、グレゴリー・ペックが、実に楽しそうに演じていて、とても素敵です。 もちろん、ソフィア・ローレンも、謎の美女を妖艶に演じていて、ペックとの競演が本当に嬉しそうだなという事がわかり、好感が持てましたね。
エクソシスト
この映画「エクソシスト」は、現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念を描いた、映画史に残る傑作だと思います。 この映画「エクソシスト」の製作、原作、脚色は、ウィリアム・ピーター・ブラッティで、彼は、それまでにも「暗闇でドッキリ」とか「地上最大の脱出作戦」等、数多くのコメディ映画の脚本を書いていますが、コメディと違ってこの「エクソシスト」が、果たして成功するのかどうか、全くわからなかったと彼は語っています。 彼の両親は、シリアとレバノンの生まれで、映画の冒頭に出てくる中東の廃墟の場面は、彼の出生とアメリカ情報局勤務当時の、その地での記憶と深く関わりがあると言われていますが、映画の本筋からは少しそれた感じを受けました。 それより、むしろ、この映画の実質的な、本当の意味での主役ともいえる、ギリシャ移民の子であるカラス神父(ジェーソン・ミラー)の、アメリカ社会から疎外されたような孤独な姿の中に、ウィリアム・ピーター・ブラッティの生い立ち、人間像、系譜といったものが生かされているような気がします。 この映画が、初めて公開された当時の日本では、ユリ・ゲラーの"スプーン曲げ"がもてはやされ、超能力やオカルト現象がブームを巻き起こしていました。 科学万能やエレクトロニクス革命の時代への反動のように、超常現象への関心が異常な程、高まっていました。 この事が「エクソシスト」を頂点とする、いわゆる"オカルト映画"のブームとなって現れたことは間違いありませんが、それは単に表層的なオカルト映画や見世物の恐怖ではなく、神と悪魔の存在を信じる欧米人にとっては、「エクソシスト」を始めとする一連のオカルト物は、彼らの心に奥深く突き刺さり、恐怖と戦慄を呼び起こしたのではないかと思います。 この映画のストーリーは、1949年のメリーランド州のある町で、14歳の少年の身に実際に起こった事件が元になったという事で、この少年は、3カ月に渡って悪霊に苦しみましたが、カトリックの"悪魔祓い師"(エクソシスト)によって解放されたそうです。 しかし、本当にこのような事実があったのかどうか、そして、カトリックの秘法によって人間の心が救われるのかどうか----我々、現代人にとってはなかなか信じ難い事です。 ましてや、キリスト教の歴史や背景や教義について、ほとんど知らない我々日本人にとっては、この映画の宗教的な本当の深さは、到底、わかりようがない気がします。 映画「エクソシスト」で描かれる、悪魔に取り憑かれた12歳の少女リーガン(リンダ・ブレア)の異常でおぞましい振る舞いは、むしろ滑稽でもあり、生理的な嫌悪感しか感じさせません。 悪魔の所業を示す音響効果や特撮も、反対にその実在感というものを希薄にしているような気がします。 むしろ、病院で再三再四繰り返される、脳や脊髄の近代的な医学検査の残酷さこそショッキングであり、また、カラス神父が自分の老母を貧窮の中に死なせる、ニューヨークの精神老人病棟の悲惨な状況の中にこそ、現代の悪霊そのものの姿を感じてしまいます。 カラス神父の、神に一生を捧げたばかりに、精神病の医者の資格を持ちながら、愛する母親を生ける屍のように放置しなければならなかった苦しみは、少女の悪霊に白髪の老母の姿を見て、その声を聞き間違う程に深いものがあったのだと思います。 そして、少女に巣食った悪霊を自らの心に受け入れて、身を捨てるカラス神父の壮絶な最期は、"現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念"を我々観る者の魂の奥底に突き付けてきます。 この「エクソシスト」は当時、評判になったような少女リーガンの異常で、怪奇的なオカルトタッチの姿にその興味を持つのではなく、悪魔祓い師(エクソシスト)の"カラス神父の絶望の淵に深く沈みこんだ心"にこそ、焦点をおいて観るべきなのだと強く思います。 半ば壊れかかったアパートで、一人ラジオを聴き、病院のベッドで顔をそむけ、そして、地下鉄の入り口に幻のように現われる老母の姿は、カラス神父にとっては、少女リーガンに取り憑いた悪霊そのものです。 そして、この悔恨の悪霊は、乱れた男女関係その他、諸々の人間関係から生まれた、この世の邪悪と共に、この純粋で無垢な少女の身を借りて、醜い悪魔となって、この世に現われて来たような気がします。 そして、メリン神父(マックス・フォン・シドー)とカラス神父の二人の死というものを代償にして、やっと追い祓われる悪魔は、実は"現代社会の中で、人それぞれに歪められてしまった心そのもの"である事を暗示的に示しているのだと思います。 原作、脚色のウィリアム・ピーター・ブラッティと監督のウィリアム・フリードキンの、この映画に情熱をかけた真の狙いもそこにあったのだと思います。
スコルピオンの恋まじない
ウディ・アレン監督がハワード・ホークス、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー監督への限りなきオマージュを捧げた小粋でお洒落な作品が、「スコルピオンの恋まじない」だ。 毎回、今度はどんな手で来るのかと、我々映画ファンをワクワクさせてくれる、ウディ・アレンの映画------。 この映画「スコルピオンの恋まじない」は、1940年代のハリウッドのスクリューボール・コメディの復活を目論んだ、ウディ・アレンらしい小粋で、お洒落な作品です。 主人公のC・W・ブリッグス(ウディ・アレン)は、昔気質の保険調査員。 そんな彼の前に、超合理主義者のリストラ担当重役のベティ・アン・フィッツジェラルド(ヘレン・ハント)が、立ちはだかります。 水と油、まさに犬猿の仲の二人。 そんな二人がある日、ナイトクラブで胡散臭い催眠術にかけられてしまい、文字通り、"恋の魔法"になっていく-----という、思わずニンマリとしてしまう程、スクリューボールな展開になっていきます。 この二人、顔を合せれば、凄まじい言い争いを始めてしまうのですが、結局、この攻防も二人の仲を高めるためのプロセスであり、スクリューボール・コメディの定石が、この映画にはドンピシャと当てはまります。 この二人の饒舌ともいえるセリフの応酬を見ていると、真っ先に思い出すのが、ハワード・ホークス監督のケーリー・グラントとロザリンド・ラッセル主演の「ヒズ・ガール・フライデー」で、オフィスのレトロな雰囲気や同僚達とのアンサンブルまでよく似ていて、嬉しくなってきます。 ウディ・アレンも公言している通り、この映画はハリウッドの黄金時代の名画の数々へのオマージュが散りばめられていて、映画ファンとしては、ウディ・アレンの映画への限りなき愛に共感し、この映画に陶酔させられてしまいます。 インチキ魔術師の呪文に踊らされて、次々に宝石を盗んでいくブリッグスとベティ・アンですが、これは泥棒カップルの騒動を描いた、ハリウッド黄金期のソフィスティケイテッド・コメディの巨匠エルンスト・ルビッチ監督の「極楽特急」の設定を思わせ、ウディ・アレン監督のセンスの良さを感じます。 ブリックスにかけられる呪文"コンスタンチノープル"は、「極楽特急」でもお洒落なキーワードとして使われているので、思わずニャッとしてしまいます。 また、主人公の仕事が保険会社の調査員というのは、名匠ビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白」と同じですし、更にソフト帽にトレンチコートというブリッグスの格好は、ウディ・アレンが敬愛してやまないハンフリー・ボガートが主演した、ハワード・ホークス監督の「三つ数えろ」での私立探偵のスタイルにそっくりで、大いに笑わせてくれます。 このように、ハワード・ホークス、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー監督といった、巨匠達の映画世界からヒントを頂戴しつつも、きちんとウディ・アレン・テイストに仕立て上げているところが、彼の凄いところだと感心してしまいます。 考えてみると、役者としてのウディ・アレンが、そこに登場するだけで、その映画はウディ・アレン・オリジナルになってしまう凄さ。しかも、過去に彼が好んで演じた、"冴えない神経症の男"といったハマリ役を捨て去って、"デキル男"を溌剌と演じても、全く違和感なく、すんなりと馴染んでしまうから不思議です。 この映画が魅力的なのは、ひとえに偉大な過去の巨匠達に対するウディ・アレンの少年のように純真な、一人の映画ファンとしての心で満ち溢れているからだと思います。 この映画のようにシンプルで、奇をてらう事のない作品は、なかなかないと思うし、映画において、わかりやすさや親しみやすさが、いかに大切な事であるかを痛感させられます。
少林サッカー
この映画「少林サッカー」は、ヒーロー漫画へのノスタルジーに満ち溢れた、とにかく観て大爆笑する理屈抜きに面白くて楽しい映画ですね。 監督・主演は、ドニー・イェンと共に、世界中でブルース・リー(李小龍)を最も愛する男チャウ・シンチー。 少林拳を世界に広めるために、かつて少林寺で学んだ6人の仲間が結集してサッカーチームを作り、ハイテク・トレーニングや筋肉増強剤で人間サイボーグと化したデビルチームと対戦する事に。 カンフーを自由自在に操り、超人的なスピードで展開されるプレーの数々。 一昔前のスポ魂ドラマを思わせるストーリー展開に、シュールな即興ギャグのつるべ打ち。 とにかく、面白すぎます!!! この映画は、"ノスタルジー"というツボに弾丸シュートを決めてくれるのです。 それも懐かしいヒーロー漫画へのノスタルジーなのです。 とにかく試合のシーンが凄い、凄すぎます。 ボールは火を噴き、人は宙を舞う。「そんなアホな!」と思わず突っ込みたくなるような超人プレーのオンパレード。 これは、まさしく漫画「キャプテン翼」の世界そのものなのです。 どうせ映画、フィクションなんだからと、"開き直ったような潔さ"が、この映画に比類なきパワーを与えているのだと思います。 そう、ヒーローは何だってやり遂げてしまうのです。 香港映画伝統のワイヤー・アクションや最新のCG技術も、この漫画的な世界感を映像化するための単なるツールに過ぎず、リアリズムの価値をはき違えた最近の映画には、このフィクションが生み出す途方もなく、底なしの興奮が希薄になっているので、そういう意味からもこの映画の価値があるように思います。 おおよそカンフーの使い手には似つかわしくない肥満の男やおっさんに、ブルース・リー気取りのキーパーなどなど。 ブルー・リーおたくのチャウ・シンチー、やっぱり、ブルース・リーへのオマージュをしっかり映画の中で描いています。 対するは、コテコテの悪役。ダメ人間が巨悪を討つ。 このカタルシスも、ヒーロー漫画へのトリビュートになっていると思います。 そして、このようなおバカなキャラクターを照れる事もなく堂々と演じ切った面々に拍手を送りたいと思います。
アザーズ
1945年、第二次世界大戦末期のイギリスのジャージー島。出征した夫の帰りを待つニコル・キッドマン扮するグレースは、広大な屋敷で二人の子供と暮らしている。 子供達は、極度の光アレルギーで、屋敷の窓という窓には、いつも分厚いカーテンがかかっている。 ある朝、屋敷に三人の新しい使用人がやって来る。 そして、その日を境に、数々の不可解な現象がグレース一家を襲い始める。 屋敷の中に見えない何者かが入り込んでいる。それは一体誰なのか? というスリリングな物語ですね。 近年のホラー映画は、スプラッタやサイコ系が主流を占めていると思います。 確かに、死者の魂や幽霊といった宗教観は、IT全盛の現代にあっては、いかにも古臭いという感じは否めません。 そんな中、アレハンドロ・アナーバル監督は、オールドスタイルのゴシック・ホラーに、恐怖演出の原点を見出し、古典への帰着を起点として、新たなゴシック・ホラーを創造しようと試みていると思います。 この点が、私がこの作品を好きな理由なんですね。 誰もいない部屋から聞こえてくるピアノの音、不気味にはためく窓辺のカーテン、死者の写真、闇夜に浮かび上がる洋館、といった怪奇演出は、怪談文化をバックボーンに持つ、我々日本人のセンスにもしっくりと馴染むような気がします。 何を見せて、何を見せないのか。これは恐怖映画の永遠の命題だろうと思います。 アレハンドロ・アナーバル監督は、ヒッチコックの映画から多大な影響を受けたと語っていますが、ヒロインが見えない存在への恐怖に浸食されていくという観点から、とりわけ「レベッカ」の表現技術を意識していると思います。 そして、見えないものに息を与え、得体の知れない恐怖を生み出すことに成功していると思います。 さらに、グレース・ケリーやジョーン・フォンテーンといった、ヒッチコック映画のヒロインを思わせるニコール・キッドマンのクール・ビューティーぶりが、もう素晴らしいの一言に尽きますね。 情緒不安定なヒロインの錯綜する心理を見事に演じ、恐怖とインパクトを増幅させてくれます。 この映画の売りは、なんと言っても、やはり衝撃のドンデン返しにありますね。 しかし、この映画はスマートなストーリー・テリングを尊重しており、そのためには、中途で少しぐらいのヒントなら見せても構わないと考えているフシがありますね。もちろん、全ては緻密な計算に基づいてはいますが。 そして、最後はとても哀れで悲しい物語として完結するんですね。 生者と死者の世界のあやふやな境界線に、深い思いを馳せずにはいられません。 オチを知ってしまった今でも、もう一度観てみたいと思わせてくれるんですね。 光と闇の巧みなコントラストが、この映画を完璧な恐怖映画に仕立て上げていると思います。 この映画では、暗闇はサスペンス、光はショックを演出しています。 暗闇は恐怖の余り、真相が見えなくなっていることを象徴し、光は子供を殺し得る危険なもの、最後には視点を変える契機として、劇的な役割を果たしているのだと思います。
ストレイト・ストーリー
この映画「ストレイト・ストーリー」は、旅を続ける事で、自分の人生に決着をつけようとする、ひとりの老人の姿を通して、人間の生きる意味を淡々と問いかける珠玉の名作だと思います。 この映画「ストレイト・ストーリー」は、実話をもとに「ワイルド・アット・ハート」の鬼才デヴィッド・リンチ監督が、それまでの作風と180度違う、シンプルで心暖まるロード・ムービーの誕生は、多くの映画ファンを驚かせた事でも有名で、何度観ても、本当に心に残る珠玉の名作だと思います。 10年来仲違いをしていた兄が心臓発作で倒れたと知った73歳のアルヴィン(リチャード・ファーンズワース)は、和解するために、何と時速8kmのトラクターで560km離れた兄の暮らすウィスコンシン州へと6週間の旅をするのです----。 映画を観終えた後、アメリカの地図を見てみると、出発したアイオワ州のローレンスから、目的地のウィスコンシン州のマウント・ザイオンまでの道程を確認した時、あらためて感動が心の底から甦って来ます。 トウモロコシ畑の中の一本道を、ひたすら真っ直ぐに進むだけのシンプルな物語は、まさにストレイトなストーリーになっていると思います。 主人公のアルヴィン爺さんが旅先で出会う人々との交流は、まさに、"一期一会"の精神にも合致するもので、何ともほのぼのと心がじんわりと暖まって来ます。 ぶっきらぼうだが、確固とした信念に基づいて人生訓を語り掛ける彼のその姿には、嫌味のかけらもなく、実に素直に、自然に聞けてしまうから不思議です。 それは、何よりもアルヴィンを演じるリチャード・ファーンズワースの存在抜きでは考えられません。 彼の演技を超越した名演技は、この老主人公の背負ってきた人生の年輪の重みを感じさせてくれます。 また、ベテラン・カメラマンのフレディ・フランシスによる、壮大な俯瞰シヨットで捉える"アメリカの原風景"は、ため息がこぼれるほどの美しさです。 ノロノロと進むトラクター。ゆっくりと進む事で初めて見えてくるものがあるのです----。 空の大きさ、星の美しさ、自分自身の人生----。 考えてみれば、この長い旅路は、アルヴィンの人生そのものなのかも知れません。 頑なに独立独歩で旅を続けるアルヴィンは、この旅で自分の人生に決着をつけようとしているのかも知れません。 そこには、何かをやり遂げる事で、自分の生きてきた証を残そうとする、力強い気骨というものを感じてしまいます。 そして、バスにでも乗れば早いところを、敢えて苛酷な野宿の旅を選択したアルヴィンの実直さに、思わず目頭が熱くなって来るのです。 長い旅路の果て、アルヴィンは兄と再会します。 アルヴィンの心の中では、和解なんてもうどうでもいい。 ただ子供の頃のように、二人一緒に夜空の星を見上げていたい。そんな二人の間には、もはやどんな言葉もいらないのです。 ここで、カメラがスッと立ち上がり、満天の星空を映し出すのです----。 私が今まで観て来たたくさんの映画の中でも、指折り数えるほどの美しいエンディングだったと思います。 この映画を観終えて、再び思う事は、この映画は本当に、あのデヴィッド・リンチ監督の映画なのだろうかと----。 実際、これまでにリンチ監督が真正面から描いてきた暴力や狂気は、映画の背後に塗り込められ、驚くほどヒューマンな感動作に仕上がっていると思うのです。 しかし、世の中の"ダークサイド"を抉り出してきたリンチ監督が、"ブライトサイド"も含めた表裏一体の世界感を持っているのは、何も不思議な事ではなく、むしろ、世の中には昼と夜があるように、当たり前の事なのかも知れません。 それ以上に、実話としてのアルヴィン・ストレイトという一人の人間の偉業の前では、作り手であるリンチ監督の個性や作為的な演出など、もはや蛇足なのかも知れません。 とはいえ、奇をてらわない、さり気ない演出は、やはり確かな技量を持つデヴィッド・リンチという名監督だからこそ、なせる業なのだと思います。 なお、この映画は1999年度のニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀主演男優賞と最優秀撮影賞を受賞しています。
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