ワン・フロム・ザ・ハート
フランシス・フォード・コッポラ監督の「ワン・フロム・ザ・ハート」は、第二次世界大戦前後のアメリカ映画の楽しさを、1980年代前半頃の最先端の映像、音響技術を駆使して再現しようとした映画だ。 舞台はラスベガス。愛し合うカップルが、ふとした感情のすれ違いで、喧嘩別れをしてしまう。 そして、それぞれ別の恋人を見つけようとするのだが、本当の愛を確認して、また元のサヤへ納まっていくのだ。 この単純な物語に、全編に流れる、トム・ウエイツの音楽をたっぷり重ねて謳い上げ、ラスベガスの街もオールセット。 まさにあのMGMミュージカルのムードの再現。 画面も通常のスクリーンサイズではなくて、1940年代のスタンダードサイズで撮影しているのだ。 さらに、色彩までもが当時のテクニカラー発色に似せてあるのだ。 あの塗り込んだようなテクニカラー独特のタッチで、心理を語ろうとしているのだ。 しかも、何より興味深いのは、このセット、この色彩、そして華麗な画面構成が、全てVTRを利用した最新の映像技術で処理されているという事。 例えば、彼の説得を聞かないで、彼女は新しい恋人と飛行機に乗ってしまいます。 絶望のまま駐車場に引き返す、彼の後ろは空港ビル。 突然、そのビルの屋上すれすれに、彼女が乗ったジャンボ機が、ドワッと飛び立って行く。 遠近感を無視した映像効果が、ドラマティックな興奮を盛り上げるのだ。 これはVTRによる合成の効果なのだが、従来のマット合成やスクリーンプロセスでは得られなかった、美しい仕上がりと効果を発揮していると思う。 VTRからフィルムに戻す時に生じる、色の冷たい沈みが若干、感じられるのだが、それにしても見事な技術だと思う。 映画とは、こんなにも面白いものなんだよ。 こんなにも楽しいものなんだよ。 こんなストレートな映画の魅力を、最先端の技術の粋をこらして、フランシス・フォード・コッポラ監督は、語っているのだ。 ナスターシャ・キンスキーの神秘的な美しささえ、その狙いの一つなのだと思う。 この映像技術に目が届かないと、古いと思えるかも知れない。 重いと言う人もいるだろう。 しかし、このヘビーな画像こそ、コッポラ映像の思想であり、魔力なのだ。 まさに、映像と音響による魔性のトリップ感覚なのだ。
テオレマ
ミラノの大企業家パオロの家に、謎の青年がやって来る。 青年は、パオロやその家族と性的な接触を持ち、彼らの欲望を解放して、やがて立ち去る。 残された人々は、彼ら自身の真実に向き合うのだった。 彼に感化されたメイドは、屋敷を出て、聖女になり、パオロは、自分の工場を労働者に渡して、荒野をさまようのだった-------。 ピエル・パオロ・パゾリーニ監督は、最初このテーマを、詩による舞台劇として考えていたそうだ。 そのため、この映画は知的な構成が明らかすぎるほど明らかだ。 すみずみまで、よく計算されており、登場人物の役割も、わかりやすい。 だが、主人公が、神か悪魔かといった謎が、不条理演劇のように、簡単には割り切れないのだ。 それは、主人公のテレンス・スタンプの顔のクローズ・アップが、極めて映画的な効果をもたらしているからだ。 この映画は、映画史に残る、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の傑作のひとつだと思う。
帰らざる夜明け
1930年代の中頃、フランス中部の緑の田園地帯が背景で、田舎道を走るバスから中年の農家の女タティ・クーデルク(シモーヌ・シニョレ)が降り立ちます。 重い荷物を引きずって、通りかかった若者が手を貸して、それが縁でジャンと名乗る旅の若者(アラン・ドロン)は、彼女の家の野良仕事の手伝いをするために雇われる事になります。 このフランスの名女優シモーヌ・シニョレが演じる、女中あがりの後家さんは、十数年前に主家の父親に手ごめにされ、その息子にはらまされて死産。 そして、その息子と結婚したけれども、飲んだくれの亭主は死に、残った舅のアンリ爺さん(ジャン・ティシェ)が今も年がいもなく夜な夜な彼女を求めて来るのだった。 その彼女が舅を「いやらしい老いぼれめ」と罵れば、運河の跳ね橋を挟んで住む、亡夫の妹夫婦は老父を抱き込んで、彼女が支えてきた農場を横取りしようと狙っている。 そうはさせじと、肩ひじ張って後家の頑張りを、シモーヌ・シニョレが、がさつな動作で絶妙に演じてみせる。 この映画の主役は、実質、このシモーヌ・シニョレだと言えます。 やがて判明するジャンの正体は、殺人を犯して追われる身の医学生くずれですが、そんな若者が行きずりの年上の女の痛ましさに、ふと心惹かれ、彼女もまた、その優しさにすがって、女としての最後の炎を燃やします。 だが、ジャンは、彼女の義妹夫婦の娘で、まだ16歳の若さで父無し子をかかえたフェリシーとも、抱き合ってしまいます。 結局、フェリシーの両親は、兄嫁のタティ・クーデルクを憎むあまり、ジャンにも敵意を重ね、彼の秘密をかぎとると、娘に命じてパスポートを盗ませ、それを持って警察に密告します。 映画のラストは、警察官の大掛かりな包囲で、逃れきれぬと悟ったジャンは、未亡人のタティ・クーデルクをかばって射殺され、彼女もまた、流れ弾を受け、燃えさかる家の中で息絶えるのです。 あまりにも、むごすぎる悲劇ですが、映画はむしろ一つの風景の中の出来事として、淡々と描いています。 運河があり、機帆船が通り、跳ね橋が上下する、その古風でのどかなロケーションが実に素晴らしい効果を上げていると思います。 ささやかな地域社会の、まだささやかな片隅にも、人間の欲望と愛欲と孤独とが複雑に絡み合って、破綻の悲劇へと追い詰められていく、この物静かなニヒリズムがとてもいいと思います。
アイアンクロー
自分は90年代のプロレスファンなので「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックは、馬場さんとの試合を過去の映像として見たことがあるくらいで、80年代の息子たちエリック兄弟の活躍や悲劇は正直ぜんぜん知らなかった。 それでもアイアンクローという技は、小中学生のころ男子の間では広く知られていて、友達同士よくやり合った世代である。 そんな世代のプロレスファンでも、リック・フレアー、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディなど、知っているレスラーがちょろっと登場したりしていて、そこは見ていて楽しい。 映画としてはいわゆる毒親モノで、絶対的な父フリッツのスパルタ、抑圧、プレッシャーにより息子兄弟が不幸になっていく悲劇を描いている。 自分の夢を強制的に息子に託すという、典型的なダメになるパターン。(もちろん、うまくいく場合もあるが…) ただ、ストーリーはそれ以上でもそれ以下でもなく、事前情報として聞いていた通りの感じだったので、前知識を何も入れずに観たほうが驚きが得られると思った。 観た直後の感想としては、確かに父フリッツはひどい暴君ぶりで息子たちを苦しめるが、それにしたってエリック兄弟は不幸すぎるだろ…と。 本当に呪われてるような、そんな悲劇だった。 それでも最後は少し救いがあり、観客を安堵させてくれる。 また、父からのプレッシャーに苦しめられるが、兄弟たちは仲が良く、強い絆が感じられた。 だからこそ悲しいのだが…。 エリック一家(父や息子兄弟)を演じた俳優陣はみんな良かった。 それぞれ実際の人物の雰囲気をうまく出せていたと思う。 ただ、「プロレスの良さ・凄み」みたいなものは、この映画にはあまり感じなかった…。 プロレスのシーンでもう少し迫力や躍動感といったものを見せてくれれば、レスラーが苦労(トレーニングだけでなく、薬物使用など)してまでリングに上がる理由が伝わるように思う。 まぁ父親との確執の部分が弱くなってしまうのかもだけど…。 で…鑑賞後、エリック一家についてさらに調べたところ、映画よりももっともっとひどい悲劇であったことが判明し、絶句…。 なんだよ、事実が映画を超えてるじゃねーか‼
オッペンハイマー
「インセプション」「テネット」などのノーラン監督作品で、さらに上映3時間もあるということで、かなり身構えて観に行った。 「テネット」のようにチンプンカンプンだったらどうしよう⁉と心配もあったが、事前情報も少し頭に入れてから視聴したので、自分が思っていたよりは難解には感じなかった。 ただし、登場人物も多くて名前は覚えられないし、誰が何者かという説明もなく、会話から察するしかないので、そこは初見で全てを理解するのは不可能だと思う。 また、時間軸も説明なしにコロコロ変わる。 モノクロ映像だったり、服装や見た目で判断はできるが、ここもかなりややこしい…。 あとは、オッペンハイマーがスパイ容疑をかけられた件(聴聞会など)が意外と映画の大部分を占めていて、ここももちろん説明なく始まるので、最初は何をやってるんだろう?となった。 基本、会話のシーンがほとんどで、話を理解するために3時間ずっと頭を働かせないといけないので、上映後はまぁまぁの疲労感だった。 で、観たあと最初に思ったのは、なんでクリストファー・ノーランはこれを撮ったんだろう? オッペンハイマーを題材にした映画、ノーランが撮らなくてもよくない?? と感じてしまった。 確かにオッペンハイマーという人物の人間性だったり、パーソナリティーという部分はとてもよくわかる作品ではあった。 が、その他の部分が説明不足すぎて、一回観ただけでは自分含めた一般の人には伝わりにくい。 このわかりにくさはノーラン監督の作家性だから仕方ないが、原爆を開発したオッペンハイマーという人物の物語を描くのであれば、もう少し一般の人にわかりやすくするべきだと被爆国の人間としては思う。 そして、よく言われている原爆描写が不十分という指摘。 自分も正直、それを少し感じてしまった。 あくまでオッペンハイマー視点、当時もちろんオッペンハイマーが実際の原爆投下を目撃したわけではないので、そこは描かないという理由もわかる。 ただ映画では、オッペンハイマーは頭の中で原爆の凄惨さを体感してしまう。 そこの描写は、「はだしのゲン」などを見て育った自分からするとやっぱり弱いなぁと…。 まぁ「はだしのゲン」のような原爆投下直後の被爆者を実写で描くのはいろいろ難しいだろう…。 なので、そこはもう直接的に当時の写真などを使って見せても良かったんじゃないかと思う。 その方が原爆や被爆の残虐性が海外の詳しくない人たちにもより伝わるし、後のオッペンハイマーの苦悩も観客がより共感できたと思う。 総じて、悪い作品とも思わなかったし、正直アカデミー作品賞を取るほど良かったとも思わなかった。 個人的にはノーランの「オッペンハイマー」より、スピルバーグの撮った「オッペンハイマー」を観てみたかった…。
ゾディアック
この映画はデビッド・フィンチャー監督作品で、フィンチャーが連続殺人事件を描いたということから、出世作の「セブン」を思い出した。 だが、この映画「ゾディアック」が「セブン」と大きく異なるのは、ここで描かれているのが実際に起こった事件であり、いまだ未解決という点だ。 それと惨殺死体だけを見せた「セブン」に対して、こちらは犯行そのものを映していく。 しかも、このときのカメラが容赦ないんですね。 次々と有力情報がもたらされるものの、どれも実ることはなく、結局は空振りに終わってしまう。 この描き方がドキュメンタリーとまでは言わないにしても、少し引いた目線で描かれる。 ところが、それがある瞬間、一気に身も凍るスリラーへと変わる。 この話法の転換が実に見事でしたね。 犯人の挑発、自己顕示欲。それにマスコミが乗ったことで、モンスターのようにその像を膨らませていった。 そして、そのことがまた真実を知りたいという男たちの執念をさらに増幅させる。 しかし、もがけばもがくほど一様に深みにハマっていく。まさに底なし沼。 フィンチャーは、そんな事件に魅入られた男たちをひとりに絞ることなく複数描くことで、この事件が生み出した不条理そのものをあぶり出しているようにも見える。 論理では決して割り切れない、人間の不可解な心理と行動。 そういう意味でも、実に見応えのある映画だった。
ロッキー2
この「ロッキー」の続篇、「ロッキー2」は、シルヴェスター・スタローンが主演・脚本に加えて演出も担当している、ワンマン映画ですね。 「ロッキー」の後、主演した「F・I・S・T」も、監督兼任の「パラダイス・アレイ」も、今一つパッとしなかったスタローンとしては、なんとしても、この映画を成功させたかったに違いありません。 彼のそんな初心に帰った、その気迫が、作品の出来は別としても、この映画の強烈な熱気となって表れていたと思います。 物語は、前作のあの感動的なクライマックスから始まります。 あのチャンピオン・アポロとの死闘。駆けつける恋人・エイドリアン。 予想以上の頑張りを見せたロッキーは、一躍、人気者になります。 CM出演の話もきたし、家も買った。 エイドリアンと結婚し、彼女は愛の結晶を身ごもります。 そんな中、アポロは再試合を求めるんですね。 あの時、ロッキーを叩きのめせなかった不満。 つまり、焦りを露わな怒りに変えての挑発なんですね。 だが、ロッキーは、この挑発には乗らない。 エイドリアンとの約束があるからだ。 しかし、生活は次第に苦しくなり、彼は精肉工場や沖仲仕などの肉体労働で働くが、うまくいかない。 妻も身重のまま、ペットショップで働きます。 とうとうロッキーは、再試合の調印をしてしまう。 それを知った妻は、倒れて早産、昏睡状態のまま、生死の境をさまようことになるのです。 神の前で、妻の蘇生を祈るロッキー。 やがて、意識を取り戻した妻は、ロッキーの手を握りしめて、ひとこと言う。 「私とベビイのために勝って」。 あまりにもベタな場面ですが、でも、いい場面ですね。 そして、これからが、レビューでも触れられていたように、アドレナリンの上がる、怒涛のいい場面へとなだれ込んでいきます。 朝陽を背に、力いっぱいのトレーニングをするロッキー。 人間、やる気を起こした時の爽快な感情の高まりを、映像のリズムに再現した見事な場面ですね。 そして、チャンピオン・アポロとの激闘、勝利。 恐らく、公開当時、アメリカの映画館では、観客のもう総立ちの拍手が鳴り響いていたでしょうね。 もう、本当にベタな演出なんですが、観る者の心理を十分に読み込んだ、うまい盛り上げ方ですね。 それだけに、当然、結果は予想がついていたにもかかわらず、でも、わかっていても、ロッキーに声援を送りたくなる魅力を、この映画は持っているんですね。 裏町で、力いっぱい生きて行く勇気。土壇場で立ち上がる、その意欲。 ストレートに、素直に、観る者の心に響いてきます。 映画を観るという行為の中で、これはやはり、大切な事なのだと思いますね。
薔薇の名前
“ウンベルト・エーコのメタファーと引用に散りばめられた知の迷宮世界をジャン・ジャック・アノー監督流に映画化した怪奇幻想の中世ミステリーの異色作「薔薇の名前」” この映画「薔薇の名前」は、原作がイタリアの記号学者ウンベルト・エーコが1980年に発表した、古典的ミステリー小説の映画化で、監督が8万年前の人類の生活を描いた異色SFで、世界中の映画ファンを熱狂させた「人類創世」のジャン・ジャック・アノー。 主演が当時、円熟期を迎えていた我らが、初代ジェームズ・ボンドことショーン・コネリー、共演にこの映画の前の出演作「アマデウス」で憎々しげなサリエリ役でアカデミー主演男優賞を受賞したF・マーリー・エイブラハムとミステリー好き、映画好きが泣いて喜ぶメンバーが結集した映画です。 舞台は、中世ヨーロッパに異端審問の嵐が吹き荒れていた14世紀の、北イタリアのベネディクト修道院に、会議の準備のために、修道士のバスカヴィルのウィリアム(ショーン・コネリー)と見習い修道士のアドソ(クリスチャン・スレーター)がやって来るところからこの物語は始まります。 この修道院に着いた二人を待ち受けていたのは、不可解な殺人事件でした。 そこでキレ者の修道士のウィリアムとその弟子のアドソは、この修道院の文書館で、挿絵師として働く若い修道士が、謎の死を遂げ、それに続いて、ギリシャ語の翻訳を仕事とする修道士が殺されたため、これらの事件の真相究明に乗り出し、この事件が、文書庫と関係があると睨むが—-という展開になっていきます。 映画を観る前は、何かイメージ的に”荘厳で重厚なドラマ”だと思っていましたが、実際に観てみるとその内容は、”爆笑する恐怖ドラマ”で、映画のファーストシーンからラストシーンに至るまで、終始一貫して、この”二重構造”が貫かれているところが、潔いというか感心してしまいました。 とにかく舞台が中世の僧院なので、暗くて、重たくて、難解そうだなという感じで、事実、画面は一貫して限りなく暗く、重たく、難解そうなムードが漂っているんですが—-ところが中味はというと、全く正反対で終始笑えるほどのおかしさに満ち溢れているのです。 修道士のウィリアムとその弟子のアドソの関係は、かの名探偵シャーロック・ホームズとワトソン博士の関係になっていて、主人公がバスカヴィルのウィリアムス—-これからわかるように、かのシャーロック・ホームズ物の名作「バスカヴィル家の犬」と言う事で、コナン・ドイルへのリスペクトとオマージュを捧げているのがわかります。 また、修道院に到着したウィリアムが、すばやくトイレの場所を推理してしまうシーンで、いきなり笑ってしまいます。 とにかく、”あぶり出し文字”はあるは、”からくり部屋”はあるは、”落とし穴”あり、”暗号”あり、”迷路”ありと、古典的なミステリーの定番がこれでもかこれでもかというくらいのオンパレード。 ミステリー好きにとっては、たまらない仕掛けが連続して、すっかりうれしくなってしまいます。 そして、連続殺人で殺されていく修道士たちの殺され方というのが、また、いちいち凝っていて笑わせてくれます。 その中でも一番おかしかったのは、大きな水ガメの中に頭を突っ込んで死んでいる人が、脚を思い切りVの字開きしていたのが、最高にチャーミングでお茶目な演出でした。 最後に超人ともいえるウィリアムが、絶体絶命の大ピンチに見舞われ、ああ、遂に彼も死んでしまうのか、どう頑張っても彼が生き延びる可能性はないなと思っていたら、何と彼は無事、生き延びてしまうのです。 どうやって、彼が危機を脱出出来たのかについての説明は全くありません。 後で、じっくり考えてみても、よくわかりません。 そこで私なりに推理してみました。多分、これは監督にもわからないでしょう。 彼が生き延びた理由は唯一つ、これしかありません。 それを演じていたのが我らがショーン・コネリーだったからなのです! これ以外に理由は、全く考えられません(笑)。 こういう、ある意味、いい加減なご都合主義の撮り方って大好きですね(笑)。 また、この映画にはとにかく、”異常な顔”がたくさん出てくるところも私好みです。 修道士がみんな、念入りにインパクトの強烈な顔の持ち主ばかり。 よくもまあ、これだけ凄い顔ばかり集めたものだと感心してしまいます。 その中でもロン・パールマン、彼の”異常な顔”には誰もかないません。 “まともな顔”というのが、主役のショーン・コネリーとその弟子のクリスチャン・スレーターだけというから、とにかく凄すぎます(笑) 「アマデウス」でサリエリを完璧に演じたF・マーリー・エイブラハムが完全な”悪玉”の顔になっていたのはさすがでした。 考えてみると、確かに中世の僧院というのは、相当、異常なところだったろうと思います。 この映画を観ていると、つくづく”カトリックの世界は、壮絶なサディズムとマゾヒズムのせめぎ合う世界”じゃないかとも思ってしまいます。 心理的なSMの美学の香りが漂ってきそうな雰囲気を妖しく醸し出しています。 この映画は表面的な中味は、ほとんど”お笑いの世界”なのですが、奥深いところで”カトリックのSMの美学”の方もしっかりと描いていて、この映画、一筋縄ではいかないというのか、なかなか侮れません。 そして、映画好きとしての、この映画の最大の見どころは何と言っても、主役のショーン・コネリーのカッコよさ、渋さにつきます。 同時期の「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ監督)でも、彼の出演シーンだけ突如、渋いトーンになっていましたが、彼ほど年齢を重ねていくにつれて、魅力を増していく俳優も珍しいと思います。 何といっても、彼の年輪を重ねた顔のシワが、男としての魅力に満ち溢れています。 額なんか縦ジワと横ジワが交差してチェック柄になっていたりします。 それが、”老いのわびしさ”ではなくて、”老いの豊かさ”を象徴しているかのように見えてきます。 正しく、我らがショーン・コネリー、男としても役者としても円熟の境地です。 尚、この映画は1987年度の英国アカデミー賞にて、ショーン・コネリーが最優秀主演男優賞を受賞(納得の受賞です!)し、メイクアップ賞も受賞し、1986年フランスのアカデミー賞に相当するセザール賞にて、最優秀外国映画賞を受賞しています。
秋のソナタ
イングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」は、人間の孤独やエゴイズム、憎しみや不安や絶望というものをテーマに、厳しく人間の内面を凝視する作品だ。 才能のある、性格も勝気な女性が、平凡な家庭生活におさまっていられなくて、夫と子供たちを捨てて家を出て行ってしまう。 夫を嫌ったわけでもなければ、子育てにうんざりしたわけでもない。 ただ、どうしても家庭におさまりきれなかっただけなのだ。 そんな妻=母に見捨てられた夫と子供たちは、彼女の才能や女性としての魅力を誇りとして賛美していただけに、彼女を憎むよりもむしろ、彼女の家族であることに値しないかのように扱われてしまったことの劣等感に苛まれて、ひっそりと生きてきたのだ。 夫は再婚もせず、自分を捨てた妻を想いながら、わびしく死んでいった。 長女は、そんな父を愛おしく思えば、なおのこと、母の不人情さを憎むよりも、母の愛に恵まれなかった自分を悲しく思うばかりである。 そして、長女は心優しい牧師と結婚し、寝たきりの身体障害者で言語障害もある妹を引き取って、一緒に暮らしている。 彼女には子供もあったが、死んでしまった。 長女の夫の牧師は、そんな、母の愛に恵まれず、悲しい思い出の多い妻を心から愛し、いたわっているが、知的で自己に厳しく、不幸は全て自分の内側に囲い込んで静かに微笑していて、夫に甘えるというようなことの微塵もない彼女の心の中には、もう一歩、入り込めないもどかしさを感じているようである。夫はただ、ちょっとはらはらしながら、彼女を見守っているばかりらしい。 一方、家庭を捨てて広い世界に翔んでいった母は、そこで、ピアニストとして才能を顕し、演奏旅行で世界各地を歩き、たぶん多くの才能で有名な男性たちとも交わったのであろう。 しかし今、寄る年波で、長年支えになった愛人とも死別し、ちょっと心が落ち込んでいる。 仕事も落ち目なのかもしれない。 ある日、思い立って長女に手紙を書く。 長女は喜んで母を我が家に招きたいと返事を書く。 そこで、母が、七年ぶりに娘に会いにやってくる。 イングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」は、以上のような過去を前提として、この母親が長女夫婦の家へ訪ねてくるところから始まります。 厳密に言えば、この母娘の物語の紹介者のようなかたちで、まず、長女の夫が現われて妻の性格や自分とのロマンスを印象的なエピソードを交えて説明するところから始まり、続いて、妻が母へ、是非しばらく一緒に暮らしましょうという手紙を書いて夫に見せるという運びになり、次いで母親が訪ねてくる場面になります。 北欧のどこか、湖に面した静かな美しい風景と、贅沢ではないが、申し分なく好ましいたたずまいの家屋。 リヴ・ウルマンの演じるつつましく聡明そうな長女エヴァと、見るからに好人物であるが決して愚かではないその夫のビクトール(ハールヴァル・ビョルク)。 そこにやってくる母親シャルロッテ(イングリッド・バーグマン)。 ベルイマン監督の映画には難解なものが多かったが、この作品は、以前撮った「ある結婚の風景」と同じように、難解なところはひとつもない。 それどころか、この出だしなど、まるでチェーホフかストリンドベリーの芝居の幕開きを思わせ、さあこれから、少し深刻だけれども十分に趣味のよいドラマで愉しんでいただきます、と口上を述べているような趣さえあるのです。 ある人物が訪ねてくることによって、それまでそこに凍結されていた人間関係の葛藤が再び動き出し、過去に積み重ねられていた諸々の愛憎が表に出て、収拾のつかないような混乱にまでたちいるが、最後にはまた、登場人物たちのささやかな力ではどうにもならないような大きな矛盾が明らかになるのだ。 そこで登場人物は、最初よりは少しは深まった認識で、静かに破局に耐えなければならず、我々観る者は、そのわびしさ、せつなさを主人公と共有して、知的な涙の浄化作用に身を委ねるのです。 チェーホフやストリンドベリーを頂点とする近代劇には、こういう構成の作品が多いが、ベルイマン監督はこの映画で、明らかにその定型通りに愉しませることをくっきりと予告し、見事に愉しませ、きりりと定型どおりに終わらせるのです。 だが、では定型なら陳腐かと言えば、全然そうではなく、近代劇にはあり得なかったような、たんげいすべからざる新しい要素がそこにあるのです。 それは、主として母親のキャラクターに関わるものなのです。 イプセンの「人形の家」であまりにも有名なように、家庭を捨てて翔んでゆく女性というのは、近代劇が生み出したヒロインの最たるものだと思う。 家を出たノラが、その後どうなったかという議論は、魯迅の原作の中国映画「傷逝」にもあった。 かつては、ノラは家を出たことをきっと後悔しただろう、という話になることが多かったが、女性の社会進出の著しい昨今では、家を出て良かったというノラが増えているに違いない。 シャルロッテは、成功したノラとして、ほとんど自分が悪かったとは思わずに娘のところへ帰ってくる。 捨てた娘に会うのは少しバツが悪いが、娘は自分を誇りにしているはずだ、ぐらいの気持ちらしい。 シャルロッテは、エヴァから次女のヘレナ(レーナ・ニーマン)が同居していると聞いて嫌な顔をする。 夫と長女を捨てたことについてはなんとも思っていないが、身障者の次女を見捨て、かえりみなかったことは、さすがに母親として良心が咎めるからだろう。 しかし今さら引き返すわけにもいかないので、ヘレナの部屋に行って元気づけるようなことを言うのだった。 しらじらしい、うわべだけの言葉である。 彼女は、ノラのように俗物の夫の鎖を勇気をもって断ち切ったというより、芯からのあっけらかんとしたエゴイストなのだ。しかし、イングリッド・バーグマンは、これを思うがままに生きてきた魅力的な女として演じているし、ベルイマン監督も決してこの母を非難してはいないのだ。 多分、このシャルロッテは、これを演じるバーグマン自身をモデルとして描いたもののような気がします。 スウェーデン出身で、幸福な家庭の妻であり母であった彼女が、ハリウッドで大成した後、イタリアの大監督ロベルト・ロッセリーニに惚れて、家庭を捨てたことはあまりにも有名な話です。 エヴァは母を喜んで迎えたつもりなのだが、会えばもう、かつて捨てられたことの恨みしか出てこない。 それどころか、エゴイストの母親によって少女時代にどんなに劣等感ばかり募らされたかを言いたてるのです。 シャルロッテはあやまって、これからは仲良くなってゆこうと下手に出るが、エヴァの心のわだかまりの深さに辟易すると、さっさとまた家を出て行ってしまうのだ。 このエヴァの、自他ともに神経的にまいってしまうところまで鋭利な言動で追い込んでゆく過程は、これまでもベルイマン作品でもう何度見せられたか分からぬお得意のところで、リヴ・ウルマンの演技も堂に入っている。 リヴ・ウルマンの剃刀の刃のような切れ味の演技に比べると、さすがの大女優バーグマンも押され気味で、たじたじしながら臭い大芝居で持ちこたえているように見える。 しかし、この二つの役は明らかにバーグマンのほうが儲け役であると思う。 母に去られたエヴァが、せっかく老後を穏やかに過ごそうとする母の心を傷つけてしまったことで、またくよくよ悩んでいるのに対し、再び家を出たシャルロッテのほうは、汽車の中で新しい愛人の老指揮者かなにかの手を握って嬉々としている。 あくまでも良心的で、常に悩まずにはいられない娘と、身障者の次女を家に残してきたことすら、もう忘れてしまったかのような母とのカットバック。 この勝負は明らかである。母は強者であり、娘は弱者である。娘のほうが道徳的には正しいが、しかし彼女は、この無邪気な強者である母親を凌ぐことは決してできないのだ。 母娘が一緒にピアノでショパンを弾く場面で、母がショパンの”男性的な力強さ”について娘に語り、娘がそう教えられられてしょんぼりするあたりが素晴らしく象徴的だが、ただ良心的で内省的であるだけの人間は、悪気のない実行力のある人間にはとても勝てないのである。道徳より人間的魅力に軍配が上がるのだ。 ベルイマン監督はこれまで、エヴァ的な人間の苦悩だけを一途に追ってきたが、「ある結婚の風景」のラストで別れた元夫婦による姦通をユーモラスに肯定してみせたあたりから、苦悩を忘れても許される人間というものを、ちらりと見せ、それに微笑を与えている。 このエヴァとシャルロッテの表現で、それはいっそう明らかになったと思う。バーグマンが儲け役であり、臭い芝居を得々とやっても、それがかえって可愛く見える所以である。 しみじみと優しいが、しかし十二分に辛辣な映画であり、演出も演技もカメラも完璧だ。
裸足で散歩
ニューヨークの演劇のメッカ、ブロードウェイで1963年10月23日に公演の幕を開けてから大ヒット・ロングランを続けた、「おかしな二人」などのウェルメイドなコメディを得意とする劇作家・ニール・サイモンの「裸足で公園を」の映画化作品の「裸足で散歩」。 舞台の演出のマイク・ニコルズに代わって、ジーン・サックス監督が演出し、主演はブレーク前のロバート・レッドフォードが舞台からスライドして、相手役は舞台のエリザベス・アシュレイに代わって、当時、売り出し中だったジェーン・フォンダで、脇をフランスの名優・シャルル・ボワイエ、ミルドレッド・ナットウィック、ハーバート・エデルマンが固めるという豪華で素敵なメンバーが出演しています。 ニール・サイモンが得意とする笑いあり、ペーソスありの都会的な洒落たウェルメイドのコメディ映画として、古き良き時代のアメリカ映画の面白さを堪能出来ました。 ロバート・レッドフォードとジェーン・フォンダは「逃亡地帯」(アーサー・ペン監督)以来、2度目の共演ですが、この二人が新婚夫婦を演じ、ニューヨークのとある古びた屋根裏部屋のあるひどい部屋に住む事になり、そこから巻き起こるゴタゴタを笑いとペーソスで描いていきます。 このようなコメディ映画の良しあしは、脇役の出来不出来で決まる事が多いものですが、この映画では屋上の部屋の住人の「ガス燈」の名優シャルル・ボワイエ、ジェーン・フォンダの母親役のミルドレッド・ナットウィック、電話の工事人役の「男はつらいよ」シリーズにも出演した事のあるハーバート・エデルマンが、ユニークで味のある良い演技をしていて、主役二人に対して、絶妙なバランスの良いアンサンブル演技を示していて、映画全体が非常に良くなったと思います。 ニール・サイモンのいつもの、その独特なウィットの効いたセリフ廻しと都会的な洒落たタッチが観ていて、すごく心地良いというか、ハートウォーミングな感覚がいいんですよね。 そして、彼の得意とする、短いセリフを数人の登場人物が矢継ぎ早やに、かつスピーディに応酬するというコメディタッチの中に、辛辣で皮肉に満ちたペーソス感を醸し出すのが実にうまいなと、いつも感心してしまいます。アメリカ人が、ニール・サイモンのお芝居が大好きな理由がよくわかります。 その後、「明日に向って撃て!」で大ブレークする前の、若き日のロバート・レッドフォードがコメディ映画に出演しているのも珍しく、大いに見どころがあり、泥酔してセントラル・パークの中を裸足で歩き廻り、ゴミ箱を頭から被ったりするなど、コミカルで、非常にチャーミングで素敵な演技を披露しています。 また、若妻役のジェーン・フォンダもまだ、演技派女優になる前の明るくハツラツとした頃の可愛らしさに溢れていて、ロバート・レッドフォードともまさにピタッと息の合った演技を見せています。
赤い天使
この映画「赤い天使」は、増村保造監督、若尾文子コンビによる第15作目の作品で、敗色濃い中国大陸を舞台に、従軍看護婦とそこで出会った男たちの物語だ。 この映画は「兵隊やくざ」と同じ有馬頼義の原作ですが、あの痛快さや開放感はどこにもなく、暗く重苦しいトーンで貫かれている。 最前線の野戦病院は、傷病兵であふれ、死者も生者も一個のモノと化していく。 負傷した脚をノコギリで切断する音が響く手術の描写をはじめ、実際に従軍経験のある小林節雄の撮影を得た、増村保造監督の過剰なまでのリアリズム演出は、戦争の真実を抉って鬼気迫るほどだ。 両手を失った一等兵(川津祐介)、戦場の狂気の中で正気を保とうとモルヒネを常用する医師(芦田伸介)。 戦争に身体も心も蝕まれた男たちに深い愛を捧げるヒロインを演じた若尾文子が、凄絶なまでに美しい。 増村保造監督の映画のヒロインの多くは、狂気の愛に生きるが、戦場という極限状況に置かれた若尾文子は、おびただしい死と隣り合わせの男たちに愛を与え、一瞬の生を実感させる。 狂気でもエロスでもない、純粋な愛を。
アメリカン・フィクション
アカデミー賞ノミネート作品がアマプラで配信されているということで軽い気持ちで視聴したが、皮肉が効いた良質なブラック・コメディ映画で十分楽しめた。 差別、貧困、ドラッグ、ギャング…という黒人に対するステレオタイプなイメージ、そして無意識にエンタメとして黒人に求めているもの。 そんなものだけが勝手に黒人のリアルだと人々は勘違いしてしまっている。 実は主人公の家族のようにインテリで富裕層の黒人も多くいるし、割合で言えば中流家庭の黒人がほとんどで、そこは日本とあまり変わりないのかもしれない。 映画、本、音楽などのエンタメの影響もあり、自分も「黒人」で連想するイメージは先に述べたような「差別」「ギャング」といったステレオタイプなものだった。 この映画で言う、「読者は馬鹿だから」に完全に当てはまる人間だった…。 そんな勝手なイメージや勝手なリアルを思いっきり皮肉った身につまされるコメディで、派手さはないけどジワジワと沁みてくるような笑いで、大人の雰囲気の作品に感じた。
落下の解剖学
このレビューにはネタバレが含まれています
ハムレット
この映画「ハムレット」は、イギリスを代表するシェイクスピア役者の名優ローレンス・オリヴィエが、製作・監督・主演をし、自身アカデミー主演男優賞も受賞したハムレット映画の決定版だ。 そして、このウィリアム・シェイクスピアの代表的な舞台劇の映画化にあたり、当時、彼が主催する名門オールド・ヴィク座から多数の舞台役者を招聘し、重厚で見応えのある作品に仕上げていると思う。 暗い画面の中に渦巻く霧が割れて、遥か下方に、陰鬱そのものの様なエルノシア城の望楼が、黒々と浮かび上がってくる。 これが、この映画「ハムレット」の全てを象徴しているように思う。 デンマークの王子ハムレットは、亡き父王の亡霊に出会い、父が暗殺されたことを知り、殺害者で、現国王のクローディアスに復讐を誓う。 そのため、ハムレットは狂気を装うが、誤ってオフィーリアの父ポローニアを殺してしまう。 そして、旅芸人一座に暗殺劇を上演させて、クローディアスの犯罪を突き止めたハムレットは、クローディアスに唆されたレアティーズと試合をするが-------。 この映画化作品は、確かに舞台そのものを模倣しているところがあり、アブストラクトな装置やスモーク、ワンショットが非常に長く、カット数も少ないため、まるで舞台そのものを観ているような気になり、映画を観ていることを忘れさせてくれます。 しかし、ここには、オールド・ヴィク座の舞台での歴史的な成功とはまた違う、オリヴィエの映画的欲望といったものが、もう凄まじいまでの重厚さで埋め込まれていると思う。 例えば、亡き父の亡霊に復讐を誓った後、カメラは亡霊の目になって、事の真相を知らされて絶句するハムレットを見つめながら階段を昇って行く。 また、母親ガートルードとのいさかいの場面に、ハムレットを諫るため自ら登場した亡霊は、その後、またしても、もがき苦しむハムレットを見つめながら、部屋の階段を昇って行く。 どちらも、ハムレットを一人残して亡霊、つまりカメラが階段を後ろ向きに引いて行くショットとなっている。 つまり、ここでは観ている側の我々の視点と亡霊の視点が一体化しているのだ。 そのため、亡霊の目で、この復讐劇全体を眺めるという、稀有な「ハムレット」体験を可能にしてくれていると思う。 そして、この後ろに引いて行くショットは、もう一箇所出てくる。 オフィーリアに「尼寺へ行け!」と暴言を吐いた後、舞台劇ではもっと後の場所なのだが、この映画では、そのまま城の上まで一気に昇って、この劇で最も有名な「生きるべきか死ぬべきか」のモノローグになる。 それはあたかも、亡霊に呼び寄せられたかのように、城の上に出て行く印象を与えている。 つまり、ハムレットは、ここで亡霊と一体化するのだ。 そのため「生きるべきか死ぬべきか」というセリフが口をついて出てくるのだ。 まさに生死をさまようハムレットが、この映画的手法によって表現されているのだと思う。 その他にも、黒と白との息詰まるコントラストや、ナレーションによる独白などで、復讐に焦点を絞った、明晰で、理性的なハムレット像を創ったオリヴィエは、ここでは、舞台ではなく、まさしく"映画のハムレット"を生み出しているのだと思う。
勇気ある追跡
この映画「勇気ある追跡」は、西部劇の大スター、ジョン・ウェインに初のアカデミー主演男優賞をもたらした記念すべき映画です。 「ネバダ・スミス」、「エルダー兄弟」などの娯楽映画のベテラン職人監督のヘンリー・ハサウェイがメガホンを撮ったこの映画は、ジョン・ウェインの数ある西部劇の出演作の中でも異色の西部劇といえると思います。 黒いアイパッチをつけ、粗野で大酒飲みの保安官というキャラクターで、珍しく汚れ役を演じています。 ジョン・ウェインは1959年の「リオ・ブラボー」(ハワード・ホークス監督)以降、それまでの精悍で立派なイメージに執着する事をやめて、実際の自分の実年齢と体型にふさわしい役柄を演じるようになっていたため、この映画のような汚れ役は初めてだと思います。 彼は1964年頃から、癌と闘いながらタフでたくましい西部の男を演じ続けて来ましたが、今回の1969年の「勇気ある追跡」で初の汚れ役に挑戦して、それを見事に演じきり、今まで過少評価されていた演技力を広く認めさせる事になったと思います。 原作はチャールズ・ポーティスが1968年に発表して、米国で大ベストセラーになった「トゥルー・グリット」で、アメリカ現代文学史に残る名作として現在も長く読み継がれている小説です。 14歳の時、父親を悪党に殺された女性の一人称形式の小説で、成長した彼女の視点から振り返られた過去の物語という設定で、少女時代のキム・ダービー演じるマティに復讐の助っ人として雇われるのが、ジョン・ウェイン演じるルースター・コグバーン保安官で、彼は元南軍の無法ゲリラ部隊の一員で銀行強盗も働いた事もあるという、複雑な過去を持つ、クセのある人物像になっています。 ジョン・ウェインが画面に登場すると、彼の映画の中での過去の異常でダーティな体験が、そのまま彼の体全体からにじみ出ているような男を、勝気で向こう見ずな少女マティが助っ人として雇う映画の最初のシーンに我々観る者は映画的なワクワク感と共に、魅力的な映画の世界にスーッと引き込まれてしまいます。 まるで、”少女マティの紡ぎだす夢の世界のような、非現実的で、心躍る展開”になって来ます。 助っ人としてもう一人、テキサス・レンジャーの若者のカントリーミュージックのスターのグレン・キャンベルが演じるラ・ビーフの三人で、父親殺しの犯人のトムの追跡の旅に出るというスリリングな物語が展開していきます。 この映画の白眉はなんといっても、映画ファンの間で伝説的な名場面として語り草になっている、クライマックスの馬上のコグバーンが、口に手綱をくわえ、ライフルと拳銃で応戦しながら、悪党一味の中に突っ込んで行く場面ですが、しかし映画ファンの大向こうをうならせる、その死闘の場面だけではなく、そこに至るまでの三人の追跡の旅の過程も味わい深く、興味深いものがありました。 三人三様に向こう意気が強く、最初は互いに罵り合っていましたが、旅を続け、共に闘ううちに、お互いの心を開き、やがて本当の親子のような関係になるというエピソードには、ヘンリー・ハサウェイ監督、なかなかやるなという印象を強く持ちました。 原作の小説を先に読んでから、この映画化作品を観ましたが、原作の小説がそうであるように、この映画のこのようなデリケートな味わいのエピソードというものは、結局、少女マティの見た夢のような印象を与えます。 原作者のチャールズ・ポーティスも、父親を亡くした少女マティの”無意識的な願望が生んだファンタジー”として構想されていたような気がしてなりません。 そう言えば、後年の2010年にこの映画のリメイク作品である「トゥルー・グリット」(ジョエル&イーサン・コーエン監督)も一種のファンタジーである事を強調して映画化されていましたが、イーサン・コーエン監督も「トゥルー・グリット」の製作意図として、「現代人には非常にエキゾチックに感じられる世界に、14歳の少女が入り込んでゆくという点で”不思議の国のアリス”のような作品でもある」といみじくも語っていたのが、この事を象徴的に言い表わしていると思います。
長い上映時間と、法廷映画で物事の事実がはっきりとするストーリーではないので途中退屈に感じてしまった。 でも、ハッキリスッキリしないストーリーを楽しむ映画で鑑賞後にあれこれと考えたり他の方のレビューを見るのが楽しい映画でした。 夫婦関係を題材にしただけの映画に見えますが、実際には共働き家庭の家事育児分担、国際結婚、親権争い、性的指向、障害など現代社会の要素がたくさん盛り込まれています。
お熱いのがお好き
この映画「お熱いのがお好き」は、1920年代に禁酒法が施行されていた時代のシカゴで物語が始まります。 ギャングの親分が、裏切り者を処刑しているところを偶然、目撃してしまった、バンドマンのトニー・カーティスとジャック・レモンは、ギャングから逃れるために、女だけの楽団に女装してもぐりこみ、マイアミへと向かいます。 トニー・カーティスは、マリリン・モンロー扮するシュガーという楽団の歌手を好きになってしまい、ジャック・レモンは、マイアミの富豪ジョー・E・ブラウン扮するオスウッド・フィールデイング3世に一目惚れされてしまうのです--------。 この映画はモノクロなのですが、ジャック・レモンとトニー・カーティスの女装というのは、ある意味、グロ的なものもある為、敢えてカラーにしなかったのではないかと思いますね。 それにしても、1920年代の女性のファッションがとても素敵で、モンローがかなりセクシーなドレスを着ていて、アカデー賞の衣装デザイン賞を受賞したのも納得しましたね。 この主要な登場人物が繰り広げるドタバタは、よく練られた脚本の力なのだと思います。 とにかく、実に面白くて、最後まで飽きません。 ギャングたちとの追っかけっこのシーンは、まさにコメディそのもの。 強面のギャングたちと女装したバンドマンという、対照的な男たちが走り回るシーンは、大爆笑ものです。 モンローとカーテイスのロマンスも陳腐と言えば陳腐なのですが、それでも二人の個性で楽しく観れるんですね。 嘘から出た誠という諺を思い出してしまうストーリーでした。 モンローが楽団の歌手として歌う歌に、有名なナンバーがありましたね。 「ブブッピドゥ------」というスキャットの入ったあの歌。 「I wanna be loved by you just you nobody else but you」というフレーズのあの歌です。 あの可愛らしい声で情感たっぷりに歌うモンローは、本当に言葉では言い表わせないくらいにチャーミングで素敵です。 そして、何よりこの映画で最も素晴らしかったのは、ジャツク・レモンとトニー・カーティスの名演技ですね。 まるで漫才コンビのような二人の丁々発止のやりとり、女装した二人の妙な女っぽさ、逃げるためにする色々な変装。 どれをとってみても、可笑しくて、本当に素晴らしかった。 映画監督をおおまかに2種類だけに分けるとしたら、自分で脚本を書く監督と、書かない監督に分けられるのではないかと思います。 この映画のビリー・ワイルダー監督は、もともとは脚本家でデビューしていますから、撮った映画は全て彼自身の脚本によるものです。 自分でストーリーを考え、脚本を書き、映画として作り上げることが出来るということは、ある意味、映画監督の最大の強みだと思います。 その点、スタンリー・キューブリック監督などは、自分ではストーリーを作らず、ベストセラー小説など、他の人が書いた物語を映画にするタイプですね。 その為、出来上がった映画に当たりはずれが出てきてしまう確率は、多くなるのは否めません。 キューブリック監督は、映画化する題材を求めて、実に沢山の本を読み漁っていたと言われています。 こういう作業をするのも、けっこう大変だと思いますね。 脚本を書ける映画監督の方が優秀だとは思いませんが、有利だということは、感じてしまうんですね。
マネーボール
この映画は、主力選手の流出と予算制約に悩まされたメジャーリーグ球団、オークランド・アスレチックスで、1997年にジェネラル・マネージャーとなったビリー・ビーンが、邪道扱いされていた統計的な「セイバーメトリクス理論」を積極的に取り入れてチーム編成を行い、他チームと互角以上に戦えるように奮闘した物語ですね。 もちろん、米国のメジャーリーグ・ベースボールが題材ではあるが、なにしろチーム編成に責任をもつGMが主人公であるから、選手たちや試合の勝ち負けといった野球の「表側」ではなく、選手を評価し、他チームと交渉し、トレードし、チームを編成していく、舞台裏の部分に焦点が当たっていて、野球好きのみならず興味深く見ることができますね。 ただ、この映画は、必ずしも「セイバーメトリクス理論」を優れた手法として紹介し、礼賛するものではない。 だいたい、客観的にみても、映画の中で説明されている程度の「理論」は、手法において、それほど洗練されているようには思えない。 統計的といってみても、分析の切り口や仮説の立て方、解釈次第で、いかようにも使えるものであることは、少し考えてみればすぐにわかることだ。 実際、この「理論」の映画の中での描写としては、旧来の常識に対するアンチテーゼとして波紋を呼びそうな極端なものばかりが強調されているように思います。 選手の評価という面はともかく、野球の試合における戦術という意味では、プリミティヴそのものなんじゃないか。 ただ、映画の中におけるこの理論の役割は明確で、要は、財務的に困窮していて、常識的には戦力補強ができない状況の中で、独自の着眼点で評価し直すことで「掘り出し物」を見つけようとした、そして、それがたまたま一定の成果を収め、注目を集めたということであり、それ以上のものではないと思いますね。 しかし、この映画が本当に描こうとしているのは、ブラッド・ピットが演じる主人公の個人的な戦いのドラマなのだと思います。 映画はこの人物のバックストーリーをこう紹介していく。 いわく、スタンフォードへの奨学金すら決まっていたのに、スカウト陣から素質万全とのお墨付きを得て、巨額の契約金と引換にプロの道へと足を踏み入れたが、結局のところ芽が出ることなく、未完の大器として現役を去ることになった、苦い挫折の経験の持ち主であると。 世間の常識に照らしあわせた人材の評価とは一体なんなのか、他人の評価や巨額のお金が一体何を意味するのか。 この映画の中で、人材の評価に新たな尺度を持ち込もうとする主人公の戦いは、そんなわけで、この人物が挫折から学び、人生をかけた雪辱戦に臨む戦いなのであるというわけだ。 そして、その戦いには、多分、終わりはない。チームがワールド・チャンピオンになれるか、なれないかに関わらず。 だから、この映画は野球を描いているようで、描いていない。 「弱かったチームが奇跡の連勝」といった、ありがちなフォーミュラに流し込んだりもしない。 あの年、アスレチックスが歴史的な連勝記録を作ったことは、物語の重要な要素として扱われているけれども、それをクライマックスにしていないし、実にあっさりした見せ方になっていることは、そう考えれば当たり前のことだ。 気合が入ると「熱演」しがちなブラッド・ピットは、主人公を自然体で演じていて好印象。 娘役の子役と絡んでいる姿がとても板に付いている。 主人公の片腕となる統計専門家は、実在の人物にかわって用意された架空のキャラクターだが、「実在の」という制約から解き放たれているぶんだけ面白い描かれ方をしていて、これを演じるジョナ・ヒルも好演だと思う。 ただ、チームの監督役にフィリップ・シーモア・ホフマンを起用しておきながら、脚本も、演出も、この人物にあまり興味がなかったのかと思う無駄遣いをしていますね。 主人公と対立する立場としては、海千山千のスカウトたちの存在があるから、監督の独自の立ち位置を見出しにくかったんじゃないかと思いますね。
猿の惑星・征服
「猿の惑星・征服」は、1990年のアメリカが舞台。 人間たちが猿を奴隷のように扱い、成人し改名したシーザーが、反乱を起こすというもの。 1965年に実際に起きた黒人暴動を、猿に置き換えて描いている。 1970年代初頭の公民権運動の高まりの中、黒人の差別問題を映画にすることはタブーだった。 だが、SFである「猿の惑星」なら、黒人を猿に置き換えて見せることが出来る。 人間の奴隷にされたシーザーが、怒りを爆発させて革命を起こすこの映画は、アメリカの黒人の観客のカタルシスを得たのだ。 監督のJ・リー・トンプソンは、リアリティーにこだわり、後半は暴力と血にまみれた映像となる。 そのため、シリーズ中で一番ダークな作品になっていて、製作費があれば、もっと面白い映画になったかも知れないと思える映画だ。 脚本家ポール・デーンの、暴力が世の中を変えることは出来ない、権力がシフトしても、復讐の連鎖で暴力は終わりがないのだという主張が、一番反映された作品だと思う。
アニー・ホール
この映画「アニー・ホール」でウッディ・アレンは、しがない寄席芸人、アルヴィー・シンガーに扮している。 禁煙を初めてから神経過敏になり、精神分析の会などに通っている。 こういった発想には、ウッディ・アレンの真骨頂があり、大いに笑わせられる。 結構若い女の子にもてたりして、気儘に暮らしているアルヴィーは、ある日、テニスの試合で、アニー・ホールというトレンディーな女性を紹介され、意気投合する。 やがて二人は恋に落ちる。 アニーはあまり自信はないが、一応、歌手を目指していた。 そんなアニーを、アルヴィーは勇気づける。 ある日、アニーは、人気歌手のトニー・レイミーと会い、ハリウッドに来るようにと誘いを受ける。 実は、アニーも精神的不安から精神分析を受けており、精神医からもっと自己を解放することを勧められ、アルヴィーの引き留めも空しく、ハリウッドに旅立つことを決心するのだった--------。 内心という言葉がある。あいつは上辺は調子のいいことを言っているが、内心は何を考えているのか分からないといった内心だ。 人と人との会話の核は、当然、この内心になる。 あなたは素晴らしい方ですと言って、内心はこのバカめと言っているかもしれない。 「アニー・ホール」の最大のおかしさは、この内心の暴露だろう。とにかく笑えるのだ。ウッデイ・アレンの辛口のユーモア・センスが、生き生きと映像を通して、我々観る者の笑いを誘うのだ。 人間の持つ、内心のおかしみをたっぷりと味わうと同時に、内心の持つ恐ろしさもザクリと胸を突いてくるのだ。 ウッデイ・アレンの愛するマンハッタンの風景、ダイアン・キートンの洋服の着こなしにも要注目の映画だ。
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