サブスタンス
グロい映画初挑戦でした。 60歳前後になると、女優さんは男優さんに比べて仕事がなくなる。 なのでデミ・ムーア自身がこの映画をプロデュースし、監督・脚本も女性。 女性ばかり若さを求められる状況に一石を投じる映画。だと思ったので、グロい描写があると聞きつつも、どのように60代女性の活躍の姿を見せてくれるんだろうと期待してしまっていました。 結果、想像よりずっとグロいシーンが多く、ほぼすべてがグロく、 グロに恐怖しか感じられず面白さを感じられない、私みたいなタイプには全くおすすめできません。 冒頭の演出、カメラワーク、デザインなど素晴らしい部分も多かったのですが、全てをグロで台無しにした感じがします。
タワーリング・インフェルノ
このレビューにはネタバレが含まれています
タッカー
ことの終わり
この「ことの終わり」は、天上的な愛を体現するジュリアン・ムーアの見事な演技を堪能する映画だと思います。 映画「ことの終わり」の原作は、イギリスのカトリック作家でスパイ小説の名手のグレアム・グリーンです。 彼は映画史上に残る不朽の名作「第三の男」の脚本を手掛け、「ヒューマン・ファクター」などのスパイ小説でも有名な、もとイギリスのMI6のスパイ出身の作家なんですね。 この映画の原作は「情事の終わり」で、原題が"The End of The Affair"で、英語のAffairとは、"浮気"という隠れた意味もあるという、そのような映画ですね。 また、この映画は原作者のグレアム・グリーンのほぼ自伝的な要素の強い、実際にあった体験を基にした小説の映画化で、監督は「クライング・ゲーム」や「マイケル・コリンズ」で、いつもアイルランド紛争の問題を先鋭的に描いて来たニール・ジョーダン。 主人公の作家ベンドリックスに「シンドラーのリスト」の名優レイフ・ファインズ、主人公の友人のサラに「アリスのままで」の名女優ジュリアン・ムーア、主人公の友人の高級官僚のヘンリーにニール・ジョーダン映画の常連で彼の盟友でもある「クライング・ゲーム」のスティーヴン・レイという、考えただけでワクワクするようなメンバーが集結していて、映画好きとしては、観る前から期待が高まります。 作家のベンドリックスは、高級官僚の友人の妻サラと激しくも狂おしい不倫の恋に落ちますが、情事の最中に空襲を受け、サラは突然、唐突に彼に別れを告げて去って行きます。 それから2年後に、サラの夫ヘンリーと合った時にベンドリックスは、ヘンリーから、サラの様子がどうもおかしく、男ができたらしいと聞かされ、2年前に別れたサラへの未だに捨てきれない嫉妬心に悩み、自分と別れた原因かも知れない、その"第三の男"とも言うべき男の存在に興味を持ち、探偵に彼女の身辺調査を依頼します。 ベンドリックスとサラの過去、サラが密かに会っているであろう"第三の男"----様々な謎が絡み合う序盤のサスペンス・ミステリータッチの語り口は、我々観る者を惹きつけて離さない、ニール・ジョーダン監督の見事な演出です。 フラッシュバックの実に巧みな使用も効果的で、やがて解き明かされる真実には、謎解きの楽しみと共に、切実で真摯な"究極の愛の形"が、ズシリと確かな手応えを伴って、胸の奥底に響いて来ます。 そして、この映画全般の雰囲気をしっとりと濡れたような感覚で静かに、しかし狂おしく奏でるマイケル・ナイマンの音楽もこの映画のムードを盛り上げてくれます。 サラがベンドリックスと別れる契機になったのは、空襲を受け、仮死状態になった彼を蘇らせるために、必死で神へ懇願したサラの"神との信仰上の約束"に基づくものでした。 このサラと信仰との出会いは、カトリック作家グレアム・グリーンによる原作の"核"になるべきものだと思います。 愛というものに生きる人間が、情欲の嵐に溺れてしまうのを踏みとどまらせてしまうのは、人の人智を超えた"何かの支え"が必要なのかも知れません。 最終的にサラをベンドリックスから引き離したものが、"神への信仰"である以上、ベンドリックスは"神"へ嫉妬し、"神"を憎むしかありません。 サラも信仰によって、慰めと苦悩の狭間を彷徨う事になります。 ここに来て、この映画は普通のありきたりの三角関係のドラマだと思えたものが、物語の中心に"神"を介在させる事で、俄然、圧倒的な深みを帯びる事になって来ます。 そして、映画のラストに用意された、奇跡とも言えるエピソードは素晴らしいの一語に尽きます。 サラの崇高な愛は、天へと浄化され、心が癒される思いがします。 つまり、この映画は感性に訴える映画ではなく、知性に訴える映画であるという事がわかって来ます。 嫉妬に悶え苦しむベンドリックスの世俗的な姿というものは、客観的に見て愚かしく、認めたくはありませんが、嫉妬と愛情が表裏一体であるのもまた、ある意味、人生の真実なのかも知れません。 だからこそ、サラの姿が輝いて見えるのであり、"天上的な愛を体現する存在"として、彼女は神々しいほど、美しく光輝く存在たり得たのだと思います。 自意識が強く、嫉妬と苦悩の狭間を揺れ動くベンドリックスを、繊細で深みのある演技を示したレイフ・ファインズはいつものように、私にインパクトを与えてくれましたが、この映画では何と言ってもジュリアン・ムーアの妖艶で芳醇な香りが漂うような美しさに見惚れてしまいました。 匂い立つような官能のラブシーンでも気品と優雅さに満ち溢れていて、"神との信仰上の約束"を守り通せなかったサラに、より人間である事の奥深さを感じさせてくれたのは、ジュリアン・ムーアの女優として、サラという人間の本質を理解し、完全になり切ったその役作りの凄さに圧倒されました。 なお、こ映画は1999年度の英国アカデミー賞にて、最優秀脚色賞をニール・ジョーダンが受賞していますね。
野性の証明
「野性の証明」は、角川春樹事務所の「犬神家の一族」「人間の証明」に続く第三作目の映画で、原作は森村誠一、監督は佐藤純彌で「人間の証明」と同じコンビで、原作は当時150万部の大ベストセラーでした。 原作者の森村誠一は、原作のあとがきで「この作品では現代における野性というものをテーマとしたが、同時に犯人に工夫を凝らした。私としては本格推理小説を書いたつもりである。真犯人は最初の数ページの間に登場する。読者がこれが真犯人と思った者は真犯人ではない。終章で真犯人を明らかにする」として、部分犯人という考え方と関連する別件を並行ではなく、垂直的に構成し、A事件の犯人(?)が、B事件の探偵になるという工夫が凝らされています。 このA事件である岩手県風道部落での13人の大量殺人と、B事件である東北羽代市での地方のボスとの対決では、一丁の斧が野性の凶器になっています。 この原作の小説には、推理をするヒントがないので、発刊時にはアンフェアだと言われたそうですが、冒頭に出て来るキャベツ畑の軟腐病がわずかな手掛かりであり、ラストで主人公の味沢の脳腫瘍から検出された病菌と結びついていますが、味沢の発狂によって彼の野性の核心は隠されたままとなりました。 森村誠一は、原作の終章で自衛隊特殊工作員として「平和な世の中で飼育された殺人、しかもかつ絶対の歯止めをかけられた者の悲劇、それを味沢は身をもって証明したのではあるまいか」と書いていますが、この原作の小説は、本格推理小説としてもかなり無理がありますが、社会派推理小説としても不徹底であり、自衛隊特殊工作隊(こういう部隊が実在するかどうか知りませんが)の扱いが非常に安易すぎる気がします。 "映画は原作をこえられるか"というのが、この映画の当時のキャッチ・フレーズですが、むしろ原作と映画は完全に別物になったような気がします。 この映画は、推理的な謎解きの興味は途中で捨てられ、荒唐無稽でかなり無理のある筋書きだけが残って、最後のアクションが中心になっています。 そのラストを、正気だが狂気の味沢(高倉健)が被害者の子である頼子(薬師丸ひろ子)を背負って突進する自衛隊戦車群相手のスペクタクル・シーンに拡大したため、アメリカ・ロケが妙に浮いた、現実感のないものになってしまったのだと思います。 総製作費12億円のうち戦闘シーンに5億円という、当時の邦画界空前の巨費を投入しながら、その自衛隊を"野性の証明"とどう関係づけようとしているのか、映画では原作以上にその点が判然としません。 佐藤純彌監督は「優秀な軍隊や警察は、決してその飼い主に歯を向けることはない。飼われること、管理されることを拒絶することから野性への出発が始まる」と語っていますが、これだけでは"野生の証明"にはなり得ません。 そして、もう一つのキャッチ・フレーズの"ネバー・ギブ・アップ"も、その目標が今一つ定かではありません。 更に"男はタフでなければ生きられない。優しくなければ生きている資格がない"というキャッチ・フレーズも、この映画に即しているとは言えません。 製作者の角川春樹は「ゴッドファーザー」と「七人の侍」が一番好きな映画であり、それは貧しさからの脱出が暴力の引き金になっており、その最期は悲劇的であるとして、「男の内に潜む、暴力を否定し得ない野性を描きたかった。究極のところ人生は戦いなのだ」とこの映画の製作意図を語っていましたが、動物的な野性を呼び起こす人間的な憤怒の社会的な契機は何なのか、この映画はそれを的確に証明する事が出来なかったのが惜しまれます。
家族の庭
「家族の庭」は、家族とは何かという根源的な問いかけに、老いと孤独を絡ませた、マイク・リー監督の秀作だと思います。 監督が「秘密と嘘」や「ヴェラ・ドレイク」のマイク・リーなら観ないわけにはいかない、いや、何が何でも観るべきだと半ば強迫観念にかられて、劇場に足を運んだ作品が「家族の庭」だ。 案の定、それまでのマイク・リー監督の作品同様、画面の隅々にまで神経が行き届いた演出と、俳優陣の熟練の演技を堪能しました。 久々に映画が終わるのが惜しいと思えるほど、充実した時間を味わえましたね。 特に秀逸なのは、導入部。冒頭で「ヴェラ・ドレイク」の主演女優のイメルダ・スタウントンが、初老の患者役で登場するから、てっきりこの女性が物語を引っ張っていくのかと思いきや、場面は病院内の女性カウンセラーに移り、さらに彼女の同僚の中年女性を映し出す。 短いカットを重ね合わせるように、人間関係を明らかにしていく巧みな語り口。 やがて、この映画の主人公は、カウンセラーと地質学者の初老の夫婦であり、その一家に集う様々な人物の人間模様であることがわかってくる。 普通はあらかじめ出来上がった脚本に沿って、俳優に演技をつけていくものだが、マイク・リー監督は、まず俳優に即興で自由に演じさせてから脚本を書いていくという。 そこでは当然、俳優の裁量に任されるわけだから、自然といずれ劣らぬ演技派の勢揃いとなる。 夫のジム・ブロードベント、妻のルース・シーン、そしてほとんど主役ともいえる、妻の職場の同僚メアリーを演じるレスリー・マンヴィル。 最初の結婚に破れ、不倫の恋に傷つけられた独身の中年女性の悲哀を表現して、実に見事だ。 この映画のテーマは、ズバリ家族だ。 夫婦や親子関係を通して、家族とは何かという根源的な問いを投げかけるのだ。 さらに、撮影当時68歳という、マイク・リー監督の年齢を反映してか、そこに「老いと孤独」も加わり、現代人の「老い」の生き方を問うのだ。 それにしても、テンポの早い会話のやり取りや、そこで交わされるウィットと皮肉を込めたセリフの面白さは、他の追随を許さない。 そこに、イギリスだけでなく日本にも当てはまる、現代の”家族の肖像”を見る思いがします。
テレフォン
この映画「テレフォン」は、監督がドン・シーゲル、脚本がピーター・ハイアムズとスターリング・シリファント、そして主演がチャールズ・ブロンソンと、これだけの面子が揃ったら、そりゃあ、面白くないわけがありません。 とにかく、抜群に面白いサスペンス・ミステリー映画ですね。 ソ連のKGBの職員ダルチムスキー(ドナルド・プレザンス)が、「テレフォン名簿」というトップ・シークレットを盗み出し、アメリカに逃亡を図ります。 名簿には、54人のアメリカ人の氏名と電話番号が記されています。 かつての米ソの東西冷戦の時代に、ソ連政府によって拉致され、洗脳された後、母国アメリカに送り返された54人の市民たち。 「森は美しく、また暗く深い----」で始まる、ロバート・フロストの詩を聞くと、潜在意識下に仕掛けられたスイッチがオンになり、彼らは指定された米軍基地を破壊する"人間兵器"に変貌するのです。 そして、KGBの予想通り、全米各地で謎の爆発事件が連続して発生しますが、それらは、ダルチムスキーが電話を使って"人間兵器"を一人づつ動かし始めたのです。 米ソの東西冷戦の時代は既に終わっており、このままでは事情を知らないアメリカ政府が、モスクワへの核攻撃で報復を開始する可能性もあり得るのです。 この事態を重く見たKGBの首脳の命令で、ボルゾフ少佐(チャールズ・ブロンソン)がアメリカに極秘裏に潜入し、在米の女スパイ、バーバラ(リー・レミック)と合流し、ダルチムスキーを追う事になるのです。 しかし、このバーバラは、CIAとも通じる二重スパイで、ボルゾフ暗殺指令を受けていたのです----------。 この映画でチャールズ・ブロンソンが演じる、アメリカの地理にやたらと精通しているソ連軍人という妙な役柄が抜群に面白く、「レッド・ブル」のアーノルド・シュワルツェネッガーや、「レッド・スコルピオン」のドルフ・ラングレンを軽くしのぐミスマッチさがご愛敬で、嬉しくなってしまいます。 おまけに驚異的な記憶力の持ち主という知的な役柄。 こんなブロンソンは、他ではなかなか見れません。 しかし、相棒のリー・レミックには指一本触れようともせず、やはりここでも、ブロンソンは実の奥さんのジル・アイアランド第一主義かと思わせてくれて、長年のブロンソン・ファンとしては、ニヤリとしてしまいます。 対するドナルド・プレザンスは、セリフがほとんどない役で、フロストの詩を電話口で囁くくらいなのですが、ベスト・パフォーマンスを見せてくれるのです。 遠隔地から電話をかければいいのに、わざわざ標的の家まで赴き、玄関前の公衆電話から指示を送るという間抜けさ。 しかも、サボタージュが成功するかどうかを自分の目で確かめ、自己満足に浸りたいがため、車で延々と"人間兵器"を追いかけ、ソワソワと、そして嬉々として、いつまでも事のなりゆきを見守っているという、この小心者ぶりが実にイカシているのです。 全面核戦争にも繋がる大胆な犯行に及んだのにもかかわらず、動機について、「彼は好戦的で、執着心が強い異常者だから---」としか、言われないあたりも、実にかわいそうな人なのです。 そんな小悪党なので、ブロンソンとの丁々発止の対決とはいかず、クライマックスは驚くほど、あっけないのです。 また、ブロンソンとレミックの絡みもひねりが不足しているという難点はあるのですが、しかし、そこはドン・シーゲル監督、そんな短所を補って余り有る、プログラムB級映画特有の、ふてぶてしさと痛快さをたっぷりと堪能出来る映画に仕上げていて、さすがですね。
テキサスSWAT
この映画「テキサスSWAT」は、1980年代に一世を風靡した”肉体派アクションスター”の内のひとりで、ブルース・リー(李小龍)の「ドラゴンへの道」で最強の敵役として名を馳せたチャック・ノリスが、ブレークするきっかけとなった作品だ。 とにかく、史上最強のミドル級の空手チャンピオンからアクション映画スターへと華麗に変身したチャック・ノリスの魅力の原点に迫る、男気満点の作品なのだ。 武器密売組織と闘う一匹狼のテキサス・レンジャーを描いたアクション映画だが、そのテイストは、まさにマカロニ・ウエスタンだ。 主人公のマッケイド(チャック・ノリス)の小汚さと屈強さを絶妙にブレンドされた風貌は、マカロニ・ヒーローを彷彿とさせるし、フランチェスコ・デ・マージの音楽も、馬泥棒一味を殲滅するウエスタン的なオープニングから、クライマックスを飾る組織のボス(デヴィッド・キャラダイン)との格闘家俳優の面目躍如の対決まで、正調マカロニ節で、大いに盛り上げてくれる。 また、主人公の愛車としてスーパーチャージャーを搭載したダッジが登場し、カー・アクションの要素も加味する無節操なほどのサービスぶりは、この作品がイタリア製ではないのが不思議なくらいだ。
異端者の家
残菊物語
この映画は、歌舞伎の役者たちの、内幕的の人間関係、と、現代社会。次に、女たちの旧態依然のルールを、深く追及した、近代的映画作品。 常時、クレーンキャメラを、顔の表情が、撮影出来ない程の位置にまて、離して、カットを割らずに撮影する移動撮影。 次に、とにかく、いい演技が出来る迄は撮影しない、方法、の二つで、それを、実現しています。 さらに、本当の歌舞伎の公演を撮影したシーンもあって、大変、素晴らしいので、考えさせられます。 ラストの道頓堀川での舟乗り込み、のシーンは、大変な光量の照明設備と照明装置、に依る撮影で、世界一の撮影技術。 これは、映画監督:溝口健二の名前を、不動のものとした、科学(science)的 映画作品、として、不滅です。
社葬
日本の新聞は、インテリが作ってヤクザが売るという、字幕に先導されて始まる、東映の「社葬」は、大人の鑑賞に耐え得る痛快エンタメ活劇だと思います。 この映画を活劇というのは、少しオーバーかも知れませんが、大新聞社のトップの座をめぐる首脳陣たちの仁義なき戦いは、ヤクザ抗争そっちのけの凄まじさで、虚々実々、魑魅魍魎の世界ですね。 斬った張ったのヤクザ映画など、この映画の前では、まるで子供の喧嘩に思えてきます。 この映画を観終えて、ふと思いました。ひょっとしたら、この映画の製作者たちは、日本の新聞は、ヤクザが作ってヤクザが売るとでも言いたかったのではないかと。 確かに現在の新聞は、どの新聞も政府による大本営発表の記事を垂れ流すだけの代物に成り下がっていますからね。 ジャーナリズムの本義を失くしてしまった現在の新聞は、いずれ消滅する運命にあると思いますね。 とにかく松田寛夫の脚本の面白さには、舌を巻きました。 おびただしい登場人物を強烈なキャラクターで色分けしつつ、どの人物にもきちんと伏線を配し、最後にはハメ絵のようにピタッとその場所に納めてしまう。 しかも、すこぶる明快で、その上、笑いもサスペンスも濡れ場もたっぷりあって、もう見ていてワクワクしますね。 現実の政治家たちの派閥争いから、町内会の会長さん選びにまで共通する、生々しい駆け引きは、二転、三転、そしてドンデン返し。 まさに毒も実もある小気味良さ。 出番はわずかですが、緒形拳の妻役の吉田日出子が実にチャーミングで、多彩な俳優陣もみな達者。 この新聞社のモデル探しも気になるところですが、「新聞は内容ではない、販売部数だ!!」と叫ぶ、新聞人の言葉には、新聞人の本音が表現されていて納得しますね。
リオ・ロボ
この「リオ・ロボ」は、「赤い河」を皮切りに、「リオ・ブラボー」「ハタリ!」「エル・ドラド」と、ジョン・ウェインとのコンビで西部劇等の傑作を次々と放った、巨匠ハワード・ホークス監督にとって、盟友ジョン・ウェインと通算5度目のタッグを組んだ遺作になりましたね。 劇場公開時は、興行的にも批評的にも惨敗を喫してしまい、さすがにハリウッド史上屈指の巨匠でも、年齢による衰えは避けられないかと言われたそうです。 しかし、「腐っても鯛」ならぬ「腐ってもホークス」。 確かに、ホークス&ウェイン・コンビ作の最高峰「リオ・ブラボー」とは比べるべくもない凡作かもしれませんが、それでもなお、ハリウッド伝統の"王道的西部劇"の醍醐味を存分に味わえる、良質なエンターテインメント映画に仕上がっていると思います。 「リオ・ブラボー」と「エル・ドラド」に続く三部作の最終章とされるこの作品は、なるほど前二作と同じく、主人公たちが、保安官事務所に立て籠るという設定を用いていますね。 しかし、大きく違うのは、この作品の保安官ヘンドリクスが、悪者側だということでしょう。 そういうわけで、敵の親玉ケッチャムを人質に、保安官事務所を占拠したマクナリーらは、ボスを奪い返さんとする保安官一味を相手に、攻防戦を演じることになります。 やっぱり、毎回同じことを繰り返すわけにもいきませんからね。 その一方で、軽妙なユーモアとハードなアクションを織り交ぜた、ノリの良い群像活劇という路線は、往時ほどの切れや勢いがないとはいえ、前二作をそのまま踏襲していて、色々な意味で、安心して楽しめる作品に仕上がっていると思います。 若い女性陣から"安全なおじさん"扱いされて、ふてくされるジョン・ウェインもとても可愛いですね。(笑) 当時、既に60代だったジョン・ウェインの動きが、やけに鈍くてアクション・シーンがキツイとか、その相棒コルドナ役に起用されたメキシコの若手トップ俳優のホルヘ・リヴェロに、ウェインと渡り合うほどのカリスマ性がないとか、なんだかんだで敵の一味が、ヘナチョコ過ぎるとか、色々と粗を探せばキリのない作品ではあります。 そもそも、女性のセミヌードが出てくるあたりで、当時の若い観客世代を意識しているものの、それでもアメリカン・ニューシネマ全盛の時代に、この作品のような、"王道的西部劇路線"は、古臭く感じられたはずで、恐らく興行的・批評的な不振の原因は、その辺にもあったのでしょう。 脇役陣で光っているのは、飲んだくれのクレイジーなフィリップス老人を嬉々として演じているジャック・イーラム。 「リオ・ブラボー」のウォルター・ブレナンに相当する役柄ですが、西部劇の個性的な悪役俳優として鳴らした、ジャック・イーラムの芸達者ぶりが実に面白い。 敵陣へ侵入した際に、門番を片付けたフィリップス老人の「代わりに天国の門へ送ってやった」というセリフは、けだし名言ですね。(笑) これが初の大役で、「おもいでの夏」で私を虜にしたジェニファー・オニールも、鼻っ柱の強い女性シャスタを好演していると思います。 ジョン・ウェインの盟友ロバート・ミッチャムの息子クリストファー・ミッチャムは、「チザム」や「100万ドルの決斗」でも共演しており、恐らくデュークは、映画界の後見人として後押ししていたのだろうが、残念ながら期待されたほどのスターにはなれませんでしたね。 なお、顔面に傷を負ってセミヌードまで披露するアメリータ役のシェリー・ランシングは、その後、20世紀フォックスの製作部長やパラマウントのCEOを歴任して、ハリウッド史上、最初の女性モーグルになりましたね。 また、ジョン・カーペンター監督作の常連俳優ピーター・ジェイソンが、冒頭で転落死するマクナリーの部下フォーサイス中尉を演じているのも要注目ですね。
ザ・ファイター
この「ザ・ファイター」は、ボストンの北西50キロ、メリマック川沿いに開かれたマサチューセッツ州第4の歴史的な、つまり斜陽の工業都市、ローウェルを舞台に、実在のボクサーであるミッキー・ウォードが、噛ませ犬状態から抜け出して世界チャンピオンになるまでを、家族の絆と葛藤を軸にして描いた作品ですね。 感動?心を打つ?熱くなる? まあ、そういう映画としてみることはできる。 もちろん、ボクシングが好きな人には、かなり実際の試合の再現度が高いなどといった見所も多いとは思うのだが、そんなことよりも、「化け物屋敷の中に一人だけ、普通の兄ちゃんが迷い込んでしまった」映画として、変な楽しみ方をしてしまいました。 普通の兄ちゃんとは、この作品の主演、マーク・ウォルバーグ。 一方の化け物とは、強烈な怪演を互いに競い合うクリスチャン・ベール、メリッサ・レオであり、普段とは違った役柄を熱演するエイミー・アダムスであり、観るに耐えないクズっぷりを演じてみせる主人公の(父親が一緒だったり違ったりする)7姉妹役の女優たちだ。 この「化け物」たちの中から3人がアカデミー賞にノミネートされ、2人が受賞。 それも、いい演技というのじゃなくて、強烈な演技だ。 この作品が怪演づくめになるのもさもありなん、と思う。 なぜなら、主人公を取り巻く人々が、ともかく凄まじいのだ。 『ミリオンダラー・ベイビー』の時も、家族のクズっぷりを容赦なく描く、脚本と演出に仰け反った。 だが、こっちは実話だ。しかも、実在の人物らが役作りやら、なんやらに協力している。 普通、こんな描写をされて、OKを出すだろうか? というレベルで、ありのままといえばそうなのかもしれないが、社会の底辺で生きる、どうしようもない人々の姿が、リアリズムで活写されるんですね。 もちろん、そもそも同じような階層を出自とし、実在のミッキー・ウォードをローカル・ヒーローとして崇めるマーク・ウォールバーグ自らが、プロデュースも手掛けた作品だ。 こうした、社会の底辺で生きる人々に対して向ける視線は、決して冷たいものではない。 冷たくはないのだが、綺麗ごともない。 その描写は、笑っていいものなのやら、頭を抱えていいものやら、唖然呆然といったところだ。 メリッサ・レオ演じる大迫力の母親は、男を取り替えながら、うじゃうじゃ子供を作って、強圧的に家族を支配している。 アイリッシュ系のカトリックだから、余計、貧乏人の子沢山ということなんだろう。 そして、無学な7人姉妹は、いい年をして一体何で生計を立てているのかわからない。 いつも母親の家でグダグダたむろして、エイミー・アダムス扮する主人公の恋人を罵っているのだが、「お前らこそどうなんだ!!」と問い詰めたくなる醜悪さ。 この姉妹が連れ立って、エイミー・アダムスのところに殴り込みをかけるシーンは、全編でも最高の笑いどころ、とも言える。 クリスチャン・ベールが演じているのは、元ボクサーで主人公に手ほどきをした、腹違いの兄貴。 この男、ひがな1日クラック・ハウスに入り浸りのヤク中で、HBOが作ったヤク中ドキュメンタリーの題材になっている。 母親がクラック・ハウスに乗り込んで来ると、あわてて裏の窓から飛び降りて逃げるさまは、いい年して、どこかの悪ガキそのものだ。 金が必要なら作ってきてやる、と、仲間に協力させて詐欺・恐喝に走るようなバカ兄貴は、クリスチャン・ベールの演技によって、面白おかしくなっている部分があるとはいえ、とことん迷惑な人間なのだ。 要は、なんだかんだで、主人公のファイトマネーにぶら下がっている面倒な家族が、「お前を守ってやっている」とか何とか言いながら、一番の足かせとして、主人公の足を引っ張っている構図なのだ。 少しはまともな人間である父親や恋人は、主人公を家族から切り離そうとする。 しかし、家族への情が厚い主人公は、そう単純に割り切ることもできないし、主人公を知り尽くした兄貴のアドバイスやサポートも必要としている。 この作品の、ドラマとしての面白さは、無茶苦茶な家庭環境に置かれた主人公の、家族との絆や愛憎、葛藤の部分にあると思う。 主人公と、それを取り巻く人々の対立や反目が、夢の世界チャンピオン奪取という、ひとつの目標に向かって、休戦から共闘へと変わっていくところが、推進力となって映画を盛り上げていく。 そのドラマ運びの巧さには、格闘技好き如何を問わず、魅せられることは間違いない。 当初の予定通り、ダーレン・アロノフスキーが撮っていたら、どんな映画になっていただろうか、と想像するのも面白い。 この作品で本当に賞賛されるべきは、このプロジェクトに粘り強く取り組み、最終的にはデヴィッド・O・ラッセルを表舞台に連れ戻し、共演者たちに華を持たせ、自分は黙々と体作りと誠実な演技に取り組んだ、マーク・ウォールバーグなのだと思う。
バリー・リンドン
スタンリー・キューブリック監督の「バリー・リンドン」は、もう何度観たかわからないほど、それほど大好きな映画です。 この作品は、成り上がり貴族のバリー・リンドン(ライアン・オニール)の恋と野心、決闘と詐欺の半生を、巨大な歴史のうねりの中に描き上げた異色の大河ロマンで、ウィリアム・メイクピース・サッカレーの同名小説を原作に、18世紀ヨーロッパの片田舎や貴族社会を、風俗の細部に至るまで緻密に再現していて、もう見事としか言いようがありません。 繰り返される戦争や、何も生まない支配階級の巨大な空虚さを、くっきりと浮かび上がらせています。 柔らかな自然光を見事に生かした野外撮影も、高感度フィルムと特殊レンズで蝋燭の光の下での当時の暮らしぶりに迫った室内撮影も、文句なしの一級品だ。 めくるめくような映像。どのワンカットも緻密に計算され、構築され創造された表現美の極致を示していて、まさに息が詰まるほどの素晴らしさだ。 そして、それはまろやかで、悠々として、淡々と語られる叙事詩になっていると思います。 偶然というより運命とでも呼びたい主人公バリー・リンドンの遍歴と冒険、恋、戦争、貴族社会。 一人の男が18世紀という時代の真っ只中で生きた軌跡。 お話自体は、よくある出世物語だが、十分に劇的で、それでいて少しも大仰ではない。 まるで当然そうなるべく定まっていたように、バリーは彼自身の一生を生きぬく。 そこには打算も情熱も苦悩も喜びも、束の間の平安も挫折も、ありとあらゆる意思と感情の葛藤があり、同時にそれは、整然と秩序立った"時代の観念"とでも言うべきものによって統一されている。 人物の動きは、ほとんど様式的といってよいほど典雅であり、だからこそ、化粧した男たちもグロテスクではない。 戦闘さえもが優雅で美しいのだ。 そして、ここまで人間の一生というものを丸ごと把握し、重厚なタッチで凝視した果てには、もはや、なまじっかな感銘や主題は不要なのだ。 いわば、時代そのもの、人間の生の転移そのものが、このスタンリー・キューブリック監督がめざした表現だと思います。 そうなるともう、18世紀だとかバリー・リンドンその人だとかといった個別性は問題外だ。 ある大きな普遍性、歴史と人間の根底にある巨大な流れのようなもの、そこに目が向けられた時、この映画は地味なまでに枯れた風格を持った美しさを獲得したのだと思います。 カメラ、ライティング、衣裳、演技、音楽といった方法論が、それぞれに、また相互に絡まって、時代と環境の雰囲気を創り上げ、それによって主題となる、"ある巨大な流れ"そのものを描き出す。 方法論と主題の完璧な一致が、この映画にはあると思います。
シカゴ
1920年代のシカゴ。スキャンダル好きで、飽きっぽいこの街で、またしても殺人が。 舞台でのスターを夢見るロキシーが、不倫の相手を殺して逮捕されたのだ。 獄中の先客で大スターのヴェルマも、同じく殺人罪だが、敏腕かつ金権弁護士のビリーを雇って、刑務所の中で脚光を浴びているのだ。 彼女を見て刺激されたロキシーは、同じくビリーと手を組んで、一躍スターダムにのし上がろうとするが、世間の注目を奪われたヴェルマが、黙っているはずがないのだ--------。 この映画「シカゴ」は、元々は1975年に、ブロード・ウェイの神様・ボブ・ファッシーが手掛けた大ヒット舞台劇の映画化作品ですね。 この舞台劇は、映画「キャバレー」でも有名なボブ・フォッシー監督の演出だけあって、当然テイストは、ダークで退廃的だ。 スキャンダルを利用して、ショウビジネス界でのし上がろうとする二人の歌姫と、名声を操るやり手の弁護士の思惑が交錯する物語は、家族愛や人間愛というモラルとは一切、無縁の世界が描かれているんですね。 しかし、ロブ・マーシャル監督のこの映画化作品には、そのようなものはなくとも、圧倒的な魅力があります。 大きな目のアップの導入部から、階段を駆け上がるスピーディーなショット。 名曲「オール・ザット・ジャズ」で始まるオープニングは、文句なくカッコいい。 粋なステージを最初からたっぷり見せられたら、もう誰もがこの作品の虜になってしまうこと請け合いだ。 舞台でキャリアを積んだロブ・マーシャル監督は、この作品が初監督ながら、その演出の手腕は非常に高いと思います。 エネルギッシュなパワーが、画面いっぱいに炸裂し、ゴージャスなドラマが幕を開けるのだ。 唐突に歌い出し、不自然に明るいミュージカルを苦手とする人は、意外と多いものだ。 しかし、この作品の演出の特徴は、登場人物の空想部分を、ショウ形式で表現している事だ。 本来、留置所という地味な場所ながら、心象風景を歌と踊りで華麗に演出し、華やかなステージとサスペンスフルな裁判を同時進行させているんですね。 とにかく、ミュージカルにつきものの不自然さは皆無で、その切り替えが、実に巧みなのだ。 更にこの作品の最大の魅力は、ある種のブラックさだ。 なにしろ素材は、"美人妻の不倫殺人"。 獄中にいる人物が、茶番劇の裁判で、時代の寵児になり代わるというのだから、相当にクレイジーなのだ。 さあ、最後に笑うのは、いったい誰なのか?----------。 この作品は、出演俳優の達者なパフォーマンスも見逃せない。 なんでも、キャサリン・ゼタ=ジョーンズとリチャード・ギアは経験者らしいが、初挑戦のレニー・ゼルウィガーは、この二人に比べてちょっと拙い。 舌足らずな歌い方は、ハラハラさせられるが、それが少しおバカだが、したたかでこ狡いロキシーというキャラクターにピッタリ合っていて、結果的に成功しているからたいしたものだ。 リチャード・ギアは、彼のタップが話題となったが、腹話術で人形を操るシーンが、アイロニカルで出色の出来だったと思います。 そして、グラミー賞歌手のクィーン・ラティファの上手さは言うまでもないが、気弱で哀れな、ロキシーの夫役のジョン・C・ライリーの歌の意外な味わい深さも捨て難いものがありますね。 ミュージカル映画の作品賞のオスカー受賞は、1960年代の「オリバー!」以来の快挙で、登場人物の全員が悪い奴で、したたかに生き抜く彼らの姿は、なんと痛快なことか。 悪の魅力に満ちた男女の原動力は、名声への欲望だ。 煌びやかで猥雑、甘美な陶酔感がたまらない。 この作品は、"極上"という言葉が思い浮かぶ、大人のためのエンターテインメント映画だと思います。
利休
この映画「利休」は、芸術家の強固な魂を持つ利休の権力への志向と、老境の成り上がりの権力者・秀吉の恍惚と不安の交錯を、両者の葛藤を軸に重厚に描いた作品だと思います。 歴史ドラマというものは、厳然とした歴史の流れがあらかじめ決まってしまっているから、物語の筋がどうなるのかを楽しむ余地は少ないものです。 織田信長の後には豊臣秀吉が、秀吉の後には徳川家康が天下を獲る定めになっているし、話の中で石田三成がいくら智略の限りを尽くしたところで、彼が政権を取り損ねて殺されたのは周知の事実です。 野上彌生子原作の歴史小説「秀吉と利休」を基にして作られた、この勅使河原宏監督の「利休」も例外ではありません。 主人公の千利休が、秀吉から死に追いやられる結末はわかっているし、愛弟子の山上宗二が惨殺されるのも、利休の反対を押し切って朝鮮出兵が強硬されるのも、歴史のままです。 そして、三成が利休に家康の毒殺を命じる創作エピソードにしても、家康が生き永らえるのは必然だから、果たして実行するかどうかのスリルには結びつかないのです。 だから、我々観る者は、結果よりもその途中のプロセスを、ドラマとして楽しむというスタンスで観るわけです。 なぜ、秀吉は寵愛していた利休を殺したのか、その歴史上の「なぜ」が、この映画の最大のテーマになっているのです。 利休の権威が増大するとか、一面で堺の豪商である、彼の経済力に対し恐れを感じたという説もあれば、豊臣政権内部での権力抗争で、反対勢力からの讒言に遭ったとの説もあり、朝鮮出兵などでの反対意見の進言が、秀吉の逆鱗に触れたとする説などが、後世の歴史家から言われています。 しかし、この作品では、芸術の頂点に立つ利休と、政治権力の頂点に立つ秀吉との心理的な葛藤に焦点を絞って描かれています。 尾張の貧農から身を起こして天下人となった秀吉には、芸術と、それから皇室の権威への凄まじいまでのコンプレックスがあった、としています。 それが、茶の湯に金をとめどなくつぎ込む執着、黄金の茶室で、帝に茶をふるまった際の秀吉の異様な興奮、そして、貧しい農婦でしかなかった実母の大政所を飾る禁裏勤めをしていたと称する偽りの履歴、といった形で描写されるのです。 皇室の権威の方は、いくら関白太政大臣になっても、それ以上はどうしようもありませんが、芸術だと金の力で牛耳れば、いちおう格好はつくものです。 巨大なパトロンとして、あらゆる芸術家たちの上に君臨することで、芸術を司どろうとするのです。 しかし、それは所詮、擬制の支配でしかなく、同じ茶の湯の土俵上では、秀吉は利休の足元にも及ばないのです。 この映画の冒頭の茶室の場面、夏の払暁、秀吉を迎える利休は、庭に咲き乱れる白い朝顔を一輪だけ花筒に活け、残りの全てを門弟に命じて摘み取らせておきます。 そうやって、唯一の存在にした一輪の朝顔が、茶室の柱で客人を迎える趣向は水際立っています。 また、二人が最後に対決する茶室の場面でも、秀吉が素材として与える梅の枝を、無造作に花を散らし、水盤に投げ出した大胆な技で圧倒し、権力者がいくら寛大ぶってみせても、決して屈しない芸術精神を意志強く表明しているのです。 秀吉自ら、茶碗を評してみせたりして半可通ぶり、斯界の第一人者・利休を力で支配しても、芸術に関しては、遠く及ばないのをはっきりと自覚しているのです。 どんな世俗的な栄光を得ても、また権力を握っても、芸術的才能を得ることはできないということを--------。 だが、秀吉=権力、利休=芸術と単純に対比するわけにもいかないのです。 秀吉には、天下を獲った男ならではの力量と人間的魅力があり、それには十分、人の心をとらえる価値があるのです。 また利休の方には、純粋に芸術の道を求める姿勢にとどまらぬ、権力への志向が潜んでいるのです。 秀吉につき従うこと自体、精神の完全な自由を犠牲にして、名誉と力を得る行為だし、黄金の茶室という「わび」とは無縁の趣味に、どこか美を感じてしまっていると述懐もするのです。 あくまで、芸術に殉じた弟子の山上宗二の純粋さとは、距離ができてしまっているのです。 そして、その利休の側のジレンマと対置されるからこそ、太閤秀吉の芸術コンプレックスとの対照が際立ってきて、この二人の巨人の人間関係の奥行きを深めているのだと思います。 利休の三國連太郎、秀吉の山崎努、もうこれ以上の適役は考えられないほどの二人の名優の演技が、圧倒的に素晴らしく、権力と芸術が真っ向から激突する重量感溢れる、このドラマに厚みと深さを与えているのだと思います。 他の役にも重厚な配役がなされてはいるものの、それらのベテラン俳優たちの印象がすっかり霞むほど、二人の演技が抜きん出ていると思います。 顔に刻まれた深い皺の間に永年の芸の蓄積と、人間的な深みを感じさせる三國連太郎は、後頭部ひとつにも強烈な存在感を主張させ、微動だにせぬ後ろ姿の風格だけで、芸術家の強固な魂を表現してみせます。 また、一方の山崎努は、老境を迎えた成り上がりの権力者の恍惚と不安の交錯を、育ちの卑しさを滲ませながら、カリカチュアにならぬ、ぎりぎりの絶妙なリアリティで演じきってみせ、これまた実に見事です。 草月流の三代目家元でもある勅使河原宏監督は、特に美術に贅を尽くしてみせます。 大ベテランの西岡善信の細密な設計によるセットの中で、織部茶碗など実際の桃山時代の第一級の美術品を使う絢爛たる豪華な書画骨董が、本物の輝きを発していると思います。 この茶道のみならず、陶芸、華道、造園、建築、工芸、そして舞踊や能に至るまで、ふんだんに提供される本物の美の重みが、利休と彼をめぐる桃山文化人たちの芸術生活を引き立てているのだと思います。 各種芸術に造詣の深い勅使河原宏監督をはじめ、脚本には画家で芥川賞作家の赤瀬川原平、衣装にワダエミ、音楽に武満徹と現代日本の代表的芸術家を参加させているのも、「芸術」について追及しているこの映画に相応しいと思います。
ソルジャーブルー
この映画「ソルジャー・ブルー」は、1864年のコロラド州サンドクリークで、600人のシャイアン族が、騎兵隊によって虐殺された史実を、忠実に映画化した問題作ですね。 白人の都合のいいように解釈されて来た、"西部開拓史"を、「野のユリ」「まごころを君に」のラルフ・ネルソン監督は、ラスト15分間の凄絶な残虐シーンの中で、痛烈に告発しているのです。 人間の歴史に戦争はつきもので、そして戦争にジェノサイドはつきものです。 アメリカ合衆国の建国史における恥部とも言える、シャイアン族虐殺事件である、サンドクリークの虐殺を、スクリーンにリアルに、そして怒りを込めて繰り広げた、ショッキングな映画、それがこの「ソルジャー・ブルー」だと思います。 こんな映画を作ってしまったら、"西部劇"も、もうお終いだよ、というくらい衝撃的な西部劇映画なのです。 かつてのアメリカ映画の西部劇では、インディアンが敵役となって、バタバタと倒されていく映画を数多く観てきた私にとって、この映画を初めて観た時の"カルチャー・ショック"は、言葉では言い表せないくらい、衝撃的なものでした。 特に、この映画の白眉とも言える、ラストのクライマックスの騎兵隊による凄絶な虐殺シーンも驚きでしたが、キャンディス・バーゲンが演じる若い白人娘の役柄も、それまでの西部劇では、ほとんど見かけないものでした。 インディアンにさらわれた白人の娘は、"悲惨"でなければならなかったのですが、彼女は大違いです。 インディアンの文化の"良き理解者"となり、白人の非に対する"激しい告発者"となっているのです。 一方、ピーター・ストラウスが演じる若き騎兵隊員のホーナスは、父をインディアンに殺されたので、インディアン憎しに凝り固まっています。 そんな"違った視点"を持った二人が、インディアン虐殺の"目撃者"となるのです。 そして、これを契機にホーナスは、自らの過ちを知り、反逆罪で捕らわれることになります。 この見るも無残な虐殺シーンは、現在から見たら159年前の生々しい再現であると同時に、公開当時のヴェトナム戦争におけるソンミ村虐殺の、同時代ドキュメントでもあったのだと思います。
おはん
木陰に忍び咲く隠花のように湿って見えるが、したたかな情念と女の強さを秘めたおはんを描いた、名匠・市川崑監督の名作「おはん」。 市川崑監督は、27年間に渡って、この「おはん」の映画化に執念を燃やし続けてきたそうです。 映画完成後の試写会の舞台で、市川崑監督は、「これは私の最も好きな作品です。"おはん"は人間の原点を示すものだと言えるし、映画化が成功するかどうかは、全て私の責任です」と情熱を込めて語り、この宇野千代原作への思い入れの深さを感じさせました。 宇野千代原作の"おはん"は、第10回野間文芸賞、第9回女流文学賞をそれぞれ受賞した、今や昭和文学を代表する名作ですが、この"おはん"は、原稿用紙150枚、文庫本にして100頁ほどの短編小説であるにもかかわらず、51歳で執筆を開始して完結するまでに、10年の歳月を要したといいます。 「よう訊いてくださりました。私はもと、河原町の加納屋と申す紺屋の倅でございます。」という一節で始まるこの小説は、宇野さんが徳島のとある古道具屋の男から聞いた話がもとになって、徳島の方言を主として、宇野さんの故郷、岩国の訛りと関西訛りが一緒になった作り物の方言で、そして場所も時代も定かではありません。 モノローグの本人の名前(映画では幸吉)さえも出て来ません。 ただ、何となく、大正の初め頃の京都辺りという感じですが、映画化に際しては、時代も場所も細かく特定せず、"ある種の幻想的世界の中での人間の物語"というようになっています。 映画「おはん」の冒頭のシーンは、部屋の暗がりに白く動く女の手から始まりますが、画面は色調を強く抑えて薄暗く、終わり近くになって、やっとノーマルの色調になります。 市川崑監督は、"光と影の魔術師"と言われるだけあって、画面の隅々にまで、色彩と照明、特に反射光の効果を精密に計算して撮っているように思います。 原作の小説は、"批評の神様"と言われた小林秀雄をして「言葉が言葉だけの力で生きていこうとしている」と言わしめているだけに、その独特の文学的香気、雰囲気を映画化する事は、容易な事ではなかったように思われます。 しかし、市川崑監督は「この小説をどう映像にするかが勝負だ」と挑戦的に語ったと言われていますが、原作者の宇野さんは、映画を鑑賞後「映画と小説は全く別ものですね。しかし表現の方法が違うけれども、目指すところは同じだと思うんですよ。"おはん"は、その目指すところがぴったりと合った」と感想を述べられ、いみじくも、原作の小説と映画化作品とのあるべき関係を簡潔に言い表していると思います。 宇野文学の香気をいかにして、そのまま映像に移すかに心を砕いた市川崑監督は、"人形浄瑠璃風の幻想世界を視覚化"して、小説と映画の混然一体化に成功していると思います。 おはんを演じた主演の吉永小百合は、この役について「私とは全く違った世界に生きる女性。幻想の世界に、自分が入って演じているって感じですね。近松の世界ってところもありましたね」と語り、このような現世とも思えぬ映像世界を、市川崑監督は作り出しています。 原作の中で「いつでも髪の毛のねっとりと汗かいていますような、顔の肌理の細かいのが取り柄でござりましたが、そこの板塀にはりつくような恰好して横むいているのでござります」と書かれたおはんを、市川崑監督は、しとやかなのにベターとした感じを肉感的にねばっこく描いていて、惚れ惚れするような演出の冴えを見せます。 また、芸者おかよ(大原麗子)の許へ去った身勝手なおはんの亭主幸吉(石坂浩二好演!)と、七年ぶりに会った夏の夕暮れ時のシーンでは、おはんの汗ばんだうなじに滲んだほのかな色気を、斜め上からのショットで映し出したり、それから間をおいて、秋になってからの再会時に、下を向いて"ほうっと肩で息"をしたり、"ひい、というような声"をあげたり、そして会う毎に次第に恋人のように変わるおはんに縒りを戻す幸吉は、ある意味、おはんに手玉に取られ、おはんの思い通りになったとも言えます。 そして、おかよに隠れて再び世帯を持とうとした矢先に、一人息子の突然の死が訪れ、それをきっかけに、愚図な亭主と決別し、しかも恨めしい事を一言も残さない手紙で、幸吉を永遠に縛ってしまうような女の意地の強さが、おはんにはあります。 映画のラストシーンでの玉島駅での、彼女の微笑と明るい日傘は、不気味でさえあります。 このあたりの市川崑監督の演出の見事さには、唸らされます。 そして、この"おはんとおかよという二人の女の間にはさまれて、身の置きどころもない男、幸吉"を演じた石坂浩二は、"やさ男"の本当の"したたかさ"を"繊細に、なおかつ、自然で深みのある演技"で示し、彼の最高の演技ではないかと思います。 お披露目の人力車の後から走って行く幸吉の粋な角帯姿も一つの生き方なのかもしれません。 また「あては男がいるのや、男が欲しいのや」と言わなければならない勝気な"おかよ"を演じた大原麗子も、おかよという女のさっぱりとした気性の良さをうまく表現していて、見事な演技でした。 それに、何といってもミヤコ蝶々の"おばはん"がなかなか良い味を出していたと思います。 作家、宇野千代が身魂を傾けたこの"おはん"という小説を、執念とも言える情熱で映像化した市川崑監督、本当に素晴らしい映画でした。
華麗なるギャツビー
裏切られた男の心の奥底のロマンティシズムを描いた、失われた世代の作家F・スコット・フィツジェラルド原作の映画化作品が「華麗なるギャツビー」ですね。 1970年代のアメリカ映画界は、1930年代へのノスタルジーを込めた作品がブームになっていましたが、この「華麗なるギャツビー」という映画は、更に時代を遡った、頽廃の花咲く1920年代の"成金文化"を背景として描いています。 この映画の原作は、"失われた世代"の作家と言われる、F・スコット・フィツジェラルドで、彼は第一次世界大戦の勝利で成金の国になったアメリカという国をバックに、金にまかせて狂乱のごとく、浮かれ騒ぐ、アメリカの消費者たちの精神的な混乱をテーマにした小説を、この原作以外にも数多く書いています。 彼の小説は、それまでにも幾つか映画化されていて、例えば、1954年の「雨の朝巴里に死す」(リチャード・ブルックス監督)は、退廃的でデカダンな日々を送り、深酒に酔いしれる新進作家が、そのような荒んだ日々の中にも、エリザベス・テイラー演じる美貌の女に果たせぬ思いを寄せるという内容の作品でした。 内容的にはややメロドラマ調の映画でしたが、酒でも飲まなければいられない、男の心の奥底のロマンティシズムといったものが、テーマとなっていました。 このように、F・スコット・フィツジェラルド自身が、かなり破滅的な人生を送り、酒に溺れて、晩年は不遇のうちに亡くなったそうです。 その破滅的な生きざまは、日本の作家で言えば、太宰治や坂口安吾などの無頼派の作家と共通するものがあるような気がします。 映画「華麗なるギャツビー」は、ある男の生きざまの悲哀を、"男心は純情"という思いの込められた作品で、原題の「THE GREAT GATSBY」の中の"GREAT"はアメリカの俗語で、"いかす"という感じで使われているそうですが、ギャツビーの短い悲劇の生涯は、まさにその表現がぴったりします。 ニューヨーク郊外のロングアイランドの湖畔にある大邸宅で、夜な夜な催される豪華なパーティ。 そこでは楽団の派手な演奏と共に、数多くの男女が集まっては飲み、食い、踊り、騒ぐといった饗宴が繰り広げられていました。 ところが、この邸の主人はほとんどこの饗宴には顔を出さず、部屋にこもり、何かの思いに耐えているようで、彼の素性は謎に包まれていて、このパーテイに招かれる上流階級の人々も、陰では彼を密輸や麻薬といったもので成り上がった暗い過去を持つ成金じゃないかと噂します。 しかし、ギャツビーは表面的には一分のすきもないくらいの美青年であり、その笑顔は爽やかでさえあり、こんな主人公を、当時のアメリカ映画界で人気、実力共にNo.1であったロバート・レッドフォードが「追憶」そして「スティング」で見せた魅力的な微笑というものが、この映画ではその微笑の裏に"暗い翳り"を秘めた男を、惚れぼれする程の良い男っぷりで演じていて、まさにミスター・ハリウッドという形容がぴったりするくらいで、当時、ゲーリー・クーパーの再来と言われていた事が納得出来ます。 ギャツビーが人生を賭けてまで愛した女性デイジー役のミア・ファローは、はっきり言ってミス・キャストで、魔性を秘めた魅惑的な女性デイジーのイメージにはほど遠く、当時、他にデイジー役を演じる女優がいなかったのかと残念でなりません。 昔であれば、エリザベス・テイラーが演じていた役どころで、リズだったら魔性の魅力を秘めたデイジーを余すところなく演じていただろうと思います。 この邸の対岸には、彼の初恋の女性デイジー(ミア・ファロー)が、シカゴの大財閥トム(ブルース・ダーン)の妻として贅沢な、そして倦怠の日々を送っています。 戦争にも行かなかったトムは、浮気癖があり、こともあろうに近くの貧しい自動車修理屋の人妻(カレン・ブラック)との情事を楽しんでいます。 そして、その夫(スコット・ウィルソン)は、真面目一方の気弱な男として描かれています。 貧富の差が対照的なこの二組の夫婦、そしてギャツビーの過去と現在、そして未来を見透かすように立っているのが、街道筋の大きな眼鏡の立看板であり、この立看板というものが、"神を象徴する役割"をこの映画で果たしていると思います。 このあたりをさりげなく見せる、ジャック・クレイトン監督の演出のうまさが光っています。 そして、トムとデイジー夫妻の知人であり、ギャツビーの隣人でもあるニック(サム・ウォーターストン)も、この映画の舞台回しというか、狂言回しとして、"冷静な観察者"として、実にうまく描いていると思います。 このニックを介してギャツビーは、やっと恋い焦がれた、初恋の女性デイジーと再会する事が出来ますが、戦争から帰るまでどうして待っていてくれなかったのかと詰問する彼に答えて、「金持の娘は貧乏人とは結婚できないのよ」と言うまでに、デイジーは上流社会の生き方が身にしみて育った、いわば"砂糖菓子"のような女でした。 原作の小説の中で、「その声までが金持らしい娘」と書かれていますが、甘やかされて、わがままな反面、繊細な感情のひらめく魅力的な女、天真爛漫な華やかさと功利に長けた計算とが一体となったような、矛盾に満ちた女------女とは本来、このような"魔性"を秘めたものなのかも知れませんが、しかし、映画を観ている間中、こんな女に何故惚れてしまうのか、と言いたくなる感情を抑えきれませんでした。 そして、デイジーとの間に愛情が取り戻され、ギャツビーが一生を賭けた恋が成就するかと思われたが、その破局は一気に訪れます。 暑いニューヨークのホテルでのギャツビーとトムとの確執、対決は、デイジーを錯乱させ、彼女の運転するギャツビーの黄色いロールス・ロイスは、自動車修理屋の妻を轢き殺してしまいます。 キャツビーはデイジーをかばって、彼女を夫のもとに送り届けますが、翌日、この自動車修理屋は、妻の浮気相手のトムを殺そうと迫りますが、トムにギャツビーが犯人であると吹き込まれて、ギャツビーをそのプールで射殺して自殺します。 女を思い詰めた二人の男が同時に死んだのです。 大邸宅も巨大な財産も、そして命さえも、男はただ一人の女に捧げて悔いはないかのようです。 この映画でのロマンティシズム、恋にそして人生に破れて死んでいった男の姿は、まことに哀しく憐れでもあります。 そして、生き残ったデイジーは、ケロリとして夫とよりを戻し、何事もなかったかのように、陽気に旅立って行きます。 女の軽薄さを示すこのラストで、死んでいった男の哀しさ、憐れさが、余計に我々、観る者の心に迫ります。 この映画での"冷静な観察者"であるニックが言うように、軽薄なトムとデイジー夫妻は、それぞれ身勝手な事をやって、その始末は誠実な他人の死によってあがなわれ、彼らの豪奢な生活は守られたのです。 うわべだけの薄っぺらな上流階級の人々より、どれだけギャツビーの方が人間的に優れているか----、虚像と実像の違いを原作者のF・スコット・フィツジェラルドと脚色のフランシス・フォード・コッポラと監督のジャック・クレイトンは、ニックの目を通して、憤怒の思いで描いていると思います。 フランス戦線での勲功章だけは、ギャツビーに残された唯一の確かな履歴であり、また、古い日記に書かれた少年の日の決意といったものが、彼の本質を切なく語っていると思います。 一、発声練習、二、勉強、三、毎週の貯金三ドル、四、禁煙、五、親孝行--------。 この映画はギャツビーという一人の人間を通して、アメリカの純情に熱い懐旧の涙を注いでいる、切なくも哀しい人間ドラマであり、単なるラブロマンスの映画ではないのです。
二百三高地
「二百三高地」は、児玉源太郎と乃木希典との対比を通して、戦争における指揮官の在り方を問いかける極めて政治的な映画だと思います。 この東映映画「二百三高地」は監督が「トラ・トラ・トラ!」の舛田利雄監督、脚本が「仁義なき戦い」シリーズの笠原和夫のオリジナル。 凄惨そのものの戦闘場面の展開は、「仁義なき戦い」の迫力ある場面を想起させます。 舛田監督はこの映画を撮るにあたって、「私達は日本人です。この極めて当たり前の事が、この単一民族社会では当たり前過ぎて、ともすれば忘れがちになります。----もし負けていればどうなったか。----闘わねばならなかったのではあるが、その事自体いかに苦汁に満ち、血まみれたものであったか。それを今日よく考えてみる必要がある」と語っていますが、この映画は公開当時にインドネシアで開催された、アジア映画祭でグランプリを受賞していますが、ある意味、明治時代に当たる青年期の各国が、どのような目でこの映画を観たかがうかがわれます。 しかし、この映画は公開当時、「愚劣な懐古アナクロニズム」とか「何を今さら二百三高地か」という手厳しい評価を受けていたそうですが、しかし、そのような厳しい評価をした人々も、庶民とインテリの代表とも言える小賀予備少尉(あおい輝彦)には共感を示していて、彼は乃木大将に向かって抗議します。 「死んでゆく兵たちには、国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは一切無縁です。灼熱地獄の底で鬼となって焼かれてゆく苦痛があるだけです。その部下たちの苦痛を、乃木式の軍人精神で救えますか!」と-------。 しかし、このように兵の無益な死を強調するだけでは従来の戦争批判のパターンを出ていません。 むしろ、この映画は、兵のおびただしい死をもたらした無能とも言える指揮官・乃木大将と官僚的砲術専門家である伊知地参謀長の責任を問うているのであり、その指揮権を一時剥奪し、攻撃の発想を転換して、一挙に二百三高地を攻め落とし、湾内のロシア艦隊を全滅させた有能で積極果敢な児玉満洲軍総参謀長(丹波哲郎)を、戦下手だが人格者である乃木大将(仲代達矢)との対比で描いているところに注目すべきだと思います。 陥落した二百三高地を仰ぎながら、この児玉と乃木の二人が栗を食べるところの食べ方に、この二人の人柄の差がよく現われていて、興味深いものがありました。 この映画の史実は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」(四)に拠っているので、同書の中に次のような児玉の言葉が書かれています。「(伊知地参謀長に対して)司令部の無策が、無意味に兵を殺している。貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ」「おのれの作戦の責任を他に転嫁するな」「(第七師団参謀の懸章をひきちぎって)国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない」「参謀は、状況把握のために必要とあれば敵の堡塁まで乗りこんでゆけ。机上の空案のために無益の死を遂げる人間のことを考えてみろ」と-------。 児玉大将は二百三高地を僅か1時間20分で占領したと言われています。 しかし、児玉は乃木大将の名誉を考えて、その山に登る事をしませんでした。 彼は、「知恵ではなく気合だ」、「頭の良否ではない、心の良否だ」、「智恵というのは、血を吐いて考えても、やはり限度がある。最後は運だ」と言っており、また、「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」と叱っています。 そして、乃木は専門家に呑まれていると児玉は見てとり、「伊知地は、よくやっている」という乃木の倫理的な態度を無視したのです。 そして児玉は戦争が終わると、精根が尽き果てたようにして死んだのです。 この映画のラストの明治天皇の御前シーンは必要なかったのではないかと思います。 そして、さだまさしの「防人の詩」が切々と流れてきて感動を深めます。 思えば、太平洋戦争も、この二百三高地と同じ流血の連続でした。
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