チャイナタウン
アメリカ合衆国の国内のチャイナタウンの土地は、どのような土地なのか。 これを見事に描く、ポーランド映画。 製作は、アメリカ合衆国。 ポランスキーの演出は、どのシーンも、深みあるショットで構成されていて、俊英的、連発です。 乃ち、これは、トリュフォー映画と対極を成す、傑作なのです。 ジョン・ヒューストンの演技、が、印象に残る、ラストシーンは、大変、哲学的で、映画史に残ります。 次に、アメリカ人は、中国人には負ける、と表現した、社会派映画として観ることも出来る、すぐれた作品でもあります。
理由
このレビューにはネタバレが含まれています
疑惑の影
退屈な日々を過ごす娘チャーリー(テレサ・ライト)の所へ、突然、彼女の叔父(ジョゼフ・コットン)が現われ、しばらく一家とともに暮らすことになる。 自分と同じ名前を持つこの叔父を、娘は幼い頃から敬愛しており、彼女は大歓迎だったが、その叔父にはどうも不審な点が多かった。 やがて、二人の探偵がやって来て、叔父に殺人容疑がかかっていることを知らされる。 娘は不安になり、調べ出した新聞には未亡人殺しの記事が載っていた。 しかも、叔父が土産にくれた指輪に彫ってあったイニシャルは、被害者のそれと同じだったのだ。 果たして、叔父は本当に殺人犯なのか? 娘の不安は恐怖へと変わっていく-------。 不気味な演奏の「メリー・ウィドー」の序曲のワルツとともに始まるこの映画は、殺人事件そのものや犯人探しがテーマではなく、大好きな叔父さんが、その犯人ではないかと疑う、姪と叔父の物語だ。 この映画は、登場人物の恐怖心理を、スリラーの神様ヒッチコック監督が巧みに映像化していて、二人のチャーリー、二人の探偵、列車の走るシーンが二つなど、二組のペアが次々と登場する。 姪も叔父も同じチャーリーであるのは、ヒッチコック映画の秘密を解く鍵の一つである、左右対称のモチーフ、同じ人間の表と裏、天使と悪魔、他人の犯した罪のために苦しむ人間と犯罪者の葛藤のイメージなんですね。 もちろん死体が出てくるわけではなく、のどかな田舎町の平和な家庭を舞台にした、ヒッチコック監督ならではのサスペンス映画になっていると思う。 そして、ジョゼフ・ヴァレンタインの撮影による緻密な映像が、不安感を見事に盛り上げている。 この映画は、「わが町」で知られるアメリカの劇作家ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに乞われてシナリオを書いたもので、異色のサスペンス映画というよりも、ずばり、映画の本質とはサスペンスそのものであることを教えてくれる映画だ。 そして、ヒッチコック映画のお楽しみでもある、彼の登場シーンは、冒頭の列車の中の客席の中の一人としてチラッと出てきますので、お見逃しのないように。
フランティック
"映像の魔術師ロマン・ポランスキー監督による、縦の構図を駆使してサスペンスの醍醐味を堪能させてくれる「フランティック」" この映画「フランティック」は、ロマン・ポランスキー監督がアメリカで事件を起こし、ヨーロッパへと移った後に撮った、ワクワクする面白さ、楽しさに満ちた会心のサスペンス映画です。 主人公のウォーカー医師(ハリソン・フォード)は、学会出席のため、妻と20年ぶりにパリへやって来ます。だが、彼がシャワーを浴びている間に、突然、妻の姿がホテルから消えてしまいます。サスペンスの名手でもあるポランスキー監督による快調な滑り出しで、我々観る者をいきなり、このポランスキーの映像魔術の世界へと誘ってくれます。 どうやら、空港で間違えたスーツケースに何か関係があるようだ?----。警察に妻の失踪依頼をするものの、言葉の通じない異国の地、頼みとすべき警察は思うように捜査をしてくれず、当てになりません。 そこで、自ら妻探しに乗り出したウォーカーは、妻を探してパリ中を走り回ります。このハリソン・フォードの妻を探して一途に突っ走るその姿に、思わず応援したくなる程の緊迫した緊張感のある演技を披露してくれます。この映画の3年前に出演した「刑事ジョン・ブック/目撃者」で演技開眼したハリソン・フォードは,実に感情表現のうまい役者になったものだと驚かされます。 見えざる恐怖が、異国の地の旅行者に不気味に降りかかるという設定が、見事に心を突き刺す仕掛けとなっていて唸らされます。そして、新星エマニュエル・セイナーの妖しい美しさもこの映画の大きな魅力のひとつとなっています。 そして、何と言ってもポランスキー監督の演出はさすがだと思わせてくれます。まず画面に深みがあるのです。例えば、手前にシャワーを浴びている夫。ガラスの向こう側で何か言っている妻。しかし、それは夫には全く聞こえません。すると、その妻がスッと左に消えます。 この夫、ガラス、妻、見事に焦点が合っていて、"縦の芝居"が鮮烈なサスペンス効果を生んでいるのです。 それから、屋根の先端へ落ちた物を何とか取ろうと、手を差し伸べる謎の女、そして、その女を助けようとするハリソン・フォード----。ここでも、"縦の構図"がぴたりと決まるのでスリルが倍増して、ワクワク、ハラハラの興奮と緊張感が味わえるのです。ポランスキー監督の計算され尽くした演出の腕が冴え渡ります。 そして、このような部分部分の効果だけではなく、この映画では"縦の構図"の奥にパリの街が常に"存在"して、ドラマを語っているのです。 とにかく、このように、なまじっかな論理を捨て去って、"映像の魅惑"で我々観る者をたっぷりと楽しませてくれる、ロマン・ポランスキー監督による極上のサスペンス・ミステリーの傑作だと思います。
M★A★S★H マッシュ
アリスのレストラン
この映画「アリスのレストラン」は、アメリカのフォーク・シンガーの元祖であるウディ・ガスリーの息子で、現代の吟遊詩人と言われたアーロ・ガスリーが、実名で登場し、自身の同名のヒット曲とともに、自らの青春とその彷徨を演じていくという、ホロ苦いヒューマン・ドラマであり、ニューシネマの傑作だと思う。 ヴェトナム反戦で揺れる1960年代後半のラブ&ピースなヒッピー・カルチャーを、「俺たちに明日はない」のアーサー・ペン監督が描いた作品。 ヒッピーのアーロは、大学をドロップアウトすると、レストランを経営する友人アリスを訪ね、仲間とともに廃屋の教会に住み、おんぼろギターを抱えた日々を過ごしていた。 だがある日、彼のもとに徴兵検査の通知が届き、彼はなんとか逃れようとするのだった。 しかし、そんな楽しい日々も長くは続かず、麻薬中毒の仲間が、バイクを暴走させて死ぬという不幸な事件が起こり、アーロとその仲間たちは、最後のパーティを思い出に面々散っていくのだった---------。
キル・ビル Vol.1
クエンティン・タランティーノ監督が敬愛、偏愛する香港のカンフー映画や日本のチャンバラ映画、任侠映画に限りなきオマージュを捧げた映画が「キル・ビル Vo.1」だ。 この映画「キル・ビル Vo.1」は、公開当時、6年間の長い沈黙を破りタランティーノが帰って来たと話題になった作品で、乱れ飛ぶ多くの前情報から、とんでもなくハチャメチャな映画を予想していたところ、その想像の遥か上を行く、タランティーノ・ワールドが全開で炸裂し、狂喜乱舞した思い出があります。 もう、とにかく腕が飛ぶわ、脚が飛ぶわ、首が飛ぶわの凄まじいゲテモノ・バイオレンスのオンパレード。 映画の冒頭、第一の復讐シーンで見せる乾いたユーモアとクールなバイオレンス演出で、いつもと変わらぬタランティーノのセンスの良さを感じてしまいます。 包丁を背後に隠し持ったまま、娘に「学校はどうだった?」と尋ねるシーンなど、いかにもタランティーノらしく嬉しくなってきます。 その後の展開も、例によって、倒錯した時系列の処理が巧妙であったり、さすがと思わせてくれる演出で溢れていて、我々タランティーノ・ファンを楽しませてくれます。 しかし、何といっても目が画面にくぎ付けになるのは、タランティーノが敬愛、偏愛する香港のカンフー映画や日本のチャンバラ映画、任侠映画、それもB級映画に限りなきオマージュを捧げたという、破天荒なタランティーノ的世界感です。 「自分にはアジアの文化がよくわかるんだ」と公言して憚らないタランティーノですが、よく言うよと内心思いながら、この言葉、半分位は正しいのかなと思ってしまいます。 というのは、日本の大衆文化でよく見受けられた、劇的すぎるヒーロー像やドラマ展開、荒唐無稽な殺陣などを我々日本人の目には、"カッコいい!"と感じさせる一方で、どこか滑稽に映っていたように思います。 この"滑稽"という感覚を、タランティーノはよく理解しているなと思います。 我らが千葉真一演じる沖縄で寿司屋を営む刀作りの名人、服部半蔵という日本人像や、日本刀用のホルダーがある飛行機の座席、更には、ユマ・サーマンやルーシー・リューが、大立ち回りの最中にぎこちない日本語で啖呵を切ったりするのも、"滑稽"という感覚を突き詰めて行くプロセスの延長戦上にあるものだと思います。 ただ、さすがに、日本映画に漂う独特の風情、情緒、粋な感覚に対しては、一応、枠にこそはめ込んでいたものの、少々紋切り型であったような印象を受けます。 しかし、そこはタランティーノ、このような感情に関わる部分を、何とマカロニ・ウエスタン的な感覚とノリで処理してみせたのです。 この演出テクニックには、正直、唸らされ、タランティーノが映画の天才と呼ばれる所以なのだと心の底から思います。 これだけ、ある意味、ごった煮モードの世界観を剛腕でねじ伏せ、展開してみせたタランティーノ、誠に恐るべしです。 この映画は、かなり唯我独尊的なオタク映画で、"滑稽"さの追求といい、綱渡り的な面白さの映画になっているため、この手の映画がダメな人には究極の駄作に見えてしまうというのも、わからないでもありません。 しかし、タランティーノは何もリアルな日本を描こうとした訳ではなく、彼が愛した日本映画の記憶を、オーバーに愛情をこめて甦らせただけなのです。 そして、この映画はタランティーノ以外の誰にも作れない、というより許されない映画だろうと強く感じます。 そう感じさせてくれたのが大変嬉しく、タランティーノ映画はこうでなくちゃいけません。
インサイダー
この映画「インサイダー」は、自分を信じ自分を貫こうとする男の美学をクールに熱く語る、マイケル・マン監督の社会派ドラマの傑作だと思います。 「ヒート」、「コラテラル」のマイケル・マン監督が放つ、男同士の死闘をクールに描いた骨太の社会派ドラマですね。 静けさの中にもほとばしる熱気、マイケル・マン監督の抑制された演出が、男達の生きざまを輝かせます。 自分を信じ、自分を貫こうとする男の美学が、我々観る者の心を激しく揺さぶります。 アメリカのCBSの人気報道番組「60ミニッツ」の舞台裏で実際に起きた事件を描いた、実録社会派ドラマで、「60ミニッツ」の敏腕プロデューサー、ローウェル・バーグマン(アル・パチーノ)とタバコ会社の不正を内部告発した、ジェフリー・ワイガンド(ラッセル・クロウ)という二人の実在する男達の熱い戦いを実録タッチで描いています。 2時間38分と長い上映時間ですが、マイケル・マン監督の工夫を凝らした演出が、ピリピリするような緊張感を持続させてくれます。 まず、実話に基づいている事もあって、手持ち撮影によるドキュメンタリー・タッチが実に効果を上げていると思います。 更に、クローズ・アップやスローモーションで画面にメリハリをつけ、バーグマンのジャーナリストとしての信念と、ワイガンドの迷える複雑な心情を鮮やかに映し出していると思います。 このワイガンドが内部告発をする段になって、様々な圧力がかかり、身の危険や家族崩壊の危機にさらされる事になります。 凄まじいまでの葛藤と戦い、ワイガンドは強固な正義心を貫こうとします。 現実問題として、このような過酷な試練にさらされた時、人間は理想というものを貫き通せるものであろうか? 人間は本来は、もっともっと弱いはずだし、このワイガンドの勇気を我々は現実のものとして、受け止められるであろうか?----と、自問自答せざるを得ません。 様々な脅迫に耐えられず、夫から離れていったワイガンドの妻は、現実的な人間らしさを象徴するキャラクターでもあります。 ただ、残念ながら、この女性は丁寧に描かれていたとは言い難く、このドラマの枠外へと追いやられてしまっています。 こう考えてくると、結局のところ、ワイガンドの正義心を前へと突き動かしているのは、"男と男の信頼関係"だったのだと思います。 バーグマンの信念、それは、自分の情報源になってくれる人間を守ってやる事。 これがジャーナリストの鉄則だと信じているのです。 CBSがタバコ会社の圧力に負けて放送が中止になれば、新聞社へ情報を流し、あらゆる手段を使ってでも、この内部告発を世間に伝えようとするのです。 ワイガンドの勇気に報いるために、バーグマンもまた、組織の中での自分の立場を顧みる事などしないのです。 この二人の男の稀有な勇気と信頼が、長く険しい道のりの果て、真実の公開へとたどり着かせるのです。 我々が日頃、享受している「言論の自由」や「報道の自由」は、これら多くの犠牲や努力の上に成り立っているのだと、あらためて痛感させられます。 バーグマンとワイガンドが命を懸けて示してくれた大きな理想。 これは、紛れもなく、れっきとした事実なのです。
アメリカン・グラフィティ
時代は1962年、アメリカが最も輝いて美しかった頃のカリフォルニアの小さな町の一夜の若者たちの姿を、41のヒット曲にのせて描いた映画が、ジョージ・ルーカス監督の 「アメリカン・グラフィティ」ですね。 ジョージ・ルーカス監督が29歳の時に撮ったこの映画は、カリフォルニア州モデストで育ち、車と映画が大好きだったというルーカス自身の失われた10代の青春時代へのノスタルジーであり賛歌なのだと思います。 カリフォルニア山間部の小さな町を舞台に、夕陽の沈む頃から朝日の昇るまでの、ある一夜の出来事をこの映画は描いています。 この日は夏の終わりであると同時に、明日、東部の大学に出発しようとしているカート(リチャード・ドレイファス)とスチーブ(ロン・ハワード)にとっては、"故郷で過ごす最後の日"という特別な意味を持っていたのです。 時代は1962年。若き大統領ジョン・F・ケネディのもとで、アメリカが最も輝いて美しかった頃です。 ヴェトナム戦争はまだ泥沼化しておらず、少年たちは長髪ではなくポマードをたっぷり使った"グリース"で、女の子たちは"ポニー・テイル"の時代。 まだ、フリーセックスもドラッグもない時代。 彼らの若さは車と、そしてアメリカン・ポップスの音楽で表現していた時代。 この時代、彼らの世界はあくまでシンプルで、音楽はあくまでもスイートなのです。 映画のリズムは、当時の伝説的なディスクジョッキー、ウルフマン・ジャックのラジオ番組とそこで使われるヒット曲で描かれていきます。 「イージー・ライダー」と並んで既成の音楽の使い方としては、やはり斬新なものがあり、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」からビーチボーイズの「オール・サマー・ロング」まで、当時のヒット曲が実に41曲も使われているのです。 旅立つ朝、故郷の町を飛行機で去って行くカートの姿にかぶさってスパニエルズの「グッド・ナイス・スイートハート」が流れるところでは、胸にこみ上げてくるものがあり、思わず目頭が熱くなってきます。 カートが追い続け、遂に手に入らない、"白いサンダーバード"は失われつつある青春の象徴なのかも知れません。 ドラマが終わって、最後に4人の主人公のその後を言葉とスチールで示すエンディングの演出もまた素晴らしい。 あのひょうきん者のテリー(チャーリー・マーティン・スミス)が、「ヴェトナム戦争に従軍し、行方不明」と語られる時、我々観る者はこのドラマの背後に、"語られない、もうひとつの大きなドラマ"を予感するのです。 製作がフランシス・フォード・コッポラ。無名時代のハリソン・フォードが出演していたのも嬉しいし、おませな13歳を演じたマッケンジー・フィリップスが非常に印象に残りました。
光る眼
映画:ゼイリブ、よりも、哲学的思想が、感じられるSF映画。 旧作品(オリジナルモノクローム映画)、と、違って、新宇宙系の子供たちは、女の子たちの人数が多くて、考えさせますが、高度究まる、特撮で、あっという間に終わってしまう、教育的SF映画の秀作。 そして、旧約聖書的を外していない演出のカソリック映画です。
ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還
「ロード・オブ・ザ・リング」も、この第三部で遂に完結の時を迎えましたね。 フロドは滅びの山に指輪を捨てることが出来るのか? アラゴルンらは冥王サウロンの軍勢からゴンドール王国を守ることが出来るのか? という、この「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」は、ファンタジー映画の最高峰だと言えると思います。 このシリーズで私が最も好きな「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」について、その思いを下記に書いてみたいと思います。 全てのドラマは結末に向かって、疾走していく。 七層建築の白亜の城塞都市ミナス・ティリス、巨獣オリファントの群れと二十万余の兵が、ペレンノールの野で激突する"中つ国"最大の戦闘など、最初から最後までがまさにクライマックスという、壮大な巨編のフィナーレに立ち会えた興奮と感動は、一生忘れることがないほどのインパクトを、私に与えてくれました。 この映画を観終わった時に覚えた、本当に長い旅を終えたかのような疲労感と安堵感、そして、もう旅に出ることはないという寂寥感は、何とも言葉に出来ないものがありました。 あらためて、このシリーズを観続けた私も、彼ら、旅の仲間と共に果てしない旅を続け、そして、終えたんだ、という実感がこみ上げてきます。 この映画の作劇面に関して言うと、まずは冒頭に、ゴラムがまだスメアゴル(アンディ・サーキス)であった頃、指輪を手に入れて、身も心も変貌するほどの過程を挿入した点が良かったと思います。 下手なダイジェストを流すよりも、よほどこの苛酷な旅の意義が鮮明になります。 もちろん、第二部同様、この第三部でも主人公たちのグループを三つに分け、各々の空間を巧みに交錯させていくストーリー・テリングこそが、3時間23分もの長さの上映時間を全く感じさせない最大の要因であることは、言うまでもありません。 この三つのグループとは、セオデン王を中心にアラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)とレゴラス(オーランド・ブルーム)、ギムリ(ジョン・リス・デイヴィス)にメリー(ドミニク・モナハン)が加わったローハン国の軍勢、モルドールとの決戦に備えるべく、ゴンドール国へ説得に向かったガンダルフ(イアン・マッケラン)とピピン(ビリー・ボイド)、そして、ゴラムを道先案内人として、敵国モルドールへと潜入したフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)です。 このように離れた場所を舞台にしながら、この作品が一本筋の通ったドラマとしてブレを感じさせないのは、彼らの決死行は全て、フロドという小さなキャラクターが指輪を捨てるという使命を達成するためのものであり、その使命のためには何ら自己犠牲をいとわないという固い結束が、徹底して描き込まれているからだと思います。 この物語は、弱気が強気をくじくことの"カタルシス"と、あらゆる誠心の中で、「自己犠牲」の精神こそが、最も感動的であることをよく知っていて、とことんそこにこだわってみせるのです。 そして、この第三部を牽引するのは、極めてシンプルなエモーションなのだと思います。 サムが自分を見失いかけたフロドを励ますために、故郷のホビット庄を語り、遂にはフロドを背負って歩き出す場面は、"永遠の名場面"として長く語り継がれることになると思います。 ビジュアル面について言えば、戦争シーンが前作にも増して素晴らしく、様々なアイディアに溢れています。 クリーチャーの怪物たちのリアルな動きからは、一時も目が離せず、自然と身を乗り出してしまいます。 この映画の視覚スペクタクルの偉大な点は、登場人物たちがとてつもない危機に立たされているという状況を、ロングショット一発で知らしめるところだと思います。 モンドールの黒門の前で、四面楚歌に追いやられた様を、俯瞰で捉えたショットが、その典型です。 そして、私が最も感動したのは、王の戴冠式で、小さき者、ホビットが王から最敬礼をもって迎えられる場面です。 更には、彼らが帰り着いたホビット庄の変らぬ美しさだ。 やはり、この物語はホビットたちの物語だったのだ、と。 彼らこそが真の英雄なのだとあらためて思います。 因みに、「指輪物語」の原作には、フロドたちがホビット庄に帰ると、村はサルマンに支配されていて、フロドたちの活躍で村を荒廃から救うというエピソードがあります。 しかし、個人的には、映画版ではホビット庄に帰ってからのサルマンとの闘いは必要なかったと思います。 長い長い三部作の道程を経て、フロドが指輪を捨て、アラゴルンが王位について、遂に大団円と思った矢先に、まだ何らかのエピソードがあると、普通の感覚の人間ならげんなりすると思うからです。 小説ならば、ちょっとずつ読み進めていったりする手があるが、映画のように長時間観ている分にはそうもいきません。 それだけに、ピーター・ジャクソン監督の大英断には心から拍手を送りたいと思います。 映画を観終えて、あらためて思うことは、ホビットたちこそが真の英雄であると思うのですが、しかし、この映画は単純な英雄譚ではないとも思います。 このドラマは、勝利の果てにある"喪失"を描いていて、どこか"深遠な哀しみ"をたたえていると思います。 指輪戦争の終結と共に、世界から魔法は消え去りますが、同時に"中つ国"の一つの時代は終わりを告げるのです。 フロドたちの顔には会心の笑顔などなく、戸惑いの表情が浮かんでいる--------。 何一つ変わっていないはずのホビット庄の景色も、彼らにはどこか違って映っているような気がします。 それはつまり、彼らが大きなものを得た代わりに、大きなものを背負ったことを物語っているのだと思います。 そして、それは少年が大人に成長していく時の感覚に似ているのかも知れません。 だからこそ、ドラマの悲劇性とは裏腹に不思議と暗さはないのだ。 一人前の男になるための通過儀礼を経たフロドたちに、どこか共感を覚えるためなのかも知れません。 こうして訪れる新たな旅立ち。灰色港の別れの場面でフロドが浮かべる万感の笑顔を見て、やっと私も幸福な涙を流すことが出来たのです。 1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を越えるSF映画が、それから55年たった現在でも現われていないように、この「ロード・オブ・ザ・リング」三部作も、ファンタジー映画の金字塔として、恐らく今後、数十年は君臨するのではないかと思います。 全くタイプの異なる「2001年宇宙の旅」と「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズですが、共通する部分があるとすれば、スタンリー・キューブリックとピーター・ジャクソンという二人の監督が、映像、音楽、とりわけ美術に対して、微塵の妥協も許さぬ"完璧主義"を貫いた点、原作が普遍的な輝きを放っている点ではないかと思います。 この二点が、映画が時代を超越するための必要十分条件なのかも知れません。 あらためて、映画というものが、"総合芸術"であるということを、この映画を観て、強く実感しましたね。 そもそも、考えてみれば、J・J・R・トールキンの壮大な長編を、15カ月かけて一気に撮影し、1年おきにリリースしていくなんて、こんなクレイジーな企画がよくも実現したものだと感心してしまいます。 しかも、3億ドルの総製作費を任せるのは、ニュージーランドの辺境にいた一介のホラー映画監督なのだ。 紛れもなく、伝説の序章は、製作スタジオのニューライン・シネマの勇気ある決断にあったと思います。 そして、この映画は第76回アカデミー賞にて、作品賞、監督賞を含むノミネート11部門の全てでオスカーを獲得するという、映画史に燦然と輝く快挙を成し遂げました。 そして、ピーター・ジャクソン監督は真の王者になったのだと思います。
ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔
J・R・R・トールキンによる冒険ファンタジーの古典「指輪物語」を完全映画化した全三部作の第二部の「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」は、三つに分かれた旅の仲間たちを待ち受ける、新たな出会いと壮絶な戦いを描いた心躍る作品ですね。 それにしても、この映画で幾つもの場面で見られた、黒澤明監督へのオマージュ、あらためて海外の多くの有能な映画監督へ与えた影響の大きさには驚かされますね。 「第一部は序章でしかなかった」という宣伝用のキャッチフレーズは伊達ではない程、第二部は、第一部と比較しても素晴らしい作品に仕上がっていたと思います。 前作の第一部では、必要であったキャラクターや物語の背景に対する説明的な部分が、この第二部では必要がなくなり、上映時間の3時間をたっぷりとドラマに注ぎ込めていたように感じました。 しかも、その3時間の大部分が、戦闘につぐ戦闘になっているから、物凄い迫力になっていて、まさしく、第二部にして、やっと真の戦いの火蓋が切って落とされましたね。 第二部では、三つのグループに分かれて旅を続ける様子が、三つの物語として構成されていますが、これによって、映画的なシナリオの広がりだけでなく、"中つ国"という魅惑的な空間が圧倒的に、その広がりを増して、我々観る者をその隅々にまで誘ってくれました。 これで、第一部で少し感じられた平板な印象が、完全に払拭されたと思います。 そして、これら三つの物語には、それぞれに深みがあります。 指輪を持ったフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)のチームには、ゴラムという新しいキャラクターが加わります。 指輪に心を蝕まれ、醜悪な姿へと成り果てたゴラムを見て、フロドにもある変化が生じていくのです。 想像を遥かにしのぐ指輪の邪悪な力。 フロドの心には、いつか自分もああなってしまうのかもしれないという恐怖心が芽生え、そうした気持ちから、ゴラムに対しても同情を示すようになります。 一方、フロドへの忠誠心が全てであるサムは、ゴラムを一切信用しようとしません。 こうして、この三人に"微妙な緊張関係"が生まれてくるのです。 これだけ大掛かりなスペクタクル映画にあって、このような"繊細な心理状態"まで描き出すとは、やはり、ピーター・ジャクソン監督はただ者ではありません。 メリー(ドミニク・モナハン)とピピン(ビリー・ボイド)のチームは、樹木の牧者エントを促し、サルマン(クリストファ・リー)の要塞オルサンクの塔を攻撃します。 そもそも、私がこの作品に魅入られた最初の理由は、オルサンクの塔の威容なビジュアル・デザインであり、ここでの攻防を期待していたからです。 それが、この塔に到達するのが、メリーとピピンのコンビだとは想像もしていませんでした。 この作品におけるメリーとピピンの二人の著しい成長は微笑ましくもあり、頼もしくも感じました。 それでも、やっぱり第二部屈指のクライマックスは、ヘルム峡谷の戦いである事は言うまでもありません。 セデオン王(バーナート・ヒル)率いるローハンの人間たちが、アラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)、レゴラス(オーランド・ブルーム)、ギムリ(ジョン・リス・デイヴィス)らと共に、オークの大軍と死闘を繰り広げる、映画史に残り得るほどの迫力あるダイナミックな場面です。 この戦闘における、かつてない"視覚体験"には、もう絶句してしまいました。 倒しても倒しても、屍を乗り越えて、うじゃうじゃと現われるウルク=ハイに、もう私の目は釘付け状態でした。 いかにも、「闇の軍団」といった無機質な風情は、不気味で仕方がありません。 そして、城塞戦における攻め口のディテールにも、物凄いリアリティが感じられ、その迫力を倍増していると思います。 これらの場面は、間違いなく、それまでに観た数々の戦闘シーンでも五本の指に入るほどの、究極の激闘シーンであったと思います。 そして、上映時間にして、1時間は経過したでしょうか、とにかく永遠に続くのではないかと思わせる死闘に終止符を打つのが、ガンダルフ(イアン・マッケラン)が率いて来たエルフ軍の助勢。 光を背負って、天から降ってきたかのような威勢を目にした時は、感動で体全体が打ち震えました。 荒々しさを誇示するヘルム峡谷の戦いに象徴される第二部は、悪の力の強大化を、これでもか、これでもかと言わんばかりに見せつける章であったと思います。 この全編を覆い尽くす激しいトーンは、この果てしない旅の最も苦しい部分を見事に切り取って見せていたと思います。 前へ進む事の高揚感をあおった第一部のエンディングとは一変して、サスペンスと緊張感を残して終えたエンディングも非常に印象深く感じました。 次回の最終章の「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」では必ずや実現するであろう旅の仲間たちとの再会が楽しみになって来ます。 そこには、どんなカタルシスが待ち受けているのであろうかと、思い描いただけでもワクワクして来ます。
ロード・オブ・ザ・リング
この映画の原作は、現代性を内包しながらもファンタジーに満ち溢れた壮大な物語として、これ以降のアドベンチャー作品に多大な影響を及ぼし、世界中の人々を虜にしてきた、J.R.R.トールキンの「指輪物語」で、それまで映像化は不可能とまで言われた、この不朽の名作に、鬼才ピーター・ジャクソン監督が挑んだ冒険大作だと思います。 観終えての第一印象は、これは完全に、"ロール・プレイング・ゲーム"の世界観だなという事でした。 仲間を加えて旅に出る。所々で、武器やアイテムを手に入れる。 関門ごとに現われる強大な化け物。 この化け物を倒し、ステージをクリアすると、経験値が高まり、成長していく勇者達。 これは、まるっきり「ドラゴンクエスト」と同じ世界感ですが、しかし、よく考えてみると、原作の「指輪物語」が書かれたのは、遥か数十年以上前。 とすれば、模倣したのは「ドラゴンクエスト」の方になりますね。 あらためて、この原作の先見性の素晴らしさに感服します。 いづれにしろ、この映画の圧倒的なスケール感は、原作を最初に読んだ後、映画を観たわけですが、読みながら思い描いていた世界と少々違っていましたが、それでも有無をも言わせずに、強引にねじ伏せてしまうだけのパワーに満ち溢れていたなと感じました。 恐らく、現代の進歩した映画テクノロジーで出来る事のMAXを使い切っているのではないかと思われる程で、とりわけ、遥か昔の中つ国へと我々観る者を誘なう、ビジュアル・デザインの圧倒的な素晴らしさといったら、他に比較するものがないくらいの見事さです。 そして、ロングショットの造形美たるや、例え、何時間観続けても見飽きる事がないくらいの素晴らしさに満ち溢れています。 厳しい大自然の光景はもちろんの事、最初に登場する"ホビット庄"の緑の美しさや、エルフが生息する"裂け谷"の枯れた風景には、本当に目を奪われてしまいました。 これらの数々のシーンは、メルヘン的なムードをそそり、凄絶な旅の物語にあって、緩急をつける効果があったのではないかと思います。 程よいところでドラマの進行の手を休め、複雑な物語の背景を手短かに振り返ってくれるのも、ピーター・ジャクソン監督の丁寧な映画作劇法で、有難かったと思います。 それにしても、「旅」という言葉が持つ不思議な力に、ここまで魅了されたのは、本当に久しぶりの映画体験でした。 何か妙に懐かしい感じがして、心地良く童心に戻る事が出来たように思います。
スナッチ
のガイ・リッチー監督の映画「スナッチ」は、スタイリッシュで遊び心満載の映像で、我々の脳を刺激してやまない、ガイ・リッチー監督のごきげんな群像劇だ。 この映画は、デビュー作「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」が記録的なヒットとなり、一夜にして世界にその名を知らしめた俊英ガイ・リッチー監督の第二作目の作品です。 デビュー作はインディペンデント作品でしたが、すかさずハリウッド映画界が注目し、この映画でメジャーに躍進しましたが、この「スナッチ」は、前作のほぼ焼き直しと思える内容で、基本的なプロットもほぼ同じ内容になっていると思います。 話の軸となるのは、非合法ボクシングと大粒のダイヤの盗難事件。 前作では、これが麻薬資金の横領事件と骨董品の銃となっていて、ガイ・リッチー監督自身、前作に入れられなかったネタを使っていると語っているように、前作の勢いのお裾分けに預かったというような印象もあります。 例によって、魅力的な悪党どもが入り乱れ、予測不可能なストーリーは目まぐるしいスピードで疾走します。 めくるめく頭脳パズルも、ラストではすっきりと軟着陸を見せて、爽快なカタルシスを味わえます。 とにかく驚くべきことに、これだけの大人数を交錯させ、話の枝葉を広げておきながら、上映時間はたったの1時間42分。 ただし、惜しむらくは、ストーリーにある二つの流れの接点が弱く、群像劇としてのさばき方は前作に劣るような気がします。 しかしながら、ガイ・リッチー監督のお家芸でもある"遊び心たっぷりの映像表現"は、洗練の度合いを増していて、のっけから、トメ絵を使った人物紹介が非常にカッコいいものになっていると思います。 要所で効果的にストップモーションやスローモーションを駆使する"超絶のテクニック"は本当に凄く、"毒気に満ちたイメージ・ショットの挿入"も面白く、とにかく観ていて、映画好きの心をワクワクさせる魅力に溢れていて、さすが映像の魔術師ガイ・リッチーの面目躍如たるものがあります。 そして、華麗な映像と相性がバッチリの音楽がまた小気味良くて、キャラクターごとに使い分けるこの音楽は軽快で雰囲気満点で、キャラクターの魅力が一層引き出され、ちゃっかり、マドンナの「ラッキー・スター」まで使っていて、心憎いばかりです。 このようなセンスは先天的な才能としか言いようがないくらいに最高です。 さらに我々映画好きを喜ばせてくれるのは、前作同様に、キャラクターたちの不敵な面構え。 根っからの悪党で、やっていることは大真面目なのに、いつも失態ばかりで、どこかマヌケ。 まず、愛称の響きからして楽しく、賭け事に目がない宝石泥棒、ヤバイ賭けに負けて指を詰めたことから、"フォー・フィンガー"の異名がついたフランキー・フォー・フィンガーズ。 KGBくずれの危険な男、別名"弾丸かわし"のボリス・ザ・ブレイド。 六発の弾丸を浴びながら、敵を倒した伝説を持つ不死身の男ブレット・トゥース・トニーetc.--------。 何とも胡散臭い連中で、彼らの複雑な相関関係にも消化不良を起こさないのは、彼らの魅力あってのこそで、一人一人にまつわる傑作なエピソードと絶妙な会話に、クスクス笑いが止まらない程です。
フラッシュダンス
この映画「フラッシュダンス」は、ダンスの中に青春のきらめく歓びと哀しみを綴った、青春映画の傑作だと思います。 「フラッシュダンス」という題名からは想像しにくいけれども、この映画は胸の奥にぐんと響き、心の中を一陣の爽やかな風が吹き抜けたような、そんな感じを抱かせる青春映画の傑作ですね。 舞台は鉄工業の街ピッツバーグ。昼は製鉄所の溶接工をしながら、夜は荒くれた男たちの集まるクラブで踊るヒロイン(ジェニファー・ビールス)。 彼女はいつの日かプロのダンサーになる日を夢見て生きています。 「フラッシュダンス」というのは、強烈なフラッシュ照明の中でポップのリズムにのる彼女のダンスの事であり、彼女の青春にきらめく歓びと哀しみであり、彼女を取り巻く人々が綴る人生そのものの事なのです。 ハンバーガーを焼きながら、コメディアンになる事を夢見てロサンゼルスに出て行く青年。 フィギュア・スケーターになろうと大会に出場しながら、緊張のあまり失敗し、やがてトップレス・バーへと落ち込んで行く女友達--------。 ヒロインにダンスの魅力を教えた恩師は、かつてはジーグフリード・ショーの花形だったのですが、遠い日の記憶を心に秘めながら、突然、孤独な死を迎えてしまいます。 彼女の夢は、未来へ向けたものではなく、過去の想い出をたどるもの。 このかつてのスターにとっては、人生そのものが"フラッシュ照明"のようなものなのです。 この映画が「フラッシュダンス」という題名のもとに描こうとしているのは、光と影がまさに競い合って流れて行く人生そのものなのだと思います。 一人一人の若者が、それぞれの夢に向かって生き続ける中、瞬時の孤独に耐えかねて道を踏み外して行く人生の哀しさ--------。 ヒロインが住んでいるガランとした工場跡のような建物は、その"青春の象徴"のようにすら思えてきます。 しかし、フラッシュのような人生であればこそ、青春の時、いや人生のどんな状況にあっても、この"燃焼の白熱光"が美しくまぶたにしみる筈なのです。 映画の中で、ある人が言います。「夢を捨てるのは死ぬ事----」。 夢とは、"人生の大きな輝き"であり、"明るい希望"なのだと思います。 撮影当時、エール大学の一年生だったジェニファー・ビールスをヒロインに据えて、目の覚めるような新鮮な女性像を創ったエイドリアン・ライン監督は、自分自身の映像作家としての夢をも、この映画に賭けているのだと思います。 そして、永遠に歌い続けられる名曲となった、この映画のテーマ曲も映画の感動と共に、私の脳裏にいつまでも焼き付いて離れません。
ブラックブック
この映画「ブラックブック」は、ポール・バーホーベン監督が、彼の故国オランダで撮った、戦争と人間ドラマの傑作だ。 全篇を貫くバーホーベン節が物語に絶妙の深みを与え、戦争の真実を描き、面白いの一言に尽きる映画だ。 この世には絶対的な善も絶対的な悪も存在しないし、人間は暴力的で猥雑で、しかも気高いという矛盾した存在なのだというバーホーベン節が炸裂していて、ドイツ人、オランダ人の区別なく、その見つめる視線は冷徹かつ真摯でさえある。 特に、諸行無常な終戦後の状況は、ドイツと同じく敗戦国の日本人として他人事ではない。 この物語の舞台は、1944年、ちょうど「遠すぎた橋」の頃のオランダ北部で、カリス・ファン・ハウテンが、オートミールに十字架を描いて掻き壊してみせるという、勝気なユダヤ人のヒロインを好演していると思う。 連合軍の勢力圏内へ脱出しようとしたところをナチス親衛隊の待ち伏せで、家族を虐殺されたヒロインが、レジスタンスに加わって知る真実とは-----というストーリーなんですね。 けれども、確かな時代考証、時代に翻弄されるがごとく俗人・勇者・悪党が入り乱れて、二転三転するスリリングな展開は、ハラハラ、ドキドキの連続で、映画の醍醐味を堪能できる。 イントロとエンディングに、第二次中東戦争直前の1956年10月のイスラエル人入植地をもってきたのも、隠し味となっていて、おかげで愛人を亡くしたヒロインが「悲しみ苦しみに終わりはないの?」と泣き崩れるシーンでは、目頭が熱くなりましたね。 今に至るまで中東では戦乱が断続的に続いており、つまり彼女は一生涯、緊張と不安に苦しむ人生を送るわけで、そのことを暗示するラストシーンは、実に秀逸だ。 もしかしたら、愛人と小舟に隠れて暮らしていた、終戦直前の10日あまりこそが、ヒロインが女として最も幸せで輝いていた時だったのかも知れません。
暴走機関車
かつて黒澤明監督が、映画化に執念を燃やしていた作品が、この「暴走機関車」ですね。 本格的な日米合作の超大作になるかと期待されていたのだが、様々な事情があって実現に至らなかった。 その黒澤明の脚本を土台にして、新しいスタッフによって作り上げられたのが、このアンドレイ・コンチャロフスキー監督、ジョン・ヴォイト主演のこの映画だ。 アラスカ。極寒の刑務所。脱走犯二人。四重連機関車。脱走列車。 だが、機関士は発作を起こして急死。最先端の機関車には入れない。 もう一人の乗務員。女。 この三人を乗せた暴走列車。時速150キロ。大雪原。ヘリで追う執念の刑務所長。 実にワクワクするほどの面白い映画だ。 映画ならではのダイナミックな興奮で、我々観る者をグイグイと引きずり込んでしまう。 突っ走る列車、何とか最前列の機関車に飛び乗ろうとする脱獄囚、上空から縄梯子で降りようとする追跡者。 カメラ自体を別のヘリコプターに積んで、平行移動してみせる迫力は、とにかく凄い。 監督は、当時のソ連の映画監督アンドレイ・コンチャロフスキー。 撮影は、007シリーズのアラン・ヒューム。 それまで日本の「新幹線大爆破」やアメリカの「大陸横断超特急」等、列車の暴走を描いた映画には、成功した例が多いのだが、映画=活動大写真の名の通り、動くもの、突っ走るものは、対象の素材として、実にぴったりなのだ。 この作品では、更に極寒の極地という背景が、緊迫感をより増していると思う。 ただ、惜しむらくは、観ていて、列車が走り出すまでの描写が重過ぎる。 脱獄囚と刑務所長の確執という図式の説明がつらい。 これがもし黒澤明監督だったなら、こうした説明を超えたドラマが、そこから爆発していたと思う。 主人公の脱獄囚役のジョン・ヴォイトは、確かに凄いメイクで熱演しているが、この役は、かつてのリー・マーヴィンくらいの個性の強い、重量級の役者が演じていたら、もっと凄みが出ていたのではないかと思いますね。
真夜中の招待状
これは、原子力発電所を批判している社会派映画では。 出演者全員、いい演技。 主人公の男が上流階級の婚約者の女に振り回される映画、でもあります。 その、ハイセンスの演出は、野村芳太郎映画ならではですが、本作では、いつものキリスト教演出と違い、カソリック宗教演出に徹しています。 特に、婚約者の女が主人公が勤務する会社の一階ロビーで、主人公の失踪を知るシーンの演出は、素晴らしい。 後半の質屋小屋のシーンも、案外、すぐれています。 映画は、いいな…、と思える作品として、お薦めです。
フリック・ストーリー
主演のアラン・ドロン。個人的には世界一美しい俳優だと思っています。 その翳りを帯びた暗い表情の中に見せる、刹那的な狂気と死の匂い、そして冷酷さとニヒリズム。 彼の素晴らしさは例えようもありません。俳優に陽と陰のタイプがあるとすれば、まさしく彼は陰のタイプ。 そのため、彼はジャン・ピエール・メルヴィル監督と組んだ「サムライ」「仁義」などのフィルム・ノワールの世界でのストイックなムードがよく似合いますし、ジョセフ・ロージー監督と組んだ「パリの灯は遠く」「暗殺者のメロディ」でのクールで死の匂いを漂わせるムードも素晴らしい。 この「フリック・ストーリー」は、彼の盟友とも言うべき、また一部では彼の御用監督とも揶揄されているジャック・ドレー監督が撮った映画ですが、アラン・ドロンという俳優は、本質的に犯罪者、アウトローの役がよく似合うのですが、この作品は彼がフランスでミリオン・セラーとなったロジェ・ボルニッシュという元刑事が書いた自伝的な実録小説に惚れ込み、敏腕プロデューサーでもある彼が、映画化権を買って製作した作品なんですね。 だから、ロジェ・ボルニッシュという人間に惚れ込み、シンパシーを感じたこの刑事役を、どうしてもやりたかったんでしょうね。 確か、この時点で刑事役を演じるのは「リスボン特急」以来ではなかったかと思います。 それほど、彼の刑事役は珍しいんですね。 そのため、本来であれば、彼が演じるべきだった冷酷で凶悪な犯人エミール・ビュイッソン役に、名優のジャン=ルイ・トランティニャンをドロンは指名したんですね。 つまり、悪役が引き立つことで、主役のドロンもその化学反応で相乗効果として、より輝いて見えるという事を知り尽くしているんでしょうね。 とにかく、この映画でのトランティニャンの冷酷無比な、背筋も凍るようなゾッとする犯人像は鮮烈で、法律家志望だったという彼は、政治映画「Z」で製作者の一員に名を連ね、この映画の演技でカンヌ国際映画祭の主演男優賞を受賞している名優で、特に私の心に鮮烈な印象として残っているのは、やはり「男と女」ですね。 ドロンは相手役に「さらば友よ」でチャールズ・ブロンソン、「ボルサリーノ」でジャン・ポール・ベルモンドと競演したりと、自身の美貌をより引き出す術をよく心得ているんですね。 そのような大物俳優と競演する時のドロンは、相手役の俳優に必ず華を持たせて、自分は若干引いた感じの演技をするところが、またドロンの凄いところだと思いますね。 そして、この映画の最大の見どころは、やはりラストのクライマックスのシーンですね。 郊外のレストランを舞台にした逮捕のシーンは、まさにピーンと張りつめた緊張感の中で繰り広げられ、意外やジャック・ドレー監督の抑制した演出が際立っていたと思います。 それにしても、1940年代のパリの街のたたずまい、クラシック調の車、トレンチコートを着た粋な男たち。 フランス映画らしい雰囲気も漂わせ、何かレトロな雰囲気も味わえるんですね。 このあたりは、やはりハリウッド映画とはちょっと違うフランス映画らしいエスプリ、お洒落な感覚もあり、実にいいムードなんですね。
逃走迷路
この映画「逃走迷路」は、アルフレッド・ヒッチコック監督の名人芸が堪能出来る、追われ型の逃亡サスペンスの傑作ですね。 この映画「逃走迷路」は、サスペンス・スリラーの神様アルフレッド・ヒッチコック監督が、第二次世界大戦中の1942年に発表した作品で、無実の男が警察に追われながらも、真犯人を突き止めるという、ヒッチコック監督お得意の"追われ型の逃亡サスペンス"の会心作です。 航空会社で働くバリー・ケイン(ロバート・カミングス)は、ふとした事からナチ破壊工作の殺人事件に巻き込まれ、無実の罪で追われる事に----という意表をつく大胆なストリー展開が、逃走劇の面白さに拍車をかけていきます。 とにかく、手に汗にぎる、まさにスリルとサスペンスのつるべ打ち。 アメリカ西海岸の軍需工場で、謎の火災と殺人事件が発生し、無実の罪で追われるケインは、警察と外国のスパイの手を逃れながら、大西部からニューヨークへと真犯人を探して行きます。 真っ白い壁にもくもくと黒煙が上る、冒頭のショッキングな発端。 赤ん坊とプールを使ったトリック・ショット。 そして、キラキラと映画を映しているスクリーンの前、銃をぶっ放している犯罪者の影がダブるという、華麗で斬新な映像テクニック。 やがて、スパイの本拠の大邸宅でのパーティの最中に連れ込まれた、主人公のケインと恋人は、踊りながら脱出しようとしますが--------。 とにかく、映画の一場面、一場面が、凝りに凝ったヒッチコックタッチのオンパレードで、映画の楽しさ、面白さを、ヒッチコック監督の名人芸で十二分に堪能させてくれます。 そして、映画のラストシーンは、映画史上あまりにも有名な、自由の女神像の手にぶら下がってのハラハラ、ドキドキのアクション--------。 現在では観光客は、女神像の冠のところまでしか登れませんが、この映画の製作当時は、右手に掲げているたいまつのところまで登れたそうですが、追うケインと追われる犯人は、そのたいまつの外側に出ます。 犯人が落ちそうになり、危うく女神の指の外側に左手でぶら下がり、ケインが犯人を救おうとして手を差し伸べ、ようやく袖をつかむが、袖は腕の付け根にある縫い目のところから破れ、遂に犯人は海に向かって墜落して行きます。 このシーンの海へ落ちて行く男の姿をカメラを固定させたまま、真上から撮る見事なショット--------。 ヒッチコック監督は、高所からの転落の演出にもさまざまなバリエーションをもたせていて、見事の一言に尽きます。 このシーンでの音楽も無く、音さえも無い、この数分間はまさしく胸が痛くなる程のスリルと緊張感に満ち溢れています。 いったいどうやって撮影したのかと思われる、じっくり観てもよくわからない凄いカットです。 ヒッチコック映画でのお約束とも言える、ワンカットだけ自身の姿を見せる場面もご愛敬の、まさにヒッチコック監督こそは、本当の映画の魔術師なのだと思います。
↓↓みんなが読んでいる人気記事↓↓
→【2024年】動画配信サービスおすすめランキングに注意!人気を無料や利用者数、売上で比較!徹底版
→【すぐわかる】動画配信サービスおすすめランキング【忙しいあなたへ】人気を無料や利用者数、売上で比較!簡易版
→映画のレビューを書くと、あなたの好みの映画が見つかります!
✅映画解説 ✅口コミ ✅映画の豆知識・トリビア ✅ネタバレありなし考察 ✅どの配信サービスで見られるか 映画に関するあれこれが、この1サイトでぜーんぶ出来ます。