トゥルー・ラブストーリー 真実を言って
このレビューにはネタバレが含まれています
ストレンジ・ダーリン
ナミビアの砂漠
第77回カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した話題作ですが、自分は好きではない映画でした。 河合優実さんが演じる主人公カナは最高でした。河合優実さんが本当に最高でした。 ですが、それ以外には何もない映画。この撮り方面白いでしょ、と言わんばかりのすべっている撮影方法とか、変な間とか、素人目で見てもへたくそでストレスを感じるシーンもありました。 河合優実が体を張ってくれて本当に良かったね・・としか思えない出来栄え。 他の方のレビューや評価を見て、共感を呼んでいる点をまとめてみました。 多くの方が指摘するのは、主演の河合優実さんが演じる主人公「カナ」の、言葉にならない感情や行動の生々しさです。 現代の若者の閉塞感と無気力さのリアルな描写。 何事にも情熱を持てず、日々をやり過ごしている感覚が、自分の経験と重なるという声が多く見られます。 言語化される前の感情の表現。 怒りや苛立ち、虚しさといった、まだ整理されていない心の動きが、セリフだけでなく、表情や身体の動きで巧みに表現されており、そこに心を掴まれたという感想が目立ちます。 「わかる」という感覚。 他人から見れば理解しがたい行動でも、「自分の中に同じような部分がある」「あの時の自分を見ているようだ」と、カナに自身を投影する人も多いのだろうなと。 カンヌ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞の受賞は「ドライブ・マイ・カー」以来との事ですが、自分は「ドライブ・マイ・カー」も無理な映画だったのでなるほど、この賞は自分と感性が合わないんだなと思いました。 河合優実を見る為の映画で、それ以上も以下もない映画でした。
JUNK WORLD
砂漠の生霊
字幕版であるゴニョゴニョ版を鑑賞しました。とっても面白かった! 字幕を追うのと、ユーモア溢れるセリフを両方追うのは大変かなと思いつつ意外と聞き取れて面白かった。「狭いな」を「マンインデンシャ」と発音したりするなど。 JUNK HEADでも印象的だった「ね〜ぽっぽんちょ♡」のセリフも出てきます。 1作目のJUNK HEADを見ていなくても問題なく楽しめますが、配信サービスで倍速でもいいので見てからいくとより楽しめると思います。似た顔の登場人物がいたり、2作目と1作目の主人公との繋がりもよくわかります。 変わらずコマ撮りストップモーションがすごいし、今回も独特な世界観のセットが見応えありました。 私の大好きなSF伏線回収系のストーリーだったのもハマりポイントでした。 3作目となるJUNK ENDの公開も楽しみにしています。
MaXXXine マキシーン
2作目『パール』が傑作すぎて少しハードル上がりすぎたのもあるけど、今回は物足りなさを感じてしまった。 とはいえ、好きなタイプの映画だし、80年代のルックスは観ていて楽しいし、ミア・ゴス含むなかなか豪華な役者陣もすごい良かったし、見どころはたくさんあった。 なんだけど、やっぱり『パール』の後の作品ということで、もっとインパクトの強い作風を求めてしまっていた。(『サブスタンス』も観た後だし…) 1作目は『悪魔のいけにえ』などの70年代ホラー風、2作目は『オズの魔法使い』などのハリウッド黄金期テクニカラー風。 どちらもすごい良かったけど、今回は80年代スラッシャーホラーだったり、ジャーロ映画だったり、なんかいろいろごちゃ混ぜというか… おそらくすごい数の映画のオマージュがあって、とっ散らかってる印象を受けた。 (過去作と違い、統一感がないというか…) まぁ今回は過去作とは違い、田舎ではなく都会(ハリウッド)が舞台だからなのかもだけど…。 あと、80年代のナイトストーカー(自分は知らなかった)やサタニック・パニックといった事象を絡めたラスボス的存在にもそんなにヤバさを感じれず、ドキドキしなかった。 なんなら、1作目『X』の老夫婦の方がヤバさも不快さも強かった。 1作目も2作目も作風は全く違えど、ちゃんとホラー映画になっていたけど、今作はホラー要素はあってもホラー映画に思えなかった。 個人的には、「ジャンル」としてホラー映画にこだわってほしかったな。 キャラクターとしてのマキシーンも、パールより薄く感じてしまった。 パールの物語にはめちゃくちゃ感情移入できて、ある種のカタルシスも感じたけど、マキシーンのアンチヒーローぶりにはそこまで爽快感を感じなかった。 マキシーンをもっと応援したくなるような動機づけがほしかった。 というか、スターになる夢が成功するにしても失敗するにしても、もっとマキシーンの爆発や狂気を見せてくれー!と思いながらそのまま映画が終わってしまった感じだった…。 とまぁ…ウダウダいろいろ抜かしたけど、3部作めっちゃ楽しんだ!
サブスタンス
ルッキズムやエイジズムへの強烈な批判であることは間違いないし、それを無視してはいけないけど、そんなことを抜きにしても好きな人にはたまらない映画だった。 よく言われている通りクローネンバーグ映画のようなボディ・ホラーで、大ファンの自分にはドンピシャだったが、グロ耐性のない人にはけっこう厳しいかもしれない。 とくに終盤の展開は…笑 映画を観ながらいろいろ連想してしまう。 楳図かずおの世界観。 喪黒福造の出てこない「笑ゥせぇるすまん」。 そしてクライマックスは、「ザ・フライ」「遊星からの物体X」「バスケット・ケース」「ブレイン・デッド」などのホラー映画のごちゃ混ぜ大団円。 いやもう、さすがにあれは笑っていいでしょ! 老いを全面に出す主役を演じたデミ・ムーア凄すぎる! グロシーンは多いけど、映像はシンメトリーでとてもキレイだし、冒頭の時代の移り変わりの見せ方もうまいし、サブスタンス(薬)をわざわざ何回も取りに行く描写(少ししか開かないシャッター含め)もいちいち面白いし、この新鋭の女性監督の演出スゴイ! いや、女性差別はしてないですよ…汗
グロい映画初挑戦でした。 60歳前後になると、女優さんは男優さんに比べて仕事がなくなる。 なのでデミ・ムーア自身がこの映画をプロデュースし、監督・脚本も女性。 女性ばかり若さを求められる状況に一石を投じる映画。だと思ったので、グロい描写があると聞きつつも、どのように60代女性の活躍の姿を見せてくれるんだろうと期待してしまっていました。 結果、想像よりずっとグロいシーンが多く、ほぼすべてがグロく、 グロに恐怖しか感じられず面白さを感じられない、私みたいなタイプには全くおすすめできません。 冒頭の演出、カメラワーク、デザインなど素晴らしい部分も多かったのですが、全てをグロで台無しにした感じがします。
タワーリング・インフェルノ
タッカー
ことの終わり
この「ことの終わり」は、天上的な愛を体現するジュリアン・ムーアの見事な演技を堪能する映画だと思います。 映画「ことの終わり」の原作は、イギリスのカトリック作家でスパイ小説の名手のグレアム・グリーンです。 彼は映画史上に残る不朽の名作「第三の男」の脚本を手掛け、「ヒューマン・ファクター」などのスパイ小説でも有名な、もとイギリスのMI6のスパイ出身の作家なんですね。 この映画の原作は「情事の終わり」で、原題が"The End of The Affair"で、英語のAffairとは、"浮気"という隠れた意味もあるという、そのような映画ですね。 また、この映画は原作者のグレアム・グリーンのほぼ自伝的な要素の強い、実際にあった体験を基にした小説の映画化で、監督は「クライング・ゲーム」や「マイケル・コリンズ」で、いつもアイルランド紛争の問題を先鋭的に描いて来たニール・ジョーダン。 主人公の作家ベンドリックスに「シンドラーのリスト」の名優レイフ・ファインズ、主人公の友人のサラに「アリスのままで」の名女優ジュリアン・ムーア、主人公の友人の高級官僚のヘンリーにニール・ジョーダン映画の常連で彼の盟友でもある「クライング・ゲーム」のスティーヴン・レイという、考えただけでワクワクするようなメンバーが集結していて、映画好きとしては、観る前から期待が高まります。 作家のベンドリックスは、高級官僚の友人の妻サラと激しくも狂おしい不倫の恋に落ちますが、情事の最中に空襲を受け、サラは突然、唐突に彼に別れを告げて去って行きます。 それから2年後に、サラの夫ヘンリーと合った時にベンドリックスは、ヘンリーから、サラの様子がどうもおかしく、男ができたらしいと聞かされ、2年前に別れたサラへの未だに捨てきれない嫉妬心に悩み、自分と別れた原因かも知れない、その"第三の男"とも言うべき男の存在に興味を持ち、探偵に彼女の身辺調査を依頼します。 ベンドリックスとサラの過去、サラが密かに会っているであろう"第三の男"----様々な謎が絡み合う序盤のサスペンス・ミステリータッチの語り口は、我々観る者を惹きつけて離さない、ニール・ジョーダン監督の見事な演出です。 フラッシュバックの実に巧みな使用も効果的で、やがて解き明かされる真実には、謎解きの楽しみと共に、切実で真摯な"究極の愛の形"が、ズシリと確かな手応えを伴って、胸の奥底に響いて来ます。 そして、この映画全般の雰囲気をしっとりと濡れたような感覚で静かに、しかし狂おしく奏でるマイケル・ナイマンの音楽もこの映画のムードを盛り上げてくれます。 サラがベンドリックスと別れる契機になったのは、空襲を受け、仮死状態になった彼を蘇らせるために、必死で神へ懇願したサラの"神との信仰上の約束"に基づくものでした。 このサラと信仰との出会いは、カトリック作家グレアム・グリーンによる原作の"核"になるべきものだと思います。 愛というものに生きる人間が、情欲の嵐に溺れてしまうのを踏みとどまらせてしまうのは、人の人智を超えた"何かの支え"が必要なのかも知れません。 最終的にサラをベンドリックスから引き離したものが、"神への信仰"である以上、ベンドリックスは"神"へ嫉妬し、"神"を憎むしかありません。 サラも信仰によって、慰めと苦悩の狭間を彷徨う事になります。 ここに来て、この映画は普通のありきたりの三角関係のドラマだと思えたものが、物語の中心に"神"を介在させる事で、俄然、圧倒的な深みを帯びる事になって来ます。 そして、映画のラストに用意された、奇跡とも言えるエピソードは素晴らしいの一語に尽きます。 サラの崇高な愛は、天へと浄化され、心が癒される思いがします。 つまり、この映画は感性に訴える映画ではなく、知性に訴える映画であるという事がわかって来ます。 嫉妬に悶え苦しむベンドリックスの世俗的な姿というものは、客観的に見て愚かしく、認めたくはありませんが、嫉妬と愛情が表裏一体であるのもまた、ある意味、人生の真実なのかも知れません。 だからこそ、サラの姿が輝いて見えるのであり、"天上的な愛を体現する存在"として、彼女は神々しいほど、美しく光輝く存在たり得たのだと思います。 自意識が強く、嫉妬と苦悩の狭間を揺れ動くベンドリックスを、繊細で深みのある演技を示したレイフ・ファインズはいつものように、私にインパクトを与えてくれましたが、この映画では何と言ってもジュリアン・ムーアの妖艶で芳醇な香りが漂うような美しさに見惚れてしまいました。 匂い立つような官能のラブシーンでも気品と優雅さに満ち溢れていて、"神との信仰上の約束"を守り通せなかったサラに、より人間である事の奥深さを感じさせてくれたのは、ジュリアン・ムーアの女優として、サラという人間の本質を理解し、完全になり切ったその役作りの凄さに圧倒されました。 なお、こ映画は1999年度の英国アカデミー賞にて、最優秀脚色賞をニール・ジョーダンが受賞していますね。
野性の証明
「野性の証明」は、角川春樹事務所の「犬神家の一族」「人間の証明」に続く第三作目の映画で、原作は森村誠一、監督は佐藤純彌で「人間の証明」と同じコンビで、原作は当時150万部の大ベストセラーでした。 原作者の森村誠一は、原作のあとがきで「この作品では現代における野性というものをテーマとしたが、同時に犯人に工夫を凝らした。私としては本格推理小説を書いたつもりである。真犯人は最初の数ページの間に登場する。読者がこれが真犯人と思った者は真犯人ではない。終章で真犯人を明らかにする」として、部分犯人という考え方と関連する別件を並行ではなく、垂直的に構成し、A事件の犯人(?)が、B事件の探偵になるという工夫が凝らされています。 このA事件である岩手県風道部落での13人の大量殺人と、B事件である東北羽代市での地方のボスとの対決では、一丁の斧が野性の凶器になっています。 この原作の小説には、推理をするヒントがないので、発刊時にはアンフェアだと言われたそうですが、冒頭に出て来るキャベツ畑の軟腐病がわずかな手掛かりであり、ラストで主人公の味沢の脳腫瘍から検出された病菌と結びついていますが、味沢の発狂によって彼の野性の核心は隠されたままとなりました。 森村誠一は、原作の終章で自衛隊特殊工作員として「平和な世の中で飼育された殺人、しかもかつ絶対の歯止めをかけられた者の悲劇、それを味沢は身をもって証明したのではあるまいか」と書いていますが、この原作の小説は、本格推理小説としてもかなり無理がありますが、社会派推理小説としても不徹底であり、自衛隊特殊工作隊(こういう部隊が実在するかどうか知りませんが)の扱いが非常に安易すぎる気がします。 "映画は原作をこえられるか"というのが、この映画の当時のキャッチ・フレーズですが、むしろ原作と映画は完全に別物になったような気がします。 この映画は、推理的な謎解きの興味は途中で捨てられ、荒唐無稽でかなり無理のある筋書きだけが残って、最後のアクションが中心になっています。 そのラストを、正気だが狂気の味沢(高倉健)が被害者の子である頼子(薬師丸ひろ子)を背負って突進する自衛隊戦車群相手のスペクタクル・シーンに拡大したため、アメリカ・ロケが妙に浮いた、現実感のないものになってしまったのだと思います。 総製作費12億円のうち戦闘シーンに5億円という、当時の邦画界空前の巨費を投入しながら、その自衛隊を"野性の証明"とどう関係づけようとしているのか、映画では原作以上にその点が判然としません。 佐藤純彌監督は「優秀な軍隊や警察は、決してその飼い主に歯を向けることはない。飼われること、管理されることを拒絶することから野性への出発が始まる」と語っていますが、これだけでは"野生の証明"にはなり得ません。 そして、もう一つのキャッチ・フレーズの"ネバー・ギブ・アップ"も、その目標が今一つ定かではありません。 更に"男はタフでなければ生きられない。優しくなければ生きている資格がない"というキャッチ・フレーズも、この映画に即しているとは言えません。 製作者の角川春樹は「ゴッドファーザー」と「七人の侍」が一番好きな映画であり、それは貧しさからの脱出が暴力の引き金になっており、その最期は悲劇的であるとして、「男の内に潜む、暴力を否定し得ない野性を描きたかった。究極のところ人生は戦いなのだ」とこの映画の製作意図を語っていましたが、動物的な野性を呼び起こす人間的な憤怒の社会的な契機は何なのか、この映画はそれを的確に証明する事が出来なかったのが惜しまれます。
家族の庭
「家族の庭」は、家族とは何かという根源的な問いかけに、老いと孤独を絡ませた、マイク・リー監督の秀作だと思います。 監督が「秘密と嘘」や「ヴェラ・ドレイク」のマイク・リーなら観ないわけにはいかない、いや、何が何でも観るべきだと半ば強迫観念にかられて、劇場に足を運んだ作品が「家族の庭」だ。 案の定、それまでのマイク・リー監督の作品同様、画面の隅々にまで神経が行き届いた演出と、俳優陣の熟練の演技を堪能しました。 久々に映画が終わるのが惜しいと思えるほど、充実した時間を味わえましたね。 特に秀逸なのは、導入部。冒頭で「ヴェラ・ドレイク」の主演女優のイメルダ・スタウントンが、初老の患者役で登場するから、てっきりこの女性が物語を引っ張っていくのかと思いきや、場面は病院内の女性カウンセラーに移り、さらに彼女の同僚の中年女性を映し出す。 短いカットを重ね合わせるように、人間関係を明らかにしていく巧みな語り口。 やがて、この映画の主人公は、カウンセラーと地質学者の初老の夫婦であり、その一家に集う様々な人物の人間模様であることがわかってくる。 普通はあらかじめ出来上がった脚本に沿って、俳優に演技をつけていくものだが、マイク・リー監督は、まず俳優に即興で自由に演じさせてから脚本を書いていくという。 そこでは当然、俳優の裁量に任されるわけだから、自然といずれ劣らぬ演技派の勢揃いとなる。 夫のジム・ブロードベント、妻のルース・シーン、そしてほとんど主役ともいえる、妻の職場の同僚メアリーを演じるレスリー・マンヴィル。 最初の結婚に破れ、不倫の恋に傷つけられた独身の中年女性の悲哀を表現して、実に見事だ。 この映画のテーマは、ズバリ家族だ。 夫婦や親子関係を通して、家族とは何かという根源的な問いを投げかけるのだ。 さらに、撮影当時68歳という、マイク・リー監督の年齢を反映してか、そこに「老いと孤独」も加わり、現代人の「老い」の生き方を問うのだ。 それにしても、テンポの早い会話のやり取りや、そこで交わされるウィットと皮肉を込めたセリフの面白さは、他の追随を許さない。 そこに、イギリスだけでなく日本にも当てはまる、現代の”家族の肖像”を見る思いがします。
テレフォン
この映画「テレフォン」は、監督がドン・シーゲル、脚本がピーター・ハイアムズとスターリング・シリファント、そして主演がチャールズ・ブロンソンと、これだけの面子が揃ったら、そりゃあ、面白くないわけがありません。 とにかく、抜群に面白いサスペンス・ミステリー映画ですね。 ソ連のKGBの職員ダルチムスキー(ドナルド・プレザンス)が、「テレフォン名簿」というトップ・シークレットを盗み出し、アメリカに逃亡を図ります。 名簿には、54人のアメリカ人の氏名と電話番号が記されています。 かつての米ソの東西冷戦の時代に、ソ連政府によって拉致され、洗脳された後、母国アメリカに送り返された54人の市民たち。 「森は美しく、また暗く深い----」で始まる、ロバート・フロストの詩を聞くと、潜在意識下に仕掛けられたスイッチがオンになり、彼らは指定された米軍基地を破壊する"人間兵器"に変貌するのです。 そして、KGBの予想通り、全米各地で謎の爆発事件が連続して発生しますが、それらは、ダルチムスキーが電話を使って"人間兵器"を一人づつ動かし始めたのです。 米ソの東西冷戦の時代は既に終わっており、このままでは事情を知らないアメリカ政府が、モスクワへの核攻撃で報復を開始する可能性もあり得るのです。 この事態を重く見たKGBの首脳の命令で、ボルゾフ少佐(チャールズ・ブロンソン)がアメリカに極秘裏に潜入し、在米の女スパイ、バーバラ(リー・レミック)と合流し、ダルチムスキーを追う事になるのです。 しかし、このバーバラは、CIAとも通じる二重スパイで、ボルゾフ暗殺指令を受けていたのです----------。 この映画でチャールズ・ブロンソンが演じる、アメリカの地理にやたらと精通しているソ連軍人という妙な役柄が抜群に面白く、「レッド・ブル」のアーノルド・シュワルツェネッガーや、「レッド・スコルピオン」のドルフ・ラングレンを軽くしのぐミスマッチさがご愛敬で、嬉しくなってしまいます。 おまけに驚異的な記憶力の持ち主という知的な役柄。 こんなブロンソンは、他ではなかなか見れません。 しかし、相棒のリー・レミックには指一本触れようともせず、やはりここでも、ブロンソンは実の奥さんのジル・アイアランド第一主義かと思わせてくれて、長年のブロンソン・ファンとしては、ニヤリとしてしまいます。 対するドナルド・プレザンスは、セリフがほとんどない役で、フロストの詩を電話口で囁くくらいなのですが、ベスト・パフォーマンスを見せてくれるのです。 遠隔地から電話をかければいいのに、わざわざ標的の家まで赴き、玄関前の公衆電話から指示を送るという間抜けさ。 しかも、サボタージュが成功するかどうかを自分の目で確かめ、自己満足に浸りたいがため、車で延々と"人間兵器"を追いかけ、ソワソワと、そして嬉々として、いつまでも事のなりゆきを見守っているという、この小心者ぶりが実にイカシているのです。 全面核戦争にも繋がる大胆な犯行に及んだのにもかかわらず、動機について、「彼は好戦的で、執着心が強い異常者だから---」としか、言われないあたりも、実にかわいそうな人なのです。 そんな小悪党なので、ブロンソンとの丁々発止の対決とはいかず、クライマックスは驚くほど、あっけないのです。 また、ブロンソンとレミックの絡みもひねりが不足しているという難点はあるのですが、しかし、そこはドン・シーゲル監督、そんな短所を補って余り有る、プログラムB級映画特有の、ふてぶてしさと痛快さをたっぷりと堪能出来る映画に仕上げていて、さすがですね。
テキサスSWAT
この映画「テキサスSWAT」は、1980年代に一世を風靡した”肉体派アクションスター”の内のひとりで、ブルース・リー(李小龍)の「ドラゴンへの道」で最強の敵役として名を馳せたチャック・ノリスが、ブレークするきっかけとなった作品だ。 とにかく、史上最強のミドル級の空手チャンピオンからアクション映画スターへと華麗に変身したチャック・ノリスの魅力の原点に迫る、男気満点の作品なのだ。 武器密売組織と闘う一匹狼のテキサス・レンジャーを描いたアクション映画だが、そのテイストは、まさにマカロニ・ウエスタンだ。 主人公のマッケイド(チャック・ノリス)の小汚さと屈強さを絶妙にブレンドされた風貌は、マカロニ・ヒーローを彷彿とさせるし、フランチェスコ・デ・マージの音楽も、馬泥棒一味を殲滅するウエスタン的なオープニングから、クライマックスを飾る組織のボス(デヴィッド・キャラダイン)との格闘家俳優の面目躍如の対決まで、正調マカロニ節で、大いに盛り上げてくれる。 また、主人公の愛車としてスーパーチャージャーを搭載したダッジが登場し、カー・アクションの要素も加味する無節操なほどのサービスぶりは、この作品がイタリア製ではないのが不思議なくらいだ。
異端者の家
残菊物語
この映画は、歌舞伎の役者たちの、内幕的の人間関係、と、現代社会。次に、女たちの旧態依然のルールを、深く追及した、近代的映画作品。 常時、クレーンキャメラを、顔の表情が、撮影出来ない程の位置にまて、離して、カットを割らずに撮影する移動撮影。 次に、とにかく、いい演技が出来る迄は撮影しない、方法、の二つで、それを、実現しています。 さらに、本当の歌舞伎の公演を撮影したシーンもあって、大変、素晴らしいので、考えさせられます。 ラストの道頓堀川での舟乗り込み、のシーンは、大変な光量の照明設備と照明装置、に依る撮影で、世界一の撮影技術。 これは、映画監督:溝口健二の名前を、不動のものとした、科学(science)的 映画作品、として、不滅です。
社葬
日本の新聞は、インテリが作ってヤクザが売るという、字幕に先導されて始まる、東映の「社葬」は、大人の鑑賞に耐え得る痛快エンタメ活劇だと思います。 この映画を活劇というのは、少しオーバーかも知れませんが、大新聞社のトップの座をめぐる首脳陣たちの仁義なき戦いは、ヤクザ抗争そっちのけの凄まじさで、虚々実々、魑魅魍魎の世界ですね。 斬った張ったのヤクザ映画など、この映画の前では、まるで子供の喧嘩に思えてきます。 この映画を観終えて、ふと思いました。ひょっとしたら、この映画の製作者たちは、日本の新聞は、ヤクザが作ってヤクザが売るとでも言いたかったのではないかと。 確かに現在の新聞は、どの新聞も政府による大本営発表の記事を垂れ流すだけの代物に成り下がっていますからね。 ジャーナリズムの本義を失くしてしまった現在の新聞は、いずれ消滅する運命にあると思いますね。 とにかく松田寛夫の脚本の面白さには、舌を巻きました。 おびただしい登場人物を強烈なキャラクターで色分けしつつ、どの人物にもきちんと伏線を配し、最後にはハメ絵のようにピタッとその場所に納めてしまう。 しかも、すこぶる明快で、その上、笑いもサスペンスも濡れ場もたっぷりあって、もう見ていてワクワクしますね。 現実の政治家たちの派閥争いから、町内会の会長さん選びにまで共通する、生々しい駆け引きは、二転、三転、そしてドンデン返し。 まさに毒も実もある小気味良さ。 出番はわずかですが、緒形拳の妻役の吉田日出子が実にチャーミングで、多彩な俳優陣もみな達者。 この新聞社のモデル探しも気になるところですが、「新聞は内容ではない、販売部数だ!!」と叫ぶ、新聞人の言葉には、新聞人の本音が表現されていて納得しますね。
リオ・ロボ
この「リオ・ロボ」は、「赤い河」を皮切りに、「リオ・ブラボー」「ハタリ!」「エル・ドラド」と、ジョン・ウェインとのコンビで西部劇等の傑作を次々と放った、巨匠ハワード・ホークス監督にとって、盟友ジョン・ウェインと通算5度目のタッグを組んだ遺作になりましたね。 劇場公開時は、興行的にも批評的にも惨敗を喫してしまい、さすがにハリウッド史上屈指の巨匠でも、年齢による衰えは避けられないかと言われたそうです。 しかし、「腐っても鯛」ならぬ「腐ってもホークス」。 確かに、ホークス&ウェイン・コンビ作の最高峰「リオ・ブラボー」とは比べるべくもない凡作かもしれませんが、それでもなお、ハリウッド伝統の"王道的西部劇"の醍醐味を存分に味わえる、良質なエンターテインメント映画に仕上がっていると思います。 「リオ・ブラボー」と「エル・ドラド」に続く三部作の最終章とされるこの作品は、なるほど前二作と同じく、主人公たちが、保安官事務所に立て籠るという設定を用いていますね。 しかし、大きく違うのは、この作品の保安官ヘンドリクスが、悪者側だということでしょう。 そういうわけで、敵の親玉ケッチャムを人質に、保安官事務所を占拠したマクナリーらは、ボスを奪い返さんとする保安官一味を相手に、攻防戦を演じることになります。 やっぱり、毎回同じことを繰り返すわけにもいきませんからね。 その一方で、軽妙なユーモアとハードなアクションを織り交ぜた、ノリの良い群像活劇という路線は、往時ほどの切れや勢いがないとはいえ、前二作をそのまま踏襲していて、色々な意味で、安心して楽しめる作品に仕上がっていると思います。 若い女性陣から"安全なおじさん"扱いされて、ふてくされるジョン・ウェインもとても可愛いですね。(笑) 当時、既に60代だったジョン・ウェインの動きが、やけに鈍くてアクション・シーンがキツイとか、その相棒コルドナ役に起用されたメキシコの若手トップ俳優のホルヘ・リヴェロに、ウェインと渡り合うほどのカリスマ性がないとか、なんだかんだで敵の一味が、ヘナチョコ過ぎるとか、色々と粗を探せばキリのない作品ではあります。 そもそも、女性のセミヌードが出てくるあたりで、当時の若い観客世代を意識しているものの、それでもアメリカン・ニューシネマ全盛の時代に、この作品のような、"王道的西部劇路線"は、古臭く感じられたはずで、恐らく興行的・批評的な不振の原因は、その辺にもあったのでしょう。 脇役陣で光っているのは、飲んだくれのクレイジーなフィリップス老人を嬉々として演じているジャック・イーラム。 「リオ・ブラボー」のウォルター・ブレナンに相当する役柄ですが、西部劇の個性的な悪役俳優として鳴らした、ジャック・イーラムの芸達者ぶりが実に面白い。 敵陣へ侵入した際に、門番を片付けたフィリップス老人の「代わりに天国の門へ送ってやった」というセリフは、けだし名言ですね。(笑) これが初の大役で、「おもいでの夏」で私を虜にしたジェニファー・オニールも、鼻っ柱の強い女性シャスタを好演していると思います。 ジョン・ウェインの盟友ロバート・ミッチャムの息子クリストファー・ミッチャムは、「チザム」や「100万ドルの決斗」でも共演しており、恐らくデュークは、映画界の後見人として後押ししていたのだろうが、残念ながら期待されたほどのスターにはなれませんでしたね。 なお、顔面に傷を負ってセミヌードまで披露するアメリータ役のシェリー・ランシングは、その後、20世紀フォックスの製作部長やパラマウントのCEOを歴任して、ハリウッド史上、最初の女性モーグルになりましたね。 また、ジョン・カーペンター監督作の常連俳優ピーター・ジェイソンが、冒頭で転落死するマクナリーの部下フォーサイス中尉を演じているのも要注目ですね。
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