愛と怒りと哀しみと
このレビューにはネタバレが含まれています
2021年1月19日 23時18分
役立ち度:0人
総合評価:
5.0
この映画は公開当時は全くウケなかったが、
徐々に評価を変えていった面白い映画だ。
自分の記憶では当時友人と、何でもいいから観に行こうという事になったものの、
途中でケンカとなり、友人はハリソン・フォードのファンだったのでこの映画を、
自分は、ハリソン・フォードなんてダセエ! とわざと対抗して
「ポルターガイスト」を観に行った記憶がある。
それ以降しばらく鑑賞の機会を逃していた。
評価を変えていった背景は様々なことを言われているが、
当時を遡って考えてみた個人的な感触としては、
この映画をミュージシャンたちがこぞって評価したことが全体に影響しているように思える。
例えば坂本龍一は1986年のアルバム「未来派野郎」の1曲目
「Broadway Boogie Woogie」で、この映画の中のセリフをサンプリングして
取り入れている。
また1986年に発表したBOØWYの4枚目のアルバム「JUST A HERO」のツアーでは、
舞台装置をこの映画の世界観から引用したということだった。
他にもフレディー・マーキュリー追悼コンサートで、
アニー・レノックスがしていたメイクは、この映画に出てくる
プリスのメイクそのものだった。
どの時点で突然現在のようなカルト・ムービー化したのかは分からないが、
いずれにしても「再評価」される要因が色々あるので
現在のような地位を得ているのだろう。
原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』との違いも
色々言われているが、まずそもそもこの小説の中では
「ブレード・ランナー」という言葉も「レプリカント」という言葉も出てこない。
そしてデッカードには妻もいる。もっとマンガチックで
SFアクションぽい感じなのだ。
それに比べ映画の方はどうだろうか。もっと暗い。そして小説にはない、
「4年の命」という、アンドロイドである「レプリカント」たちの哀しみを
描いている。また「レイチェル」という女性アンドロイドの存在も、
この映画の中では原作とは違う、もっと重い役割を担っている。
それは「人間とアンドロイドの愛情物語」だ。レイチェルは4年の命、
いやすでに4年は切っているかもしれない相手であり、人間ではない。
そしてデッカードはアンドロイドを破壊する立場である訳だから
一緒に居られるはずもない。だから二人は愛し合いながらも逃避行へと出なくてはならない。
愛と哀しみ。
この2つの要素を加えることで、映画は原作の雰囲気から大きく様変わりし、
はかなくも美しい物語へと昇華したのだ。
ところで、全然見方を変えてみた場合、ハリソン・フォードは主人公でありながら、
デッカードという役柄を演じていて、果たして面白かったのかな、
と疑問に思うのは自分だけだろうか。演じる上で人物像としての背景が
あまり見えてこないのだ。どういうモチベーションでレプリカントを
追っているのだろうか。
彼は一度ブレード・ランナー(レプリカント抹殺の専任捜査官。原作では賞金稼ぎ)
を辞めているのだが、呼び戻される。
自分としては任務を断るのだがお上の命令という事で引き受けざるをえなくなる。
それだけなのだ。それに対し敵対するレプリカント側は宇宙開拓の前線で
強制労働や戦闘用、または男性の慰安用に開発され、過酷な状況を経験している。
そして次第に感情を持って人間に敵対するようになる者が現れだすと
今度は4年という限られた命しか与えられなくなったのだ。
そういう重い背景を背負っているので演じる側も強い思いで演じることが
できるであろう。
怒りと哀しみ。
この2つの感情はとても強い。よくレプリカント側のリーダー、ロイ役である
ルトガー・ハウアーがハリソン・フォードを食っている、と言われるが、
演じる上ではレプリカント側の方がはるかに演じやすいように思える。
もし、自分が演じるとしたら、デッカードとレプリカント、
どちらを演りたいだろうか?
自問してみるのも面白いと思う。