この映画「ガンジー」は、インド独立の偉大な指導者ガンジーの波乱に満ちた生涯を描いた、映画史に永遠に残る珠玉の名作だと思います。
この映画史に永遠に残る珠玉の名作「ガンジー」は、1982年度のアカデミー賞で、「ミッシング」「評決」「トッツィー」「E.T.」などの強力なライバルを破って、最優秀作品賞を筆頭に、最優秀監督賞・主演男優賞・オリジナル脚本賞・撮影賞・編集賞・美術監督/装置賞・衣装デサイン賞の8部門で受賞し、リチャード・アッテンボロー監督が、アカデミー賞の授賞式で、「ガンジーその人こそ、今日この賞を受けるべき人だ」と語った事は意味深いと思います。
俳優出身のサー・リチャード・アッテンボロー監督は、1976年の超大作「遠すぎた橋」の演出では、大作負けの散漫さを示して失敗しましたが、膨大で多岐に渡る軍隊の展開については、非凡さが光っていたと思います。
その彼の監督としての実力が、この「ガンジー」では、多くの群衆シーンに遺憾なく発揮されていたと思います。
アッテンボロー監督が、ガンジーの伝記である、ルイス・フィッシャー原作の「ガンジー」を読んだのは、1962年と言われていて、それから、この映画を撮るまでの20年間、その映画化に賭けてきましたが、問題はガンジーを演じられる役者探しだったそうです。
故ネール首相に相談したところ、ネールは、アレック・ギネスを推して、「イギリス人がガンジーを演じれば、きっとガンジーは大喜びするに違いない。
つまり、これだけイギリスと闘ったガンジーをイギリス人が演じるという皮肉に対して」と語ったと言われています。
しかし、支配者であった旧宗主国イギリスの超大作映画として、イギリス人であるアッテンボロー監督が、この題材を正面から取り上げたこと自体、"贖罪的"な、意味のあることだったろうと思います。
そして、既成の有名な役者を使うことを避けたのは、ガンジーのユニークさがなくなる恐れがあったからで、映画は当時、新人のベン・キングズレーが最終的には選ばれましたが、その際、アッテンボロー監督は、ベン・キングズレーの目が、東洋的な深い輝きを持っていることに注目したのです。
ガンジーに扮するというより、ガンジーに心身共に、完全になり切っているベン・キングズレーは、イギリスで生まれ育ち、母はイギリス人のファッション・モデルでしたが、父はインド系の医者で、キングズレーの本名は、クリシュナ・ランジといい、インド人の血を引いていることを、アッテンボロー監督は後で知ったそうです。
しかし、彼の父がガンジーの生地の出身者であったからか、キングズレーとガンジーとは、肉体的に酷似していたのです。
しかも、キングズレーは、撮影前にガンジーの足跡を追ってインド各地を歩き、ガンジー関連の書物を読破して、ガンジーの心に近づこうとし、この映画のロケで彼がインドを訪れた時、ガンジーが生き返ったのかと人々は驚嘆したと言われています。
この映画の撮影時、キングズレーは37歳で、20代から暗殺された78歳までのガンジーを、激動する時代の流れを追って、サンダルや歯並びまで忠実に再現し、晩年のニュース映画の中でのガンジーが、本人かキングズレーなのか分からなくなってしまう程だと驚嘆されていました。
詩聖タゴールに、"マハトマ(偉大なる魂)"の敬称を贈られたモハンダス・K・ガンジーは、商業階級の名門の家に生まれましたが、映画は時代的にいって、ガンジーが、青年弁護士として南アフリカに渡った頃からを追っていますが、イギリス留学当時の二十歳前後の彼は、紳士になるために、ダンスやバイオリンまで稽古しましたが、しかし、母に誓った禁酒と菜食主義は守り抜きました。
その彼を南アフリカの人種差別運動に目覚めさせ、その後の"非暴力抵抗運動"の発端の場となったことは、インドにとって運命的な出来事でした。
彼が理念とした、"サティアグラハ(真理把握)"とは、「非暴力こそ真実への道」であり、「非暴力の抵抗」とは、「精神と人格とに訴えて、相手に屈服を余儀なくさせることである」との立場に立って、"非暴力・不服従・非協力運動"によって、"権力者の暴力・非真実"に対して、果敢に立ち向かおうとするものですが、この一筋の道が開かれたのは、南アフリカであり、その地での、"アシュラム(修道農場としてのコンミューン)"の体験も、その後、インドで活かされるようになるのです。
1915年、22年ぶりに故国インドへ帰ったガンジーは、早速アシュラムを開き、また各地を精力的に行脚して、インドの苛酷な実情に触れることに努めるのです。
そして、イギリスの横暴な植民地主義に対抗して、断食や"ハルタール(全市でのストライキ)"や、"スワデシ(外国製品不買運動)"、そのためのイギリス製衣服焼却運動、塩の自力生産を唱えての行進と、次々と非暴力抵抗運動を各地に展開していくのです。
その間、ガンジーは、インド風の腰布をまとい、手紡ぎ車に象徴される"スワデーシー(古来の手工業復活)"の運動を広げていきます。
また、ヒンズー教徒とイスラム教徒の融和に腐心し、一つのインドを独立の理想としたのです。
それだけに、ガンジーは1947年8月15日のインド、パキスタンの分離独立には絶対反対で、晴れの独立式典には参列しませんでした。
そして、両教徒の協力を祈って断食したガンジーは、「断食の目的は、常に相手に最上の感情を呼び起こすことである」という確信も空しく、1948年1月30日の夕刻に、ヒンズー教右派国粋団体マハ・サバ党の青年ヴィナヤク・ゴーシュによって暗殺されました--------。
映画は冒頭、ガンジーが三発の弾丸を裸の痩身に射ち込まれて、「ヘーイ・ラーマ(おお、神よ)」と呟いて倒れる、暗殺の場面に始まり、それに終わります--------。
その葬列の場面は、ガンジーの死後33年記念日に撮影され、エキストラ10万人を含めて35万人が集まる、映画史上最大の群衆シーンとなっていますが、1948年の実際の葬儀には250万人の人々が参列したと言われています。
凄惨な群衆シーンの最たるものは、"アムリツァールの虐殺"と呼ばれるもので、イギリスのダイヤー将軍が、その指揮するインド人部隊に、公園に集まっていた無抵抗の市民に向かって発砲を命じ、1,516名の死傷者を出した修羅場の場面です。
イギリスの塩税と塩専売に反対しての"塩の行進"は、既に還暦を迎えたガンジーが、サバルマティーのアシュラムからダンディ海岸までの241マイルを24日間に渡って、毎日1時間の手紡ぎをしながら、長さ54インチの竹の杖をつき、サンダル履きで、民衆の先頭に立って歩き通したデモ行進であり、この映画の最大の山場となっています。
そして、民衆の作った製塩所が軍隊に包囲され、無抵抗のインド人が同じインド人の兵士によって容赦なく打擲される場面は、非常に悲惨ですが、非暴力が暴力を圧倒する"真理の闘い"には、映画ならではの迫力があります。
民衆の先頭に立って、手織りの白布をまとい、争うことなく、ひたすら歩き続けるガンジーの姿は、非暴力を効果的な戦略とする、現実的で行動的な民衆の指導者としての力強さと、世界の世論を喚起するために、マスコミを最大限に利用しているしたたかさと、そして飄々とした、何とも言えない人間的なユーモアと、今日的な明るいシンプルさというものを感じさせてくれます。
しかし、こういう人が、"この世に実在した"とは、既に信じられない時代となってしまったことに、一抹の不安と寂しさを覚えてしまいます。
ガンジーが語った言葉の中で、私が一番好きなものは、作家ロマン・ローランとの対談の中で語った次の言葉です。
「真理---それは私たちに語る内面の声である」。